3 傷つくまで人を愛したことがあるか。
【大川隆法 箴言集『人格への言葉』より抜粋】
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7月7日は70周年を迎えます。主の御生誕日です。
この聖なる日に向けて、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。
7/5(日)~7/7(火)まで、「御生誕祭」を開催させていただきます。7/5(日)~7/7(火)は、連日13
時より、別格本山・聖地エル・カンターレ生誕館を本会場として、全国・海外の精舎・支部・拠点(HSU・学園含む)に中継開催させていただきます。
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さて、ここからは、常に主と共にあるために、教典『大悟の法』から第5章の「常に仏陀と共に歩め」を共に振り返ってまいります。主におかれましては、法シリーズ七巻目の本書において「仏教の根本命題である「上求菩提・下化衆生」の一念を、この書に託した渾身の一冊として仏弟子に開示いただいています。主の御生誕祭に向けて、さらに神秘性と合理性、仏陀とヘルメスの併せ持つ力を日々の救世活動に生かし、「上求菩提・下化衆生」の両輪で、主の御手足としての使命を果たすために、しっかりと学んでまいります。経典をお持ちでない方は、支部や精舎、全国の書店でお求めください。仏弟子必携の一書です。【税抜き2000円】
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■『大悟の法』第5章「常に仏陀と共に歩め」
1真実の自分とは
○霊界では心の特徴で自分を認識する
人間は、死んで霊体になると、最初のうちは肉体と同じような姿をとっていますが、何年かたつうちに、それが自分の本当の姿ではないことが分かってきて、むしろ、心としてのみ存在するようになります。
霊体とか魂とかいうものは形状を意味していますが、心というものは必ずしも形を意味していません。心とは、人間の意識の動き精神作用のことです。
霊界に還って、ある程度以上の時間がたつと、形状で自分を判断しようとするのではなく、「自分というものは心なのだ。心の作用が自分なのだ」と理解するようになります。
たとえば、みなさんは、「自分はハートの温かい人間だ」「自分は非常に理性的な人間だ」「自分は熱しやすく冷めやすい人間だ。すぐカーッと熱くなったり、また冷めたりするような人間だ」「自分は非常に温和な人間だ」など、さまざまな自己認識をし、自己定義をしているでしょうが、そういう定義によく似たかたちです。
みなさんは、「あなたはどのような人間ですか」と訊かれたときに、自分の心の作用について、「私の心には、このような特徴があります」という説明ができるでしょう。そのような特徴でもって説明できるものが、みなさんの個性は判断するための、通し番号というか、背番号、バーコードのようなものなのです。
「こういう心の特徴、心の傾向性を持った存在があります。こういう特徴を持った心です」と言えば、「それは、〇〇に住んでいる××さんですね」と判明するわけです。それがその人のアイデンティティー(自己同一性)になるのです。
形はどのようにでも変化していくものなので、形状だけでは、だれなのか判断できません。それが霊界の実態です。
この世に生きているあいだは、親から頂いた肉体に宿り、この世で摂取した栄養素をもとに生活し、そのようなかたちで自分を認識しています。目の作用、耳の作用、鼻の作用、口の作用、手の作用などを通して感じられる自分、あるいは他の人から見た自分というもので、自己認識をしているわけです。
しかし、本来の自分の姿とは、「私は温和で、とても寛容な人間です」「私は非常に熱心な人間です」「私は知的なものにあこがれる、非常に知性的な人間です」「私はとてものんびり屋です」といった、さまざまな形容詞で語られるものなのです。それが本来の自分であり、霊界に還ると、そのようなあり方に戻っていくので、自己認識を変えなければならないのです。
【大川隆法『大悟の法』第五章「常に仏陀と共に歩め」より抜粋】
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さて、ここからは、私たち仏弟子の生命ともいえる、「仏説・正心法語」について共に考える機会を得たいと考えています。本日は、『仏説・正心法語』第五の経文である『解脱の言葉「仏説・八正道」』についてです。
