65 傲慢な人は、取り巻きを作り、お友達内閣を作りたがる。
70 学校卒業は入場券。乗車券は、それからの努力。
【大川隆法 箴言集『人生への言葉』より抜粋】
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「七」は勝利の日 「七」は目覚めの日 「七はあなたの生誕の日」
私たちは 主エル・カンターレ御降臨という
奇跡の時代に 仏弟子として 主と共に歩ませて
いただけますことを 心より感謝いたします
そして 主への報恩として
日本に 全世界に エル・カンターレ信仰を弘め
地球ユートピアを実現してまいります
私たちは これからも 仏弟子の使命である 伝道に邁進し
必ずや 「七の月」の「七の日」を
主の勝利の記念日とすることを お誓いいたします
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7月7日は70周年を迎えます。主の御生誕日です。
この聖なる日に向けて、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。
7/5(日)~7/7(火)まで、「御生誕祭」を開催させていただきます。7/5(日)~7/7(火)は、連日13
時より、別格本山・聖地エル・カンターレ生誕館を本会場として、全国・海外の精舎・支部・拠点(HSU・学園含む)に中継開催させていただきます。
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さて、ここからは、仏教精神に立ち返るべく、教典『大悟の法』から第3章の「仕事能力と悟り」を共に振り返ってまいります。主におかれましては、法シリーズ七巻目の本書において「仏教の根本命題である「上求菩提・下化衆生」の一念を、この書に託した渾身の一冊として仏弟子に開示いただいています。神秘性と合理性、仏陀とヘルメスの併せ持つ力を日々の救世活動に生かし、「上求菩提・下化衆生」の両輪で、主の御手足としての使命を果たすために、しっかりと学んでまいります。経典をお持ちでない方は、支部や精舎、全国の書店でお求めください。仏弟子必携の一書です。【税抜き2000円】
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■仕事能力と悟り
2禅宗の悟り―神秀と慧能
○弘忍の後継者となった慧能
慧能は南の地方から来た人でした。
当時の中国では、南北で差別があり、「北のほうが進んでいて、南には野蛮人が住んでいる」というように言われていました。南方の人は、「仏性がない」と言ってからかわれるぐらい、差別を受けていたようです。
慧能は、その南方出身であり、体も非常に小さく、山猿(もしくは狼)のような顔をしていたらしいのです。そのため、非常にばかにされていました。
慧能は弘忍の寺に入れてもらっていたのですが、出家はしていませんでした。まだ戒を授かっておらず、雑用をさせられていたのです。寺には入れてもらったものの、まだ出家の作法が分からずに、八か月も米つき小屋で米をついていたわけです。
それは、彼が、南方の出身者であるだけでなく、自の読み書きができなかったからです。寺のお坊さんで、字が読めず書けないというのは、致命的な問題です。現代で言えば、小学校も卒業していないようなことに相当するでしょう。
その慧能は、みんなが何か騒いでいるようなので、「いったい何があったのだ」と仲間に訊くわけです。そこで、仲間の一人が、「上座の神秀が偈を書いて発表したので、『もう跡継ぎが決まった』と、みんなが騒いでいるのだ」と答えました。
慧能が、「どんなことが書いてあるのか、読んでみてくれ」と言うので、その仲間は、「『この体は菩提樹である。心は明鏡の台である。だから、ときどき、きちんと拭き取って、塵や埃、垢を付けないようにしなさい』というような句だ」と教え、「師の弘忍も、『神秀の言うとおりにやれば、間違いないだろう』と推奨している」と言いました。
当時、慧能はまだ二十代の前半であったのですが、それを聞いて、「ふん、そんなものは大した悟りではない」と言ったのです。その仲間は、「『大した悟りではない』などと、おまえのような米つき男が何を言うか」と言いました。
すると、おれが言うから書いてくれ。おれは字が書けないから、おまえが代わりに書いてくれ」と言って、偈を述べたのです。
それは、次のような偈でした。
菩提本樹無し
明鏡も亦(また)台に非ず
本来無一物
何れの処にか塵埃(じんあい)を惹(ひ)かん
(※「菩提本樹なし、明鏡亦台なし 仏性常に清浄、何処にか塵埃あらん」【敦煌本】ともいう)
この偈の意味は、「悟りにもともと樹なんぞない。澄んだ鏡もまた台ではない。人間は本来、何も持っていない。どこに、そんな塵や埃、垢を付けるというのだ。付けるところなど、ないではないか」ということです。
