(11/29-2)62『仏陀再誕』を読む―政治と経済―適正なる発展―霊性への目覚め

『仏陀再誕』を読む

 69 鬼たちは、亡者たちを悟らせるため、古典的な、虎皮のパンツに、鉄棒ないし、ペンチを持っていることも多い。【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】35 生前、泥棒や強盗をやっていた人たちが、番犬の姿になって、罪をつぐなっているのを見た。【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜3未来へ投資するライフスタイル【正命】〇「根を張り、幹を太くする」という生き方を見いだす例えば、私自身はどうしているかと考えてみると、最近読んでいる書物のなかには、現在は今すぐに役に立たないものもありますが、あと何年かたったら生きてくるはずです。それで、今、数年後のためのストックをつくっているわけです。このように、いつでもかなり先の蓄積を順番にしています。ところが、本書では、反省の方法などを説いています。ですから、今、読んでいるものとは必ずしも関係がないところもあります。頭の中に入っているものは、これに限ったことではなく、まだほかにもいろいろとやっています。将来、三年後に役に立つもの、五年後に役に立つものというように、十年後、二十年後、三十年後のことを考えてやっています。いろいろなことをして、そうとう根が張っているのです。しかし、根を張っているから、逆に波風に強いという考え方もあるでしょう。これは『不動心』のなかでも説いておきました。この正命のなかでは、やはり、「根を張る」という考え方が大事です。正業、職業的な考え方だと、「とにかく今、与えられているところで最善を尽くす」という考え方もあるでしょうが、正命のなかには、「人生の幹を太くし、また、根を張る」という作業が入っています。これが、おそらく、人生に余裕を与え、そして、幅広い目でいろいろな人の考えを知る、理解するということの材料になっていくでしょう。ですから、正命のなかには、「余裕」という観点も、できたら入れておいてほしいと思います。現在の自分という立場を離れても、人間としての底力が出てくるように、教養を身につけ、体力をつけ、そして、いろいろなかたちで人々の役に立っていけるような投資戦略を、ぜひともやってもらいたいのです。これが現代的な生き方だと思います。この点において配慮を怠った人は、やがて、「アリとキリギリス」の話のようになっていくでしょう。これについては、みなさんご存じのはずです。夏の間、アリはせっせと働き、餌を蓄えていたが、キリギリスは食糧が豊富だったので、歌を歌って過ごしていた。ところが、冬になったら餌が亡くなったため、アリに「餌を分けてくれ」と言ったけれども、「夏の間、あなたは何をしていたのですか」と言われる。こういう話がありますが、このようになっていくということです。「しっかりと根を張り、幹を太くする」という生き方を見いだしてください。この正命というのは、そのための「積極的反省」にあたります。こうした「積極的反省」を、ぜひしてほしいのです。以上は現代風の「正命」の解説である。伝統的仏教には、身・口・意、の調和のとれた生活を意味し、身体が罪を犯さなかったか、口から出た言葉が適切だったか、一日を通して意(おも)いによこしまなものがなかったか。トータルバランスを反省することを意味する。酒・タバコ・賭博・麻薬・不適切な性行動などを振り返ることが大事であった(『太陽の法』第2章第10節「真説・八正道」p115参照)。【大川隆法『真説・八正道』第6章「正命」220pより抜粋】*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、地上仏国土ユートピアの実現のために「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。12月8日は降魔成道記念日です。主エル・カンターレ 大川隆法総裁先生が、1985年12月8日に名古屋の地(降魔成道館)にて、救世主として法を世に説くことを決意しようとしたとき、これを何としても阻止せんと、悪魔が総攻撃をかけてきました。降魔成道記念日とは、この悪魔を打ち倒して、仏法真理の流布に立ち上がったことを記念する聖なる日です。12/8(日)~10(火)まで、「降魔成道記念日」感謝式典を開催致します。主は、ただ一人往くという不退転の決意によって魔を下し、降魔成道をなされ、救世主として立たれたことに心からの感謝を捧げると共に、大川隆法総裁先生のご復活を心より祈念し、全世界の信者一同で、「降魔成道記念日」感謝式典版「復活の祈り」を執り行います。