(4/14-2)【阿羅漢への挑戦】104―13『永遠の仏陀』を読む―無償のなかの悦び―『天御祖神 武士道を語る』命を捨てて「信仰の宗教」を打ち立てたイエスの弟子たちの「武士道」―『真説・八正道』正しく人を見るための判断基準―『釈迦の本心』正見

『永遠の仏陀』を読む

18 怠け者は、重い荷を背負いて、延々と迷路のような山道を歩き続けるやせ馬となる。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に「四弘誓願」を立て、『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、「正しき心の探究」と「地上仏国土ユートピアの実現」のために「四正道」と「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
われらの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
われらを真なる幸福へと導きたまえ。』
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
はじめに、今日の一日を振り返りつつ、一日一生の精神をあらたにすべく、『天御祖神 武士道を語る―現代に求められる真実の死生観』の教えを確認します。とても大切な教えですので、教典をお持ちでない方は、支部・精舎・全国の書店にてお求めください。【税抜1700円】
―今日、命がなくなったとして、おまえはそれで満足できるかどうか」ということを、日々、自らに問うということだな。そういう生き方をしなさいということだ。―天御祖神
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
■『天御祖神 武士道を語る』
四、「本物の信仰」に見える武士道
〇命を捨てて「信仰の宗教」を打ち立てたイエスの弟子たちの「武士道」

質問者A 「武士道」といっても、武士道にもいろいろなレベルの差はあるのだろうとは思うのです。

生きている者にとって最大の恐怖は、いわゆる「死」ではないですか。そこの「死」をも乗り越えるほどの「正義への確信」とか、その正義を確信するためには、やはり「そこに神仏に通じる道がある」というところへの確信があると思うのですが。

これが、普通に今、平和に生きている時代の人間だと、もしかしたら、「これが武士道だ」と思っていても(本質的なる武士道とは)違うものになっていたりもするのかなという気はしました。

天御祖神 まあ、自分の息子・娘であっても、
「利害が相反したり自分の思いが通らなかったら、批判をして、
教団としての教えや、そうした霊現象そのものまで否定して、
自分を生きやすいようにしよう」とするような人が
出てくるような時代ですから、
ましてや弟子たちも同じでありましょう。

キリスト教の偉大なところはね、
イエスはああいう形で十字架に架かったけれども、
そのときに弟子たちはイエスを護ることはできなかった。
しかしながら、その後に、
深い後悔・懺悔の思いで、
「イエスのように十字架に架かって死んででも
信仰を護る、教えを伝えていく」
という人たちが、次々と何百年も出続けたことなのですよ。
それによって、「信仰の宗教」になったわけです。
「信仰を持った宗教」になったわけで。
まあ、生きていたときのイエスの周りの弟子たちは
そこまで行っていない人が多かったけれども、
後の世の人たちは、
その信仰のために命をも捨てて、
逆さ十字架に架かって死んでいっている。
これも、ある意味での「武士道」と一緒なのですね。

だから、本当の武士であるならば、
その剣は「神の剣」でなければならず、
「正義の剣」でなければならないんですよ。
だけど、それを、自分の身を護り、
「敵に勝てば、ご褒美が得られる」とか、
「職に就ける」とかいうだけの剣では駄目なんですよね。
このへんのところだな。

だから、今、
「信仰という意味が違うのではないか」
と言ったけれども、それはそうだと思うよ。
「信仰ワクチン」という、「信仰免疫」というのがあるといっても、
やっぱり、何かそういう、この世的な
会社との取引とか契約とかに似たようなものを
持っているんじゃないかな。
「この薬を飲めば病気が治ります。幾らです」と言われている、
「このスポーツジムに通えば一ヵ月で体重が四キロ痩せます」とか、
まあ、そんなようなものをやっているようなつもりでいる人は
多いのかもしれないね。

