(4/21-2)111―20『永遠の仏陀』を読む―仏の本願―『釈迦の八正道』2【正見】正しい信仰に基づく見解(1)―『真説・八正道』イエス・キリストの最期に学ぶ『人生正しく見ることの難しさ』―『釈迦の本心』正定

『永遠の仏陀』を読む

25 夜な夜な悪事を働きに出撃していた男女が、山犬になって駆けているのを見た。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に「四弘誓願」を立て、『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、「正しき心の探究」と「地上仏国土ユートピアの実現」のために「四正道」と「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
われらの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
われらを真なる幸福へと導きたまえ。』
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さて、ここからは、「お釈迦様の八正道」を共に学んでまいります。復刻版で経典『真説・八正道』が再販されていますが、これは、主が現代の時代に合わせて再整理されたものです。その意味では八正道の現代応用ともいえる尊い経典なのですが、これを学ぶ前段階として仏教オリジナルの八正道を共に学んでまいりたいと考えています。
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〇正見―正しい信仰に基づく見解
八正道の一番目である「正見」は、正しく見るということです。正見については、以前、「スクリーンで映すように、自らの一日の生活を振り返ってみる」というような説明をしたこともあります。

しかし、一日の出来事を振り返るだけであっては、正しい見方としての価値判断が十分ではありません。それは「日記的」な作業であって、正見が反省法の中に入る以上、一日の出来事をどう見るかということには、当然、価値判断が入るべきです。そして、その価値判断は、一定の見解、正しい見解を伴うものでなければならないのです。

では、正しい見解とは、一体なんでしょうか。実は、仏法真理の初心者においては「正信」―正しい信仰というものが中心になってくるのです。初心者にとって、正見というものは正信なのです。そして上級者になってくると、正信は当たり前のことですから、「正見」―正しく見る方にウエイト(重点)が次第に移ってくるのです。

なぜ、正見には正信が必要なのでしょうか。正しい信仰とはどういうことなのかを考えてみてください。

幸福の科学には正しい信仰があります。これに基づいて、当会の会員の皆さんは、他の人を見たり、世の中のいろいろな出来事を見たり、いろいろな言論について見たりしています。幸福の科学の教え、正しい信仰というものがあって、それを通して、いろいろなものを見ています。

ところが、この信仰が間違っていたとしたら、どうでしょうか。たとえば、みなさんがオウム真理教に入っているとしましょう。オウム側の視点でもって、他人や自分を見、日本や世界で起きていることを見たら、いったいどう見えるでしょうか。それは、狂気の世界が見えているはずです。正しい信仰をもっていないと、色眼鏡がかかってしまいますから、すべてが狂って見えてくるのです。

正見に反するものを「邪見」といいます。そうした間違った信仰をもっていると、見る目が全部違ってきます。・・・

こうした「宗教的な邪見」もありますが、もう一つ、宗教的でない邪見もあります。「この世的なる邪見」とでもいうべきものです。これは主として唯物論的な考え方です。非常にこの世的な考え方をすると、これもすべてが正見の反対になります。

しかし、霊的世界は当然あります。あの世は実在するのです。人間の本質は霊であり、人間は過去・現在・未来を転生している存在なのです。ですから、そうした見解でもって、自分を見、他人を見、世界を見ている人と、その世限りの思いで見ている人、物質的にのみ見ている人とでは、見解が全然違うのは当たり前です。間違った宗教も邪見ですが、宗教と対置されるような見解、これも一種の邪見であることは間違いありません。こうしたものの見方をしている人と、正しい宗教を信じている人の見解は、全く逆になるのです。・・・

収入や知名度、学歴など、この世的なもので、すべてのものを見ると、それに反するものがおかしく見えます。しかし、それとは違うところに価値観を感じている人から見ると、そちらのほうがおかしく見えるわけです。

正見というのは、あくまでも、正しい宗教的信条に基づいたものの見方です。したがって、邪教でも駄目ですし、宗教的信条を持っていない人の見方も正反対になります。そうした人たちは基本的に正見ができないのです。

ですから、八正道の前提としては、正しい宗教的信条を持つことです。とくに、現代の日本であれば、まず幸福の科学的価値観を受け容れ、これを信じなければ、物事は正しく見えないということです。これが正見であるわけです。

