81 現代宗教としては、滝行をやった修行者が、竜神が憑いたものと思って、小さな教団を作ったりする。その実、教祖に憑いているのは、十中八九、蛇神であり、修行途中で命を落とした修験者である。近づかないことである。
【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】
23 掃除、洗濯、整理整頓ができず、不潔だった者は、汚泥の中で、豚のようにころげ回っている。
【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。
三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に「四弘誓願」を立て、『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。
そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、「正しき心の探究」と「地上仏国土ユートピアの実現」のために「四正道」と「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。
引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。
『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
われらの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
われらを真なる幸福へと導きたまえ。』
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はじめに、今日の一日を振り返りつつ、天御祖神の御教えを振り返るために、二〇二一年十二月十四日にさいたまスーパーアリーナでのエル・カンターレ祭大講演会にて説かれました『地球を包む愛―天御祖神の教え』から学びます。
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『地球を包む愛―天御祖神の教えと真の世界正義』
1 天御祖神から始まった日本文明
〇天御祖神が説いた「神の子の人間として正しく生きる」とは
・大事な柱としての「正しく生きよ」の教え
一つ言わなければならないことは、「神の子・仏の子としての人間、神の子の人間として生きるということは、正しく生きるということである」ということです。これが大事な柱でした。ただこの世に生存すればよいということではないのだということです。食糧を得て、この地上に生きればよいのだということではないのです。「正しく生きよ」と言ったのです。
ですから、「正しく生きるとは何か」を考えることが、人間としての自己の探究であったわけです。
・「男女、相対的に暮らしているなかで魂を磨き合え」という教え
それから、男性と女性に対しても異なる教えを説きました。
男性に対しては、現代の男性にも通用すると思いますが、「男らしくありなさい」ということを言いました。
「男らしくあれ」ということはどういうことか。それは、「自分のみの欲得や利益のために姑息に生きるのではなくて、多くの人々を生かすために体を張り命を張り、そして、嘘や偽りは述べず、人を騙すことなく、正々堂々と生きよ」ということです。男性に対しては、そういうことを言いました。
今の男性で、答えられますか。「そのとおりだ。そう生きている」と言い切れますか。まあ、せいぜい一割ぐらいでしょう。でも、少し”バブル”が入っていると思います。一割でも”バブル”が入っていると思います。
では、一方、女性に対してはどうであるか。女性に対しても、優しくはあったが、ある意味での厳しさは持っていました。
「女性であるということは、人類をこの地上で魂修行させ続けるために、どうしても必要な機能であるのだ。だから、男性だけとか女性だけの世界を創ればシンプルな世界ができるけれども、男女を創ったことにより、この世の生き方は複雑になり、その調整も難しくなる。家庭を維持したり子孫を残したりすることも、困難になる。しかし、この複雑な問題集を解きながら、共に手を携えて理想的な国をつくっていく経苦努力しなさい」―そういうことを言いました。
私の今の目から見れば、当時の女性たちに対しても、今で言えば、本当にごく少なくなってきた、肝の据わった女性を求めていたように感じられます。ですから、不良、非行、怠け者の息子たちに対して、ガシッと叱れるようなお母さんでなければ許してはくれなかったし、働かずゴロゴロしているような亭主は許さない。ガツンと一発、気合を入れないといけない。
