70 現代では、閻魔大王が、高級軍人や病院長、裁判長、高級官僚、社長、まれには、ラフ・スタイルをしていることもある。鬼も、警察官、警備員(ガードマン)、自衛隊員、医者、看護師、教師(特に体育教師)、キックボクサー、空手家、相撲取り、プロレスラー、柔道家、ライフ・ガード、消防員に変身していることもある。変身することで犯罪人的鬼との差別化をはかっている。
【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】
34 生前、詐欺師だった人たちが、文字通りサギの姿になって、小魚を、騙し合い、取り合っている姿を見た。
【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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1神仏のお心への精進【正精進】
〇悟りを維持していくことこそ、いちばん難しい
「正精進」は「正道に精進する」ということです。仏教では、この「正しく道に精進する」ということを非常に重視しています。
第3章の「正思」においても、「自助努力の姿勢」ということを述べておきました。重なるところもあるかと思いますが、正思のほうでの自助努力は一般的な面であるのに対し、正精進のほうは、もう少し具体的、個別的になります。「真に悟りを求めている者たちにとって必須の心掛けとは何か」ということが問われるわけです。
この正精進は、あくまでも「道への精進」と考えていただきたいと思います。単なる「商売での精進」というようなことではありません。「神仏の方向に向かっての精進」ということになります。仕事の面で生かすとすれば、「その方向性がユートピア建設へ、神仏のお心の実現に向いている」ということが大事です。これが正精進の前提条件となりましょう。
さて、この「正しく道に精進する」という場合にも、幾つかの判断基準があるであろうと思います。
みなさんは、「正しく道に精進しているかどうか」を、いったい、どのように判定しておられるのでしょうか。どのように判断しておられるのでしょうか。
ここで、私は修行そのものの意味を、みなさんに考え直していただきたいと思うのです。
『釈迦の本心』という本の最終章に、「人間完成の哲学」というものを挙げておきました。このなかでは、「悟りへの道が、いかに難しいものであるか」ということを書いたつもりです。
可能性はすべての人に開けている。そして、瞬間的には、ある程度のところまで達することも可能とされている。しかし、維持することが難しいもの。これが悟りです。
「悟りの要諦は、実は、この維持のところにある」と看破しなければならないのです。もちろん、悟りに入っていく過程も難しいのですが、「悟りを維持していくことこそ、本当はいちばん難しいことなのだ」ということを知らねばなりません。
それは、一時期、一瞬あるいは一日や二日だけ悟った人がいくら出たところで、世の中がよくならないのと同じです。十年、二十年と続いていって初めて、自分の血となり肉となっていくものなのです。
したがって、「悟りにおいて安易なものは許されない」という考えを持っていただきたいのです。
【大川隆法『真説・八正道』第7章「正精進」228pより抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。
三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。
そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、地上仏国土ユートピアの実現のために「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。
引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。
12月8日は降魔成道記念日です。主エル・カンターレ
大川隆法総裁先生が、1985年12月8日に名古屋の地(降魔成道館)にて、救世主として法を世に説くことを決意しようとしたとき、これを何としても阻止せんと、悪魔が総攻撃をかけてきました。降魔成道記念日とは、この悪魔を打ち倒して、仏法真理の流布に立ち上がったことを記念する聖なる日です。
12/8(日)~10(火)まで、「降魔成道記念日」感謝式典を開催致します。主は、ただ一人往くという不退転の決意によって魔を下し、降魔成道をなされ、救世主として立たれたことに心からの感謝を捧げると共に、大川隆法総裁先生のご復活を心より祈念し、全世界の信者一同で、「降魔成道記念日」感謝式典版「復活の祈り」を執り行います。
主のご復活を妨害する悪霊・悪魔・妖怪・妖魔・闇宇宙・唯物論の勢力といった悪しき者たちの呪いを打ち祓い、主がこの地にて「エル・カンターレの法」を再びお説きいただけるための、結界を皆様と共につくってまいります。皆様ぜひご参加ください。
