(9/9-2)71『仏陀再誕』を読む―転生輪廻とは何か―尊さを知る―釈迦の教え

『仏陀再誕』を読む

78 蛇の延長に、滝つぼなどで竜神を祀るところも多いが、たいていは、ご神体なるものは、ただの蛇なので、ご利益信仰のつもりが、肩こり、腰痛、足の不自由さなどになって戻ってくることが多い。仏法真理でしか救われない。

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

26 生前、情事、酒、麻薬、覚醒剤などにおぼれていた者が、蛇の姿になって、地をはいながら、何十体もからみ合っている姿を見た。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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【正念】念は具象化する
〇「念い」には物理的な力がある

人間の心のなかにはいろいろなものが去来します。そのなかでも、非常に強烈なイメージをもって描かれるものがあります。強烈なイメージで表れてくるものがあるでしょう。

また、心があるところに止まって、それをずっと思いつづけることがあります。

例えば、誰かが私のことを思い続けていると、私には、その人の顔が本当に見えてきます。そして、「私のことを何か考えているな」と思うわけです。本当にそういうことがあります。

そのように、一定の時間以上、ある人に念いを集中していると、その念いは、相手に必ず通じていくのです。これは、よい念いでも悪い念いでも、同じく通じていきます。「念い」には、それほど物理的な力があるのですが、たいていの人はあまり敏感ではないために、それがはっきりと分からないわけです。

〇ある人に向けた念が姿形を取って現れることがある
では、「念」としてグッと念うと、その人の顔が見えてくるとは、どういうことでしょうか。

例えば、カントの霊言には、「ここにコーヒーを飲むカントあり。かしこに、雌牛の乳を搾るカントあり」というような話が出てきますが、(『大川隆法霊言全集 第9巻』〔宗教法人幸福の科学刊〕参照)、実は、ある意味で、自分というものを念いによって分化したり分身をつくったりするようなことがあります。先ほどの例においても、空間的に私の側にはいない人であっても、目の前にその姿が見えてくるようなことがあるわけです。

これは極めて面白い現象です。そのようなときには魂が抜けているのかと言えばそうではなく、念いが具象化してきたものなのです。

これは、「この世」の世界でもそう見えるのですが、「あの世」の世界へ還ると、この念いというものはもっとはっきりとした姿として出てきます。霊の世界では、ある人への念いをパッと向けると、そこにその人の姿そのものがダーンと現われてくるのです。そして、対話したりすることもできますが、現実にそこにいるかといえば、いないわけです。これが不思議なところです。

こうした作用は、この三次元世界においても、ある程度働いています。そして、いろいろな人々にかかわりを持つようになっていくのです。

これが実は、古来、『源氏物語』等の日本の古典のなかで、「生霊」として語られていた者の正体です。古典の勉強のときに、「それは、昔の人だからそういうことを語ったのだろう」などと考え人もいるかもしれませんか、人の念いが来ると、その念は姿形をとったものとして現われてくるわけです。これは明らかです。

そして、それは必ず、他人と何らかのかかわりがあるし、自分自身の将来の姿とも関係してくるのです。

【大川隆法『真説・八正道』第8章「正念」246pより抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、地上仏国土ユートピアの実現のために「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

そして一日を感謝と反省で締めくくるために、常に主の御言葉と「八正道」と共にありましょう。

今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
そののち、この世へ執着と煩悩を断つ方法として『漏尽通力』を共に学びます。経典をお持ちでない方は、ぜひお求めください。【1700円税抜】
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第六章 転生輪廻とは何か 

○尊さを知る
諸々の比丘、比丘尼たちよ。
しかし、地上のいかなる権威が否定しようとも、
地上のいかなる身分ある人が否定しようとも、
地上のいかなる知恵ある人が否定しようとも、
されど、我が教えの真理に誤りはない。
人間は、永遠の魂を得、転生輪廻の過程にあるのだ。
この真実は、何人も否定することができない。
この真実を否定するということは、
仏の心を否定するということだ。
仏の存在を否定するということだ。
仏の存在を否定するという個とは、
仏の創られた世界を否定するということだ。
そして、仏の創られた人間を否定するということだ。
すなわち、人間が人間自身を否定するということだ。