「本当の信仰」というものを持てば、ウィルスの
―今はコロナウィルスが二年以上流行っているけれども―【※説法当時2022年2月当時】
これの発生源から主は語っていらっしゃるので、
「どこまで信じていますか」ということだよね。
だから、「人類を滅ぼそうとしてつくられた生物兵器として、
これは放たれている」という。
ただ、それをまだ、世界のメジャーなものは受け入れてはいなくて、
「自然発生的」に言っている。
「自然発生的に、こんな繰り返し繰り返し起きるか」という、感染がね。
ということを考えたら、
それは、主が言っていることのほうが正しいのだけれども、
本当はそこまでは思いは至っていないので。
「自分の身が護れたらいい」ぐらいにしか思っていないところがあるので。
要するに、
「『幸福の科学の教えや光が、
自分たちが感染するのを止めてくれれば信仰するが、
感染すれば信仰しない』
ぐらいの考えを持っているような人なら、
それは、残念だけれども、
『本物の信仰』とは言えませんね」
ということを言っているわけですよね。

【大川隆法『天御祖神 武士道を語る』より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
今日の一日を振り返りつつ、教典『真説・八正道』より反省の本質を学びます。妖怪性からの脱却をはかり、「反省からの発展」さらに「中道からの発展」を目指しましょう。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
■『真説・八正道』第2章「正見」
5正しく人を見るための判断基準

では、「他人を見る」「自分を見る」ということの正しさは、いったい、どこに力点を置いて捉えなければいけないのでしょうか。どういうところに注意してみなければならないのでしょうか。

①映像を客観的に捉える
他の人を見る際の判断基準を述べると、第一段階においては、「目に映った他人の姿」を情報として客観的に捉えることが大事です。

第一段階においては、主観で交え、それを判定しようとしてはなりません。まず客観的に見ることです。どういう人となりであるか。どういう行為であるか。どういう表現の仕方であるか。どんな表情であるか。これをまず客観的に捉える必要があります。

このときには、できるだけ「無私」であることが大事です。私心を入れないで、まず観察をする。これが観察の第一段階です。

【大川隆法『真説・八正道』第2章「正見」59p】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
今日の一日を振り返りつつ、1991年7月に説かれました『永遠の仏陀』を振り返ります。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
■『永遠の仏陀』
第2章 真実の人となれ
〇無償のなかの悦び

いま、りんごの実のたとえを示した。
そう、その言葉を、もう一度、
深く、心のなかで味わってもらいたいのだ。
人生は、このリンゴの木が、
他の人々に食べられるために、
味のよいりんごをつくっていることに似ているかもしれない。
りんごをつくった農家の人は、
その対価としての金銭を受け取るかもしれない。
けれども、その実そのものをならせた、肝心のリンゴの木は、
何一つ、金銭を受け取るわけではない。
何一つ、褒美をもらうわけではない。
「よく、こんなに実らせたね」という、
感謝の言葉を受けることもない。
しかし、彼らは、彼らの人生を歩み続けているのだ。
りんごの木として、生命(いのち)のあるかぎり、
毎年、毎年、見事なりんごの実をたわわに実らせてこそ、
悦びがあるということを知っているのだ。
彼らは、他の者からほめられないからといって、
その翌年に実を実らせないということはない。
彼らは、たとえ虫に喰われようとも、
風に吹かれようとも、
嵐に打たれようとも、
自分の力の範囲で、最高度のものをつくろうと、
日々、努力しているではないか。

そうであるならば、おまえたちにも言っておきたい。
「一生懸命に生きているのに、他の人がほめてくれない」と言うな。
りんごの木であっても、称讃など求めていないであろう。
ましてや、おまえたちは、人間として、
りんごの木以上の存在ではないか。
そうであるならば、
他の人の称讃を求めるな。
他の人から褒美をもらうことを求めるな。
たとえ認められなくとも、その使命を果たしてゆくのだ。
りんごが、その時期を過(あやま)たずに、その実をつけるように、
毎年、毎年、人間としての、その使命を果たすために、
一年、一年に、その実りを収穫してゆかねばならないのだ。
あのような木であっても、
一年に一度は、たわわな実りをつけるのだ。
ましてや、優れた存在である人間であるならば、
毎年、毎年、たわわな実りをもたらさねばならない。

