44 他人(ひと)を心の中で小バカにしている人は、鼻の穴がピクピクと開く。
【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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おはようございます。「一日一生」。今日も、主のため、世のため、人のために、信仰に、伝道に、植福にさらに一歩進めましょう。
新しき日を 迎えるにあたり、
主エル・カンターレに
心より お誓いいたします
本日も
正しき心の探究と
愛と
知と
反省と
発展の
幸福の原理を実践し
一層 悟りを高め
地上ユートピアの建設に
力を尽くして まいります。
生命ある限り
この仏法真理を 弘めます。
どうか 私の
今日の誓いを
お聞き届けください
ありがとうございました(合掌)
11月23日は初転法輪記念日です。初転法輪とは、今から38年前の1986年11月23日に、主エル・カンターレ大川隆法総裁先生が、東京・日暮里の地(現初転法輪記念館)にて、初めての説法をされて、法輪を転じられたことです。この聖なる日に仏弟子相集い、心からの感謝を捧げるとともに、たとえ何があろうとも、主の御名と主の教えを地の果てまでも伝えていく伝道の発願を捧げさせていただきます。
さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。
基本三部作の『太陽の法』を引用しながら、幸福の科学の教義を共に学びます。なお、経典『太陽の法』は、光とは何か。仏法真理とは何か。という問いに答える幸福の科学の教えの基本です。また、後半では、『永遠の法』も少しずつ読んでまいります。『永遠の法』は、エル・カンターレの空間論についての教えです。
経典をお持ちでない方は、ぜひ拝受ください。全国の書店や支部や精舎よりお求めいただけます。【税込み2200円】
本書は、『太陽の法』(法体系)、『黄金の法』(時間論)に続いて、空間論を開示し、基本三法を完結する目的で書き下ろしたものです。これでエル・カンターレの法の輪郭が見えてきたことでしょう。今、永遠の神秘が明らかにされました。伝説と神話のベールに覆われていた、地球系霊団の最高の秘密が明らかにされたのです。世界全宗教の統合、超越の悲願を掲げて、本書を世に送り出します。【『永遠の法』まえがきより】
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第4章 悟の極致
4如心
深い悟り。阿羅漢の境地よりも、さらに深い境地とは、どういうものでしょうか。
阿羅漢の境地とは、仏への確固とした信仰が根づき、この世的な波風に動じない不動心ができ、守護霊の指導を受けて、日々生活し、そのなかで接する他人の気持ちが見透かすようにわかる段階です。すなわち、人間としては、かなり成長してきた段階であり、宗教人としても、一般の人々を指導することができる段階です。
とはいえ、阿羅漢の段階では、まだ、転落する危険性をもっています。なぜならば、阿羅漢の段階とは、まだ、一通りの反省がすんで自分自身の潜在意識層にいる守護霊と交流可能な境地だということにすぎず、光の菩薩たちの心までは十分に分かっていないからです。仏法真理の教えの高下、バラエティ、奥行きなどについては、まだ、十分に理解していないのです。そのため、異説、邪説などにまどわされる可能性も高いといえます。
また裏側の天狗界や仙人界の住人の場合、この境地がたんなるあてものや霊現象をもたらす、初歩的な神通力として現われることがあります。やはり、愛や悟りについて心境を深めていくことが大事です。教学も決して軽視してはなりません。
阿羅漢の段階から転落してゆく理由は、もうひとつあります。阿羅漢とは、たとえば、金属でいえば、表面の錆を落として、ピカピカと光りはじめた段階だといえます。つまりは錆止めが塗っていないので、心を磨くということをしばしば忘れると、すぐ錆が付着してしまうのです。ですから、心が錆びてきているにもかかわらず、そのことに気がつかないで、自分を「大先生」だと思って悟りすましていると、大変なことになってしまいます。
心がピカピカに光っているときは、心の表面もツルツルしていますから、たとえいかなる悪想念が向かってきても、それをはねかえすだけの力があります。ところが、心が錆びついてくると、表面もザラザラとして、すべりが悪くなってくるために、いろんなものが引っかかってくるのです。
そして、このざらざらに、ハーケンを打ち込んで、ザイルをたらしてゆく者がいる。すなわち、地獄の悪魔です。地獄の底までたれさがったザイルをたよりに、暗黒界のさまざまな生物がはいあがって来る。それが亡者であったり、動物霊であったり、サタンであったりするのです。
ですから、このように、せっかく、阿羅漢の境地にたどり着いていた宗教指導者のなかには、心に魔の侵入を許してしまう人が出てくる。そして、世の人々をまどわし、狂わせてゆくのです。ここに、もっとも危険な落とし穴があります。
そこで、大切なのは、心の錆が憑かないように、つねひごろから、錆をよく落としておくことです。ピカピカに、よく磨いておく。これが大切です。心に錆というデコボコをつくっておくと、いつなんどき、悪魔がザイルのついたハーケンを打ち込んでくるかわかりません。
その悪魔を蹴落とそうと、躍起になっていても、今度は、背後からハーケンを打ち込まれてしまう。そうなると、どうしようもありません。単なる除霊や悪魔ばらいをしたくらいでは、本当に救われるということはないのです。つまり、心の錆を落とさないかぎりは、はらってもはらっても、悪魔たちが忍び込んでくるからです。
