18 「心」を見つめよ。「欲」しか見えなかったら、道は、はるかに遠い。
【大川隆法 箴言集『人格への言葉』より抜粋】
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7月7日は70周年を迎えます。主の御生誕日です。
この聖なる日に向けて、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。
7/5(日)~7/7(火)まで、「御生誕祭」を開催させていただきます。7/5(日)~7/7(火)は、連日13
時より、別格本山・聖地エル・カンターレ生誕館を本会場として、全国・海外の精舎・支部・拠点(HSU・学園含む)に中継開催させていただきます。
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さて、ここからは、主の御教えを世界へと広げるために、教典『大川隆法
東京ドーム講演集』から第10章の「未来への選択」を共に振り返ってまいります。主におかれましては、一九九五年に、未来は、仏教の縁起の理法の寄る辺に従い、私たちの心と行動を変えることによって、世界を変えることができること。宗教は公器であり、正しい宗教である「幸福の科学」の教えが世界に広がることによって、人類は真なる幸福を得ることができることを、全世界に伝えるべく、獅子吼されました。経典をお持ちでない方は、支部や精舎、全国の書店でお求めください。仏弟子必携の一書です。【税抜き1800円】
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■『大川隆法 東京ドーム講演集』第10章「未来への選択」
1智慧を得て、苦しみに打ち勝つ
○煩悩の炎を鎮め、平安の境地に入れるか(涅槃寂静)
諸行無常、諸法無我という教えに続いて、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)という教えがあります。
あなたがたは、涅槃という言葉を、「この世を去った、あの世の世界のこと」と考えているかもしれません。そう、それもまた涅槃の世界―「涅槃界」であります。
しかし、釈迦仏教における涅槃とは、この世を去った、あの世における理想の世界のことのみを言うのではありません。そうであれば、生きている人間には、涅槃の世界というものは永遠に訪れないことになります。死後のみが、その世界であるならば、人間がこの地上に生まれてくること自体が間違いなのではないでしょうか。
しかし、人は繰り返し、繰り返しこの世に生まれてきます。そして、欲望の苦しみのなかで、「その苦から、いかに逃れるか」ということで、その苦と格闘し、浮きつ沈みつしながら人生を流れています。
そのなかにおいて、実在界におけるところの理想の世界を体現することができるでしょうか。身をもって知ることができるでしょうか。
それができたならば、それを「悟りを開いた」と称し、その悟りを開いた人間のことを「仏陀」というのです。
それは不可能なことではありません。ゴーダマ・シッダールタが仏陀となりえたがゆえに、二千五百数十年にわたる仏教の歴史はあったのです。
さすれば、その方法は、可能なるものであり、また、正しい方法に則って修行をするならば、教えが正しく説かれ、弘(ひろ)まり、人々に受け継がれ、体得され、実践されたならば、その法を伝えられた人々もまた、自ら修行をして、悟りの世界に入ることができるのです。それが伝道の持つ意味であり、大乗仏教の始まりでもあります。
では、涅槃の境地とは、いかなる境地でしょうか。
あなたがた一人ひとりは、肉体から発するところの、さまざまな悪しき精神作用に執(とら)われているはずです。それを「煩悩」と称します。
煩悩は、燃え盛る炎にも似て、自ら自身から炎を出して、自ら自身をその炎によって焼き尽くします。また、煩悩は、鉄から出た錆(さび)にもたとえられます。錆は、確かに鉄から生まれ、鉄そのものを滅ぼします。
同じように、煩悩は、みなさんの生きるエネルギーのなかから生まれてきたものでありますが、そのエネルギーを生んでいるところの、あなたがた自身をも滅ぼす性質を持っています。