『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
吾らの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
吾らを真なる幸福へと導きたまえ。』
今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
そののち、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第四章 政治と経済
○中道からの発展
成功の時においては、物事は控えめに考えてゆきなさい。
また、失敗のときにおいては、己の心を励ましながら生きるがよい。
ともに、両極端にならず中道に入るための方法である。
愚かなる人間は成功のなかにあって、
自我を拡張し、傲岸不遜(ごうがんふそん)となり、
人を人とも思わないような発言を繰り返すようになる。
そうして、いつか自分を取り巻く環境が悪化した時に、
あっけなく失敗の底に沈み、誰も助けてくれる人がいなくなる。
また、逆に失意の底にある者が、
自虐的となり愚痴ばかり言っておれば、
だれもまた、この人とつきあおうとはしないであろう。
愚痴ばかり出る人とつきあっておれば、心まで暗くなってしまう。
自らの心を暗くするような人とつきあわないというのも、
また、賢明な道であるからだ。
そうした賢明な道を選ぼうとする者は、
失意の底にあって愚痴や不満を言っている人間を、
相手にしようとはしないであろう。
したがって、たとえ失意の底にあるとも、
希望の光を求めて、心を励まし、力強く生きようとすることだ。
あなたが、力強い一歩を踏み出し、
そして、次なる一歩を踏み出し、
さらに第三歩を踏み出す時に、
次第しだいにまわりからも認められ、
また、素晴らしい中道の、黄金の道へと、
帰ってくることが可能となるであろう。
およそ、成功とはこのようなものだ。
人びとよ、
常に中道を旨とせよ。
中道を旨とし、中道からの発展ということを旨とせよ。
それは、万民を害さず、万民を愛し、
万民を幸福にするための道でもあるということなのだ。
○国家の中道
今まで、あなたがたは、中道の原理とは、
己の、個人の心の原理だけだと考えていたかもしれない。
心の原理のみを中道の原理とし、
小乗の原理のみを中道の原理としていたかもしれない。
しかし、中道の原理は、
小乗を超えて、大乗の世界にも適用される原理なのである。
個人個人の生活において、この中道の生き方が大事であるように、
大きな社会とか、国家のレベルにおいても、中道の生き方ということは、
今後とも大切になってくるであろう。
国際関係においても、
国家と国家の軋轢(あつれき)が、今、急浮上し、大変な問題となってきている。
そうした時に際して、
考え方の基準というものを持っていなくてはならない。
その考え方の基準とは、やはり中道であるのだ。
日本とアメリカ、日本と他の国、
そうした国との利害を調整する最大のキーは、
やはり中道にある。
自国のみの利益を追求し、
他国の利益を排除する考え方をどこまでも追及していけば、
自国だけが富むと考えがちであるが、結果はそうではない。
自国のみが富んで、他国がどんどんと衰えていけば、
そこに国際的な貿易というものは、成立しなくなってくる。
他国も富み、自国も富んでこそ、
はじめて素晴らしい世の中となり、
はじめて素晴らしい国際経済の現出(げんしゅつ)に、そこにあるのだ。
それを考えちがいし、
我が国の、自分の国の利益のみを追求してはならない。
日本という国は、今、狭い心のなかにある。
狭い心のなかにあって、
自国の利益のみを追求する傾向が出てきている。
そうであってはならない。
大いなる愛の心を持たねばならない。
かつて自国を鍛えてくれ、指導してくれた先輩に対し、
もっと敬意を払わねばらない。
また、自国を目標とし、理想として後からついてくるものに対して、
もっともっと師としての愛を与えねばならない。
師としての教育を尽くさねばならない。
師としての指導を尽くさねばならない。
そうしたものだ。
かつて先進国が日本に与えてくれた恩を忘れてはならない。
先進国と言われる国々が、
その思想を、文化を、その経済原理を、
日本という国に教えてくれたからこそ、
健在まで発展してきたのではないのか。
さすれば、今後は自らが指導する立場になった時に、
どのような報恩というものがあるか、それを考えねばならない。
もし、先輩たちを追い越していったとするならば、
その追い越された先輩たちに対する礼儀を忘れてはならない。
彼らのためにも、できることはしなくてはならない。
自らの力のほうが上まわったということを、驕(おご)りに思ってはならない。
あまりにも、驕り、高ぶってはならない。
また、これから日本という国を追い上げてくる諸国に対して、
かつて先進国が日本にしたように、
多くの恩恵を与えることができるであろうか。