これを、字の書ける仲間に書いてもらって掲げたところ、みんながまたザワザワと騒ぎはじめて、「何か、すごい人が出てきたらしい」「大変なことらしい」と、一山(いっさん)が大いに揺れたのです。
師の弘忍は、その偈を見て、「これはすごい」と思ったのですが、それを言うと大変なことになると思い、その場では、「いや、大したことはない」と言って無視します。そして、その夜、慧能のいる米つき小屋に行きます。
慧能は、背丈が五尺ぐらい、一五〇センチ歩かないかぐらいの小男だったようですが、弘忍は、その米つき男に、「米、熟するや未だしや」と訊きます。「米は熟したか」、つまり、「米はよくつけたか」ということです。
慧能は、「米、熟すること久し。なお、ふるいを欠くところあり」と答えます。これは、「米は長いあいだ、もう充分につけています。しかし、まだ仕上がりはできておりません」ということで、「私はもう充分に悟っているのだけれども、その悟りに対する認定が、まだきちんとなされていません」という意味です。
この禅問答は、そのような意味にとれるのです。
それで、五祖弘忍は、「この人を後継者にしよう」と決め、何も言わずに、コンコンコンと三回、持っていた杖で臼を叩いて帰っていきます。それは、寺の時間で、夜中になりますが、時を告げる太鼓がドンドンドンと三つ鳴るころを意味します。「そのころに来い」ということです。
その時刻に慧能が弘忍のところへ行くと、弘忍は彼に、『金剛経』についての悟りの趣旨を教え(三日三夜教えたとの説あり)、そして、達磨大師以来、代々伝わる衣鉢(えはつ)を渡したのです。
そのときに、弘忍は、「おまえが依鉢を継いだとなれば、大変なことになるだろう。たぶんまわりが許さないだろうから、その依鉢を持って逃げよ」と言いました。なぜなら、慧能はまだ正式にお坊さんとして得度しておらず、また、字も書けず、年齢も二十代前半、二十四歳ぐらいだったからです(二十二歳、三十二歳、三十四歳説などもある)。
そこで、慧能は深夜、九江駅という船着き場まで行き、さらに五祖自らが漕ぐ舟に乗って川を渡り、そこで弘忍の見送りを受け、南のほうへ逃げました。
【大川隆法『大悟の法』第三章「仕事能力と悟り」より抜粋】
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さて、ここからは、私たち仏弟子の生命ともいえる、「仏説・正心法語」について共に考える機会を得たいと考えています。本日は、『仏説・正心法語』第五の経文である『解脱の言葉「仏説・八正道」』の前に、「お釈迦様の八正道」を共に学んでまいります。復刻版で経典『真説・八正道』が再販されていますか、これは、主が現代の時代に合わせて再整理されたものです。その意味では八正道の現代応用ともいえる尊い経典なのですが、これを学ぶ前段階として仏教オリジナルの八正道を共に学んでまいりたいと考えています。
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〇正念―念いを仏道修行に集中させる
七番目に「正念」―正しく念ずるということがあります。
この「念」とは、言葉どおり、精神の集中を意味しています。正精進と似ていますが、
念(おも)いを仏道修行の一点に集中していくことなのです。
自分が全生活、全人生を、悟りの向上や、仏教的世界観の獲得に向けて集中させていき、それ以外のものに対して意識が散らないようにする。常に、修行という観点から一日一日を送る。これは分かるだろうと思います。
お祈りをしている時だけが修行ではありません。『仏説・正心法語』を唱えている時だけが修行ではありません。仏法真理の経典の本を読んでいる時だけが修行ではありません。一日すべてが修行なのです。
一日に丸ごとを、自分の修行的観点から外れないようにしていく。常に、意識を修行という観点に集中させておく。そうした意味での正念なのです。
そして、当然これに付随するものとして、自分自身の人生計画、人生設計等に関する問題が出てきます。あるいは、自己実現の問題が出てきます。念いというものは実現していく性質があり、間違った念いであっても、実現してしまいます。ですから、念いを、間違った方向に向けないように、常に正しい方向に向け、将来に向けて念を集めておく必要があります。
これは当然、正しい祈りにもつながっていくはずです。守護・指導霊に対する、「自分を正しく導いてください」という祈りにも、当然つながっていくはずです。
さらには、正念として、「正しい記憶」という場合もあります。当会で言うと、私の教えをよく理解し、心に刻み込むことも正念に当たります。
【大川隆法『仏陀の証明』幸福の科学出版 より抜粋】
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それでは、続いて、別の経典『釈迦の本心』から八正道の「正念」についての主の解説をご覧いただきます。