この煩悩の炎を鎮めること、吹き消すこと、そこに現れたる平安の境地、平和の心、これが涅槃の境地です。
その涅槃の境地に入ることを「解脱」といいます。
【大川隆法『大川隆法 東京ドーム講演集』第10章「未来への選択」より抜粋】
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さて、ここからは、私たち仏弟子の生命ともいえる、「仏説・正心法語」について共に考える機会を得たいと考えています。本日は、『仏説・正心法語』第六の経文である『無限の言葉「仏説・伝道経」』についてです。
『無限の言葉「仏説・伝道経」』は、仏陀の伝道宣言にあたる経文です。私たちが日々、主の教えを学び、主への信仰を深めているのは、伝道のためであるといっても過言ではありません。この経文を毎日読誦することで、私たちの使命が伝道であることを確認することができます。主の願いは、主の言葉、教えが日本中に、そして世界中に広がることです。
それでは、この経文の主の解説を主の経典『仏陀の証明』から以下ご紹介いたします。
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●カーシャパ三兄弟に対する伝道
(前回の続き)
そして仏陀自身も、このあと、ベナレスから、ガンジス河の南に渡って、マガダ国のウルヴィルヴァー(ウルヴェーラ)のセーナー村に向かいました。
その途中で、『悟りの挑戦(下)』(幸福の科学出版刊)第五章「無我中道」で述べたとおり、三十人の青年とその妻たちが戯れているところに出会い、そこでまた次第説法(『仏説・正心法語』第四の経文)をして彼らを出家させてしまったのです。
そのあと、ウルヴィルヴァーのセーナー村に到着します。そこに、ウルヴィルヴァー・カーシャパという、当時のマガダ国では非常に有名な、当代一番の宗教家がいました。カーシャパは五百人もの出家弟子を持っていて、年齢は「百二十歳に達していた」と仏伝ではいわれています。
仏陀は、その事火外道、火祭りをするカーシャパのところへ行きます。そして、洞窟に泊めてもらい、そこで火龍を調伏して神通力を見せるなど、さまざまな神通力合戦をして、このウルヴィルヴァー・カーシャパを折伏したのです。仏陀は、神通力をどんどん出して神通力合戦をしたあと、最後には法論をして、「あなたはまだ阿羅漢になっていない」と言い切ります。すると、百二十歳の高名なカーシャパが「まいりました」と、まだ当時三十五、六ぐらいの歳だった新進宗教家のゴーダマ(釈尊)に帰依したのです。
カーシャパたちは、ほら貝の形に髪を結っていたのですが、カーシャパは、ほら貝の形に結っていた自分の髪を切り、頭をそって仏陀教団に出家してしまったのです。
その時に、仏陀は、カーシャパの弟子たちを強制的に自分の弟子にしようとしたわけではなく、「あなたを信じてついてきている人が五百人もいるのだから、彼らをまず自由にしなさい。彼らの意思に任せなさい」とカーシャパに言っています。ところが、カーシャパが出家してしまったので、その弟子たちも、「ずっとあなたについてきたので、あなたが出家するのなら、私たちもついていきます」と、五百人がみんな頭を剃って出家したのです。
そして彼らは、ほら貝結びをした髪の毛や、匙やお椀といったいろいろな火祭りの道具をどんどん河に投げ捨てました。河の中流には、ウルヴィルヴァー・カーシャパの弟で、ナーディ・カーシャパという人が、三百人の弟子を率いて、やはり事火外道をやっていたのですが、上流から祭具や髪の毛がどんどん流れてくるので、「これは、兄に何か一大事があったに違いない」と、駆けつけるのです。
そして、「どうしたんですか、お兄さん。このほうが優れているのですか」と弟が聞くと、「この方が、あの有名な仏陀なのだよ。悟った方が出たので、私は弟子になったのだ。このほうが優れているのだ」と兄は答えました。すると弟も、「そうですか、この方は仏陀なのですか。お兄さんがそう思うなら、このほうが優れているのでしょう」と、割にすぐ悟ったわけです。そして、その弟子たちも、「では私たちも」といって、神を剃って出家してしまったのです。
