11 男女の愛も、仏法真理から見ると、「与えた」か、「奪った」かで、天国地獄が分かれる。
【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。
三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に「四弘誓願」を立て、『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。
そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、「正しき心の探究」と「地上仏国土ユートピアの実現」のために「四正道」と「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。
引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。
『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
われらの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
われらを真なる幸福へと導きたまえ。』
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はじめに、今日の一日を振り返りつつ、一日一生の精神をあらたにすべく、『天御祖神 武士道を語る―現代に求められる真実の死生観』の教えを確認します。とても大切な教えですので、教典をお持ちでない方は、支部・精舎・全国の書店にてお求めください。【税抜1700円】
―今日、命がなくなったとして、おまえはそれで満足できるかどうか」ということを、日々、自らに問うということだな。そういう生き方をしなさいということだ。―天御祖神
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■『天御祖神 武士道を語る』
三、神仏と一体となって生きる
〇武士道において「腹切り」自体が尊いわけではない
質問者A 天御祖神様が「腹切り」を教えたわけではないですよね。
天御祖神 まあ、「腹切り」は、もうちょっと後世のことではあろうとは思うけれどもね。
質問者A 一説には、豊臣秀吉が腹切りをした人を見て賞賛をしたため、そこから、腹切りが「すごいことだ」「武士の誉れである」というふうなかたちになったと。今、時代劇で武士といえば「腹切り」みたいにはなっているのかもしれないのですけれども。
天御祖神 数自体はそう多くはないと思うよ。
ただ、古代の中国でも、
罪人にされたら首を刎ねられるというのはありましたが、
自分で自死を選ぶ―例えば、「項羽と劉邦」の項羽であれば、
「四面楚歌」を聞いて、
そして、最期、何度も突撃を繰り返しながら、
勝てないと知るや、
一騎となって、自分一人だけになって、
最期、向こうの「大刀」だな―青龍刀で首を刎ねて死ぬ
ということはあったので。
「敵に殺されるよりは、自ら死を選ぶ」
ということは中国でもあったことで、
これはいつの時代にもあっただろうとは思うのでね。
「それを作法として仕上げた時代があった」
ということはあったのであろうけれども、
それは、それ自体が尊いわけではないね。
そうではないと思う。
【大川隆法『天御祖神 武士道を語る』より抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、教典『新・心の探究』より反省の原点である「心の浄化」について学びます。心を清浄にして妖怪性から脱却しましょう。
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■『新・心の探究』第4章「心の浄化」
5 正業・正精進について
次に正業ということがあります。正しく仕事をなす。業務をなすということです。この業務ということは男性であれば、現代では仕事でありましょうし、女性にとっても、専業主婦の場合でも、子育て、あるいは家事ということが、この正業にあたります。正業にあたって特に大事なことは次の二点です。
第一は、一日の仕事において大きな過失をつくらなかったか。あるいは積極的な間違いを犯さなかったかどうか。こうした反省が大事です。仕事はそれを、その対価として生活の糧を得ている大切な私たちの収入源です。そして、世の中に奉仕していくための大切な対象であります。この大切な仕事、これにおいて人に迷惑をかけなかったかどうか、ミスをしなかったかどうか。こうしたことを点検することが大事です。
女性にあっても、子育てを十分やったかどうか。子供の教育においても手を抜かなかったかどうか。また家事はどうであろうか。家のなかをきちんと片付け、そして掃除や洗濯を怠りなくやっているだろうか。だんな様が帰ってきても、いつもすがすがしいような、そうした家のなかになっているだろうか。また、だんな様が仕事ができるように、いろいろなことで上手な聞き役になっているだろうか、そうした配慮ができたかどうか。つまり第二としては心配り、現代語で言うならば、サービス精神にまで立ち入って、この仕事の内容というものを考えてみる必要があります。積極的な間違いがなかったどうかという面だけでなく、第二番目のよりすばらしいサービスを提供できたか。より向上を目指すような、そうした奉仕ができたか�
