(2/1-2)32『永遠の仏陀』を読む―永遠の仏陀―仏は法なり、仏は教えなり―生と死の意味

『永遠の仏陀』を読む

31 「善人」のフリをしている妖怪は、その人が見ていないところで、「へッ」と舌を出している。

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

65 万引きを常習としていた人が死んだ、あの世では、手術台に乗せられて、臓器移植のドナーとして、いろんな臓器を取り出された。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に「四弘誓願」を立て、『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、「正しき心の探究」と「地上仏国土ユートピアの実現」のために「四正道」と「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
われらの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
われらを真なる幸福へと導きたまえ。』
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はじめに、今日の一日を振り返りつつ、天御祖神が始まりとされる武士道について、経典『現代の武士道』から学びます。
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第1章 武士道の根本―武士道の源流―
2 『古事記』『日本書紀』に見る武士道精神
〇天照大神の時代にも武士の考え方はあった

倭媛(やまとひめ)から日本武尊(やまとたけるのみこと)に「草薙剣・くさなぎのつるぎ」が渡ったことを述べましたが、その「草薙剣」もまた、須佐之男命(すさのおのみこと)が奇稲田姫(しくなだひめ)を救うために、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したときに出てきた刀であるわけで、そのころから剣はあったのです。

当時の出雲は製鉄技術が進んでいたらしいので、刀剣をつくるのが盛んであったことも、背景にはあったのではないかと思います。出雲でつくった刀というのは、おそらく、すごい強い鋼鉄の刀だったのだろうと思います。

そのような神話もありますが、この須佐之男命あたりも、ある意味では、「武人」であったことは確実でしょう。あまりに荒々しいので、高天原から追放されたということになっているわけですが、天照大神に乱暴狼藉を働いたというようなこともあって追い出され、追放されて出雲に入ったという話になっています。「朝鮮半島まで行った」という話まで残ってはいますが、武人であったことは間違いないでしょう。

ですから、天照大神と同時代のころに、すでに武士のような考え方はあったのではないかと思います。

農工を中心と資する生活の中に、そうした工業的な刀をつくるような技術なども入ってきて、産業革命が起きつつあった時期なのではないでしょうか。青銅器、それから鉄器が使われようになり、農業の生産性なども上がってきた時期だったのではないかと思います。

天照大神は、『古事記』では女神になり、『日本書紀』では男神になってはいるのですが、成立に八年しか差がないのに日本の二つの国史が違うので、不思議なところはあります。

ただ、少なくとも天岩戸隠(あまのいわとがく)れをしている話あたりを見るかぎりは、そのときの天照大神が女性であったのは、ほぼ確実であると私は思います。

天照大神は、あるとき、自分の心に受け入れられないことがあり、岩戸に隠れて出てこなくなりました。

そこで、外で祭りをやり、天宇受売命(あめのうずめのみこと)が踊りを踊ったりしたのです。その様子を、天照大神が隙間を開けてみようしたときに、天手力男命(あめのたじからのおのみこと)という、千代の富士の前世ではないかともいわれている人が、ものすごい力で岩戸を開け、それで天照大神は出てきたわけです。

なお、このとき、岩戸の外には鏡を用意していたので、天照大神が岩戸の隙間から外をのぞいてみたところ、鏡にはものすごく美しい神様が映ったといいます。天照大神は、「いったい誰だろう?私が隠れているうちに、美人の姫君が来て、踊りを踊っている。それでみんなが騒いでいるのかな」と思ったというようにも言われているので、天照大神はおそらく美人だったのでしょう。

高千穂の神社に飾られている銅像の天照大神は普通の顔をしていますが、実物は、自分が「こんなに美しい神様がいるのか」と思うぐらいなので、美人だったのだと思います。

やはり、天照大神は女神であると思います。魂の転生を知っていてね「男に生まれる場合もあれば、女に生まれる場合もある」ということを知っていたのだろうと思いますが、このときは、女性であったことは確実でしょう。

それから、時代を下ると、「神武東征」があり、この神武も「武人」であったことは確実で、戦でもって天下平定をしています。

【大川隆法 『現代の武士道』第1章「武士道の根本―武士道の源流―」より抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、教典『真説・八正道』より反省の本質を学びます。妖怪性からの脱却をはかり、「反省からの発展」さらに「中道からの発展」を目指しましょう。
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6「正思」のための三つのチェックポイント

したがって、「正思」の探求においては、前節で挙げた三つの点について、その思いをチェックすればよいということになります。【※①素直さ ②自助努力 ③謙虚さ】

正しい思いというものを一覧表にして考えるのは非常に難しいことですが、真に神仏に近づいていくための心構えとして、「素直さ」「自助努力」「謙虚さ」というものが必要だとするならば、これに反する思いが「正思」を妨げているというように考えてもよいわけです。