さらに下流には、その末弟のガーヤー・カーシャパという人が、これもまた二百人の弟子を抱えて修行していたのですが、兄が二人とも仏陀の弟子になってしまったので、自分も拝火教まがいの宗教をやめてしまい仏陀の弟子になります。これで合計千人がマガダ国で仏陀に帰依してしまったのです。
当時、これはマガダ国中が震撼したような非常に大きな事件でした。マガダ国で一番の宗教家である三兄弟が、丸ごと折伏され、帰依してしまったのです。仏陀の持っていた弟子はたかだか六十人です。彼らは各地に散っていて何十人かに説法していますけれども、ほとんど弟子を持たない仏陀が、単身乗り込んできて、千人を折伏してしまったのです。これは大事件でした。
当会でいえば、一九九一年の東京ドームでの「御生誕祭」や、一九九四年の映画『ノストラダムスの戦慄の啓示』の公開などのように、非常に世の耳目を引くようなことだったのです。「新進の宗教家が、大教団を一気に折伏してしまった」と、人々はびっくりしたのです。
このあと、サンジャヤの弟子であったシャーリプトラ(サーリプッタ)とマウドガリヤーヤナ(モッガラーナ)という、のちの二大弟子が仏陀に帰依し、弟子二百五十人を連れてきます。
こうして、総計千二百五十人が帰依したのです。仏伝によく出てくる「弟子千二百五十人とともに、〇〇の園にいた」という表現の「千二百五十人」の意味は、カーシャパ兄弟の弟子千人と、シャーリプトラ、マウドガリヤーヤナが連れてきた二百五十人のことなのです。
こうしたことが起きたわけです。伝道宣言をなして、しばらくしたら、そうした大きな他教団まで折伏してしまっているのです。
【大川隆法『仏陀の証明』幸福の科学出版 より抜粋】
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つづいて本日の引用箇所で紹介されていたお釈迦様の伝道のエピソードを、参考に以下紹介いたします。
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■『悟りの挑戦(下)』第五章「無我中道」
昔、インドで、青年三十人ほどが、それぞれの妻を連れてピクニックに出かけ、林のなかでお酒を飲んだり、歌を歌ったりして戯れていました。その青年の中の一人はまだ歳も若く、奥さんがいなかったので、彼だけは遊女を連れてピクニックに来ていました。
ところが、みんなが遊び興じているうちに、その遊女が他の人の財布など、いろいろな高価なものを持って逃げてしまったのです。
そこで青年たちは、「許せない」といきり立って、何とかしてその遊女をつかまえようと、林のなかを走って追い求めていましたが、あるころで禅定をしている一人の沙門に出会いました。「沙門」とは、生まれつきの僧侶階級であるバラモンではなく、クシャトリヤなどの武士階級から出家した自由修行者のことをいいます。
青年たちは、この沙門に「尊師は一人の女を見ませんでしたか」と尋ねました。その沙門は禅定を解いて、目を開けてゆっくりと振り返ると、「若者たちよ。きみたちは婦女を探してどうしようというのですか」と訊き返しました。彼らは、「遊女が友人の財物を取って逃げたのです。私たちは、友人として友を助け、その女を探しし出すために、この林のなかを徘徊しているのです」と答えました。
そこでその沙門は、「あなたがたは、婦女を尋ね求めることと、自己を尋ね求めることと、いったい、どちらのほうが勝れていることだと思うか」という質問をしたわけです。
すると、彼はしばらく口をつぐんだ後で、「我々は、自己を尋ね求めることのほうが勝れていることだと思います」と答えたのです。「ならば、若者たちよ、お座りなさい。きみたちのために法を説きましょう」と、その沙門は諄々と真理の話をしていったわけです。
青年たちは、ピクニック気分もすっかりどこかに吹き飛んでしまい、ついに頭を剃って出家しその沙門に弟子入りをしてしまいます。このような事件がありました。
この沙門は、ゴーダマ・ブッダ、つまり釈迦だったのです。釈迦は、この青年たちに「婦女を尋ね求めることと、『自己』を尋ね求めることと、いったいどちらが勝れているのか。どちらがあなたがたにとって大切なことなのか」と、はっきりと問いを発しています。つまり、釈迦自身の言葉として、『自己』を求めることの大切さが語られているということです。