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�うか。こうした観点が正業においては反省されるべきだと思います。
次に正精進というものがあります。この正精進とは何であるかというと、正しく道に精進する、そういうことです。すなわち、正精進ということは、これは悟りを求めている者、あるいは人生修行に生きている者は欠かすことができないものです。つねに自分が真理という方向に向かい努力しているかどうかということです。
具体的な話で言えば、真理の学習を毎日やっているかどうかということです。この真理の学習ということは、私たちが世に問うている真理の書を読み、かつそれを実践するということでもありますし、それ以外にも、開かれた人生という名の書物の中から、いろんなことを読み取っていくということも、この正精進にあたります。すなわち、日々の出来事の中から自分の心の糧となり、教訓となるものを学んでいくこと、そして、それを叡智として未来に生かしていくこと、これが大事なわけです。この正精進というのは、限りなく人間が向上していくためにどうしても必要可決な内容であるのです。
【大川隆法『新・心の探究』第4章「心の浄化」より抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、教典『真説・八正道』より反省の本質を学びます。妖怪性からの脱却をはかり、「反省からの発展」さらに「中道からの発展」を目指しましょう。
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■『真説・八正道』第2章「正見」
1見ることに伴う責任【正見】
〇「見る」ということに関し、心の改革が必要となる
八正道の最初には「正しく見る」ということを掲げてあります。
この「正しく見る」という立場には、極めて難しいところがあります。それは、みなさんが、「見る」ということを、能動的所作あるいは能動的行為として、ほとんど考えていないからです。
みなさんは、「見る」ということを、「朝起きて眼を開けば、網膜に映像が映ってくる」というように捉えているのです。そのため、網膜に移ってくる映像を漫然と追い続ける一日を過ごします。そうして一日が終わったときには、いったい何が網膜に映っていたか、これすらも忘れ果てているのです。
そこで、まず、そういう心の改革が必要となるわけです。
「目というものをもらっておりながら、すなわち、二個の目を神仏より、あるいは神仏から約束された両親より受けておりながら、目の働きというものをしかと確かめたことがあるか。その二つの目は何のために付いているのか」ということが問われているのです。
目というものは、単に道で転ばないためにあるのか。道を歩くためだけにあるのか。玄関のドアを開けるためだけにあるのか。そんなことのためだけにあると本当に思っているのか。これが問われているのです。
そうしてみると、「みなさんは、今まで、目の役割というものをあまりにも漫然と考えてきていたのではないか。目が目として機能しながら、しかし、真実の機能を果たしてこなかったのではないか」と思われるわけです。
〇視覚的映像を通して「神仏の意図」を発見する
みなさんの目に映されているものは神仏の創られた世界なのです。この神仏の創られた世界を、どのように判断するのか。どのように見るのか。これは自己責任の問題です。
世界は創られています。ただ、その世界をどう見るか、その世界のなかに生きている人をどう見るか、これは一人ひとりに完全に委ねられています。そして、「その目に映じた光景をどう判断しているか」について、現在ただいま、みなさんに責任を問う人は誰もいないのです。
「あなたが、あなたの目に映っている映像を、どう判断しているか」について、誰も何も言いません。それぞれの自由です。花を美しいと思おうが思うまいが、外の景色をどう感じようが、それについて何の責任も問われていないかに見えます。
しかしながら、この世の中はそれほど無責任な世界ではないのです。
目というものがついて機能している以上、ここに何らかの目的があります。それでは、その目的とは何であるか。それは「視覚的映像を通して神仏の意図を発見する」ということです。
そして、目が非常に大事である理由は、さまざまな器官のなかにおいては、目と鋳物が世界認識に最適であり、役に立つ器官だからです。
もちろん、鼻で認識する嗅覚もあるでしょう。嗅覚によっても、ある程度、動物であるとか、植物であるとか、人であるとか、これを嗅ぎ分けることはできるでしょう。しかし、嗅覚に頼った世界観は非常に狭く、曖昧なものです。視覚に比べれば、はるかに劣ります。
また、味覚というものもありますが、味覚で理解できる範囲も非常に限られたものです。
それから、聴覚というものがあります。これは比較的重要です。
「聴く」ということは八正道のなかでは明らかにはされていませんが、「聴く」ということをあえて八正道のなかに入れるとするならば、これは、後に語る「正思」のなかに入れれば良いでしょう。「聞き取った情報をどのように分析するか。聞き取った情報をもとに、思いというものをどう組み立てるか」ということですから、「正思」の一部と考えてよいでしょう。