『解脱の言葉「仏説・八正道」』は、その名の通り、解脱に到るための道です。毎日読誦することで、心の浄化を図ることができます。禅定とは、本来、心静かに座禅して八正道を実習することであると教えていただいています。毎日、短い時間でも構いませんから、心静かに自分の心を見つめる時間をとってまいりましょう。
『解脱の言葉「仏説・八正道」』はこのように続きます。
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まず第一は
『正見』なり
縁起の 理法を 信じては
己れの 道を 正すなり
原因 必ず 結果あり
因・縁・生・起が 縁起なり
自己も 世界も 原因の
種が 蒔かれて 【因】
水を やり 【縁】
果実が 実り 【果】
報いあり 【報】
果実の 甘さ 苦さにも
種と 育ちに 理由あり
己れ 自身の 幸・不幸
過去に 必ず 原因あり
振り返りみて 反省の
心 起こすは 正見なり
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The first step is “right view”
Believe in the law of cause and effect
And correct the way of your life
Whenever there is a cause, there is result
All things are produced
From cause and conditions
The self and the world
Are both subject to this law
First sow a seed: the cause
Next you water it: the condition
The it bears fruit: the result
And you reap it: the reward
Whether the fruit is bitter or sweet
Depends on the seed and how it is tended
Likewise, your own fortune or misfortune
Always has its cause in the past
If you look back and examine your past days
Then you are practicing ‘right view’
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正見―縁起の理法に基づく正しい観察【親子における縁起】
ものごとには原因・結果が必ずあり、その原因・結果の法則が、実は「縁起」なのです。・・・
「因・縁・果・報」―「因」(直接原因)があり、それに「縁」(間接原因・補助因)が加わって、「果」(結果)が出、そして「報」(報い)が来ます。・・・
①親子における縁起の理法
たとえば、賢い男女が結婚するという「因」があれば、賢い子供が生まれます。しかし、賢い子供が生まれても、その子がほんとうに賢くなるためには、「縁」のところが大切です。すなわち、学校教育をきっちりと受けて勉強しないと、その子は本当には賢くなりません。
また、賢い子であっても、家庭が乱れることで、だめになることもあります。・・・
ですから、「因」のところがよくても、「縁」のところが充分でないと、思わぬ人生が展開することがあります。そして「果」が出ます。
たとえば、優秀な両親から優秀な子供が生まれて、良い教育を受ければ、確かに、良い学校を出て、良い会社に就職する、という結果が出かもしれません。しかし、途中で両親の状況が変わることもありますし、あるいは、もともと頭の良い子だったとしても、自分自身が怠け心を起こして勉強しなくなれば、だんだん学校の授業についていけなくなり、途中から方向がそれていきます。その結果、良い会社に就職できなくなったりすることがあります。そのように分かれてきます。
そのあとに、報いが来るのです。原因があって、途中経過があり、そして結果が出て、そのあとの報いが来ます。・・・
ですから、もとはそれほどではなくても、途中から良くなってきて、結果として、それなりに全然別の世界に入っていくこともあるのです。逆に、上がりすぎて慢心してしまい、悪いことをしでかすということだってありますし、出世が害をもたらすこともあります。