【大川隆法『悟りの挑戦(下)』(幸福の科学出版刊)第五章「無我中道」より抜粋】
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お釈迦様におかれましては、教団設立初期に、山林での青年に対する伝道において、この世的なものを追い求めるのではなく、心のなかにある真なる自己を探究することの大切さを説いておられます。これは、幸福の科学における『正しき心の探究』と一脈通じる頃があるのではないかと思いました。
また、カーシャパ三兄弟やシャーリプトラ、マウドガリヤーヤナに対する伝道では、当時外道といわれる間違えた教えを説く指導者に対して、その教えの間違いを指摘し、折伏して、仏陀への帰依と正法への帰依とサンガへの帰依の三宝帰依による伝道を成し遂げています。
このように『無限の言葉「仏説・伝道経」』を考えるうえで、釈尊在世時のたくさんのエピソードが下敷きにされていることを知るだけでも、経文の理解が進むのではないかと思います。それだけ、深い内容の経文であることは間違いないようです。
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ここで、宗教の原点に立ち返るべく、教典『宗教の挑戦』を学びます。経典お持ちでない方は、ぜひお求めください。【1300円税込み】
―私が目指しているものは、民族的なるものではなくて、普遍的なものである。軽佻浮薄(けいちょうふはく)なるものではなくて、根源的なるものである。宗教のほんとうの敵は、マスコミや政治であるべきではない。宗教の敵は宗教であるべきだ。私が言いたいのは、ほんとうの宗教批判は宗教の内部からなされるべきであるということだ。聖か邪か、神か悪魔か、宗教自体がこの問いに答えてゆかねばなるまい。―『まえがき』より
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■『宗教の挑戦』
第4章「霊界案内」
〇霊界の世界観
霊界についての話を、さらに詳しく続けてゆくことにしましょう。
霊界というところは、本当に、実に実に広大無辺な世界です。これを一望にして見渡すことはほとんど不可能です。
あえて表現しますと、この三次元の現象界、みなさんが生きているこの世の世界というのは、ちょうど、妊娠しているお母さんのお腹のなか、すなわち羊水のなかのような世界に感じられます。そのなかで赤ん坊が動きまわっているわけです。この現象界は、こうしたまん丸い羊水のなかのように見えます。
そして、そのまわりに母体とも言うべきいろいろな霊界構造があって、どうやらその外側にもまだ世界があるらしいといった感覚に見えるのです。
ですから、この世的に見ると、宇宙は広大無辺で果てがないようにも見えますが、霊界から見ると、ちょうど母親のお腹、子宮のなかのように、まん丸い羊水のなかのように感じます。これはちょうど金魚鉢のように、宇宙がそっくり透明な膜の中に入っているような感じにも見えます。
この霊界のなかの特徴で、あの世に来ているいちばん最初に気がつくことは、上と下の感覚の違いです。
自由に空が飛べますから、高く上がることも低く降りてゆくことも可能なのですが、下へいくほど光が弱くなってきて、上の世界に行くほど光が強くなってきます。まことに不思議な感じです。世界がだんだん明るくなってくるのです。
この世からあの世に還って、この世を見ると、生きている人間が感じるこの地上の明るさとはちょっと違っていて、この地上をもう少し灰色にした感じに似ているのです。緯度の高い北欧などに行くと、冬には昼であっても薄ぼんやりとした感じがします。そのように、ちょっと日照時間が少なくて、うっすらと影のある世界のように見えるのです。ですから、「あれっ」という不思議な違和感を感じます。
そして、地上界には数多くの人が生きていますが、これにいろいろな霊人たちが憑依したり、ささやいたりといったぐあいに活躍しています。ですから、霊界からこの世を見ると、銀座や新宿などには、人間と同じ数ぐらいの霊人が動きまわっている感じに見えます。このように、いろいろな思いを持って生きている人が一緒に活動しています。