もちろん、これとは正反対の地獄的な見方もあります。悪霊が入ったり、悪魔が憑いたりしていると、物の見方が見事に正反対になっていきます。

邪教の教えや唯物論でものごとを見ると、ものの見事に、まったく逆の考えをしていきます。

【大川隆法『仏陀の証明』より抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、教典『真説・八正道』より反省の本質を学びます。妖怪性からの脱却をはかり、「反省からの発展」さらに「中道からの発展」を目指しましょう。
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■『真説・八正道』第2章「正見」
8 優しさと厳しさをブレンドして人を見る
〇イエス・キリストの最期に学ぶ『人生正しく見ることの難しさ』

この自己の責任の生じる、「正しく見たかどうかの最期の結論」を出すときには、勇気が要ります。どのような人であっても勇気が要ると思います。

イエス・キリストといわれる方であっても、そうです。ゴルゴタの丘で最後に十字架につながれ、磔(はりつけ)になったとき、彼は、周りの罪人たちにも祝福を贈りました。また、自分に対して害を与える人に対しても、「彼らは何も知らないのです。神よ、彼らの罪を許したまえ」と言っています。このイエスの見方について、「百パーセントか、九十九・九パーセントか、九十九パーセントか、いったいどれだけの正しい見方を彼は最後にしたか」と問うたときに、これはなかなか難しいところがあるのです。

というのは、置かれた状況を状況として判定する場合、彼の見方はおそらく最高限度に近いものであったでしょう。彼の教えのなかには、「右の頬を打たれたら左の頬も差し出せ」「上着を取られたら下着も与えよ」「百里行こうと言われたら千里行け」というような教えがあります。その教えの実践の結果がどうなったか。それが、あの最後の結末になっているわけです。

「暴力を与えんとする者には与えさせよ」ということを言っているわけですが、その結果があの最期になったわけです。十字架での最期は、他の罪人への祝福と、自分を迫害するものへの愛において終わったけれども、最後におけるその見方はよいが、それに至る途中において、「そうした行為を許した」という点で、彼自身、はたして正しく見ていたかと問うたときに、「イエス」とは言いかねるのです。

そこにいたるまでの間の見方、分析、考え方、思いを正当に評価しうるかといえば、必ずしもそうとは言えないところがあります。そこまで来るには来るだけの理由があり、過程があったはずです。要するに、「その過程において、『人をどう見るか』ということについて、もう少し上手な、あるいはレベルの高い見方ができたのではないか」ということです。

〇ユダの問題は、イエスの優しさゆえに招いた悲劇とも言える
ここで、私たちは、ユダの問題を考えなければならないと思います。「イエスはユダをどう見たのか」という問題です。これは、『大川隆法霊言全集 第五巻 イエス・キリストの霊言』(宗教法人幸福の科学刊)のなかにも書かれている内容ですが、「ユダをどう見たか」「ユダの動きをどう見たか」「ユダの結末をどう見たか」ということです。

ひとことで言えば、「なぜあそこまでやらせたか」ということです。真に正しく見たのであるならば、なぜあそこまでやらせたか。あそこまでやらせる前に、なぜ一喝を与えなかったか、なぜもっと智慧を持って見てやらなかったか。なぜ智慧を持った愛をもっと与えてやらなかったか。これは考えなければならないところです。

イエスは、ユダの傾向性を見ていたでしょう。ユダの傾向性から、「結果としてこうなるであろう」ということは見えていたでしょう。しかしながら、自分のかつて愛した弟子であるがゆえに、自分の伝道の初期の頃に愛した弟子であるがゆえに、厳しさを出すことができなかったのでしょう。

イエスは、ユダについて、「現在、魂的にはよくなくなってきている。また、霊道も開きかかって、悪霊もよく入り始めている」ということは十分に知っていました。そして、他の者からも不満は出ていました。「先生、あのユダをどうにかしてください」と、他の弟子たちは言っていたのです。現実に言っていたのですが、しかし、「ユダは自分の最期の頃の弟子であって、最初のころにいろいろとずいぶん骨を折ってくれた。その愛を思うときに厳しくはできない」という遠慮があったのです。

