(10/5-2)6『永遠の仏陀』を読む―目覚めよ―信仰という命綱―生命への意欲

『永遠の仏陀』を読む

5 妖怪は、実績よりも勢いを好む。

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

95 自己保存欲、この世的自己実現欲、この世的名誉欲のために主を利用し、自己責任を逃れようとした者は、神や仏、天使や菩薩を名乗っても、永遠の業火(ごうか)からのがれることはできない。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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3反省の出発点とは
〇信仰から「正しき心の探求」は始まる

この「信仰心」というべきものは、従来使われている「信仰心」という言葉で表現される内容ではありません。ここで言う信仰とは、「事実の確認」そのもの、「真実の確認」そのものであるということです。そうした「大いなる叡智の断片を見た」ということであり、「仕組みを見た」ということの確認なのです。

「見た」という以上、それを「知る」ということ、それを「受け取る」ということ、「了解する」ということ、そして、それを「信ずる」ということ、そうした行為を信仰というのです。

信仰というのは、決して”摩訶不思議なものに対して祈ること”でも何でもないわけです。それは、「この宇宙の創造の秘密」を知り、「人間創造の秘密」を知って、それを納得のいくものとして理解することです。これが信仰というものの前提です。

この前提がない人は、このあと、いくら仏法真理の書物を読んだところで、いくら法話を聞いたところで、いくら勉強したところで、何の役にも立たないのです。

「まず、その土台を押さえよ」ということを述べておきたいと思います。

【大川隆法『真説・八正道』第一章「序章」36p】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへ信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に祈りで始めて、日中は主のため、世のため、隣人を救うために私たちは働きました。本日もお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

明日10/6は幸福の科学の「立宗記念日」です。立宗38周年にあたり、主エル・カンターレ大川隆法総裁先生が、すべてを捨てて空手にして「幸福の科学」を立宗されたお心に思いを馳せ、心からの感謝を捧げ、大川隆法総裁先生のご復活を心より祈念し、全世界の信者一同で、立宗記念式典版「復活の祈り」を執り行います。

10/6(日)~10/8(火)まで連日、立宗記念式典を執り行います。

立宗へと到る主のお心を表した楽曲「たとえ世界を敵に回しても」を通して、主の愛や信念の強さを学び、私たち信仰者にとっての理想としてまいります。主の夢の実現に向けて、この世の壁を突破すべく、強さ、勇気、潔さ、気概を深め、ご復活された主と共に、地球ユートピアを実現していく誓いを捧げます。

今日の一日を振り返りつつ、1991年7月に説かれました『永遠の仏陀』を振り返ります。
そののち、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第一章 目覚めよ
〇信仰という命綱

そして、
法を説く仏陀への、
信仰と帰依の姿勢を忘れてはならない。

帰依とは、
教えを受けとるために、
弟子としての道を知ることだ。
弟子としての態度を確立することだ。
師に対する態度を示し、弟子の道を行ずることだ。
これを帰依という。

そして、信仰とは、
師より流れ出してくる仏法真理の大河を敬い、
その法を恭(うやうや)しく受け、
究極なる仏に対して、誓いを立てることを言う。
仏弟子として、仏法真理の縁にふれて、生まれ変わったならば、
必ずや、その報恩のために生きるということを、
必ずや、その教えを人生の指針として生きるということを。
こうした誓い、誓願を立てることをもって、
あなたがたの信仰は本物となるのだ。

たとえ、千貫(せんがん)の重き岩が、
汝らの頭上より転げ落ち、その身を撃ち砕かんとしても、
仏法真理のために、その岩壁をよじ登ろうとする努力を
忘れてはならぬ。
その岩壁に垂らされたるところの一本の命綱を、
決して手放してはならぬ。
この命綱こそ、信仰と呼ばれているものなのだ。
たとえ、岩に、その身、打ち砕かるるとも、
たとえ、千頭の獅子に、その身、食われ、
たとえ、万羽の鷲に、その目、えぐられるるとも、
この信仰という名の命綱を決して手放してはならぬ。
あなたがたは、その肉体を失うとも、
その名声や、地位や、金銭を失うとも、
この信仰という命綱で、仏陀につながっているかぎり、
永遠の生命を失うことはないのだ。