先進国は日本という国にライバル視され追い越されたことを恐れて、
発展途上国に対して、援助や協力や教育を差し控えるならば、
それは国としての自己保存というものになるであろう。
すべて繁栄・発展の原理は中道にあり、
中道からの発展にあり、
そうしたことを忘れてはならない。
今、国際的な大きな視野に立って、
政治というものも、経済というものも、
中道の理論から考えてゆかねばならない。
ゆめゆめ自国のみの利益、自国のみの権益を考えすぎてはならない。
他を生かしてこそ自分も生きるのだ、ということ忘れてはならない。
そのことを、強く、強く、言っておきたい。
【大川隆法『仏陀再誕』第四章「政治と経済」より抜粋】
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続いて、地上への執着と煩悩を断つ修行法として『漏尽通力』を共に学びます。
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第一章 霊的人生観
3 物質と誘惑
ここに一つの問題があります。
「霊性への目覚め」というものを経験した方にとっても、この世というものには、非常に難しい面があります。それは、「物質」についての考え方です。地上に生きていると、どうしても物質に人の心は執らわれていきます。
その物質とはいったい何であるかというと、「物だ」と言ってもいいし、「財だ」と言ってもいいし、「富の変化したもの」と言ってもいいのです。こうしたものに執らわれていきます。
その物質の典型として、お金であるとか、家であるとか、車であるとか、素晴らしい洋服であるとか、こうしたものがありますし、宝石であるとか、ネックレスであるとか、指輪であるとか、こうした贅沢品、奢侈品(しゃしひん)の類もあります。
これ以外に、欲望をそそる、物質に近い存在して、異性の存在が言及されることもあります。「霊性への目覚めのいちばんの妨げは物質の誘惑である」と言われるのですが、物質の誘惑のなかには、そうした貴重品の類だけではなく、異性の存在、特に、美しい女性の存在が入れられることがあるのです。
これに対しては、もちろん、そうした異性の存在について、「神が創りたもうた男と女である以上、それを誘惑として見るのは問題である」という見解もあることはあるでしょう。
しかし、「霊性への目覚めの妨げとして、異性の存在と物質の存在がある」ということが、過去、厳然としてあったことは事実です。
そこで、「どう考えていくか。どう対処していくか」ということが一つの課題となってくるわけです。
過去、宗教者たち、修行者たちが悩んできたのも、この「物質と誘惑」の問題です。
かのイエス・キリストでさえ、この誘惑に悩まされています。それは『聖書』を読めば分かりますが、四十日四十夜、「荒野の試み」というものを受けています。
サタン(悪魔)の頭であるベルゼベフという者から、いろいろな誘惑をイエスは受けています。
例えば、「汝、本当に神の子であるならば、この石を変じてパンとせよ」とサタンの頭は言ったことがあります。これに対して、イエスは、「人はパンのみにて生くるにあらず」というような言葉で答えています。
サタンはまた、イエスに、「汝、神の子ならば、この神殿の屋根から飛び降りてみよ」とも言いました。
こういう試みをしたわけですが、この理由はというと、『旧約聖書』のかなに、「神の子が崖から飛び降りようとしたとき、天使が飛んできて、その羽で救った」というような内容があるからです。「おまえが神の子であるならば、飛び降りても必ず天使が救いに来るだろう。ならば、やってみよ」と言ってみたわけです。
すると、イエスは、「しかし、『汝の主なる神を試みるなかれ。試すなかれ』ともまた書いてある」と答えています。
これらについては、事実、そうした「悪魔の試み」もあったわけですが、それのみならず、「イエスにも、人間として生きていく以上、そうした誘惑が降りかかった」ということです。
パンは、食糧、食べ物への誘惑の象徴でもあるでしょう。また、「神殿の屋根の上から飛び降りる」ということは、名誉心の象徴でもあったかもしれません。
また、サタンはイエスに、「私を信ずるならば、汝に全世界を与えるであろう」、あるいは「権力を与える」というようなことも言いました。しかし、イエスはそれをはねつけています。
こういう、この世的な欲でもって、サタンは聖者を誘惑しようとします。こういうことが数多くあったわけです。
これは、いつの時代にもそうであって、そうした誘惑に聖者は必ずぶち当たるようになっているわけです。なぜ、そういう誘惑にぶち当たるかというと、「それをどのように通過するか」ということによって、世の、物質に翻弄されている民たちに、人間としての本当の生き方を教えんがためなのです。
イエスだけではありません。仏陀もそうです。
有名な話ですが、彼は、カピラヴァスツにおいて、二十九歳まで、思うがままの生活をしていました。王子として育ち、周りの人にかしずかれ、おいしいものを食べていましたし、おつきの家来がいました。