このように、「因・縁・果・報」によって、人生のコースがそれぞれ変わってくるのです。
【大川隆法『仏陀の証明』幸福の科学出版 より抜粋】
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つづいて、経典「八正道の心」より抜粋をご紹介いたします。
この経典は、もともと会内経典でしたが、HSU開学を前に、一般書として書店でも頒布されている大変ありがたい経典です。お持ちでない方は是非拝受ください。【税抜き1500円】
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八正道の第一 「正見」
①
正しい信仰
八正道の最初は「正見」です。
これは、「正しく見る」ということです。
正見をつかむのは意外に難しいのですが、その正反対のものを考えると理解は簡単になります。正見の反対は「邪見」です。邪見を考えると、分かってきます。正見はなかなかわからないのですが、邪見は分かりやすいのです。
邪見の人はたくさんいるので、みなさんは、あったことがあるはずです。仏法真理の伝道をしたら、すぐに会います。仏法真理が、自分の思想、信条、考え方と合わなくて、真っ向から弾いてしまうような人、何を言っても全然通じない人は、たくさんいるでしょう。それが邪見の人たちです。
その人たちが、精神的に異常であったり、この世的に見て極端に悪人であったりするわけではありません。しかし、仏法真理に関しては、必ず弾いてしまって、まったく話が通じないのです。
友達であっても、そういうことはあります。学校の友達に仏法真理の話をしたら、完全に弾かれてしまうということがあります。
また、夫婦や親子であっても、そうなることはあります。
兄弟でも、信仰心のある人とない人とが、やはり出てきます。兄弟であっても魂は別々であり過去にどういう魂であったかは、それぞれ違うからです。
真理の世界になると、兄弟でも、学校の友達でも、まったく合わなくなることがあるのです。その人の考え方の基礎に入っているものが違うし、真理を理解するためには、やはり、宗教的な素質というものが影響するのです。
したがって、正見とは何かを知りたかったら、邪見を考えればよくわかります。邪見を否定したときに残るものが正見なのです。「何が真理を弾いているか」ということです。
同じ信仰を持っている者同士なら、すっと話が通じるのに、邪見を持っている人とは、まったく話の通じないことがあります。
邪見のなかには、唯物思想もあれば、唯物思想まで行かない、この世的な考え方もあります。例えば、新聞や雑誌に出てくる考え、学校の先生が言う考え、隣近所の人が言う考え、信仰心を持っていない親の言う価値観など、いろいろなものがあるでしょう。そういうものを点検すればよいのです。
真理の道に入って、まだ日の浅い人は、正見の反省はなかなかできないので、まずは、「正しい信仰を持っているかどうか」ということを反省していただきたいと思います。「自分の信仰は正しいか。自分は正しい信仰心を持っているか」ということです。
邪教に長くいた人も、邪見がなかなか抜けません。
邪教を二十年も三十年も信仰していた人が、親の代からやっていた人などは、「幸福の科学に来て三年ぐらいになるから、もう大丈夫だろう」というように本人は思っていても、やはり、考え方にずれているところがあります。そのため、前の宗教にいたときに起きたことと似た局面が現れると、「前の宗教では、こうした」というような動きや考え方をすることがあるのです。
それを取り去ろうとしても、なかなか取れません。なぜなら、それは、その人自身の過去の集積であり、その人が大事にして集めたものだからです。自分が学んできたものを捨てるのは難しいのです。「過去に自分はこれを学んできた」というものを、「取り去りなさい。捨てなさい」と言われても、なかなか捨てられないのです。
「宗教的な知識がまったく入っていない人よりは、仏法真理が入りやすい」という面がありますが、「似たものであっても、別のものが入っていたら、違うものを入れるのは難しい」という面もあるわけです。
釈迦教団も、他の教団の信者だった人は、ストレートには教団に入れず、しばらく試しの期間を置いています。人にもよりますが、他の宗教を長くやっていた人は、それが抜けるまでに時間がかかるので、三ヵ月ぐらいの期間を置いています。人にもよりますが、他の宗教を長くやっていた人は、それが抜けるまでに時間がかかるので、三ヵ月ぐらいの期間を置いて、信仰が確かなものかどうかを見ていたのです。信仰が確かでない人を教団に入れると、かく乱要因になり、混乱が起きることがあるからです。・・・