【大川隆法『真説・八正道』第2章「正見」46p】
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今日の一日を振り返りつつ、1991年7月に説かれました『永遠の仏陀』を振り返ります。
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第二章 真実の人となれ
〇正しき価値基準
しかし、考えてもみよ。
おまえたちも、
思ったことを振り返って、
恥ずかしく感じることがあるだろう。
自分の思ったことを振り返って、
誇らしく思うこともあるだろう。
なぜ、あるものを恥ずかしく思い、
なぜ、あるものを誇らしく思うか。
その判断の根拠こそが、
おまえたちのなかに宿りたる良心の存在であるのだ。
この良心があることが、
おまえたちが仏の子であることの証明にほかならない。
仏の子であるから、
善そのものの価値基準が、そのなかにあるのだ。
ゆえに、おまえたちは、
己の心のなかにある「正しき心の探究」基準を
常に知っていなくてはならない。
他人を欺くことはできても、
自分自身を欺くことはできないであろう。
すなわち、自分自身が、
自分の思いと行いをすべて知っているのだから、
その、生地のままの、ありのままの、
思いと行いを自己点検して、
そうして、恥ずかしくない生き方をするということなのだ。
たとえ、その外に現れたる姿が、
良き言葉を発し、よき行動に満ちているように見えたとしても、
その心のなかに思いたる言葉悪(あ)しく、
その真実の願いが、
相手を堕落せしめ、詐術に陥れんとするものであるならば、
それらは、相手が感謝をするかどうかにかかわりなく、
少なくとも、天国の住人のなすべき業(わざ)ではないということになる。
おまえたちは、いち早く、
この正しき習慣を身につけることだ。
やがて来る来世においては、
一切の偽りが通じないのであるならば、
いち早く、今世において、
一切の偽りを排し、正直に生きてゆくことだ。
私の目には、
苦しみながら生きている。
数多くの人たちの生きざまが見える。
私は語りかけたいのだ。
なぜ、そんなに背伸びをして生きるか。
なぜ、そんな上げ底の人生を生きようとするのか。
そんなに上げ底をして生きて、
それでほんとうに、おまえたちは心楽しいのか。
そんなことであってはならない。
自分の真実の姿に誇りを得てこそ、
人間は真に幸福であるのだ。
劣等感を持っていない人間はいないであろう。
しかし、それを隠すためには、
ことさらに自分を偉しと表現するために、
上げ底の人生を歩んではならない。
このような上げ底人生は、
やがて、つまずきを招くことになるのだ。
人には、それぞれ、
自然なる生き方というものがある。
自然体の人生というものがある。
そのなかに生きてこそ、
幸福に、伸びやかに、日々を過ごすことができるのだ。
それぞれの人に、それぞれの中道がある。
その中道を見いだすことこそ、
大切なことであるのだ。
【大川隆法『永遠の仏陀』第2章「真実の人となれ」より抜粋】
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続いて、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第一章 菩提樹下の悟り
9 偉大なる悟り
悪魔・波旬(マーラ・パーピーヤス)との対決を通じて、「どうやら、欲心を持つことが魔を呼ぶらしい」ということをゴータマは知りました。
「心の奥の世界、深層心理の世界には、守護霊や指導霊といった偉大な者だけでなく、魔も跳梁(ちょうりょう)しており、心のなかに巣くう暗い想念を目掛けて魔は寄ってくる。その暗い想念を食物とし、あわよくば、心の隙に乗じて、その人間の心を手中に収め、自由に操りたいという征服欲を持っている者がいる」ということを知ったのです。
こうして、反省的瞑想がその精度をますます深めていきました。
「どのような思いであったとしても、思いが一点にとどまり、心がその思いに集中して、粘着質のごとく離れなくなると、それは苦しみの原因となる。
それゆえ、心はいつも執(とら)われずに自由でありたい。春の小川のように、サラサラと流れていく心でありたい。無執着の境地でありたい。
善念であれ、悪念であれ、その思いにあまり集中しすぎると、心の自由性をなくし、幼子のごとき自由な心を失ってしまう。その結果、思いが一点にとどまったところを魔に狙われやすい。
しかし、そうであってはいけない。努力しなければならないという気負いを捨てて、もっと伸びやかにで、もっと開放的な、豊かで安らかな境地に入っていかねばならない」
このようにゴーダマは悟ったのです。
過去の三十五年数ヵ月、すなわち三十六年近い歳月をふり返り、一通りの反省を終え、しかも、単に反省するだけではなく、現に心に引っ掛かっているものを捨てて、無執着の境地、執われのない境地に達したとき、大いなる安らぎがゴータマの身にしみてきました。
それは先日マーラが現れたときとは大違いであり、天上界から暖かい光がサーッと胸に入ってくるのをゴータマは感じました。そのとき、梵天の声が聞こえてきたのです。
「ゴータマよ、よく悟りました。あなたがその悟りを得るのを、私たちはいままで待っていたのです

