(8/21-2)52『仏陀再誕』を読む―愚か者となるな―汝自身を知れ

『仏陀再誕』を読む

58 役小角(えんのおづね)は、母、白専女(はくとうめ)を人質にとられたため、捕縛されたが、日本の仙人界では大きな力を持っている。飛鳥寺を本拠地としていた若き行基も、一時期、秘術体得のため、共に修行していたらしい。役の行者は奈良時代の修験道の祖であるが、法相宗の行基は、彼から、祈祷や呪術を学んだものと思われる。

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

45 罪人は頂上で、わずかな空間を見つけ、生前の悪行の数々を神仏に謝罪する。主として肉体が犯した罪を肉体の痛みで応報刑(おうほうけい)として受けるのだ。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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【正業】職業はユートピアの原点
〇与えられた環境で「最善」を尽くす努力を

私は、以前から、「会社や他の事業など、いろいろなところで仕事をしていて、そこでユートピアを築けない人、そこで仕事ができない人が、幸福の科学へ来たらそれができるかというと、そうではない」ということを明らかに述べています。幸福の科学というところは桃源郷ではありません。

やはり、他の所で役に立てるような人が当会のなかで活動することによって、さらなる力が出てくるものです。この点は、どうか勘違いしないでほしいと思います。

「この世的にはどこでも成功しない、幸福も享受できない、ユートピアができたことはないが、幸福の科学だけではできる」と思ったら、それは充分ではありません。

『成功の法』のなかにあるように、「成功者の町」に入るために、それだけの下準備が要ります。

したがって、真理の運動に値打ちがあると思うとしても、ただそのなかだけに生きていてよいわけではありません。それ以外の所で足腰をしっかりと鍛えておく必要があるということです。

これについては、女性にも言えるでしょう。女性のなかには働いている人も、多かろうと思いますが、主婦として家庭を守っている方は、「主婦業も正業である」という観点を忘れてはなりません。

少なくとも、ユートピアづくりの原点は、「他の人の役に立ちたい」という願いです。身近なところでこのユートピアづくりのスタートが切れない場合、これを一挙に飛び越して理想の実現する世界が出てくるとは考えられません。

そこで、まず足元を見直していただきたいのです。主婦は主婦として、サラリーマンはサラリーマンとして、OLはOLとして、現在の立場をもう一度、振り返ってみてください。

このなかにおいて、確かに環境的要因というものはあるでしょう。環境的要因によって自己実現ができないことはあるでしょう。

しかしながら、「そのなかで最善を尽くしている」という現実があって初めて、他のところでも生きてくるのです。これは真理なのです。今、自分が置かれている立場、世界のなかにおいて学ぶということを放棄して、それ以外のところだけでは水を得た魚(うお)のように活動できるとか思うならば、甘いでしょう。そういう甘い幻想はやがて消えていくしかないのです。このことをよくよく考えていただきたいと思います。

【大川隆法『真説・八正道』第五章「正業」186pより抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、地上仏国土ユートピアの実現のために「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

そして一日を感謝と反省で締めくくるために、常に主の御言葉と「八正道」と共にありましょう。

今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
そののち、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第三章 愚か者となるな 
○己自身を知れ

世の中には、しかしまだまだ愚かなる者は数多い。
愚かなる者の一つに、自分を知らぬ者がある。
自分自身を知らぬ者がある。
自分自身がいったい何者であるかを知らず、
そうして、得々としているものがあるのだ。
しかし、何万巻(がん)の書物を読むとも、
たとえ、全世界を旅行してまわるとも、
己自身を見極めることができれば、
その人は智者とは言わないのである。

たとえ、いかほどの智慧を詰め込もうとも、
たとえ、生き字引となろうとも、
たとえ、ありとあらゆる地域を旅行し、踏破し、
全世界を経巡(へめぐ)ったとしても、
己が心を知らず、己が本質を知らぬ者は智者とは言わないのだ。
逆に、その知識拙(つたな)くとも、その見聞狭くとも、
よく己の心を知り、
よく己の心を治め、
その自分自身を知りえた悟りは、智者たるに足る。

人よ、
その順序を間違えてはならない。
まず、己自身を治めるということが大切なことであるのだ。
己自身を知り、己自身をよく治めるということなくば、
いかほど費用をかけ、いかほど月日をかけ、
いかほど多くの人の力を借りて、
どのような業績をあげるとも、それは智者であるとは言わない。
よく、己自身を知れ。
己自身を知ることのなかには、
己自身が仏の子であるという事実を知ることを含む。
いかに、この世的に世の人びとから尊敬さるるとも、
己のその身、その魂が、仏より与えられたものであることを知らず、
己の内なる仏性に気づかずに生きたる人間は、
決して智者と呼ばるることはないであろう。
よくよく、あなたがたに言っておくが、
まず、自分自身をよく知っている人間となれ。
それを、まず最初の目標とせよ。
自分を知ることなく、世界を知ったといくら言おうとも、
他の人をいくら知ったと言おうとも、
それはあなたが賢いということにはならない。
自らを知ることなくして、いくら他の知識を集めたところで、
愚かであると言わざるをえない。

○最たる愚者
人びとよ、
次にもまた悪露なる人がいる。
この愚かなる人びとは、
他の人びとを動揺と混乱に陥れることをもって悦びとしている。
他の人びとの心に毒をまき、
他の人びとの心に焦りを生じさせ、
他の人びとを誘惑の淵に導き、
他の人びとに妄言(ぼうげん)し、ささやき、そして、
道に精進しようとするものを迷わす者もいる。
このような者も愚かなる人びとである。
わが教えを学ぶ者のなかにも、このような者が出てくることがある。
自分の悟りが進まないがために、
自分が重用されないがために、
同行の士を巻き添えにしようとする者が跡を絶たない。
同じく修行の道を歩もうとする他の人の、
その堅実な心を揺さぶろうとし、そして自分の仲間を増やそうとする。
自分と同じく、不平不満を持つ者を増やそうとする者がある。