しかし、考えてもみよ、恥ずかしいことではないか。
仏が創られ、
永遠の魂を与えられた人間である、ということを信ずることを、
なぜ恐れるか。
なぜ、それが奇妙なことに思われるのか。
なぜ、それがばかばかしい話に思われるのか。
なせ、人間がアメーバから進化してきたということを信ずることが、
それほど尊いのか。
なぜ、人間が物質の塊で出来上がったことを信ずることが、
それほど尊いのか。
ばかなことを言ってはいけない。
そんなことで、なにゆえに人間の尊さというものがあるのだろうか。
人間の尊さとは、人間の内に宿れるものの尊さであるのだ。
人間の内に宿れるもの、それは、すべてのものが、
仏より岐(わか)れてきた生命であるということなのだ。
仏によって創られた生命であるということなのだ。
それが人間の尊さなのだ。
その尊さがわからないものには、
一切の善はわからない。
一切の美はわからない。
一切の真理がわからない。
一切の善も、一切の美も、一切の真理もわからない人間は、
もはや、人間であって人間ではない。
それは、人間の外形をとどめているだけだ。
人間として、地上に生まれ、生きていく途上で最も大切なことは、
尊さということを知ることである。
この地上的な体験のなかから、尊さというものを感じ取ることである。
自らが生かされていることの尊さを、
他の生命が生かされていることの尊さを、
仏の創られたる世界の尊さを、
それを強く強く感じ取ることである。

【大川隆法『仏陀再誕』第六章「転生輪廻とは何か」より抜粋】
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続いて、地上への執着と煩悩を断つ修行法として『漏尽通力』を共に学びます。
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第四章 漏尽通力
1 釈迦の教え

本章では、本書の表題でもある「漏尽通力」について話をしていきたいと思います。

まず、「漏尽通力」という言葉ですが、この起源は、実は釈迦の教えにあります。ゴーダマ・シッダールタという人間は、今から二千六百年に近い昔、インドにて活躍した人間です。そして、仏教を説いた方であることは、すでに多くの方がご存じであろうと思います。

その釈迦の教えの根本にあるものはいったい何かと言うと、「自分づくり」ということでした。「それぞれ人間がこの地上に降りている理由は、『地上という環境を勉強の材料として、それぞれに魂の修行をしていきなさい』という意味である。したがって、個人個人の学びなくして、地上の意味はないのだ」という考え方が根本です。

その意味において、釈迦の教えは、やはり発生点において自力であると言えると思います。最初から「神の名を呼べば救われる」とか、そうした他力によって救われようという思想ではなかったのです。「まず自分を磨いていけ」という考え方であったと思います。

この考え方が、いわゆる「自灯明」という考え方に象徴されるわけです。「自ら照らしていきなさい。自らの内なる灯を灯していきなさい。誰にともしてもらいでもなく、自ら、自分自らが、自らを照らしていきなさい」という教えです。これを自灯明といいます。

これ以外にもう一つの教えとして、「法灯明」という考えもあります。「私が亡くなったあとは、私の説いた法を中心として、その教えを宗として生きていきなさい。他人に頼るのではなく、その法を拠りどころとして生きていきなさい」という考えも述べています。これを法灯明といいます。この自灯明・法灯明論は、釈迦の教えの根本の一つです。

では、「なぜ釈迦は自分を磨くことを主張したか、考えたか」ということですが、それは結局において、神の創られた宇宙全体の進歩につながっていくからです。「『それぞれの者が、それぞれの持ち場を守りながら、持ち場において学んでいく。そして、向上していく』ということが、全宇宙が向上していく姿につながっていくのである」という考え方です。

したがって、釈迦の教えの根本においては、「単なる祈りによって世界を変えていこう」という考えはなかったと言えましょう。やはり、「自分を見つめ、自分をつくっていく」という考えを重視したのです。これを「利自即利他」(伝統的には「利自利他」ということが多い)ともいいます。「自分を利する生き方のなかに、他を利していく」という言葉を捉えてみると、「利する」という言葉は、現代では必ずしも良い意味を持っていないかもしれませんが、「自分の向上する道を究めていくなかに、他の人の向上をも目指していく」という考え方です。これは、皮相なとらえ方をすれば、エゴイスティックに聞こえるかもしれませんが、決して「利己主義者になれ」と勧めているわけではないのです。

「自分は滅びていくけれども、他だけは助かる。あるいは、自己犠牲でもって他だけが生き残る」という考え方は非常に美しいように見えるけれども、そこには一種の悲劇性があることは否めないと思います。「そうしたかたちも、真理の伝道においてはいろいろな場合に現われくることもあるけれども、やはり大調和・大発展へはつながらない」というのが、この考えであります。

やはり、「それぞれの人間がよくなっていく。そして、よくなっていく方向において、他を害さずに、他も発展させていく、繫栄させていく」という考え方が、釈迦の根本であったわけです。そして、こういう考え方を持っていたからこそ、仏教はその後、大いなる発展を見たと言えるのではないかと思います。

