(1/19-2)19『永遠の仏陀』を読む―伝道の本質―正念

『永遠の仏陀』を読む

18 妖怪のまわりには、お化け「提灯持ち」と、妖怪「ゴマスリ」が、多発する。

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

80 地獄界の責め苦でも反省しなかった者は、一段ずつ下の地獄に堕ちる。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に「四弘誓願」を立て、『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、「正しき心の探究」と「地上仏国土ユートピアの実現」のために「四正道」と「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
われらの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
われらを真なる幸福へと導きたまえ。』
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はじめに、今日の一日を振り返りつつ、天御祖神が始まりとされる武士道について、経典『現代の武士道』から学びます。
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第1章 武士道の根本―武士道の源流―
1 歴史上の偉人たちに見る「武士道精神」
〇武士道の歴史は長く、日本を超えている面もある

『現代の武士道』という題で本を出すべく、今朝、原稿(本書第2章、第3章)の校正をし、「まえがき・あとがき」を書いたのですが、どうも物足りない感じがしました。

「これだけで出して、本を買って読んだ方ががっかりされるといけない」「もう少し精神的な要素等を語るはずだと、みなさん思うのではないか」と思ったため、やや後付けになりますけれども、もう少し幅広い範囲で、「武士道」についての考えを述べてみたいと思います。

私は「武士の時代は千数百年以上も続いていた」としていますが、校正をした原稿には編集部が注を入れていて、「武士の時代は鎌倉時代から始まったもので、七百年ぐらいの歴史がある」とありました。これは、私の感じていることとはやや違うので、このあたりから言わなければいけないかと思っています。

そこで言われているのは、おそらく、「武士道の考えは、『剣の道』と『仏教の禅宗的な精神』と混ざったものであり、それが鎌倉時代からである」ということであろうかと思います。

確かに、「禅の精神が混ざり、武士が禅をやることと一体になって、武士道といわれるようになった」という捉え方もあるでしょう。新渡戸稲造の『武士道』の考え方は、そのような感じでしょうし、山本常朝の『葉隠』も、ややその感じに近いかと思います。

ただ、私は、「武士道の歴史はもう少し長いし、本当は日本を越えている面もある。日本以外のところまで広がっているのではないか」と思っています。

海外でも、英雄的な戦い方をして死んだような人たちには、やはり「武士道」を感じるものがあります。たとえ刀を持っていなくても、そういう人はいるので、概念としては、もう少し古いものがあるのではないかと思います。

言葉を換えて言えば、「利得、私欲を超えた正義の道を選んだ、勇敢な魂の生き方」のようなものでしょうか。そういうものを感じるわけです。

【大川隆法 『現代の武士道』より抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、教典『真説・八正道』より反省の本質を学びます。妖怪性からの脱却をはかり、「反省からの発展」さらに「中道からの発展」を目指しましょう。
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7 多様なる認識の上に【正見】
〇霊的に成長するほど、多様な見方ができるようになる

このように、見方の可能性はいろいろとあり、これを探求していくときに、私たちの魂はほとんど進化していきます。飛躍していくのです。「いろいろな見方ができる」ということ自体、「私たちの霊格、人格が進んできている」ということなのです。一面的にだけしか見えないのは、まだ霊的成長としては不十分です。霊的成長が高まれば高まるほど、いろいろな角度から物事が見ええるようになってくるのです。

おそらく、神仏の目から見ても、そうであろうと思います。いろいろな角度からすべてを見て、それなりの評価をしているのでしょう。「これに近づいていく」ということは、「多面的な見方ができるようになる」「違った見方ができるようになる」ということです。仏法真理を探求する過程において、多様な見方ができるようになるのです。

〇多様な見方をした上で、神仏に近い判断を出す必要がある
「多様な見方ができるようになる」ということは、明らかに霊的な進歩です。しかし、多様な見方ができるようになり、多様な結論が導き出され、多様さを多様さとしてそのまま放置しておくならば、それはアーナーキー(無政府状態)、無秩序の状態にすぎません。それは、混沌に帰っていくことになるのであり、いったん進化しかけた霊的な芽生えが、また逆戻りしていくことになります。