人びとよ、知れ。
このような心は、このような思いは、このような行動は、
すべて地獄に通じるものであるということを。
地獄には、数多くの亡者たちが生きている。
地獄の亡者たちは、自ら自身が助かろうとはしない。
自らが助かろうとするのではなく、仲間を増やそうとする。
仲間をつくろうとする。
他の人びとにも同じような苦しみを味わわせ、
他の人びとにも同じような迷いを与え、
他の人びとも同じような欲望の淵に落とすことによって、
自らの苦しみを和らげようとするのだ。
しかし言っておくが、このような行為を続けて、
本当に心が安らぐということは決してない。
そのようなことであってはならない。
自らの苦しみを薄めるのに、他の人を用いようとするな。
他の人を仲間にしようとするな。
他の人に愚痴を言おうとするな。
自らの苦しみは、自ら一人にて足れり。
自らの苦しみは、自ら一人にて対決せよ。
自ら一人にて、自ら自身の問題と対決せよ。
それを、他の人と徒党を組み、
共に自己の正当化や合理化に走ってはならない。
ゆめゆめ、そのようなことは、してはならない。
およそ、教えに付き、法を学ぶ者であるならば、
自らの正当性のために、教えを曲げたり、
歪曲(わいきょく)したり、間違って伝えたり、
あるいは、人びとを誘惑するようなことをしてはならない。
このようなことは、すべて地獄に通じるものであるということを知れ。

よって、私は言おう。
愚かなる者の最もたるものの一つに、
こうした、道に精進する人々を迷わす人がいるということを。
このような人は、自らが愚かであるということを認識していない。
自らは、愚かであるとは思わない。
自らが正しき者であると思い、賢き者であると思う。
そうして、仏の教えをも、自らの小さな知によって、
曲げ、歪曲(わいきょく)し、そうして自らに都合のいいように説明しようとする。
しかし、このような考えが
いかなる罪を生むものであるかということを、
賢き人たちは、知らねばならない。
その底にあるのは欲望である。
その底にあるものは、
法を説く者と同じく、偉い立場に立ちたいという欲望である。
しかし、諸人よ、
よく知りなさい。
人には、それぞれの器というものがあるのだ。
人が人を導くには、順序というものがあるのだ。
永年の転生輪廻の過程において、
魂優れ、実績優れたる者は、
先を歩く者として、後からついてくる者を導くこととなる。
しかし、その身拙く、その心拙く、修行十分でない者は、
やはり、今後も引き続き指導を受けねばならないのだ。
こうした立場の違いは、いつの時代にもあるということを知りなさい。
よく学ぶためには、よくわきまえることだ。
よく知るためには、謙虚になることだ。
よく悟るためには、よく自分自身を調律することだ。
それが大事であると思う。

【大川隆法『仏陀再誕』第三章「愚か者となるな」より抜粋】
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続いて、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第六章 人間完成の哲学
2 悟りの前提

それでは、悟りを得るためには、いかなる前提が必要なのでしょうか。また、そのために必要な心掛けは何でしょうか。

悟りには、主として三つの前提があります。

第一の前提は、「人間は無限の可能性を秘めている」という認識です。これがなければ、そもそも悟りは成り立ちません。「人間は、無限の可能性を秘めた存在、無限に伸びていく可能性を内包した存在である」と定義することもできます。

人間というものを、「運命という川のなかで浮きつ沈みつする、哀れでみすぼらしい存在」と定義するならば、悟りはありえないとこになります。しかし、仏教では、その根本において、人間の本質を無限によきものと見ているのです。

第二の前提は、「発心なければ悟りなし」ということです。「発心」とは、心から思い立つことであり、別の言葉では、「菩提心」ともいいます。菩提心とは、悟りを求める心のことです。

向上していこうとする心は、外から与えられもののではありません。そうした情熱が、自らの内から湧き出し、ほとばしてってこなければ、悟りを手に入れることはないのです。

したがって、発心が非常に大事です。発心をなすことは各人の義務であり、また権利でもあります。発心なくして悟りはありえないのです。

第三の前提は、「人間は努力を通して結果を得ることができる」という考え方です。これは、第5章「縁起の法」でも説明したように、「種をまけば果実が実る」ということです。これなくして悟りはありえません。「努力にはそれだけの報いがくる」という原因・結果の法則を、しっかりと身につける必要があります。

現象としては、努力が実らないこともあるでしょう。しかし、心の世界においては、原因行為、すなわち種をまく行為があれば、それは必ず実ることになっているのです。

たとえば、この世では、他人に親切を施しても、誤解されたり、実を結ばなかったりすることがあります。しかし、霊的世界においては、親切心を起こし、それを実行したならば、結果がすでに現れているのと同じなのです。

すなわち、「霊的世界においては、原因となる思いや行動があれば、すでに結果が出たのと同じである。悟りの世界では、因果の法則は確定している」と考えてよいのです。

一番目に、「人間は無限の可能性を秘めている」という人間観を持つこと。二番目に、発心し、勇気を奮うこと。三番目に、「悟りの世界においては、『種をまき、それを育てる努力があれば、必ず果実が実る』という因果の法則が、一〇〇パーセント的中するのだ」ということを知ること。

悟りの前提として、この三つが要求されているのです。

【大川隆法『釈迦の本心』第六章「人間完成の哲学」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。

【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】                                                  
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。

災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする  信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。

【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。

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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
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FAX:0596-31-1778
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文責:蒲原宏史 

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