それから、「男を男にするのは女性の仕事でもあるんだ」という気持も持っていたし、当時の女性もかなり強かったので、のろのろしている男性は「もう引っ込んでろ!」というような感じで、女性が前に手で戦うこともありました。頭がいい女性もいれば、俊敏な女性も、いつの時代もいますから。
そういう意味で、「男女、相対的に暮らしているなかで、魂を磨き合え」ということを教えました。
・「武士道」の始まりとしての「魂を穢(けが)さない生き方」
さらに、宗教的な教えとしては、「礼儀」、「礼節」ということの大切さです。
「この地上にあるものがすべてだと思うな」ということは、もうキチッと言っていました。
「本当の世界というのは、この地上を去った霊天上界なのだ。そして、この地上に生きる寿命は限られているけれども、あの世に還ったあと、この世に生きた時代を悔やむような生き方をしてはならない」ということを常々、言っておりました。「恥ずかしい生き方をするでない」ということです。
「人間として立派に生きなさい。人から見られて、恥ずかしい生き方をしてはならない。むしろ、この地上に生きている間は、ほんの短い期間にしかすぎないので、その短い期間に、生きている間に堕落したり、自分の魂を穢したりするようなことをしてはならない」ということを言っていました。
このへんに「武士道の始まり」があるというふうに思います。
【大川隆法『地球を包む愛―天御祖神の教えと真の世界正義』第一章より抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、教典『真説・八正道』より反省の本質を学びます。妖怪性からの脱却をはかり、「反省からの発展」さらに「中道からの発展」を目指しましょう。
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5 希望実現の法則【正念】
③心底から「神の子として、世の中の役に立ちたい」という気持が出てくるかどうか
では、どのようにすれば、「desire」のほうの念いが出てくるのでしょうか。ここが大事なところです。
心の深いところから、切実に「なぜ、その願いが持てるのか」ということです。なぜ、切実に「そこまでやりたい」という気持が起きるのでしょうか。
これは、その人の向かうべき方向や理想というものが、いったいどこにあるのかということと非常に関係があります。「あなたの理想はいったい何か」ということです。
もし、木の葉が池のなかで漂うような、そういう生き方をしているならば、そこまで行くことはほとんどないでしょう。しかし、激流のごとく押し流していく、打ち破っていくという気持があるならば、できるでしょう。
ここで、「本当に自己信頼をしているかどうか」「本当に自分を神の子だと思っているかどうか」「自分の核には金剛石の部分、ダイヤモンドの部分があるということを信じているかどうか」ということが試されるわけです。「結局、自分はダメな人間だ」などと思う人には、「正念」による自己実現は絶対にできないのです。
「自分は大いなるものとして、世の中の役に立っていきたい」という気持が、本当に心の底から出てくるかどうかです。
そういうものが出てこない人は、どちらかというと、周りから与えられる人生を生きてきたはずです。よく振り返ってみてください。そういう人は、ほかの人から施しを受けて生きてきたはずです。親切をしてもらって、それでも「まだ足りない」と不満を言い、愚痴を言うような人生を生きてきたのではないでしょうか。これは、もらっていることのほうが多い人です。
ただ、本当は、心の底から「人々を愛したい」「人々に与えたい」という気持が出てこなければ嘘です。そこまで行かなければ嘘なのです。そのときに初めて、力強い人生を生きていくことができるでしょう。
【大川隆法『真説・八正道』第八章「正念」265pより抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
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第六章 転生輪廻とは何か
○幸福の道
それゆえに、
諸々の比丘、比丘尼たちよ。
おまえたちが、この地上で生きてゆくうえにおいて、
もし、さまざまな迷いが起きたならば、
さまざまな判断に苦しむことがあったならば、
まず悟りの道を極める方向をとりなさい。
この方向をとりなさい。
それ以外のものを考えすぎてはならない。
自分の生活や、自分の地位や名誉を考えすぎてはならない。
そのようなものは捨てても、またいつか現れてくるものであろう。
しかしながら、悟りの道は、いったん捨てたならば、
ここに戻ってくることは、きわめて難(かた)い。
諸々の比丘、比丘尼たちよ。
よくよく言っておく。
私のこの言葉を憶(おぼ)えておけ。
あなたがたは、仏と同じ時代に生まれることが、
いかほど難しいかということを知っているか。