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〇正念
八正道の七番目の基準は「正しく念ずる」ということです。
仏教のなかにあえて「祈り」を入れるとするならば、この「正念」と次の「正定」にかかわると言えるでしょう。「祈りというものは、仏教では正念と正定という二つの要素に分解されている」と言ってよいと思います。
祈りとは、目的性を持った精神波動を発することであり、そのためには心の調律が必要です。つまり、「定に入って念ずる」という行為が祈りにあたるのです。
このように考えると、反省と祈りとをまったく分けてしまうことはできません。祈りは反省の一構造として、反省のなかにふくめることができるのです。また、それを論理的に難しいと考えた場合でも、祈りを反省の発展形態としてとらえることが可能です。
いずれにしても、「八正道には祈りにあたる部分がある」ということに気づいていただきたいと思います。
それでは、「正しく念う」とは何でしょうか。みずからの想念のコントロールの仕方として、正思を一日のうちに去来する思いの総量、集大成と考えるならば、正念は未来の人生計画、将来の自分についてのビジョンといったことになります。
すなわち、正念は、「正しい目標設定ができているか」ということでもあるでしょうし、「正しい自己像として、何を描いているか」ということでもあるでしょう。ある意味において、これは「あなたの人生計画」自己実現計画は、どのへんにあるのか。あなたがいつも心に念じていることは何なのか」ということを問うているのです。
平凡に生きている人ならば、家族の平安や健康を祈るという正念もありうるでしょう。しかし。より高次な生き方をしている人にとっては、人生はまさしく目標や計画の連続であり、「いかなる目標や計画を立て、いかにしてそれに思いを集中していくか」ということが非常に大切になるのです。
つまり、反省の徳目として、目的性を持った念いのコントロールをあげたものが正念なのです。
その念いが、たとえば、「あの人に害を与えてやりたい」「あの会社をうまくいかないようにしてやりたい」「彼の出世を妨げてやりたい」といったものであれば、それは間違った念いとして記録されることになります。そうではなく、できるだけすべてのものがよくなっていく方向で念うことが大事なのです。
「念」「念い」というものは、精神統一をすればするほど強くなるので、そのコントロールがますます重要になります。しかし、念について考えたこともない人、心の力の神秘を知らない人にとっては、正念ははるかに遠いところにあるものでしかないでしょう。
その意味では、正念は高度に発展した反省方法であると言えるのです。
【大川隆法『釈迦の本心』第2章「八正道の発見」より抜粋】
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『「正精進」が「正念」を引っ張る』
このような言葉がございます。
「正命が正精進を支え、正精進が正念を引っ張る」
正命は、正精進を実行するうえでの基礎になる部分です。身体に例えれば、「正命」は基礎体力に当たるといえます。一方、「正精進」はプロになるための日々の訓練(トレーニング)ということになります。私たちが目指すプロとは人助けのプロであり、それが菩薩と呼ばれる存在となります。私たちの精進は仏や菩薩に向かう自助努力です。
私たちが考えていることが私たち自身であるならば、正思とは「正しき心の探究」をしている私たちそのものであり、正念は私たちの「正しき心の探究」の末に行き着く自分自身の未来の姿を予言するものです。正念によって、常に心の中に仏の姿を描き、それを刻みつけるならば、私たちは仏に一歩一歩近づくことができます。
逆に正念によって心に悪なる心を刻む者は、日に日に悪魔に近づいていくことになります。
心に描くものは善きものも、悪しきものも等しく実現します。これは心の法則です。
だから、仏道修行にいては、正念までに至る正見・正思・正語・正業・正命・正精進の階梯の一つひとつがつながりをもって大切なのです。
そして、正念は正思(正志)の習慣化した部分、私たちの考えていることのエッセンスの部分と考えてよいと思います。正念の部分は私たちの潜在意識といわれる「守護霊」の思いの部分であるとも拡大解釈できます。
「ここが正念場」という言葉がありますが、信念がぐらつけば、危機的状況の時に人は運命に立ち向かい、戦うことができません。
これからさらに厳しい時代を主とともに迎えるにあたり、私たちに必要なのが「正念」です。
正念が私たちの未来をつくります。
「たとえどのようなことがあろうとも私は、主とともに常にある」この気概が大切です。そのために繰り返しになりますが、正命によって正しい信仰生活を整え、日々正しい仏道修行を続けるなかで、常に心に仏を、主を思い描き、主に一歩一歩近づくことで、悟りの道を歩むことができます。ともに力を合わせて、主への道を歩んでまいりましょう。その中に伊勢支部の発展繁栄が必ずあります。