しかし、この命綱を放した時、
ああ、あなたがたが落ちてゆく先は、決して地面ではない。
それは無限に近い深い深い闇なのだ。
その闇にそこなく、
あなたがたは、
どこまでもどこまでも落ちてゆくことになるのだ。
これを地獄という。
信仰を失いて、地獄の底に落ちるぐらいならば、
目の前に、獅子が現れて、
内臓を食い破られるほうが、ましではないか。
鷲が現れて、その目をえぐられる痛みに耐えることのほうが、
まだましといってもよい。
地獄は、魂の死である。
魂は、生かしてこそ、仏への感謝、報恩となるのだ。
尊きダイヤモンドのごとき生命をいただいておきながら、
それを、汚泥のなかに投げ捨てんとするのか。
そのようなことは、決してしてはならない。

あなたがたは、強くならねばならない。
信ずるということを通して、強くならねばならない。
信仰は、あなたがたを強くするものなのだ。
信仰は、あなたがたを弱くするということなど、
過去、あったためしがないのだ。
真に信ずる者は強くなる。
信じても信じても、みずからが弱いというならば、
その信仰はまだ本物ではない。

あなたがたが、つかんでいる、
その命綱は、そのロープは、
私の袈裟衣であるということを知らねばならぬ。
その命綱をつかんでいるかぎり、
仏陀と仏弟子とは一つであるのだ。
仏陀がいまだ地上において、
敗れたることがないように、
あなたがたも、敗れることはないであろう。
仏陀が、いまだ地上において、
その誓願を成就せぬことなかりしがごとく、
あなたがたも、あなたがたの立てたる誓願を、
成就せぬことはない。

【大川隆法『永遠の仏陀』第一章「目覚めよ」より抜粋】
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続いて、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第一章 菩提樹下の悟り
6 生命への意欲

村娘スジャーターと出会ったゴーダマは、「自分を立て直していかねばならない」と強く感じました。ほおを伝う涙は、ある意味で、過去への惜別(せきべつ)だったかもしれません。

ゴーダマは、ミルク粥が胃のなかを伝っていくとき、なんともいえない力強さ、おいしさを感じ、「食物を否定することは、必ずしも真理に至る道ではない」ということを知ったのです。そして、「人間に食べられ、深遠の高度な活動に昇華されていくことは、食物にとって喜びとなるのではないだろうか。人間に食べられることは、食物によって無駄ではないのではないか」と考えました。

「結局、この世のありとあらゆるものは、より偉大なるものへの奉仕の材料として存在しているのではないのか。その材料を、材料だけでは意味がないと見捨ててしまうことは、修行者の名において、傲慢の罪を犯しているのではないだろうか。確かに材料だけではどうにもならないが、材料があって初めて料理ができるのであり、素晴らしい料理をつくることを、仏神は願っておられるのではないのか」

こうしたことをゴーダマは感じたのです。「よし、もう一度、生まれ変わって生きてみよう。新生してみよう」と思い立つことができたのは、みずからのほおを伝う涙、内臓にしみわたっていく食物のありがたさ、スジャーターの歌にある、「琵琶の弦は、中ほどに締めると音色がよい」という文句でした。

「なるほど、中ほどに締めればよいのか。確かに、強く締めれば、弦を弾くと切れてしまうことがある。反対に、ゆるみすぎては音色がよくないし、音が出ないかもしれない。現在の自分は強く張った弦であり、少し触っても切れてしまいそうだ。こんなことでは、よい音はでないのだ。