あるいは本人の守護霊がそばについていて、いろいろなアドバイスをしていることもあります。守護霊というと、非常に高尚なことを教えているようにも感じられるかもしれません。しかし、平凡な人にはやはり平凡な守護霊がついています。銀座のデパートで買い物をするときに、「あのミンクの毛皮のコートのほうがよい」とか、「あのセーターのほうがよい」とかいうように、美的センスや本人の趣味に関することをアドバイスしている守護霊さえいます。ですから、世の中にはやはり人それぞれの守護霊がいる、と感じられるわけです。
このように、この世と言っても、完全にこの世かぎりの存在ではなくて、あの世と同居した意味でのこの世であるわけです。
霊界には、大きく分ければ天国と地獄があると言われますが、地獄界というところは、霊界に見ますと、この地上界の下の世界、地下に当たるところにあります。そして、地表の下、地球の中心部に向かって広がっているように見えます。
生きていたときに、穢(けが)れた念いで生きていた人、悪をなした人、不純な行為をなしてきたような人が、霊体になってあの世に還ってきますと、その霊体の透明度が非常に低いのです。ちょうど煤(すす)か何かがついたような感じがします。あるいは、錆びた鎧(よろい)のような感じで重いのです。そして、非常に重くて下に沈んでゆくようなかたち、引力に引かれるようなかたちで、自然に地下の世界へと赴(おもむ)くわけです。
地下の世界にも、もちろんいろいろな方が住んでいます。しかし、結局は、この世においても醜く感じられた人たちが、夢の世界のようにもっと自由自在に強烈に変化していったときに、スペクタクルのような地獄界が展開してゆくわけです。
ただ、不思議なのですが、霊界でのものの見方、感じ方というのは、どうやら一通りではないのです。まったく同じ光景であっても、見る人が違えば、どうやら違うように見えるらしいのです。
同じ川の水を見ても、全然違うように見えるのです。たとえば、魚が見ればそれは住処(すみか)に見えます。普通の人であれば、それを普通の川としてみます。ところが、餓鬼地獄の亡者がその川の水をみますと、それが火の海に見えたり、あるいは血の膿(うみ)が流れているように見えたりするらしいのです。まったく同じものが、そのように違って見えるのです。
なぜ、そのように火の海に見えたり、血の膿(うみ)に見えたりするのでしょうか。結局、それを見ている人の心に色眼鏡が掛かっているから、あるいは心のレンズが曲がってしまっているから、そのように見えるのです。
同じ川であっても、魚はそれを見て住処と見、普通の人間は普通の川と見、地獄の亡者には、血の膿が流れているように見えるのです。また、同じ水を天国の人が見ると、とても透き通った水晶のような、きれいな輝きに見えるのです。おなじ水が水死用のように輝いて見える、あるいはダイヤモンドの塊のようにも見える―そのように美しく見えることがあるのです。
これは、仏教の唯識派の説く考えで、「一水四見(いっすいしけん)」と言います(たとえば、『万法甚深最頂仏心法要(上)』には、「譬(たと)えば一水に四見あるが如し、上界の天人は甘露と見、人間には浄水と見、魚は宮殿楼閣と見、餓鬼は火焔と見るなり」とある)。一つの水に四つの見方があるということです。この一水四見のような見方が本当に現実化してくるのが、あの世の世界なのです。
ですから、あの世に還ってどのようなものを見たとしても、心しなければいけないわけです。気をつけないと、自分の心のレンズに合わせた図、映像を見ていますから、本当にそうなのかどうかということを、もう一度、よく確かめてみる必要があると思います。
これがあの世におけるものの見方の原理の一つです。
【大川隆法『宗教の挑戦』第4章「霊界案内」より抜粋】
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■御生誕祭の宗教的意義について
〇御生誕祭は、主エル・カンターレ大川隆法総裁先生のご降臨への感謝と、報恩としての伝道の誓いを捧げる、幸福の科学における二大祭典の一つです。