いったん多様な見方をした上で、是が非とも、神仏の心に近い判断をしなければなりません。「こういう見方もできる。ああいう見方もできる」と、さまざま考えた上で、「では、現在ただいまの自分の仏性の許すかぎり、霊性の許すかぎり、全身全霊の判断として見て、どう結論づけるか」ということを出さなければならないのです。これを回避してはならないのです。

多様な見方ができるようになるために努力した結果、「相手もよいところがある。自分もよいところがある。お互いによいところがあるので、いろいろな姿に見えるが、まあ、それはしょうがない」というようなことでは、済まされないのです。これでは、また無秩序の世界が始まります。理解することは大事ですが、理解したあとに意味づけが必要なのです。そして、この意味づけに関して、自己の責任が出てくるということなのです。

【大川隆法『真説・八正道』第二章「正見」72p】
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今日の一日を振り返りつつ、1991年7月に説かれました『永遠の仏陀』を振り返ります。
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第三章 不滅の力 
〇伝道の本質
諸々の比丘、比丘尼たちよ。
おまえたちは、己の使命の重大さに気づけ。
おまえたちは、伝道ということを
何か特殊なことのように思っているようだ。
何か、現代の世においては、
摩訶不思議なことであり、
非常に難しいことであるかのような、
錯覚に陥っているようだ。
しかし、私は、おまえたちに言っておこう。
伝道の本質を知ったならば、
これを否定できる人はいないということを、

ダイヤモンドの塊を、
その懐のなかに入れられて、
怒る人がいるだろうか。
真珠のネックレスを首にかけられて、
「これは、あなたのものですよ」と言われて、
怒り出す婦人がいるだろうか。
サファイアの指輪を指し出されて、
「これを、どうぞ指にはめてください」と言われて、
怒る人がいるだろうか。
いるはずもない。
また、大人だけが相手ではない。
子供たちに、
「さあ、これで勉強するのですよ」と言って、
教科書をあげ、参考書をあげた時に、
怒り出す子供たちがいるだろうか。
「これはこれは大切なものをいただいた」と思って、
一生懸命に読むに違いない。
このようなものなのだ。
その教えに真実の値打ちがあるがゆえに、
それを他の人々に分けてあげるということは、
それ自体が、偉大な功徳を伴っているのだ。

教えを布施されても、
法の布施を受けても、
「そのような布施は要らない」と言って拒否する人は、
ちょうど、三度の食事を拒否して、
みすみす死んでゆく人に似ている。
いや、真実のことを語るとするならば、
三度の食事を拒否し、その肉体生命を失うとも、
人間の永遠の生命(せいめい)は滅びることはない。
しかしながら、仏法真理を学ばなかったならば、
その魂は、永遠に死に就くこともありうるのだ。
すなわち、魂が仏法真理を知らずに生きるということは、
本来の仏の子としての存在を否定することであるからだ。

見よ。
この地上のあちこちの町に、村に、
墓場というものがあるであろう。
そこに立っているのは、苔むした石の柱だ。
この苔むした石のなかに、
そこが、わが住みかだと思って、
いまだ、しがみついている者がいるとすれば、
おまえたちは限りなく悲しいと思うであろう。
それが、もし、おまえたちの先祖の姿であり、
いや、後の世の、おまえたちの姿であるとするならば、
これは、耐えがたい悲しみであろう。
生と死の意味を知らぬということは、このようなことなのだ。
生とは何か、
死とは何か、
魂の永遠性とは何か、
また、仏の子とは何か、
このようなことを知らずして生きるならば、
やがてその魂は死を迎えるのだ。
たとえ、生命(いのち)はあっても、
その生命を生かすすべなくば、
また、生命を生かすということの意味を知らないならば、
その意味は、死に至るも同然である。

さすれば、おまえたちが法を布施せんとすることは、
飢えたる人に、
食事を提供すること以上のものであるのだ。
また、衣服を持たぬ人々に、
衣服を提供すること以上のものなのだ。
宿を持たぬ者に、
一夜の宿を提供すること以上のものであるのだ。
それが、
法を布施するということなのだ。
教えを説くということなのだ。
仏法真理を広めるということなのだ。
これは、その行為自体が絶対の善であるのだ。