自分は、悟りだとか修行だとか言って肩をいからせていたが、それは、ごく自然なふるまいのなかで生きていく少女にも見劣りするのではないか。

いま天国の門が開くとして、スジャーターと私と、どちらを迎え入れるかといえば、天国の門は間違いなくスジャーターのほうに開くだろう。私の姿は、おそらく地獄的なる容貌となっているだろう。こうしたみすぼらしい姿でもっては、天国の門は開かないだろう。

さすれば、あと数年でよい、私にいま少しの生命があるならば、もう一度、肉体を作り直し、この世について、消極的なる意味のみならず、積極的なる意味をも見いだしていこう」

こうした生命への意欲が湧き上がってきましたが、この瞬間こそが、実は悟りへの道の第一歩だったのかもしれません。「極端な修行をするだけでは悟れない。このままでは死んでいくだけであり、死んでいくために生まれてきたのならば、今世に生命を持ったことの意味がないではないか」という思いを否定することが、ゴータマにはどうしてもできなかったのです。

ゴータマはスジャーターに合掌して拝礼すると、彼女と別れました。

そして、さまざまな風景を眺めていくと、そこにもかしこにも生命があふれている姿がありました。草花も木々もすべてが生命にあふれているのに、自分ひとりだけが、「修行、修行」と言いながら、そうした生命の存在に気づいていなかったことを感じ取ったのです。

「たとえ道端に咲いている一本の花であったとしても、その花が、自分が枯れていくこと、その世から消えていくことばかりを願っていたならば、その世はどうなるのか。

また、動物たちがみな、この世で生きることを厭(いと)い、一日も早く死ぬことばかり願っていたならば、どうなるだろうか、牛や馬が、やせることばかりを願って、えさを食べなければ、どうなるのか。子供を産まなければ、どうなるのか」

そうした思いが心をかすめていったのです。

【大川隆法『釈迦の本心』第一章「菩提樹下の悟り」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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◆「天御祖神 感謝報恩植福」について

・この度、日本文明の祖にして、武士道の源流にあたる天御祖神が日本に降臨され、いまもなお、霊的にご指導を賜っていることへの感謝を捧げるために、箱根強羅の地に天御祖神を讃える「天御祖神記念館」を建立させていただくこととなりました。

・本植福を通じて、天御祖神への感謝を深めていくとともに、武士道精神を復活させ、神国・日本としての誇りを取り戻していくことで、この日本の地を主エル・カンターレの教えを発信するにふさわしい地としていくことを誓ってまいります。

日本神道の屋台骨である高天原が、日本人の不信仰と愛国心の欠落により、崩れてしまっている今、私達伊勢支部信者が先頭となって、日本神道の屋台骨を支え、日本国の誇りを取り戻すべく先頭に立たなければならないのではないでしょうか。伊勢支部としては、「天御祖神記念館」建立事業を全力で応援致します。私たちの信仰心をここに結集して参りましょう。

・「天御祖神感謝報恩植福」(2022/1/1~)は、天御祖神の日本への御降臨と、いまもなおご指導を賜っていることへの感謝を捧げ、報恩への誓いを固める植福です。

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・私は二〇一五年ぐらいから公開しておりますけれども、実は日本文明というのは、今から三万年ほど前に、天御祖神という方が、今の富士山があるところの近くに、宇宙より降臨したところから、始まっているということを、何冊かの本で説いております。(略)

(天御祖神の)教えの中心は、今も片鱗としては伝わっています。一つ、言わなければならないことは、「神の子、仏の子としての人間」として生きるということは、「正しく生きる」ということであるということですね。これが大事な柱でした。(「地球を包む愛」)

・「天御祖神の教え」とは何でしょうか。(略)おそらくは、「鍛錬ということの大切さ」や、「自分を鍛えて力強くあることの重要さ」というものも教えていたのではないかと思います。 
(『現代の武士道』)

・葬られているのは、今で言うと、強羅温泉の近くです。
 (「超古代リーディング―天御祖神と日本文明のはじまり―」)

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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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FAX:0596-31-1778
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文責:蒲原宏史 

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