また、経典『釈迦の本心』では、仏教のなかにあえて「祈り」を入れるとするならば、「祈りというものは、仏教では正念と正定という二つの要素に分解されている」と言ってよいと思います。と説かれており、八正道は正念・正定における祈りやビジュアライゼーションを通して、単なる反省を超えて発展の力に加えるものであることを学びました。とても重要な論点ではないかと思います。
また、反省や祈りが、時空を超えて、過去・現在・未来にも届くということが新たに明らかにされましたので、(※小説『揺らぎ』など)時空を超えた悟りに関しても正念はとても重要であることが分かりました。
『祈りとは、目的性を持った精神波動を発することであり、そのためには心の調律が必要です。つまり、「定に入って念ずる」という行為が祈りにあたるのです』とも教えていただきました。
幸福の科学で教える「人生の問題集」の解き方の基本は、「四諦・八正道」の一言に尽きます。人生の諸問題を解決するプロセスには4つあります。それが「苦・集・滅・道」の四聖諦です。そこで示された解脱(滅諦)への道、つまり悟りへの道とは「八正道」による中道の道です。「八正道」は主からいただく光―法力にバランスを与えてくれます。八正道こそが仏教の奥義にあたる修法です。修慧は、知識(聞慧)や、考えを深める(思慧)を習慣化すること(修慧)によって得られる法力です。繰り返し習慣化できるまで共に粘り強く頑張りましょう。
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ここで、仏教の基本に立ち返るべく、教典『心の挑戦』を学びます。経典お持ちでない方は、ぜひお求めください。【1800円税込み】
―本書は、神秘的な宗教の世界に憧(あこがれ)、仏教的世界観を探し求めている人生の旅人たちにとって、絶好の案内書となることでしょう。―『まえがき』より
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■『心の挑戦』
第8章「業とはなにか」
6 共業(ぐうごう)―人々の共通の運命
もちろん、業においては個人責任は当然の問題ですけれども、社会全体、人類全体というような、大勢の人々の共通の運命のようなものもあります。大きな戦争のときには、個人個人は正しく生きていても、そこから逃れることはできない、というような運命があります。これを「共業(ぐうごう)」といいます。これに反して、個人の業のことを「不共業(ふぐうごう)」といいます。
「環境や社会や時代のせいではないと言いつつも、実際には共業というのがあるのではないか」「自分は人を殺したくなくても、戦争が起きたではないか。どうしてくれる」「自分は、一生懸命、事業をしているのに、経済不況が来たではないか」―そういう考えもあるでしょう。
ただ、これも結局は、人間というのは個人独りだけでは生きられるものではないということです。ロビンソン・クルーソーのように、孤島に独りで生きるわけではないし、みんなで共同生活をしているわけです。それぞれの人が「重重無尽」の縁起のなかで、お互いにつながって生きているのだ、ということを考えなければいけません。
そう考えると、社会が悪いとしても、その一端を担っているのは自分でもあるわけです。ですから、自分自身の個人修業はあくまでも大切にしていくわけですけれども、自分がかたちづくっている共同体、その社会は国家自体が悪い場合には、その一員として世の中をよくしていくために、「自分も何かをしなければいけない」という気持も、常に持つことが大事です。
ですから、共業そのものの悪い傾向を解消するためには、やはり光の仲間を増やしていくことこそが正道であるわけです。
そのためには、どうしたらよいか。それは仏法真理を一人でも多くの人に伝えることです。それも、真心を込めて、熱意を込めて、一人ひとりに仏法真理を伝えていくことです。
それが、やはり、多くの人々の共通の運命としての共業が、不幸な方面に向かっていくのを救うことであると思います。
世紀末現象が数多く起きている今、個人個人が自分の心を正すことは大事なことです。しかし、「個人個人が自分の心を正していって、その流れが全体に広がったときに、全体の運命をも変えていけるのだ」ということを教えることもまた、大切な大切な修業であると思うのです。
ですから、「利自即利他」―自分を磨きながら他の人々をも導いていく―それこそが真実の宗教のあり方なのだということを、どうか深く悟っていただきたいと思います。(完)
【大川隆法『心の挑戦』第8章「業とはなにか」より抜粋】
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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〇「地の果てまでも伝道せよ。」
エル・カンターレとは、地球の光です。