主のご復活を妨害する悪霊・悪魔・妖怪・妖魔・闇宇宙・唯物論の勢力といった悪しき者たちの呪いを打ち祓い、主がこの地にて「エル・カンターレの法」を再びお説きいただけるための、結界を皆様と共につくってまいります。皆様ぜひご参加ください。『主エル・カンターレよ、主のため、世のため、隣人を救い助けるために、仏国土ユートピア建設のために、吾らの今世の使命を、光の使命を果たすために、主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。吾らを真なる幸福へと導きたまえ。』今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。そののち、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜第四章 政治と経済 ○適正なる発展ここで、私は、足ることを知るという考え方を、もう一度、説いてみたいと思う。政治においても、経済においても、この足ることを知るという考え方が、十分に生かされていないような気がする。すべてのものが、数字の拡大にあけくれているように思える。足ることを知るという考えが、どれほど大事であるかということを、知らなくてはならない。それは、ともすれば進化のみを追い求める男性的な社会において、調和の原理を取り入れることにもなるであろう。足ることを知るということによって、人びとは両極端の思いから去ることができる。また、上と下というこの上下の両極端からも去ることができる。左右の両極端、上下の両極端を去り、そして、中道に入るという道のなかに、足ることを知る生き方があるであろう。さすれば、政治においても、この足ることを知るということを、十分に知らなければならない。権力欲をいつまで満たしたところで、そんなものでは何にもならない。足ることを知り、そして自分を生かす道を考えてゆくべきだ。また、経済においても同じことが言えるだろう。会社が発展すれば、それは嬉しいかもしれないが、どれほど繁栄し発展しても、限りというものはないであろう。決して、数や量の拡大が正しいことではないのだ。そのなかに住み、そのなかに生きる人たちが喜びを得てこその、繁栄であり発展であるということを、ゆめゆめ忘れてはならない。足ることを知るということは、決してブレーキをかけよということではない。それは、適正なる発展ということなのだ。適正なる発展ということを考えないと、すべてのものは失敗に終わってしまう。樹木であっても、適正な発展があってよいのだ。草や花であっても適正な発展というものがあってよい。もし、ひまわりの花が十メートルの高さになったとしたならば、ひまわりは苦しかろう。いかに土中から水を吸い上げるかということが、彼の急務となり、焦りとなり、苦しみとなるであろう。ひまわりは、やはり二メートルの高さでよいのだ。また、違った考えもあるであろう。柿なら柿という木に、数多くの実がなれば嬉しいであろう。しかし、この実がなりすぎたらどうなるかということを考えたらよい。なりすぎることによって枝は曲がり、また、その実の味は落ちる。味が落ち、そして、その木にとって無駄な仕事をしたことになってしまう。数多くの実をつけることによって、人びとに喜ばれるとは限らない。味が落ちれば、人はそれを喜ばなくなるのだ。やはり、適正な数で、素晴らしい味の実をつけることがよいことであって、ある時は豊作となり、ある時は凶作となって、左右に揺れ、上下に揺れることをもって正しいとは言わない。いつも人びとの期待にこたえて、適正の量、適正の味で、柿の実をならせることが、正しいことであるのだ。そのような考えを忘れてはならない。すべて、物事の成功には、適正ということが大事である。なにごとも、やりすぎてはならない。やらなすぎてもいけない。中道という道は、決して一時的なことではなく、無限の成功を作ってゆくための道であるということなのだ。今、自らの成功をつくってゆくための道であるということなのだ。今、自らの仕事というものをふり返って、どこか適正を欠いているところがないかどうかを、常づねに点検せよ。適正を欠いていないかどうかを点検するということが、中道に入るということなのだ。この中道に入るための方法の一つとして、足ることを知るという視点もまたあるのだ。そのことを忘れてはならない。人は、さもすれば外見を繕(つくろ)い、表面を繕う。表面上の成功を追い求め、浮利(ふり)を追い求める。浮ついた利益や、浮ついた栄華、浮ついた虚飾、このようなものでもって、魂は真に富むことはないということを忘れてはならない。