仏教の基礎には、非常に寛容な考え方があります。その寛容さの根本にあるものは、結局、何かというと、すべてのものの発展につながる考え方です。「自らを矯(た)めて、自らの間違いを正し、そして、向上を目指していく。そのなかに、他を害さず、他を発展を含めていく。中道のなかにおける発展を重視しているからこそ、すべてが発展していく。そして、それぞれの立場を配慮し、寛容さを持つことができる」という考えがあるわけです。

この釈迦の考え方を基礎に、いわゆる霊能力を考えてみると、どうなるでしょうか。現在、巷にある数多くの霊能者たちのあり方を見てみると、「彼らの大部分は危険な霊能力信仰に陥っている」と言えなくもありません。

危険な霊能力信仰とはいったい何であるかという、結局、生身の刀、日本刀を素手で振りかざしているような状態のことです。使い方を知らない人が日本刀を振りかざしている。したがって、「他人を傷つけることもあるけれども、間違うと自分をも傷つけてしまう」という危険さが、霊能力にはあるのです。

しかしながら、そうしたことそうしたこととして、世の霊能者の多くは、そうした日本刀を振りかざすことをもって、非常な自己顕示欲を満たしていると言えるのではないかと思います。

これを、釈迦の考え、利自即利他、あるいは自灯明論・法灯明論と比較してみると、非常に大きな違いがあると思われます。霊能力を持つということが、結局、他を生かすことにならず、自分をも破滅させることになりかねないわけです。こういうことは非常に危険です。

そういう意味において、釈迦は、六大神通力という神通力をすべて兼ね備えていたけれども、通常はそうしたものを隠していて、そのまま顕示はしなかったわけです。持っていて使わないのと、持っていなくて使えないのとでは、表面的には同じであるけれども、質的には非常に違ったものがあります。ここが肝心なのです。【六大神通力 仏陀(悟りたる者)特有の能力。天眼(霊視能力)、天耳(あの世の声を聞くことができる能力。霊言能力)、他心(人の心が手に取るように理解できる能力)、宿命(自分の将来や、他人の運命が分かる能力)、神足(幽体離脱能力)、漏尽(欲望に振り回されず、それを自由に超越する能力)の6つをいう】

こうした、「自分の隠されたる力、秘められたる力を隠す、抑える、現代的に言えばセーブする」という考えのなかに、釈迦の教えの煌めきがあるわけです。

持っている力を溜めていく、蓄えていく、蓄積していく。そして、その光をそのままほとばしらせるのではなく、光の底光りする力でもって、人々を感化していく。ギラギラした光を放つのではなく”いぶし銀”のように光る光でもって、人々を感化していく、人々の目を害さない光でもって、感化していく。こういうことを中心としていったのです。

したがって、世にいう霊能信仰は、明らかに、きらきらと輝く鏡あるいはガラス細工のような光を放っているわけですが、これは、他人の目にも有害であるし、ともすれば自分の目をも傷つけることになりかねません。そういう害があるのです。

この意味において、直接的な光ではなく、間接的なる光でもって人々を教化し、影響するということは、非常に大きな我慢と辛抱が要るものです。また、忍耐が要るものです。

ただ、「忍耐は要るけれども、これは大いなる発展への道であり、大完成への道でもある」ということができると思います。

自らの能力を衒(てら)ったり、他人から注目されようと思ったり、有頂天になったりする心、その心のあり方は、大いなる間違いです。そうした心でもって生きてはならないのです。やはり、人々は、他を刺激し、他の人を驚かし、「鬼面人を驚かす」ような生き方でもって、自己満足をしてはならないのです。

他の人を畏怖させたり驚かしたりするような生き方のなかに、真理はありません。そうではなく、自分というものをしっかりとつくっていく。少しずつ少しずつ、漏れてくる光でもって、人々を教化していく。これが、「自分を崩さず、他を刺激しすぎないうちに感化・教育していく」という偉大な方向性となるのです。

これからは「三十年、四十年、五十年かかって、人間が完成していく道、また他の人々を導いていける道」というものを大いに検討しなければならないと私は思います。単に、一時的な自己満足や、一時的な評判や人気のために霊的能力を誇示してはならない。そう強く強く考えるものです。

【大川隆法 『漏尽通力』第4章「漏尽通力」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。

【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】                                                  
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。

災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする  信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。

【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。

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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
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FAX:0596-31-1778
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文責:蒲原宏史 

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