主のご降誕に対し、心からの感謝を捧げ、主への信仰を深める日
――根本仏にして地球神エル・カンターレの御降臨は、慈悲であり奇跡そのものです――
〇御生誕祭は、主と魂の契りを結ぶ霊的な場です。そして、主への報恩として、弟子としての使命を果たす誓いを捧げる場でもあります。誓いを立てることで、信仰は本物となります。
〇主エル・カンターレ大川隆法総裁先生は、1956年7月7日朝7時頃にご生誕されました。「7」という数字は、天上界において、「勝利」と「完成」を意味します。ご生誕の「777」の数字には、悪魔を象徴する「666」にすべての面で凌駕する「勝利の宣言」が込められています。主は、この世の一切の悪なる勢力に勝利し、地球ユートピアを建設されるために、ご降臨されたのです。
〇主エル・カンターレのご本体の御降臨は、3億年前のアルファ様、1億5千万年前のエローヒム様に続き、地球の歴史上3度目に当たります。地球神であり、根本仏でもあられる主は、天上界では光そのものであり、本来、肉体を持たれてはならないご存在です。
・今世は、大川隆法総裁先生というお姿を通して、エル・カンターレのお姿をかいま見ることができる、歴史上ほんの一瞬の、稀な機会なのです。
〇本仏が下生される時代は、人類にとって危機の時代であり、同時に、新時代の幕開けとなる希望の時代です。主のご降臨そのものが、人類に対する最大のご慈悲なのです。
〇御生誕祭は、主がご降臨された奇跡の時代に、主と共に生まれ、主と共に救世活動ができることへの感謝を捧げ、エル・カンターレ信仰を深める大切な日なのです。
■御生誕祭の霊的意義に関連する聞慧■
〇勝利の宣言
私は、昭和三十一年の七月七日、朝、潮満つるころ、七時ごろに生まれました。その数字の示すとおり、「777」という数字がならびます。《中略》「7」という数字は、天上界において、これは勝利を意味する数字であるのです。これは、ひとつには、勝利を意味し、もうひとつには、完成を意味する数字であります。《中略》この「7」の数字の意味は、もうひとつ、別の説明が可能であります。「777」の下には、「666」という数字があります。《中略》ルシフェルをあらわす文字が、数字が、「666」なのであります。これが、彼らの暗号であります。「777」とは、この6に、すべての面において、凌駕するということを意味しているのであります。すなわち、この今生において、私が生まれてくるときに、勝利へ�
�
�宣言をこめて生まれてきたということであります。何に対しての勝利であるか。《中略》私たちは、神のつくられた、この地上において、いっさいの悪なる勢力を一掃しなくてはならないのであります。
【大川隆法『勝利の宣言』p.11~p.14より抜粋】
〇現成の仏陀の声
私はさらに言葉を継いであなた方に言おう。私は、多くの書物に書かれているように、仏陀の魂の、その生命体の生まれ変わりではあるが、あなた方の前に大川隆法として立っているこの存在は、通常、地上には生まれることのない存在であることを。あなた方は、真の意味において今、我が名で呼ばれているところのこの魂を見ることは、今後、地上においても、天上界においてもあり得ない。それを言っておこう。通常、「法身」という名で呼ばれているのが、私の本当の姿であって、もはや人間の姿をとって出ることはない。そう思って、「幸福の科学」という名を借りての地上における今回のこの真理の活動の意味を知ってほしい。
【大川隆法『悟りの極致とは何か』p.123~124より抜粋】
〇いまはエル・カンターレの姿を見られる稀な機会
「主は、どういう存在か」ということですが、本来、エル・カンターレという存在を、あなたがたに見せることはできません。いまは、「私の姿を通して、かろうじてエル・カンターレの姿を見ることができる」という、歴史上ごく稀な珍しい機会であり、普通は、想像することしかできないのです。というのも、私は、あの世に還ったら、顔や手足などはなくなり、光そのものになるからです。《中略》いま、あなたがたは、エル・カンターレの姿を垣間見ることができますが、歴史の流れから見ると、これは、ほんとうに一瞬の出来事です。《中略》その一瞬に、あなたがたは、永遠なるものの影を見て取り、心に深くとどめておかなければならないのです。