仏が下生する時に、生まれ合わせるということは、
これは、たとえようもない幸福であるのだ。
そのような時代に、
そのような地域に、
同世代として生まれ合わせることができた者は、幸いである。
また、生きて仏に相見(あいまみ)えることができた者は、また幸いである。
生きて仏に相見え、仏の声を聴き、
仏の姿を見ることができた者は、幸いである。
その幸福は、おそらく幾千万年、幾億年の幸福に匹敵するであろう。
また、仏の世に生を享(う)け、仏の世に仏に巡り合い、
仏の教えを聴き、
そして仏の教えをよすがとし、縁として、
そして悟りに到ること、それまた難(かた)し。
そのようなことは、
稀有(けう)なる幸福であるということを知らねばならない。
仏と同じ時代に生まれるということでさえ、稀有なることであるのだ。
また、生きて仏に相見えることも、稀有なることであるのだ。
ましてや、仏に相見えて、悟りを与えられるということは、
さらに稀有なることなのだ。
あなたがたは、こうした大いなる幸福を得るためには、
他の一切が惜しくないという気持を持たねばならない。
他のすべてのものを捨てででも、その道に入らねばならない。
それは、あなたがたが忘れてはならないことなのだ。
この世であなたがたが握っているところの、さまざまな執着は、
これは、地上を去るときにまったく虚しくなる。
そのようなものは持って還れない。
どのような者であっても、齢(よわい)百歳を超えるのは難しい。
その時に、持って還れるもの、
地上を去る時に持って還れるものが、いったい何であるかを知れ。
地上を去る時に持って還れるものは、心しかないのだ。
心しか持って還れないならば、
その心を幸福に満たす以外に手だてはないのだ。
心を幸福に満たすには、悟りの喜びを味わうに如(し)くはないのだ。
悟りの喜びを味わい、心幸福ならば、
今世はすなわち成功したと言ってもよい。
その幸福のために、すべてを賭けよ。
○日々の発見 日々の感動
ただ、私はあなたがたに言っておく。
一時的にそのような気持ちになる者は、数多くある。
仏のために、仏の教えのために、そして、自らが悟りを得るために、
一時的に身命を賭(と)すという気持になることは、
そう難しいことではない。
ただ、おそらくは十中八九の人間は、やがてその感激を忘れ、
平凡な生活のなかに埋没してゆくということだ。
その感激を忘れ、その尊さを忘れたとき、また自らも転落し、
平凡なる河原にて、石を数えているということを忘れてならない。
よいか、
修業への道は日々の発見であり、日々の感動である。
もし、そのようなものを感じなくなったとするならば、
もはや慢心していると言わざるをえない。
慢心したる者は、悟りへの入り口をくぐることはできないのだ。
慢心したる者は、その門より追い出されることとなる。
その門から転げ出、そしてやがて、
元いた道を引き返さざるをえなくなる。
諸々の比丘、比丘尼たちよ。
およそ、人生の勝利とはこのようなものだ。
一時的な決意は、すべての者がすることができる。
しかし、その決意を堅持することは難しい。
その決意を堅持することができた者は、
さらに大いなる境地に達することができるであろう。
その不退転の境地に達した時に、
天も地もこれを祝うであろう。
【大川隆法『仏陀再誕』第六章「転生輪廻とは何か」より抜粋】
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続いて、地上への執着と煩悩を断つ修行法として『漏尽通力』を共に学びます。
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第四章 漏尽通力
4 観自在力
低級霊媒体質の話をしましたが、高級霊体質のなかには、「観自在」という能力があるので、これについて、多少、話をしておきたいと思います。
『般若心経』のなかに、「観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時」という言葉があります。観自在菩薩は古代インド語の訳で、アヴァローキテーシュヴァラといいます。観自在菩薩というのは、「自在に、何でもすべてが分かる、手に取るようになった状況の、菩薩の心境の人」という意味です。
観自在の能力というのは、具体的にどういう能力であるかというと、まず、「人の考えが手に取るように分かる」という段階が中心です。これを「他心(たしん)」ともいいます。他心は、他人の心が分かる、いわゆるマインド・リーディング能力です。この他心は、読心能力と言っても、読心と言ってもよいです。これがよく観自在の一つとして挙げられます。
講演会などで話をしていても、会場にいる人たちの心が分かる。そこに誰が坐っているかが分かる。何を考えているかが分かる。そうしたことを無意識のうちにズバズバっと指摘できる。こういう能力です。