そして、それがたとえ、他の人によって、もぎ取られ、
一円の価値を生むこともなく、食べられるとしても、
その人たちの悦びを、わが悦びとしなさい。
他の人々が自分の実を食べて悦んでいる姿を見て、
それを自分の悦びとしなさい。
無償のなかに、真の悦びを感じなさい。
一年のうちに、どれだけ多く、
他の人々を喜ばせるだけの果実を、実らせることができたか。
それが、
あなたがたが優秀な木であるかどうかを示しているのだ。

【大川隆法『永遠の仏陀』第2章「真実の人となれ」より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
続いて、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
■『釈迦の本心』
第2章 八正道の発見
3正見

それでは、八正道の最初の項目である「正しく見る」「正しい見解」ということについて、深く考えてみましょう。これは、先入観を排除し、白紙の状態にものごとを置いて、智慧の眼で見るということでもあります。

人間の営みは、結局、「見る」という行為を中心にして起きているように思います。もし目が見えなければ、罪を犯す機会がそれだけ少ないとも言えましょう。欲望というものは、たいていは目によって生じます。異性など他人の姿を見たり、金銀財宝や豪華な食事を見たりすることによって、しだいに欲望がつのってくるのです。

したがって、大切なのは、目を通じて入ってくる情報を、いかにさばいていくか、ふるいに分けていくかということです。人間の感情が波立つ原因の多くは、目を通して得られる情報にあるのです。

そこで、一日が終わるときには、呼吸を整え、心を調律し、自らの内に深く深く入っていく必要があります。そしいて、「みずからが仏と一体になった」「大いなる光のパイプからエネルギーが流れ込んでくる」と感じられるようになった段階で、その日一日を生きてきた自分をまったくの他人だと考え、その他人が見てきたことを、第三者の眼で批判的に検討してみるのです。

この「見る」ということは、結局、「見たことをどう認識するか」ということにかかわってきます。

ある人がある行為をしたとき、それに対する見方は人それぞれです。たとえば、会社のなかで、若手の社員が「こういう方針でやっていきませんか」と新しい提案をしたとします。しかし、この行為に対する認識は、人によって分かれることになります。

その人の上司が、その提案を肯定的にとらえようとすれば、「彼はたいへんやる気があり、進取の気性に富んでいる。非常に将来性がある」と見ることもできるでしょう。

しかし、否定的に見れば、「彼はまだ入社してまもないのに、大言壮語(たいげんそうご)し、自分の分を知らずにいる。日々の事務仕事がきちんとできてこその、大きなプランであり、理想である。彼はまだまだ謙虚にならねばならん。うぬぼれがすぎる。彼にもっと自覚を促す必要がある」と感じる人もいるでしょう。

ここが見方のわかれるところなのです。

この二つの見方のうち、どちらがより真実に近い見方なのかを考えてみる必要があります。そして、前者の見方が正しいならば、自分はなぜ後者の見方をしたのか、この若手社員に対してなぜ不愉快な見方をしたのか、その根本原因をたぐっていく必要があるのです。

その結果、自分が若手社員のとき、いろいろな人に批判された反動だったり、自分自身は積極的な提言ができないタイプであることへの自己嫌悪だったりすることに気づくことがあります。そうした原因を見いだしたならば、それを取り除いていく必要があるのです。

正見には、ここまでの作業プロセスが入っていると考えるべきです。

もちろん、仏教的には、「苦」「集」「滅」「道」の四諦のプロセスで観察するとか、縁起の理法を通して、ものごとを「原因」「結果」の連鎖でとらえるといった専門的な解説も可能です。