心を光らせる。だからこそ、心を磨くことが大切なのです。また、できれば、心に防腐剤や錆どめを塗っておくことです。この錆どめこそが、さらに、一段と高い悟りにつながるからです。
阿羅漢より、さらに高い悟りの境地を「如心」(にょしん)といいます。如心とは、自らの守護霊以上の霊格を持つ高級霊界の指導を受けられる段階、すなわち、指導霊と霊的交流ができる段階です。この指導霊とは、七次元菩薩以上の高級霊たちであります。この境地は、ほぼ不退転の心境です。ですから、よほどのことでもないかぎり、魔界の者たちに蹂躙されることはありません。なぜならば、諸如来、諸菩薩の指導を受けるようになってくると、光が強くなり、魔がよりつけなくなってくるからです。
この如心の段階になってくると、心はいつも謙虚で、高ぶることなく、他人に対する奉仕、すなわち、どうすれば世の中の役に立てるか、どうすれば迷える人々を救えるかといったことが、日々、心に去来することの中心となってきます。阿羅漢の境地から転落の原因はほとんどは増上慢ですが、この不退転の如心の段階にいたると、利己主義、自己中心ということは姿を消すので、心はつねに平静です。正しく念じる。正しく定に入るということが本当にできるようになるのも、この如心の段階からだといえます。
如心には、もう一つの面があります。つまり、観自在に近づいてくると居ながらにして、何百キロも離れている人のことが手にとるようにわかるということです。たとえば、ある人の名前を見ただけで、たとえ地球の裏側にいる人であったとしても、その人の現在の心境、悩み、憑依霊、前世、前々世、前々々世、未来世までもが、一瞬にしてわかるようになります。しかし、仙人的千里眼におちいらないように、常に、愛を深め、知を磨くことを怠ってはなりません。
【大川隆法『太陽の法』第4章「悟りの極致」より抜粋】
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続きまして、経典『永遠の法』より、空間(霊界構造)に関する教えを振り返ります。
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第6章 六次元の世界
5永遠の旅人
進化ということを中心に六次元の話をしていますが、ここまで読んできて、多くの読者が気づくのは、「結局、人間というものは永遠の旅人なのだな」ということだろうと思います。
なかには、「進化、進化と、なぜそんなに進化を目指して努力しなくてはならないのか。あるがままでいいではないか」と考える人もいると思います。ある面から見れば、これも一理あります。
しかし、この考え方を霊的な面から具体的に検討してみると、必ずしも正論だとは言えないのです。なぜかといえば、本当の意味において、人間の生命は有限ではないからです。
もし人間の生命が百年や二百年でできては消えていくようなものならば、確かに、あるがままの人生でいいと言えるかもしれません。しかし、人間の本当の生命体というものは、何万年、何十万年、何千万年、さらには何億年にもわたって、生き通しの生命なのです。
そうした生き通しの生命が、あるがままでいいのであれば、魂は停滞してしまいます。しかも、長い年月にわたる停滞のなかにあっては、魂はほんとうの喜びを味わうことができないのです。つまり、退屈していくわけです。
百年、二百年なら同じことをしていてもいいかもしれませんが、永遠の時間というものを考えたとき、魂はフワフワと宙に浮かんでいるわけにはいきません。人間には個性があり意志がある以上、やはり、「何かをしておかねばならない」という気持ちがあるのです。
たとえば、会社勤めをしているサラリーマンのおおくは、「一日も早くサラリーマンをやめて、毎日、自由に暮らしたい」と思いつつ、定年まで生きていくわけですが、やっと定年を迎え、会社勤めがなくなると、今度は自由な時間である半面する仕事がないので困ってしまいます。
たいていの人は、こうした状況のかなでは一年と持たないのです。仕事がなくなると一年も持ちません。そこで、何かしたくなって、再就職したり、自分の趣味に励んだりすることになります。
これは魂の本質にかかわることです。魂というものは本質的に勤勉にできているのであり、怠けるようにはできていないのです。だからこそ、ときどき、休みたくなり、さぼりたい気持にもなるのですが、そうした代打な気持ちでは長い年月を堪えられないようになっています。人間は、仕事をするように、働くようにできているのです。
すなわち、魂は本質において生産的であり創造的なのです。これが魂の性質です。「私は仕事がきらいだ」という人は多いのですが、そうした人たちから実際に仕事を奪ってみると、彼らはまた困るのです。そうしたものです。
このように、魂そのものの中に熱心に仕事をする勤勉さという面があるのですから、人間はやはり向上を目指していくしかないのです。不完全な仕事ばかりしていて満足できる人はいないのです。魂が満足し、やすからぎや喜びをえるためには、より完全な仕事を目指して努力していかねばなりません。
そうした意味において、魂というものは、あるいは人間の本質というものは、永遠の旅人なのです。それが実際であると言えます。
【大川隆法『永遠の法』幸福の科学出版 第3章「六次元の世界」より抜粋】
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本日『太陽の法』では、たとえ修行の成果として「阿羅漢」になれたとしても、それで修行が終わるわけでは全くないことがよく分かりました。常にその心境を護持しつつ、さらに高める心の修行を続けなければ、すぐに退転してしまう危険があることを本日学びました。修行者である私たちにとって慢心を防ぎ天狗にならないためにも肝に銘じたいところです。