エル・カンターレとは、天上界の光です。
エル・カンターレは、始まりであり、
エル・カンターレは、終りです。
エル・カンターレは、最後の審判です。
エル・カンターレは、最後の審判であり、
世界の人々にとっての新たな希望なのです。
どうか、エル・カンターレを信じてください。
どうか、この新しい信仰を持ってください。
どうか、この新しい信仰を地の果てまでも伝えてください。
それが、あなたがたの使命です。
それが、あなたがたの使命です。
忘れないでください。
それが、あなたがたの使命なのです。
エル・カンターレを信じてください。
エル・カンターレ信仰が、いま求められているのです。
どうか、エル・カンターレ信仰を中心に据えてください。
それが、あなたがたの使命です。
そして、エル・カンターレ信仰を、世界の人々に伝えてください。
地の果てまでも伝えてください。
人々に伝えてください。
それが、あなたがたの使命です。
それが、私の願いです。
それが、すべてです。
【大川隆法 英語説法『Focusing on El Cantare-Belief』の和訳を抜粋】
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■伊勢支部 十五戒■
主のため、世のため、隣人を救うために、ユートピア建設のために、なお、一歩を進めよう。心の焦点を主エル・カンターレに合わせよう。
■信仰の五戒【毎年の戒】―エル・カンターレ信仰がわれらの全て
一、主エル・カンターレを信じきる―【戒・定・慧・教学を徹底する】
二、主を愛し、隣人を愛する―【「進歩」と「調和」を顕現するために「四無量心」と「四摂時」を徹底する】
三、三宝帰依を徹底する―【反省(八正道)を実践する】
四、四正道を徹底する―【瞑想を実践しエル・カンターレ信仰を確立する】
五、六波羅蜜多を推進する―【仏国土ユートピア実現のために祈り、伝道を習慣にする】
■伝道の五戒【毎年の戒】―主が一番喜ばれることは伝道・主の御名と御教えが世界中に広がること
一、一人を三帰信者に導く
二、二人の三帰信者を育成する(フォロー)
三、三人を入会伝道に導く
四、四人の入会者を三帰に導くために育成する(フォロー)
五、新たに出会う五人の一般の方に主の御名と主の御教えを伝える
■植福の五戒【毎年の戒】―植福は執着を断つ大切な修行・三千年先の未来の希望のために福を植える
一、「一切は空」―悟りのために、この世への執着を断つために植福する
二、主への感謝を込めて「御生誕祭」と「エル・カンターレ祭」に植福する
三、三宝への感謝を込めて「宗教記念日」に植福する
四、四正道へ感謝を込めて「支部」「精舎」「聖地」に植福する
五、主のため、世のため、隣人を救うため、3000年先の幸福の科学の発展のために、仏国土建設のために植福を習慣にする
信仰の凡事徹底に関して、戒を持つことが仏道修行の第一歩です。主の悲願である、一切の衆生を救済と仏国土ユートピア建設を成就するために、戒を持ち、阿羅漢を目指して、天使菩薩になるために毎日、仏道修行を共にしましょう。
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〇「沈黙の仏陀」の教え
戒めを守り、禅定を行い、そして智慧を得る。
智慧を得ることによって
この世的な束縛、執着というものを断ち切る力を得ていく。
そして、解脱を味わう。
解脱を味わったところで、
また、この世が神仏の偉大なる慈悲の場であることを悟る。
そしてまた、現界において努力する。
そこに、多くの人びとを此岸から彼岸へと渡していくために、
渡し守(もり)としての菩薩の仕事が現われてくる。
一人でも多くの人びとを悟りの彼岸へ導いていこうとする、
渡していこうとする、
そのような肉身の菩薩の仕事がそこから始まってくる。
すべては、己れというものの執らわれを去り、
真実の自己というものを知り、
真実の自己というものを中心として、
この世のあり方を、もう一度まったく違った目で見、
そこに感謝とよろこびを感じて、
他の人びとをも、悟りの彼岸へと渡そうとする。
一切の衆生の苦しみを救おうとする。
そのような大いなる大悲の心が沸き起こってくる。
これが私がみなさんに勧めていきたい人生修行の道です。
【大川隆法『沈黙の仏陀』より抜粋】
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Focus on Lord El Cantare―時代は今、主エル・カンターレ―
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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文責:蒲原宏史
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