この能力は、釈迦の持っていた能力のなかでも、最大のものの一つでした。他人の考えをずばりと読む能力です。これも、そういう立場になれば、ますます高まってきます。人びとを指導するという使命を持って現に指導していると、この能力はもっともっと倍加していきます。これもまた、真理の証明であり、神から遣わされた人であることの証明でもあると思います。こういう観自在能力があります。
これ以外に、例えば、「人の過去・現在・未来を見抜く」という三世を見通す力があります。「過去世をリーディングする」「過去世を読み取る」という力も観自在能力の一つです。
その人が過去どういう人生を送ったか。今世の過去のみならず、過去世、そのまた過去世、そのまたまた過去世、こういう過去の歴史を見抜く。過去どういう地域に生まれ、どういう生涯を送り、どういう一生のなかで、どういう心境を持って死んでいったか。そのなかで得た特質はいったい何か。どういう長所を得、どういう短所をつくって生きてきたのか。また、どういう人間関係に恵まれていたのか。こういうことが、はっきりと分かるようになってくるのです。このように、過去が分かる能力があります。
また、観自在のなかには、いわゆる予知能力と言ってもよいのですが、「未来が分かる」という能力もあります。「未来世が分かる」「先が読める」ということです。
釈迦自身、今から二千五百数十年前に地上を去るに際して、「やがて自分はジャンブドヴィーパのケントマティに生まれ変わる」ということを言っています。これは現代的に訳すならば、「東の国の大都市」という意味です。「ジャンブドヴィーパのケントマティに生まれ変わる」、こういうことを予言して、死にました。
そして、「自分の法はやがて全インドに広がり、インドから中国に、中国から日本にと受け継がれていくのだ。自分の死後、五百年間は『正法の時代』が続くだろう。しかし、その後の五百年間は『像法の時代』が続くだろう。『正法の時代』は、教えが正しく伝わって、人々の心が正しく営まれているときである。しかし、『像法の時代』になると、かたちだけは残っていて、中身はだんだん骨抜きになっていくだろう。その後はやがて『末法の時代』となっていくだろう。法が衰えていくだろう」、こういうことを釈迦は言いました。
これが「五百年刻みである」という説、あるいは「千年刻みである」という説、「八百年刻みである」という説、いろいろと諸説が現在遺っていますが、いずれにしても、そういう段階があるということです。
「正法が伝えられる時期、それが形だけになっていく時期、やがてすたれていく時期があるだろう」その末法の世にもう一度、本仏が甦(よみがえ)り、新たな教えを説くであろう」。こういうことを釈迦は予言しています。
この未来仏になるのが、弥勒菩薩と呼ばれています。マイトレーヤーといわれる存在です。インド語ではマイトレーヤーという名前で呼ばれました。そして、こういう未来について書き遺したのです。
こうした予言という未来予知、三世を見通す能力も釈迦の能力の重大な能力の一つでした。
これ以外に、例えば、「遠隔地にいる人の心を手に取るように読む」という能力があります。ここに現にいない人、離れた地、何百キロも離れた地に入る人の考え、悩み、あるいは、その人の問題と、どうしたらよいのか、こういうものを読み取って、そして答える。あるいは、「どこそこに、こういう人がいる。その人に会いに行きなさい。会えばこうなるであろう」ということを言う能力です。こういう、遠隔地を霊視する、あるいは霊的に読み取る能力もあります。
このように、観自在力というものがあって、霊的にはかなり高い能力です。いわゆる悟りとしては、梵天界くらいの悟りから如来の悟りに入ってきます。これも一種の霊体質と言えますが、自然にそういう能力をもつようになってきます。
これは、地上においてだけではなく、天上界においても実際そうです。霊たちは、もちろん観自在能力はある程度持っていますが、その霊がいる段階に応じて、観自在能力に差があります。あの世の例だから、すべてが分かるわけではありません。あの世の霊であっても、地獄界で迷っている霊たちは、程度の差こそあれ、いろいろなことが分かりやすいのです。そして、高次元の存在になればなるほど、いろいろなものを読み取ることができます。分かることができます。このようになります。
したがって、「観自在能力には果てがない」ということになります。観自在能力を突き詰めていき、最古の段階まで行くとどうなるかというと、昔から「神は地上に葉っぱ一枚落ちることさえ知っている」と言われていますが、この地上に起きているすべてを瞬時につかむことができる能力を持つに至るようになります。もっと能力が増せば、大宇宙のことがすべてわかるところまで行きます。こうした観自在能力もあるのです。