また、十大から美しい后を何人か迎え、后が四人も五人もいたようです。后のなかには有名なヤショーダラーもいましたが、それ以外にも何人もいました。父王の命とはいえ、そうした女性との歓楽の日々も、約十数年の間にはあったかもしれません。
しかし、そうしたなかで、彼は「執着」というものに苦しみ、「これが人間の本当の生き方であるはずがない。この執着を断ったときに本当の悟りがあるはずである。何かが違っている」と考えたわけです。
こうしたイエスと仏陀の例がありますが、近代では、「聖者」といわれる方々であっても、必ずしも「物質否定、異性否定」という方向には行っていないように思います。
日本に生まれた宗教家もそうです。例えば、内村鑑三にしても、妻帯はしていますし、仕事も持ちました。谷口雅春にしても、もちろん、妻帯しましたし、仕事も持っていましたし、この世的な富も手に入れました。また、ほかにも、妻帯をし、妻子を養いながら教えを説きつつ、事業をして利益を上げる経営というものにたずさわった宗教家もいるわけです。
過去の時代には、聖者たちは、物質をはねつけ、「精神のみに生きる」という姿勢を数多く見せたようですが、近年の宗教家たちの生き方を見てみると、「物質と精神」という者を単に二分するのではなく、「この両者を融合する立場から、一つの道を見いだせないか」という方向に動いてきているのかに見えます。
単に、物質を物質として否定し、精神のみに生きるならば、この三次元の存在意味はないことになるのではないのか。この三次元を「単なる仮の世界」と言いきってしまい、「何ら意味がない、苦の世界であって、この三次元を離れた世界こそが真の世界である」と言いうるならば、この三次元に生まれてくること自体が間違いであったのではないのか。
そうであるならば、人生の最大の理想は、「転生輪廻のカルマを断ち切ってしまうこと」ではないのか。この世に生まれ変わってくることが、「苦しみの世界に生まれてくる」ということであるならば、「もう生まれかわらないようになる」ということが最大の悦びではないのか。そういう輪廻を超えることが最大の悦びではないのか。
すなわち、「そうした輪廻を解脱する」という意味での如来になることが、最大の修行の目的ではなかったのか。
原始の仏教のなかには、そういう考えもあります。「もう再びこの苦しみの世に生まれ変わってないために修行する」という考えもあったわけです。
しかし、こうした考えは、私たちの現在の立場から言えば、「反面としての仏法真理は表しているけれども、トータルでの仏法真理は表していない」と言えるわけです。
「この世に生まれくる前の世界での計画がある」ということを、私ははっきりと言っています。人間がこの世に生まれくるのは偶然ではないのです。実存主義哲学が言うような、「偶然によって、この地上に生まれ、投げ出された存在」が人間なのではありません。偶然に両親から生まれたものでもありません。生まれてくるには生まれてくるだけの計画をつくって来ているのです。
では、なぜ生まれてくるのでしょうか。
その理由は、「この地上に、『魂の修行』という目的を持って出てきて、多くの人と共に生きていくことにより、ユートピアを建設する。そのユートピア建設の途中において、自分自身の向上と、仲間たちと共有できることで、魂の悦びを味わう」ということではないでしょうか。
そういう観点から見るならば、物質というものはユートピア建設のための”奉仕の材料”ではないのでしょうか。それに奉仕するための一つの”材料”ではないのでしょうか。こういう見方も生じてくるわけです。
この世に生まれてくる前の世界のことを深く考えず、この世そのものを「苦の世界」「執着の世界」と考えるならば、「執らわれから逃れる」ということが人生の最大の意味になってしまいますが、そうした考え方は、「この地上には目的を持って生まれてきている」と考えるならば、やはり真理の反面しか見ていません。
そして、「この世で素晴らしい生き方をすれば、それが、すなわち、あの世での生き方につながる」とするならば、つまり、「この世で、素晴らしい天国的な生き方をすれば、あの世でも天国に生きられる」とするならば、「あの世で、どのように生きるか」ということを目指すこと時代は、大きな問題ではないことにもなっていくでしょう。
「来世の幸福だけを願う」という阿弥陀思想、阿弥陀如来信仰の思想に対して、一線を画する考えが出てくるわけです。
こうしてみると、「物質と誘惑」に関する現代的な判断、解釈という者は、結局のところ、「物質等をユートピア建設に奉仕する材料として再検討してみる」ということではないでしょうか。
「富」に関しても同じです。ユートピア建設のために有用に使われたならば、富は非常な力となります。ところが、ユートピアを阻害するために使われたならば、それは大変な害悪となっていきます。財力のある人が仏法真理の伝道を邪魔しようとするならば、これは大変な圧力です。しかし、財力のある人が仏法真理伝道を助けようとするならば、これは強力な力になります。