【大川隆法『仏陀再誕』第四章「政治と経済」より抜粋】*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜続いて、地上への執着と煩悩を断つ修行法として『漏尽通力』を共に学びます。*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜第一章 霊的人生観2 霊性への目覚めさて、そうした「人生の転機」に際して、「霊性」ということが問題になってきます。たいていの人は、人生の転機に際して、占い、易であるとか、前世の縁であるとか、運命であるとか、こうしたものに惹かれていくのですが、それを深いところまで考えないで、そのとき、そのときの成り行きの判断に委ねることがよくあります。そして、「喉元過ぎれは熱さを忘れる」という「ことわざ」どおり、忘れていくことがあるのです。ただ、あの世の世界から見てみると、守護霊たちは、そうしたときに、いろいろと苦心し、努力をしているのです。その努力に対して、本人たちが、「感謝をする」ということなく、また安易な日々を流れていくことについて、守護霊たちが非常に残念そうに思うことも限りなくあります。人生というものは、決して自分だけが選び取っているものではなくて、その背後には数多くの「目に見えぬ力」が働いているのです。たいていの人には守護霊というものがついていて、その人を善導するために、日夜、努力しています。そして、守護霊の手に余るような、大きな問題に関しては、指導霊というものがついていて、この指導霊が、日夜、常に何らかのアドバイスを与えんとしています。この世的に優れた職業を持っているような方には必ず指導霊がついていて、アドバイスをしています。ただ、たいていの人間は、感謝を忘れ、忘恩そのものの生き方をしています。そうしたことを考えずに、「自分は運がよかった」とか「運が悪かった」とか言ってみたり、「すべて自分の力のせいだ。自分に能力があったからだ」と考えたりします。そのように、人生の転機に際して、一つのきっかけはあっても、霊性への目覚めが遅い方は数多くいます。こういう方々の特徴は、結局、「自我が強い」ということであろうかと思います。自分自身を「偉し」と思ったり、自分自身がかわいくてかわいくて、「自分が、自分が」という思いが強かったりするのです。こういう自我の思いが強いわけです。本当は、目に見えぬ霊的な世界から、目に見えぬ糸が張り巡らされ、さまざまに引っ張ってもらっているにもかかわらず、それを感じず、自分がすべてをやったように思ってしまう。あるいは、失敗をした場合には、自分以外のもの、他人のせいで、そういう失敗に陥ったと考える。このように考えがちであるわけです。こうしたことは、結局、「自分本位の生き方である」と言えるのではないでしょうか。「本当に神仏の前に謙虚になる。高級霊の前に謙虚になる」という気持があったならば、やはり、「大いなる霊性への目覚め」というものを体験せざるをえなくなってきます。霊性の目覚めにも二通りあります。第一の場合は何かと言えば、挫折を契機として、神仏を求めるきっかけを得る場合です。「何とか立ち直りたい。立ち直るきっかけが欲しい」ということで、神、仏にすがる。あるいは宗教に入る。こういう考え方が一つあります。これも大事な考え方の一つです。世のマスコミ等は、「宗教は、いかに害悪を流しているか。いかに間違ったものであるか」ということを言っていますけれども、宗教は、やはり、そうした人間の避難場所であることも事実です。社会生活のなかで、会社のなかで傷ついた人々、彼らはいったいどこへ行けばよいのでしょうか。結婚に挫折した人々、彼らはいったいどこへ行けばよいのでしょうか。子供の問題で失敗した母親は、どこへ行けばよいのでしょうか。失業した人たちは、どこへ行けばよいのでしょうか。病気で苦しんでいる人たちは、どこへ行けばよいのでしょうか。人生苦に悩んでいる人たちは、どこへ行けばよいのでしょうか。彼らには行く場がないのです。そうした人たちにとって、やはり宗教の門が一つの大きな導きとなることがあります。そうした意味において、世の一般的なる常識、あるいは評価というもの度外視して、こうした病院の役割、大きな意味での受け入れ先の役割をしているのが宗教であることも事実です。宗教はそういう役割を果たしているのです。また、これとは逆の場合があります。成功に成功を重ねていく人、ツキまくっている、あるいは運がついている人で、どんどん、思った通りにピシピシと当たっていき、道が開けていく人がいます。こういう人の場合にもまた、神のご加護を受けていることが非常に多くあります。