心の修行を日々に少しずつ重ねることで、菩薩の入り口である阿羅漢の境地に私たちはたどり着くことができるようになります。この境地に立つことが、仏の御手足としての菩薩行のはじまりでもあります。
経典『地獄の法』を主より賜りましたが、『地獄の法』とは、姿を変えた『救世の法』だ。と本書の「まえがき」に記されています。救世の主人公とは、私たち菩薩になることをめざす菩薩です。その修行者である私たちが主の御手足となるためにたどり着かなければならないのが「阿羅漢」の境地です。
今世主とともにある、奇跡の時代により、主の教えによって、だれもが「阿羅漢」になれるチャンスを等しくいただきました。このチャンスを絶対に逃してはなりません。
話が少しずれますが、世の中には、過去世が有名な人であるとか、「人の前世が分かる」という人が、こちらから訪ねるでもなく現れることがあります。今日の教えからすれば、人の前世がかかるというのは、少なくとも、「観自在力」の一部がありということであり、これは如来の力です。
「人の前世を見ることができる」ということは、「私は如来です」となっていることと同義であるならば、本当にその人がそれにふさわしい心の修行と、その果実として、人間として完成された人であるのかを見なければ、なりません。そのような視点で相手を見たときに、ほとんどの人はその基準から外れるはずです。
なんせ、経典によれば、五百数十億ともいわれる地球系霊団【うちエル・カンターレ系霊団は400億】のなかで、如来クラスの方は500体弱くらいしか存在していないからです。宗教の世界では霊好きの人は、たくさんいらっしゃいますから、「阿羅漢」にたとえなれたとしても、巷の霊能者や邪命説法には細心の注意を払わなければいけないととつくづく思います。
イエス様も聖書で、『果実によって種子の質をはかりなさい』と教えていただいています。悟りが上がれば上がるほど、生み出した果実の質と種子の善悪が問われてくるのだということを私たちは肝に銘じなければなりません。
今世私たち伊勢支部の信者全員が「阿羅漢」になることをめざし、主の御手足として救世運動に参加してまいりましょう。『地獄の法』の年は、いよいよその救世事業本番の年であるということです。ともに精進を重ねてまいりましょう。
悟りの力がこの世とあの世の『地獄』を解消する大きな切り札です。『太陽の法』『地獄の法』を深く学ぶためにも、悟りへの理解を共に深めてまいりましょう。
また、後半の『永遠の法』では、人間は永遠の旅人である。という教えを頂きました。旅の終着点は根本仏の胸のなかということです。そのために人間は永遠の修業をもとめられており、人間はそのために勤勉に働くことの喜びを私たちの魂に埋め込まれたということでした。
『もし人間の生命が百年や二百年でできては消えていくようなものならば、確かに、あるがままの人生でいいと言えるかもしれません。しかし、人間の本当の生命体というものは、何万年、何十万年、何千万年、さらには何億年にもわたって、生き通しの生命なのです。
そうした生き通しの生命が、あるがままでいいのであれば、魂は停滞してしまいます。しかも、長い年月にわたる停滞のなかにあっては、魂はほんとうの喜びを味わうことができないのです。つまり、退屈していくわけです。
百年、二百年なら同じことをしていてもいいかもしれませんが、永遠の時間というものを考えたとき、魂はフワフワと宙に浮かんでいるわけにはいきません。人間には個性があり意志がある以上、やはり、「何かをしておかねばならない」という気持ちがあるのです』
私達の魂には、仏と同じ性質が仏性として宿されており、その仏性は親なる種の下へと還るように定められています。だから、私たちは本質的に勤勉にできており、根本仏の下に還るために、正しき心の探究を経ながら悟りを得て、仏に近づく永遠の修行をしています。私たち仏子は永遠の師の下に還るために永遠の修行をしている永遠の弟子です。本日の引用ではこのようにありました。
『魂というものは本質的に勤勉にできているのであり、怠けるようにはできていないのです。・・・すなわち、魂は本質において生産的であり創造的なのです。これが魂の性質です。・・・
このように、魂そのものの中に熱心に仕事をする勤勉さという面があるのですから、人間はやはり向上を目指していくしかないのです。・・・
そうした意味において、魂というものは、あるいは人間の本質というものは、永遠の旅人なのです。それが実際であると言えます』
最後の部分がとても印象的でした。勤勉にコツコツ努力を重ねて、悟りを重ねて、魂の親であるエル・カンターレのもとに里帰りの旅を共にさせていただきましょう。今日も、光に向かって、その一歩を踏み出して。
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。
【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。
災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする 信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。
【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。
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100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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文責:蒲原宏史
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