宗教は、みな、どこか似たところがあるので、「前と同じかな」と思うこともあるでしょうが、やはり違うところが出てきます。そのため、どこかで、正しい宗教選択をしなければいけない時期が来るのです。
それをしないと、以後、勉強が進まなくなります。「前の宗教では、ああだった、こうだった」ということが、いつも出てきて、そのたびに悩んでいるようでは、やはり駄目なのです。
いわゆる宗教天狗になっている人は、「自分は、これだけやってきた」ということを自慢したがります。・・・したがって、捨てなければいけないことがあります。
こういう作業が正見の作業なのです
【大川隆法 『八正道の心』より抜粋】
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繰り返しの確認となりますが、正見の前提は「正しい信仰―正信」でした。そして八正道は「三宝帰依」による仏への帰依がないと正見が取れないことは、何度となく強調しておきたい重要なことです。
本日の学びで注目したい点は、
『正見とは何かを知りたかったら、邪見を考えればよくわかります。邪見を否定したときに残るものが正見なのです。「何が真理を弾いているか」ということです』
という教えに加えて、
『真理の道に入って、まだ日の浅い人は、正見の反省はなかなかできないので、まずは、「正しい信仰を持っているかどうか」ということを反省していただきたいと思います。「自分の信仰は正しいか。自分は正しい信仰心を持っているか」ということです』
この教えでした。正見を得るために、逆に自分の邪見を知ることで正見を理解するという手法です。そして正見を得るためには、正しい信仰が大前提であることも、繰り返しではありますが、八正道を実践する上で抑えなければならない点です。
正しい信仰がなければ、正しいものの見方ができないということですから、「正見」そのものがとても奥が深いものとなっています。物事をありのままに見ることを仏教の言葉で如実知見(にょじつちけん)といいますが、考え方に先入観がある、もしくは、自我に偏る者のみ方であれば、色眼鏡がかかったようになり、正しく「因縁」を見ることができません。
「因・縁・生・起」は、この世とあの世で起こる出来事のすべては、原因と結果の法則のもとで現象化するプロセスを表わしています。
だから、「法を観る者は仏陀を観る」「縁起を観る者は仏陀を観る」とも言われています。縁起を観ることが正見であり、正見は仏を心から信じる最初の第一歩です。
仏の視点で物事を見ることができるようになるためには、日ごろの宗教的修行が必要になります。少しずつですがともに精進を重ねてまいりましょう。
また、これまで一生懸命に努力したことであっても、それを自慢する心があれば、それは天狗の心となって、以後の精進が止まってしまうことがありますので、精進を積んだ修行者だからこそ陥りやすい「慢心」の魔境についても学びました。私自身、戒めてまいりたいと改めて思いました。
幸福の科学で教える「人生の問題集」の解き方の基本は、「四諦・八正道」の一言に尽きます。人生の諸問題を解決するプロセスには4つあります。それが「苦・集・滅・道」の四聖諦です。そこで示された解脱(滅諦)への道、つまり悟りへの道とは「八正道」による中道の道です。それが、「正見」「正思」「正語」「正業」「正命」「正精進」「正念」「正定」の八つからなる仏へ道です。「八正道」は主からいただく光―法力にバランスを与えてくれます。八正道こそが仏教の奥義にあたる修法です。修慧は、知識(聞慧)や、考えを深める(思慧)を習慣化すること(修慧)によって得られる法力です。繰り返し習慣化できるまで共に粘り強く頑張りましょう。
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ここで、宗教の原点に立ち返るべく、教典『宗教の挑戦』を学びます。経典お持ちでない方は、ぜひお求めください。【1300円税込み】
―私が目指しているものは、民族的なるものではなくて、普遍的なものである。軽佻浮薄(けいちょうふはく)なるものではなくて、根源的なるものである。宗教のほんとうの敵は、マスコミや政治であるべきではない。宗教の敵は宗教であるべきだ。私が言いたいのは、ほんとうの宗教批判は宗教の内部からなされるべきであるということだ。聖か邪か、神か悪魔か、宗教自体がこの問いに答えてゆかねばなるまい。―『まえがき』より