そして、結果があのようになりました。運命と言えば、それまでです。しかし、運命ではないと言えば、それもそのとおりです。まだ選択の余地はあったのです。

これは、あのような大指導霊であっても、「正しく見る」というところにおいて、究極までは行かない部分がまだあるということなのです。イエスの魂は、過去幾転生する過程において、何ゆえに何度も悲劇の死を遂げたか。これは、「そうした運命を担っていた。役割だ」と思えば、それまでです。

彼の魂は、過去幾転生のなかで、何度もあのような最期を遂げています。アガシャーのときもそうでした。それ以外のときにも、同じようなことがずいぶんありました。アガシャーのときは、最期は処刑されて生き埋めにされるところまで行っています。そこまでさせているのです。させているのであって、されたのではないのです。その愛の見方ゆえに、させたのです。愛ゆえに、多くの人々への愛のためには、自分の命を捨てるということが最大の愛だと思うがゆえにです。

それは、一つの方法論でしょう。しかし、その甘さゆえに、優しさゆえに、あるいは増長させたがゆえに、あのような悲劇は起きているのです。

〇釈尊は、「人を見る」ことにおいて、イエスと違いがある
これと対照的なのが釈尊です。過去幾転生を見ても殺されたことはほとんどありません。

それはなぜか。
この「見る」というところにおいて、イエスと釈尊には違いがあるのです。究極的に人を生かすというところにおいて、どれだけ優しさと厳しさをブレンドできるか。ここに、本当はいちばん難しいところがあるのです。コーヒーのブレンドではありませんが、人を見る際には、優しさと厳しさのブレンドの仕方がいちばん難しいのです。そして、それによって”香り”が出てくるのです。

【大川隆法『真説・八正道』第2章「正見」76p】
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今日の一日を振り返りつつ、1991年7月に説かれました『永遠の仏陀』を振り返ります。
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■『永遠の仏陀』
第3章 不滅の力 
〇仏の本願

仏が地上に降りているあいだに、
その仏の教えをくまなく伝えうること、
それが僧の使命である。
諸々の比丘、比丘尼たちよ。
おまえたちの使命は、
これ以外にはないのだ。
そして、その、法を伝えるという仕事をしているなかにこそ、
おまえたちの真実の悟りは、また、高まってゆくのだ。
わが弟子であるならば、
おまえたちの目指すところは菩薩である。
菩薩となるということである。
菩薩の仕事で一番大切なことは、
法を布施するということなのだ。
これは、与える愛のなかで最大のものであるのだ。

おまえたちは菩薩を願う者たちであり、
いや、本来、菩薩であるならば、
本願を成就せよ。
仏の念いを成就せよ。
仏の願いを成就せよ。
仏の願いとは、一つだ。
一切の衆生を救いたいと念(おも)う心であり、
【参考※「衆生無辺誓願度」・四弘誓願】
縁ありて集いたる一切の衆生に、
仏法真理を学びつくしてほしいという願いなのだ。
【参考※「法門無量誓願学」・四弘誓願】
この宝の山を、ごちそうの山を、
一人ひとりに届けたいということなのだ。
これが仏の本願である。
この本願を遂行することが、
弟子としての最高の使命である。
【参考※「仏道無上誓願成」・四弘誓願】
これ以外に、弟子としてなすべきことも、さまざまにあろう。
それを別願という。
別願として、たとえば、
政治家になるとか、
よき医者になるとか、
あるいは学者になるとか。
あるいは芸術家になるとか、
そのような己の使命を果たして、
人類に貢献せんとする思いもある。
しかし、これはあくまでも別願である。

本願はただ一つ。
この、仏の説く教えを弘めることだ。
そして、仏法真理の縁ができた人々に、
この教えを学びつくしてもらうことなのだ。
さすれば、彼らは、この地上界を縁として、
仏国土をつくり出すことができるであろう。
そう、仏の願いもまたここにある。