おまえたちのまわりに、
飢えて死んでゆく人々が、
数かぎりないとするならば、
おまえたちは、
なけなしの食事を差し出してでも、
彼らの生命(いのち)を一日でもつなごうとするであろう。
また、喉が渇いて死んでゆく人々が、
数かぎりなくいるならば、
おまえたちの力がたとえ有限であろうとも、
つるべを落として、そして井戸から水をくみ上げ、
おけの水を持って走るであろう。
たとえ、その力尽きるとも、
彼らに末期(まつご)の水を供養して、
そして死んでもらおうと思うだろう。
それが、人間として当然の行為であるのだ。
しかるに、
魂が死のうとしている人たちが
この地上にあふれているのに、
それを見て見ぬふりをするとは、
何事であるか。
そのような心は、仏の心にかなうものではない。

おまえたちは、
相手と闘っているような気持ちでいるかもしれない。
しかし、ほんとうは、そうではない。
自分自身と闘っているのだ。
自分自身の見栄と闘っているのだ。
自分自身の恥ずかしさと闘っているのだ。
自分自身の羞恥心と闘っているのだ。
己の怠け心と闘っているのだ。
己の見栄や、世間体と闘っているのだ。
つまらぬプライドと闘っているのだ。
このような、自分の弱さを象徴するものと、
徹底的に闘うことだ。

【大川隆法『永遠の仏陀』第三章「不滅の力」より抜粋】
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続いて、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第二章 八正道の発見
9 正念

八正道の七番目の基準は「正しく念ずる」ということです。

仏教のなかにあえて「祈り」を入れるとするならば、この「正念」と次の「正定」にかかわると言えるでしょう。「祈りというものは、仏教では正念と正定という二つの要素に分解されている」といってもよいと思います。

祈りとは、目的性を持った精神波動を発することであり、そのためには心の調和が必要です。つまり、「定に入って念ずる」という行為が祈りにあたるのです。

このように考えると、反省と祈りとをまったく分けてしまうことはできません。祈りは反省の一構造として、反省のなかにふくめることができるのです。また、それを論理的に難しいと考えた場合でも、祈りを反省の発展形態としてとらえることが可能です。

いずれにしても、「八正道には祈りにあたる部分がある」ということに気づいていただきたいと思います。

それでは、「正しく念(おも)う」とは何でしょうか。みずからの想念のコントロールの仕方として、正思を、一日のうちに去来する思いの総量、集大成と考えるならば、正念は、未来の人生計画、将来の自分についてのビジョンといったことになります。

すなわち、正念は、「正しい目標設定ができているか」ということでもあるでしょうし、「正しき自己像として、何を描いているか」ということでもあるでしょう。ある意味において、これは「あなたの人生計画、自己実現計画は、どのへんにあるのか。あなたがいつも心に念じていることは何なのか」ということを問うているのです。

平凡に生きている人ならば、家庭の平安や健康を祈るという正念もありうるでしょう。しかし、より高次な生き方をしている人にとっては、人生はまさしく目標や計画の連続であり、「いかなる目標や計画を立て、いかにしてそれに念いを集中していくか」ということが非常に大切になるのです。

つまり、反省の徳目として、目的性を持った念いのコントロールをあげたものが正念なのです。

その念いが、たとえば、「あの人に害を与えてやりたい」「あの会社をうまくいかないようにしてやりたい」「彼の出世を妨げてやりたい」といったものであれば、それは間違った念いとして記録されることになります。そうではなく、「できるだけすべてのものがよくなっていく方向で念うことが大事なのです。

「念」「念い」というものは、精神統一をすればするほど強くなるので、そのコントロールがますます重要になります。しかし、念について考えたこともない人、心の力の神秘を知らない人にとっては、正念ははるかに遠いところにあるものでしかないでしょう。

その意味では、正念は高度に発展した反省方法であると言えるのです。

【大川隆法『釈迦の本心』第二章「八正道の発見」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are The One, with our Lord.  我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2025年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。

【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】                                                  
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。

災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする  信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。

【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。

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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
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FAX:0596-31-1778
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文責:蒲原宏史 

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