【大川隆法『釈迦の本心』第2章「八正道の発見」より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
■伊勢支部精舎の理念■
100 パーセントエル・カンターレ信仰
―天御祖神と共に―
伊勢から世界に伝える強い信仰
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
・「信仰心と国を愛する心」という問題について言えば、やはり国民の信仰心がなくなったら、その国は衰退に入っていくし、いずれ滅びると私は思います。
・みなさんには、どうか強い信仰の思いを全国に発信していただきたいと思います。
 ―「信仰心と国を愛する心について」 ―2013 年4月21 日 伊勢支部精舎御巡錫―
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
■伊勢支部の行動指針■
【菩薩の本懐である六波羅蜜多を推進して妖怪性を払拭する】
私たち、伊勢支部信者は、エル・カンターレ信仰をキチッと確立して、天御祖神の武士道精神のもと、仏教的精神を打ち立て、伝道に邁進し、隣人を救い、私たちの愛する街に、必ず仏国土ユートピアを建設します。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
大宇宙の根本仏 唯一なる 主エル・カンターレよ
伊勢支部精舎は、今年落慶17周年、そして御巡錫13周年を迎えました。
2009年1月24日、日本の中心とも言われる伊勢の地におおいなる光の灯台を賜りましたことを仏弟子一同・伊勢支部信者一同心より感謝申し上げます。

そして、2013年4月21日に、伊勢支部精舎に御巡錫を賜り、御法話『信仰心と国を愛する心について』をお説きくださいました。主の御慈悲に心より感謝申し上げます。

私たち伊勢支部信者一同、主への純粋なる信仰の下、「主の復活の祈り」を通して
エル・カンターレ信仰を確立し、「愛」と「知」と「反省」と「発展」の四正道を日々実践し、主の御名と御教えを伝えます。

そして、われらが愛する、この伊勢の地を、三重の地に主の悲願である仏国土ユートピアを必ずや建設いたします。

私たち、伊勢支部信者は、菩薩の本懐である六波羅蜜多を推進して、自らの心に巣くう妖怪性を払拭します。そのために、三宝を熱く敬い、「愛」「知」「反省」「発展」の四正道に帰依して、エル・カンターレ信仰をキチッと確立し、「天御祖神」の武士道精神のもと、仏教的精神を復活させて、伝道に邁進し、隣人を救い、私たちの愛する街に、必ず仏国土ユートピアを建設するために、以下のことを改めてお誓いいたします。

①私たちは、主から頂いた仏性を輝かせ、自らの善きものを隣人に分け与え、一切のみかえりを求めません。主から頂いた教えを必ず伝え伝道します。【布施波羅蜜多】

②私たちは、自らの戒を持ち、戒を守り、仏法真理の教学に力をつくします。
そして法友の育成・養成に力を尽くします。【持戒波羅蜜多】

③私たちは、主の御心を実現するために、目標を明確に持ち、実現するまで計画を実行しつづけます。【せん提波羅蜜多】

④私たちは、主の御手足となる本物の菩薩になるために、救世活動を日々の精進として積み重ねます。【精進波羅蜜多】

⑤私たちは、常に主を信じ、主を愛し、主と一体となるために反省と瞑想を重ね、祈りの生活を送ります。【禅定波羅蜜多】

⑥私たちは、主から既にすべてを与えられていること、主から愛されている自分を発見し、エル・カンターレ信仰さえあれば、あとは何もいらないという絶対幸福をえて、隣人と分かち合います。【般若波羅蜜多】

私たちは、主への報恩として 日本に 全世界に 「天御祖神」と共に、エル・カンターレ信仰を弘め地球ユートピアを実現してまいります。

主よ、私たちの信仰心が主の復活の力となり、主から預かりました伊勢支部精舎が、光の灯台として、一人でも多くの方に主の光を届けることができますよう、お導きください。主よ、まことにありがとうございました。
■□■□■□■□

■□■□■□■
。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
■□■□■□
E-mail:ise@sibu.irh.jp
□■□■□
https://hsise.com/
□■□■
TEL:0596-31-1777
■□■
FAX:0596-31-1778
□■
エル・カンターレ・大好き

タイトルとURLをコピーしました