かつて、この地上は、光に満ちた地であった。
そして、この地上を去った世界も、
光に満ちた、調和ある世界であった。
しかし、この地上での魂修行をくり返すうちに、
しだいに本来の魂の在り方を忘れ、
地上のなかで、「己かわいし」とする心が、
他の者を虐(しいた)げ、己の栄華を求める心となり、
そして、この地上界特有の欲望というものを生み出していった。
そのような欲望が生まれた時、人間の堕落が始まった。
ある者は、欲望のままに、
己を拡大し、己の力を広め、
そして、他の多くの人々を不幸に陥れた。
ある者は、その欲望がかなわぬがゆえに、
己の不幸の思いをまき散らし、
そして、暗い淵に沈んでいった。
このようにして、
欲望を限りなく追い求める者と、
欲望が成就できずして、
苦しみのうちに地上生命を終えたる者とが、
この地上界を縁として、地獄世界を創ったのだ。

さすれば、彼らは、その始めに戻り、
この地上世界を縁として、仏国土建設をなさねばならぬ。
地獄を創ったものが人間であるならば、
人間は、みずからの思いと行いを通して、
その地獄を解消する必要があるのだ。
これは尊い義務であるのだ。
【参考※「煩悩無尽誓願断」・四弘誓願】

【大川隆法『永遠の仏陀』第3章「不滅の力」より抜粋】
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続いて、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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■『釈迦の本心』
第2章 八正道の発見
10 正定

最後に、「正しく定に入る」ということを簡単に説明しておきましょう。

結局、これは宗教の根本にかかわるものなのです。すなわち、「どのようにして精神を統一するか。いかにして、異次元世界にある高級諸霊や、その奥にある仏の心を感じ取るか。いかにして、仏の心と自分の心とを同通させるか」ということに関係しているのです。

「正定」の部分を通過させなくては、ほんとうの意味で「精神的に目覚めた」とは言えません。また、ほんとうの意味で、「世界を実感した」とも言いかねるのです。

人間は、自分の過去世や未来世を知ることはなかなかできません。しかし、正しく定に入ることによって、高級霊たちの感応を得て、自らの心の偉大さに気づいたときには、一つの大いなる体験をするようになります。

結局、正定の最終目的は、真実の智慧の獲得と、智慧の力による、この世的束縛からの解脱にあります。

正定のもう一つの目的は、自己の内部を掘り下げていくことです。自己をどこまでも深く掘り下げていくことによって、内なる守護・指導霊たちと交流できるような境地に達するのです。

知識というものは、霊的な裏打ち、仏法真理の裏打ちがなければ、ほんとうのものとは言えません。それゆえ、さまざまなことを霊的に学んできた人であっても、正定をともなわなければ、人格が完成することはありません。また、霊的に偉大な人物となることもありえないのです。

一方、必ずしも宗教に没頭した人でなくても、偉人と言われる人は、みずからの心を見つめるための時間を、どこかでとっていたことが多いのです。ある人は散歩、ある人は思索というように、なんらかのかたちで正定に入っています。それは、大宇宙に遍満するエネルギーと交流していたということなのです。

正定に至って初めて、人間の可能性は無限となるのです。生きている人間の知力には限界がありますが、正定に至るとその限界は突破され、全宇宙の叡智を自分のものとすることができるようになっていきます。

それゆえ、正定に基づく反省の観点は、結局、「宇宙的自己、宇宙の一員としての自己、仏の創られた世界の一部としての自己を、どれほど確認しえたか」というものとなるのです。正定まで至って初めて、みなさんの修行も完成に至ると言えます。

「正見」「正思」「正語」「正業」「正命」「正精進」「正念」「正定」のすべてが完成されたときには、少なくとも阿羅漢の境地に達することができます。そして、次なる高度の段階において、菩薩へと進化していくことが可能となるのです。

そうした修行方法として、また、希望の原理、進化の原則として、八正道があるということを知っていただきたいと思います。

【大川隆法『釈迦の本心』第2章「八正道の発見」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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■伊勢支部精舎の理念■
100 パーセントエル・カンターレ信仰
―天御祖神と共に―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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・「信仰心と国を愛する心」という問題について言えば、やはり国民の信仰心がなくなったら、その国は衰退に入っていくし、いずれ滅びると私は思います。
・みなさんには、どうか強い信仰の思いを全国に発信していただきたいと思います。
 ―「信仰心と国を愛する心について」 ―2013 年4月21 日 伊勢支部精舎御巡錫―
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■伊勢支部の行動指針■

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