①「素直さ」を妨げるもの―自我の殻
では、第一に挙げた「素直さ」を阻害しているものはいったい何でしょうか。素直に取り組もうとする姿勢、教えを受け、学び、向上していこうとする素直な気持ちを阻害するものは何であるか、ということについて考えてみる必要があります。

そこに出てくるものは、自分が過去何十年かの間につくってきた、”殻”です。「自我の殻」がこれを妨げるのです。それまでに自分が「よし」と思って生きていた、「これでいい」と思って生きてきた生き方のなかに、自分を枠に入れている”殻”が何か付いているのです。この”殻”の部分が、自分を素直になることを妨げているのです。

それゆえに、まず、「自分は自分固有の匂い、見方、生き方といったもので、なんらかの”殻”をつくってはいないかどうか」ということを点検しなければなりません。これも、反省においては非常に大事な点です。

過去の自分の生き方を見てみると、おそらく、普通の人と違った部分、特殊な部分があるでしょう。その特殊な部分については、プラス評価できる面とマイナス評価となる面の両方があるでしょう。いずれにせよ、そうした特殊な部分があったということ自体が、すなわち、自分のものの考え方、生き方において、何らかの”殻”をつくっていることは間違いないと思ってよいのです。

したがって、過去の自分を振り返るときに、最初に取りかかるとよいことは、それまでの三十年、四十年、五十年、六十年の人生のなかで、自分と他の人とを比べてみて、いちばん変わっていたところはどこであったかを点検することです。

いちばん変わっていたところはどこであったか、その生き方がどのように自分に方向付けをしているかを考えてみると、思い当たることは必ずあります。もし、その生き方がマイナスの生き方であって、それを自力によって克服してきたとしても、それなりのものを必ずつくっているはずです。

それには、いろいろなものがあると思います。

〇肉体的なハンディがある場合
例えば、肉体的なハンディというものがあるでしょう。普通の人とは違うような肉体的ハンディがあった人もいるでしょう。それを克服しようと努力してきたかもしれないし、克服に失敗したかもしれません。どちらかは分かりませんが、その格闘の過程において、何らかの”殻”をつくっているのは間違いないと思います。これも一つの例であります。

〇家庭環境が極端に裕福だったり、貧しかったりする場合
また、別なものとしては、家庭環境が良すぎるがゆえにできる”殻”もあるでしょう。あまりにも家柄がよすぎる、両親が立派過ぎる、あるいは家が裕福すぎといったことゆえにできている”殻”もあります。

その逆に、貧しすぎるがゆえの”殻”もあるでしょう。貧乏ということを味わいすぎたゆえに、心がそこから抜け出せないというような”殻”もあります。

〇肉親にかかわる不幸があった場合
さらには、幼少時における両親の不幸ということもあるかもしません。片方の親が亡くなったり両方とも亡くなったり、あるいは離婚したり再婚したり、いろいろなことで不幸があったかもしれませんが、こうした特異な事件は、必ずその人の心に何かを投げかけています。

〇才能や勉学、学歴等に偏りがある場合
それから、才能の面でも同じことが言えます。

ある面において非常に突出した才能を持っている場合、そこにはおそらく光と影の両面が出ているでしょう。

例えば、学校の勉強ができるというところだけが突出した人にも、もちろん、プラスとマイナスの両方があるはずです。プラスの面としては、それを生かしていろいろな知識職業、知的職業をこなしていけるところがあるでしょうが、その一方では、人間関係において、いろいろなデコボコや、ギクシャクをつくってきていることがあります。ともすれば、暗く引っ込み思案の性格になったり、他の人々のことを本当にはよく思わないような性格をつくったり、人間嫌いの性格をつくったりしていることもあります。

反対に、学歴不足に悩んでいる人もいるでしょう。そのなかには、劣等感だけで生きている人もいれば、「劣等感の克服のために、これだけやってきたんだ」と頑張っている人もいるでしょうが、いずれにせよ、少なくとも何らかの”殻”はつくっているわけです。

したがって、真実の自己と出会うためには、まず、そういった”殻”の部分を見破らなければなりません。

〇自分の「特殊事情」を言い訳にしない
そして、素直な心になるためには、この”殻”の部分を取らなければならないです。さまざまな過去のいきさつ、自分の特殊事情というものを取り去らなければ、本当に真実の心で神仏と対面することはできません。「私は、こういう特殊事情があったために、こうなったのです」という言い訳をしているうちは、いつまでも、決して心を素直にすることはできないのです。決して心を開くことはできないのです。自分になりの特殊事情、言い訳というものを、まず取らなければなりません。これを取らないかぎり、絶対に「正しい思い」などできないのです。