【大川隆法 『漏尽通力』第4章「漏尽通力」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are The One, with our Lord. 我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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◆映画「ドラゴン・ハート」伝道植福について
5月23日(金)に全国の映画館にて公開されます映画「ドラゴン・ハート」は大川隆法総裁先生制作総指揮による28作目の映画となります。この映画の大成功に伊勢支部信者全員の信仰心を結集させていただきます。皆様の尊い布施をどうぞ、この映画伝道植福に託して、私たちに縁ある方々の心と魂を救うべく、この映画を主の御名と共に、全国・全世界で広宣流布してまいります。映画伝道植福への喜捨を何卒宜しくお願い致します。
大宇宙の すべての根源であり 地球の創造主であられる
主エル・カンターレ 大川隆法総裁先生
映画『ドラゴン・ハート❘霊界探訪記❘』を賜り
心より感謝申し上げます
本作は 未知なる世界に飛び込む勇気を与え
人類に真実への目覚めを与える映画です
全世界の人々に
霊的真実と主エル・カンターレの御存在を
弘めてまいります
仏弟子一同 力を合わせて
一人でも多くの方を 主のもとへと誘(いざな)ってまいります
■映画『ドラゴン・ハート―霊界探訪記―』四つのポイント■
①「天国・地獄」の存在を知らしめ、全人類の魂を救済する映画です。
映画では、霊界探訪記として現代の地獄の有様を詳細に描いています。つまり、今死んで地獄に落ちるとしたらどんな世界なのかということがリアルに映像体験できる映画です。死後の世界を詳細に紹介することで、「あの世はない」「霊界なんてばかばかしい」と考える人の間違えた考えをカブト割りする映画です。この映画は、このままでは地獄に落ちてしまうたくさんの方々に救いの縁を届ける「魂の救済」映画です。正しい霊界観や信仰を持たない人にこそ届けたい映画です。
②地球の霊的中心地・シャンバラの危機を救う映画です。
今、地球の霊的中心であるシャンバラは、地上世界で、信仰心が薄れ、神仏や霊的世界を信じない人が非常に増えていること、巨大な唯物論科学国家である中国が、インドやネパール等への覇権を強めていることによって、非常な危機にあります。現に中国・洞庭湖のほとりにあるシャンバラの入り口は発見するのが相当難しくなっています。
シャンバラという地球の霊的センターが護られていることで、魂修行の場としての地上世界も安定いたします。もし、シャンバラが崩壊するようなことがあれば、地球を護る霊的結界が失われ、宇宙の邪神やダークマターの悪想念による更なる地球介入を招く事態となります。
本映画は、霊界思想を地球の霊的センターとしてのシャンバラの存在を全世界へと知らしめることによって、崩壊への危機にあるシャンバラを護るという「神の戦い」そのものを描いた映画です。
③全世界の人々が主なる神エル・カンターレと出会い、一つなる道を示す映画です。
この映画は、全世界の人々に造物主エル・カンターレのご存在を知らしめる映画であり、本年の幸福の科学の活動テーマである「日本全国・全世界にエル・カンターレ信仰を打ち立てよう。なお、一歩を進める」の中心となる作品です。
主人公たちの地獄巡りは、現代社会の諸相そのもの。しかし、そうしいた人類の、かつてない混乱、混迷の先には、大いなる規模、救い主の存在があることを示す映画であり、宗教の違いや、民族や国家の枠を超えて、全人類が、主なる神への共通認識の下、一つになる道を示される希望の映画です。
④仏弟子(まだ気づいていない仏弟子)たちがドラゴン・ハートに目覚め、霊的覚醒をうながす映画です。
この映画は、川で河童を追って溺れた主人公の二人が、霊界の天日鷲神に出合い、「霊界探訪で本来の自己に目覚めることができたなら地上に還してあげる」と告げられ、地獄巡りなどの一種の修行を経て、魂の親エル・カンターレと出会い、本来の自分の使命に目覚めるという、宗教的なメッセージが込められた映画です。
純粋な信仰心、そして、救世への本物の念いの確立が求められている今、私たち仏弟子や、まだ目覚めていない一般の方たちの中にいる仏弟子予備軍に対して、霊的覚醒を促す導きの映画であり、私たちのドラゴン・ハートに導かれた旅は、映画公開までに、すでに始まっていると言えるのが本年の活動です。
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―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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