【大川隆法『君よ、涙の谷を渡れ』p.68~70)より抜粋】
〇一回目の名は「アルファ」、二回目の名は「エローヒム」
「エル・カンターレという魂は六人の分身を持っている」というような言い方をしていますが、実は、エル・カンターレの本体としての下生は、今回が三回目に当たります。一回目の下生は、もう今から三億年以上前のことになります。そのときは「アルファ」という名で呼ばれていました。《中略》二度目に生まれたのは、今から一億五千万年ほど前に当たります。このときに呼ばれた名前は「エローヒム」で、一般的には、これを簡略化し、「エル」という名で呼ばれています。《中略》「エローヒム」という名で呼ばれているのが二回目の下生のときです。
【大川隆法『エル・カンターレ信仰とは何か』p.25~26より抜粋】
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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〇「地の果てまでも伝道せよ。」
エル・カンターレとは、地球の光です。
エル・カンターレとは、天上界の光です。
エル・カンターレは、始まりであり、
エル・カンターレは、終りです。
エル・カンターレは、最後の審判です。
エル・カンターレは、最後の審判であり、
世界の人々にとっての新たな希望なのです。
どうか、エル・カンターレを信じてください。
どうか、この新しい信仰を持ってください。
どうか、この新しい信仰を地の果てまでも伝えてください。
それが、あなたがたの使命です。
それが、あなたがたの使命です。
忘れないでください。
それが、あなたがたの使命なのです。
エル・カンターレを信じてください。
エル・カンターレ信仰が、いま求められているのです。
どうか、エル・カンターレ信仰を中心に据えてください。
それが、あなたがたの使命です。
そして、エル・カンターレ信仰を、世界の人々に伝えてください。
地の果てまでも伝えてください。
人々に伝えてください。
それが、あなたがたの使命です。
それが、私の願いです。
それが、すべてです。
【大川隆法 英語説法『Focusing on El Cantare-Belief』の和訳を抜粋】
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〇「沈黙の仏陀」の教え
戒めを守り、禅定を行い、そして智慧を得る。
智慧を得ることによって
この世的な束縛、執着というものを断ち切る力を得ていく。
そして、解脱を味わう。
解脱を味わったところで、
また、この世が神仏の偉大なる慈悲の場であることを悟る。
そしてまた、現界において努力する。
そこに、多くの人びとを此岸から彼岸へと渡していくために、
渡し守(もり)としての菩薩の仕事が現われてくる。
一人でも多くの人びとを悟りの彼岸へ導いていこうとする、
渡していこうとする、
そのような肉身の菩薩の仕事がそこから始まってくる。
すべては、己れというものの執らわれを去り、
真実の自己というものを知り、
真実の自己というものを中心として、
この世のあり方を、もう一度まったく違った目で見、
そこに感謝とよろこびを感じて、
他の人びとをも、悟りの彼岸へと渡そうとする。
一切の衆生の苦しみを救おうとする。
そのような大いなる大悲の心が沸き起こってくる。
これが私がみなさんに勧めていきたい人生修行の道です。
【大川隆法『沈黙の仏陀』より抜粋】
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Focus on Lord El Cantare―時代は今、主エル・カンターレ―
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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文責:蒲原宏史
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