ですから、まずは、誰にも必ずある”殻”を取ることです。プラスもマイナスも含めて、この”殻”の部分が自分に与えていた影響を取り去り、素直な、純粋な人間としての自分を、もう一度考えてみる必要があるのです。素直な、純粋な人間としての自分を、もう一度考えてみる必要があるのです。ここを経なければ、真実の自分というものは決して分かりません。

【大川隆法『真説・八正道』第3章「正思」111pより抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、1991年7月に説かれました『永遠の仏陀』を振り返ります。
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第五章 永遠の仏陀 
〇仏は法なり、仏は教えなり

くり返し、おまえたちに告げる。
このわが教えは、
単に、おまえたちの心を救うがためにのみ、
説かれているのではない。
この教えを本として、全宇宙は統べられているのだ。
この教えを実現すべく、
人類の過去・現在・未来があり、
人類なき過去にも、
この教えは厳然としてあり、
人類なき未来にも、
また、あるであろうということを。
私は明言しておく。
このわが説く法は、
人間の出現に先立ち、
人間の消滅におくれて、
なおもあるものである。

教えとは、姿を変えたる仏そのものであるということを、
おまえたちは知らなくてはならない。
わが教えを読むは、仏を見ると同じなのである。
仏を知らんと欲せば、わが教えを見よ。
その教えこそが、姿形なき仏の実体なのである。

おまえたちは、空を見上げて、仏を見んとするか。
おまえたちは、目を閉じて、仏を見んとするか。
おまえたちは、想像のなかで、仏を見んとするか。
それとも、
おまえたちは、霊的なる目を開いて、仏の姿を見んとするか。
いずれの試みも、虚しく終わるであろう。
そう、真実の仏とは、姿形なきものである。
真実の仏とは、
この地上を超えた実在世界にある高級霊の姿をとった、
その霊的実在でもない。
その霊的実在を超えたものが、真実の仏であり、
真実の仏の姿は、教えに表れているのだ。
よくよく聴くがよい。
手で仏をさわらんとして、目で仏の姿を見んとし、
その体の大きさに合わせて仏を測ろうとする者たちよ。
仏とは、
おまえたちの五官によって捉えられるものではない。
おまえたちの想像するようなものではない。
仏とは、法であり、
仏とは、教えであるのだ。
わが説く、この法こそが、
わが説く、この教えこそが、
仏の実体の本質であるのだ。
わが教えを学ぶ時、
おまえたちは仏の姿を見たのである。
わが教えを聴く時、
おまえたちは仏の声を聴いたのである。
わが教えを理解する時、
おまえたちは仏の心を理解したのである。

くり返し、くり返し、言う。
仏とは、姿形なきもの。
仏とは、人間を超えたるもの。
しかして、霊を超えたるものでもある。
仏とは、人間的なる感覚を超越し、
この宇宙を統べるところの、
教えそのものとなっている存在なのだ。

おまえたちは、
その手にしているページの一枚、一枚に、
仏の姿を見ているのである。
仏とは、何であるかを知りたくば、
わが説く教えを、深く深く、理解せんとせよ。
そこに、
仏とは何であるかという、その問いに対する答えが、
明らかに現れてくるであろう。

【大川隆法『永遠の仏陀』第五章「永遠の仏陀」より抜粋】
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続いて、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第四章 空の思想
2 生と死の意味

次に、仏教における「生と死」の意味、死生観を考えてみましょう。

当時のインドは、戦乱が続き、隣国がいつ攻めてくるか分からない時代だったので、人びと自分の生命がどうなるかわからない状況にありした。釈迦が育った城であるカピラヴァストゥも、やがて滅び去りました。釈迦という九次元大霊が出ても、みずからが育った国や、そこに住む人びとを守りえなかったのです。そうした無常の世の中でした。

当時、「生」を保つというものは、戦に勝つことを意味していました。生きて行くためには他を犠牲にしなければならず、他を打ち倒してでも生きていく意欲のある者だけが生き残り、そうでないものは死んでいくしかありませんでした。無力であること、平和主義者であることは、すなわち「死」を意味したのです。

そうした世の中であったため、「生」への虚しさと、死後の世界へのあこがれが蔓延したとしても、不思議はないかもしれません。当時においては「生」はむしろ否定され、嫌われる傾向にあったと言えます。

実際、仏道を求める人びとのなかにも、地上で仏になろうと思うのではなく、来世における幸福を願う人が多かったことは事実です。「今世は苦しみの連続だったが、せめて来世では幸福な世界に還りたい」と願う風潮が強かったのです。

それゆえに、釈迦の思想のかなにも、来世への福音がかなり盛り込まれていました。「生」そのもののなかに、醜さや見苦しさ、悲しさがつきまとう時代には、来世への信仰を説く必要もあったのです。