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■『宗教の挑戦』
第2章「無常の風」
〇支えられて生きる存在
では、真実を求める自己を追究してゆく際に、どうしても大切な考え方とはいったい何でしょうか。それについて、さらに述べてゆきたいと思います。
まず、根本的なところに遡(さかのぼ)らなければなりません。私たち人間は「自分一人では存在できない」という厳粛な事実があります。
肉体的な側面をとっても、私たちが生まれてくるには、両親が必ず必要でした。両親なしに生まれて来るということは、ありえないことです。たとえ神話的伝説が、マヤ夫人(ぶにん)が釈尊を右脇の下から生んだと伝えようとも、聖母マリアが処女でイエスを懐胎したと伝えようとも、それを現実に信じる方は少ないでしょう。
そのとおりです。釈迦もキリストも、人間として、両親の正常な営みのなかで母のお腹から生まれた、と私も考えています。それはなに一つ俗っぽいものでも、不潔なものでもないと思うのです。
ごく当然に両親から子供が生まれる、このこと自体が一つの大きな奇跡だと思います。母がそのお腹のなかに子を宿しているにしても、母はそのお腹のなかの子を、自分の手でつくっているわけではありません。自然しぜんにお腹のなかで大きくなってゆきます。自然しぜんに胎児ができあがってくるのです。その不思議さは何にたとえましょうか。
そして生まれてきます。生まれてきた後も、ただそのままでは生存できません。ミルクを飲み、さまざまな動植物の栄養を取り入れて初めて身体は成り立ちます。骨にしても皮にしても、肉にしても髪の毛にしても、いったい、いかなるものでできあがっているのでしょうか。
それは、あるいはオーストラリアの羊の肉かもしれず、あるいは自分のところから何百キロも離れたところで採れた野菜でできているかもれしれず、あるいはカナダの小麦粉でできているかもしれません。そのように、いろいろなところでつくられたものが運びこまれて、そして自分の体内のなかで、自分というものの外見をつくっているのです。まことに不思議と言わざるをえません。
自分の仕事もそれは自分だけのためではありません。あなたが会社で働いていることも、回りまわって多くの人に影響を与えているのです。
そして、自分もまた両親と同じく子供を遺し、後の世に分身を遺し、後の世の社会を夢見るそういうことも経験します。
このように人間というものは、縦の流れとして、先祖、祖父母から両親、そして自分、自分からまた子供、子供から孫というように、長い長い命の流れを持っています。それは自分独自でありえるものではありません。やはり前者があって後者がある。そういう連鎖があります。
また、現時点においても、自分が現に生きているということは、他の多くの人のお蔭をもって生きているのです。人間のみならず、動植物、それから太陽、水、空気といったいろいろなものの恩恵を被って、現に生きているわけです。
こうしてみると、人間というものは、なんと多くの支えをもってはじめて存在しているものでしょうか。「ああ、真実の自己を探して自分なるものを求めようとしたが、本当に自分なるものはあるのだろうか。自分というものは、多くのものに支えられて仮にあるように見えているだけで、本当に主体的にこれが自分だ、これが自己存在なのだ、これが世界のなかにおける自分なのだと、取り出して言えるようなものがあるだろうか」という思いがすることでしょう。
【大川隆法『宗教の挑戦』第2章「無常の風」より抜粋】
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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〇「地の果てまでも伝道せよ。」
エル・カンターレとは、地球の光です。
エル・カンターレとは、天上界の光です。
エル・カンターレは、始まりであり、
エル・カンターレは、終りです。
エル・カンターレは、最後の審判です。
エル・カンターレは、最後の審判であり、
世界の人々にとっての新たな希望なのです。
どうか、エル・カンターレを信じてください。
どうか、この新しい信仰を持ってください。
どうか、この新しい信仰を地の果てまでも伝えてください。