彼らは彼らで、信仰心を持って生きていることは非常によくあります。有名な経営者が、夜になると精神統一をし、正座をしてインスピレーションを受け、重要な経営判断を行ことは、よくあるわけです。また、優れた人であればあるほど、「霊的な直観」というものを重視していることも事実です。いわゆる「勘」であるとか、「ひらめき」であるとか、こういうものです。成功体験の数多くのある人たちは、どこかで、そうした助けを経験しています。何らかの勘や、直感、ひらめきによって、大いなる事業の成功を得たことが数多くあるのです。「ひらめきによって新発見をし、それが軌道に乗った」という方もいれば、直観によって危機を回避しえた方もいます。昨年(一九八七年)の秋であったでしょうか。株が大暴落したときがありましたが、その前に、いち早くそれを霊的に直感して、株を売り払った方もいます。そうした、方は、やはり、「何らかの導き」というものを感じ取っていたのではないかと思います。ですから、挫折のときにも、成功のときにも、「霊性の目覚め」というきっかけがあるのではないでしょうか。それが、やはり、今生の意味ではないでしょうか。今生において、一つの霊的な修行をさせられているのは、「この目には、この耳には、この手には、しかとは感じられない世界において、霊的なるものをつかむ」ということを非常な意義を感ずるからであり、「教えられない世界を自分自身で感じ取る」ということに大いなる敬意が払われるからではないでしょうか。ですから、「この地上での生活のなかにおいて、霊性への目覚めを体験することが、一つの大いなる進歩ではないのか。また、今生における、自分の人生の意味の発見ではないのか」と私は思うのです。【大川隆法 『漏尽通力』第一章「霊的人生観」より抜粋】*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜◆「天御祖神 感謝報恩植福」について・この度、日本文明の祖にして、武士道の源流にあたる天御祖神が日本に降臨され、いまもなお、霊的にご指導を賜っていることへの感謝を捧げるために、箱根強羅の地に天御祖神を讃える「天御祖神記念館」を建立させていただくこととなりました。・本植福を通じて、天御祖神への感謝を深めていくとともに、武士道精神を復活させ、神国・日本としての誇りを取り戻していくことで、この日本の地を主エル・カンターレの教えを発信するにふさわしい地としていくことを誓ってまいります。日本神道の屋台骨である高天原が、日本人の不信仰と愛国心の欠落により、崩れてしまっている今、私達伊勢支部信者が先頭となって、日本神道の屋台骨を支え、日本国の誇りを取り戻すべく先頭に立たなければならないのではないでしょうか。伊勢支部としては、「天御祖神記念館」建立事業を全力で応援致します。私たちの信仰心をここに結集して参りましょう。・「天御祖神感謝報恩植福」(2022/1/1~)は、天御祖神の日本への御降臨と、いまもなおご指導を賜っていることへの感謝を捧げ、報恩への誓いを固める植福です。*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・私は二〇一五年ぐらいから公開しておりますけれども、実は日本文明というのは、今から三万年ほど前に、天御祖神という方が、今の富士山があるところの近くに、宇宙より降臨したところから、始まっているということを、何冊かの本で説いております。(略)(天御祖神の)教えの中心は、今も片鱗としては伝わっています。一つ、言わなければならないことは、「神の子、仏の子としての人間」として生きるということは、「正しく生きる」ということであるということですね。これが大事な柱でした。(「地球を包む愛」)・「天御祖神の教え」とは何でしょうか。(略)おそらくは、「鍛錬ということの大切さ」や、「自分を鍛えて力強くあることの重要さ」というものも教えていたのではないかと思います。 (『現代の武士道』)・葬られているのは、今で言うと、強羅温泉の近くです。 (「超古代リーディング―天御祖神と日本文明のはじまり―」)■□■□■□■。゜+. With Savior 。゜+.100%エル・カンターレ信仰―天御祖神とともに―伊勢から世界に伝える強い信仰■□■□■□E-mail:ise@sibu.irh.jp□■□■□https://hsise.com/□■□■TEL:0596-31-1777■□■FAX:0596-31-1778□■文責:蒲原宏史 

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