これも一つの方便であることは事実です。当時の人びとに死後の世界へのあこがれを持たせることは、一時的な麻酔剤にすぎなかったかもしれませんが、地上の人々の心を、一時期、どうしようもない悩みや苦しみから遊離させるという点において、非常に役に立った面もあるのです。

【大川隆法『釈迦の本心』第四章「空の思想」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are The One, with our Lord.  我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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◆映画「ドラゴン・ハート」伝道植福について
5月23日(金)に全国の映画館にて公開されます映画「ドラゴン・ハート」は大川隆法総裁先生制作総指揮による28作目の映画となります。この映画の大成功に伊勢支部信者全員の信仰心を結集させていただきます。皆様の尊い布施をどうぞ、この映画伝道植福に託して、私たちに縁ある方々の心と魂を救うべく、この映画を主の御名と共に、全国・全世界で広宣流布してまいります。映画伝道植福への喜捨を何卒宜しくお願い致します。

大宇宙の すべての根源であり 地球の創造主であられる
主エル・カンターレ 大川隆法総裁先生

映画『ドラゴン・ハート❘霊界探訪記❘』を賜り
心より感謝申し上げます

本作は 未知なる世界に飛び込む勇気を与え
人類に真実への目覚めを与える映画です
全世界の人々に
霊的真実と主エル・カンターレの御存在を
弘めてまいります

仏弟子一同 力を合わせて 
一人でも多くの方を 主のもとへと誘(いざな)ってまいります

■映画『ドラゴン・ハート―霊界探訪記―』四つのポイント■

①「天国・地獄」の存在を知らしめ、全人類の魂を救済する映画です。
映画では、霊界探訪記として現代の地獄の有様を詳細に描いています。つまり、今死んで地獄に落ちるとしたらどんな世界なのかということがリアルに映像体験できる映画です。死後の世界を詳細に紹介することで、「あの世はない」「霊界なんてばかばかしい」と考える人の間違えた考えをカブト割りする映画です。この映画は、このままでは地獄に落ちてしまうたくさんの方々に救いの縁を届ける「魂の救済」映画です。正しい霊界観や信仰を持たない人にこそ届けたい映画です。

②地球の霊的中心地・シャンバラの危機を救う映画です。
今、地球の霊的中心であるシャンバラは、地上世界で、信仰心が薄れ、神仏や霊的世界を信じない人が非常に増えていること、巨大な唯物論科学国家である中国が、インドやネパール等への覇権を強めていることによって、非常な危機にあります。現に中国・洞庭湖のほとりにあるシャンバラの入り口は発見するのが相当難しくなっています。

シャンバラという地球の霊的センターが護られていることで、魂修行の場としての地上世界も安定いたします。もし、シャンバラが崩壊するようなことがあれば、地球を護る霊的結界が失われ、宇宙の邪神やダークマターの悪想念による更なる地球介入を招く事態となります。

本映画は、霊界思想を地球の霊的センターとしてのシャンバラの存在を全世界へと知らしめることによって、崩壊への危機にあるシャンバラを護るという「神の戦い」そのものを描いた映画です。

③全世界の人々が主なる神エル・カンターレと出会い、一つなる道を示す映画です。
この映画は、全世界の人々に造物主エル・カンターレのご存在を知らしめる映画であり、本年の幸福の科学の活動テーマである「日本全国・全世界にエル・カンターレ信仰を打ち立てよう。なお、一歩を進める」の中心となる作品です。

主人公たちの地獄巡りは、現代社会の諸相そのもの。しかし、そうしいた人類の、かつてない混乱、混迷の先には、大いなる規模、救い主の存在があることを示す映画であり、宗教の違いや、民族や国家の枠を超えて、全人類が、主なる神への共通認識の下、一つになる道を示される希望の映画です。

④仏弟子(まだ気づいていない仏弟子)たちがドラゴン・ハートに目覚め、霊的覚醒をうながす映画です。
この映画は、川で河童を追って溺れた主人公の二人が、霊界の天日鷲神に出合い、「霊界探訪で本来の自己に目覚めることができたなら地上に還してあげる」と告げられ、地獄巡りなどの一種の修行を経て、魂の親エル・カンターレと出会い、本来の自分の使命に目覚めるという、宗教的なメッセージが込められた映画です。

純粋な信仰心、そして、救世への本物の念いの確立が求められている今、私たち仏弟子や、まだ目覚めていない一般の方たちのの中にいる仏弟子予備軍に対して、霊的覚醒を促す導きの映画であり、私たちのドラゴン・ハートに導かれた旅は、映画公開までに、すでに始まっていると言えるのが本年の活動です。

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100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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TEL:0596-31-1777
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エル・カンターレ・大好き

文責:蒲原宏史 

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