それが、あなたがたの使命です。
それが、あなたがたの使命です。
忘れないでください。
それが、あなたがたの使命なのです。
エル・カンターレを信じてください。
エル・カンターレ信仰が、いま求められているのです。
どうか、エル・カンターレ信仰を中心に据えてください。
それが、あなたがたの使命です。
そして、エル・カンターレ信仰を、世界の人々に伝えてください。
地の果てまでも伝えてください。
人々に伝えてください。
それが、あなたがたの使命です。
それが、私の願いです。
それが、すべてです。
【大川隆法 英語説法『Focusing on El Cantare-Belief』の和訳を抜粋】
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■伊勢支部 十五戒■
主のため、世のため、隣人を救うために、ユートピア建設のために、なお、一歩を進めよう。心の焦点を主エル・カンターレに合わせよう。
■信仰の五戒【毎年の戒】―エル・カンターレ信仰がわれらの全て
一、主エル・カンターレを信じきる―【戒・定・慧・教学を徹底する】
二、主を愛し、隣人を愛する―【「進歩」と「調和」を顕現するために「四無量心」と「四摂時」を徹底する】
三、三宝帰依を徹底する―【反省(八正道)を実践する】
四、四正道を徹底する―【瞑想を実践しエル・カンターレ信仰を確立する】
五、六波羅蜜多を推進する―【仏国土ユートピア実現のために祈り、伝道を習慣にする】
■伝道の五戒【毎年の戒】―主が一番喜ばれることは伝道・主の御名と御教えが世界中に広がること
一、一人を三帰信者に導く
二、二人の三帰信者を育成する(フォロー)
三、三人を入会伝道に導く
四、四人の入会者を三帰に導くために育成する(フォロー)
五、新たに出会う五人の一般の方に主の御名と主の御教えを伝える
■植福の五戒【毎年の戒】―植福は執着を断つ大切な修行・三千年先の未来の希望のために福を植える
一、「一切は空」―悟りのために、この世への執着を断つために植福する
二、主への感謝を込めて「御生誕祭」と「エル・カンターレ祭」に植福する
三、三宝への感謝を込めて「宗教記念日」に植福する
四、四正道へ感謝を込めて「支部」「精舎」「聖地」に植福する
五、主のため、世のため、隣人を救うため、3000年先の幸福の科学の発展のために、仏国土建設のために植福を習慣にする
信仰の凡事徹底に関して、戒を持つことが仏道修行の第一歩です。主の悲願である、一切の衆生を救済と仏国土ユートピア建設を成就するために、戒を持ち、阿羅漢を目指して、天使菩薩になるために毎日、仏道修行を共にしましょう。
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〇「沈黙の仏陀」の教え
戒めを守り、禅定を行い、そして智慧を得る。
智慧を得ることによって
この世的な束縛、執着というものを断ち切る力を得ていく。
そして、解脱を味わう。
解脱を味わったところで、
また、この世が神仏の偉大なる慈悲の場であることを悟る。
そしてまた、現界において努力する。
そこに、多くの人びとを此岸から彼岸へと渡していくために、
渡し守(もり)としての菩薩の仕事が現われてくる。
一人でも多くの人びとを悟りの彼岸へ導いていこうとする、
渡していこうとする、
そのような肉身の菩薩の仕事がそこから始まってくる。
すべては、己れというものの執らわれを去り、
真実の自己というものを知り、
真実の自己というものを中心として、
この世のあり方を、もう一度まったく違った目で見、
そこに感謝とよろこびを感じて、
他の人びとをも、悟りの彼岸へと渡そうとする。
一切の衆生の苦しみを救おうとする。
そのような大いなる大悲の心が沸き起こってくる。
これが私がみなさんに勧めていきたい人生修行の道です。
【大川隆法『沈黙の仏陀』より抜粋】
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Focus on Lord El Cantare―時代は今、主エル・カンターレ―
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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文責:蒲原宏史
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