また、異性に関しても同じです。古来、「執着」と言われ続けていますが、夫婦で共に、仏法真理のために、あるいはユートピア建設のために努力するならば、その夫婦の力は、一人がやっていくよりも、二倍、三倍、四倍になっていくでしょう。
ところが、夫婦の心がお互いに離反し、相手の足を引っ張ったり、相手が仏法真理を求めることに反対し、その邪魔をしたりするならば、一人の力は二分の一にも三分の一にもなっていくでしょう。
ですから、「ユートピア建設」という観点から、一度、この「物質と誘惑」のところを考え直してみる必要があります。そうすると、今まで、単なる「苦の材料」「執着の材料」と思われたもののなかにも、一つの「悟りへのよすが」があると言えると思います。
空海が中国から持ち帰ったお経のなかに、『理趣訳経(りしゅしゃくきょう)』というものがあります。『理趣訳経』には、愛欲もまた菩薩の位なり」というようなことが書いてあるので、これが非常に問題とされ、一般にはなかなか広がらず、特殊な人にだけこの教えが伝わりました。密教の「蜜」たるゆえんです。
これには、誤解される恐れがあります。「愛欲も菩薩の位であるならは、すなわち、みんなが自由自在に異性と共に生きていて、それで菩薩になれるなら、こんないいことはない」という判断があるわけですが、実際にはそうではないのです。
「本当のユートピア」という目から見たら、「恋人同士の愛、あるいは夫婦の愛のなかにもユートピアへの芽はある」という考え方もあるわけです。これが、「愛欲もまた菩薩の位なり」という言葉の本当の意味です。
愛欲を単なる罪や悪と考えた場合には、それは一つの足枷(あしかせ)にしかすぎませんが、愛欲のなかにも仏法真理の芽はあります。「物質」とか「誘惑」とか言われているもののなかにも、本当は仏法真理の芽はあるのです。
それは「ユートピア建設」という観点からのみ許される考え方です。
こういう考え方が、おそらく、現代的なものの考え方として重要ではないだろうかと私は思うのです。
【大川隆法 『漏尽通力』第一章「霊的人生観」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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◆「天御祖神 感謝報恩植福」について
・この度、日本文明の祖にして、武士道の源流にあたる天御祖神が日本に降臨され、いまもなお、霊的にご指導を賜っていることへの感謝を捧げるために、箱根強羅の地に天御祖神を讃える「天御祖神記念館」を建立させていただくこととなりました。
・本植福を通じて、天御祖神への感謝を深めていくとともに、武士道精神を復活させ、神国・日本としての誇りを取り戻していくことで、この日本の地を主エル・カンターレの教えを発信するにふさわしい地としていくことを誓ってまいります。
日本神道の屋台骨である高天原が、日本人の不信仰と愛国心の欠落により、崩れてしまっている今、私達伊勢支部信者が先頭となって、日本神道の屋台骨を支え、日本国の誇りを取り戻すべく先頭に立たなければならないのではないでしょうか。伊勢支部としては、「天御祖神記念館」建立事業を全力で応援致します。私たちの信仰心をここに結集して参りましょう。
・「天御祖神感謝報恩植福」(2022/1/1~)は、天御祖神の日本への御降臨と、いまもなおご指導を賜っていることへの感謝を捧げ、報恩への誓いを固める植福です。
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・私は二〇一五年ぐらいから公開しておりますけれども、実は日本文明というのは、今から三万年ほど前に、天御祖神という方が、今の富士山があるところの近くに、宇宙より降臨したところから、始まっているということを、何冊かの本で説いております。(略)
(天御祖神の)教えの中心は、今も片鱗としては伝わっています。一つ、言わなければならないことは、「神の子、仏の子としての人間」として生きるということは、「正しく生きる」ということであるということですね。これが大事な柱でした。(「地球を包む愛」)
・「天御祖神の教え」とは何でしょうか。(略)おそらくは、「鍛錬ということの大切さ」や、「自分を鍛えて力強くあることの重要さ」というものも教えていたのではないかと思います。
(『現代の武士道』)
・葬られているのは、今で言うと、強羅温泉の近くです。
(「超古代リーディング―天御祖神と日本文明のはじまり―」)
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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文責:蒲原宏史
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