(7/7-2)【阿羅漢への挑戦】188―6『永遠の仏陀』を読む―信仰という命綱―『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』愛は与えた人のものになる―「心の浄化」釈迦の提唱した反省法【八正道】―『真説・八正道』信仰から「正しき心の探究」は始まる―『釈迦の本心』生命への意欲

・教えを学ぶ

5 妖怪は、実績よりも勢いを好む。

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に「四弘誓願」を立て、『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、「正しき心の探究」と「地上仏国土ユートピアの実現」のために「四正道」と「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。
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■何を祈るべきか

「この地球の一員としての自分、
宇宙の一員としての自分、
この自分に与えられた使命を、
全うさせてください。
そして、願わくば、自らに縁のある人々に、
一筋の光明をお与えください。
一握りの愛を与えさせてください。
人々が幸福に生きられるように、
この世においても、
そして、この世を去った世界においても、
幸福に生きられますように」―

このように祈ることが大事です。

【大川隆法『祈りと希望』p61 より抜粋】
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はじめに、主の心原点に立ち返るべく、1989年の9月9日に説かれました『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』の教えを振り返ります。経典お持ちでない方は、必ずご拝受ください【税抜1500円】

本書は一種の人生論です。いや、むしろ人生論の解説書ともいうべき趣のある書物であると言ってよいでしょう。本書の表題である、「人を愛し、人を生かし、人を許せ」という短い言葉は、私の人生に大きな転機をもたらしました。(「まえがき」より)
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■人を愛し、人を生かし、人を許せ。
二 「人を愛する」とは
2 愛は与えた人のものになる

幸福の科学の本には、「与える愛とは無償の愛の別名である。ただ与えることに意味がある見返りを求めたときに愛は死ぬ」とよく書いてあります。

この「見返りを求めたときに愛は死ぬ」という言葉は、詩的な言葉というか、言葉自体の響きのために語られているものではありません。これは真実なのです。何かよいことをしたとしても、同じだけの結界、あるいは、それ以上の結果を期待してなされたときには、その行為は必ず帳消しになるのです。

そして、なぜ「見返りを求めるな」と言っているかといえば、与えた愛はその人のものになるからです。これが人間の心を貫く偉大な法則です。生きているうちに、このことだけでも知っておくことが大事です。「与えた愛は、与えた人のものになる」―これが目に見えない世界の法則なのです。

みなさんは偉大な人物についての話を数多く読んでいるでしょう。そうした人びとがなぜ偉大なのかといえば、見返りを求めずに多くのものを与えたからです。その結果、与えたものがその人のものになったのです。

これは、仏光物理学という霊界の物理法則に基づいて述べると、光がそれだけ増えるということです。

「あの人のために」という純粋な思いや行為においては、その思いや行為を発した瞬間、霊的に見ると、その人の頭に後光(オーラ)がパッとさしています。その後光は、与えられたもの、天上界から投げかけられたものです。自分の目には見えないかもしれませんが、霊的には確かに光が出ているのです。

その証拠に、心から他人の人を喜ばせることをしたときには、身体が熱くなるでしょう。相手ばかりでなく自分も温かくなります。真冬であってもポッと温かい気持ちになります。それが実は光が出ていることの証拠なのです。

霊視ができると、鏡を見てもその光がはっきり見えます。よいことを思えば、頭の後ろに後光がパッと出ます。他の人びとへの愛の思いを満ちたならば、与えることを考えているのに、むしろ与えられているのです。

これは、仏がなぜ人間をつくったかということと、きわめて深く関係しています。

当会では「人間は仏の子である」と説いていますが、それは仏と同じ本質を内在しているということです。同じ本質とは何でしょうか。仏にはいろいろな要素がありますが、いちばんの要素は「与える愛」です。

したがって、仏の子である人間が、その本来の姿に最も近いのは、愛を与えんとしているときなのです。そのとき、人間は自分を真に仏の子として認識することができ、また、「あなたがたは仏の子なのだ」ということを証明するかのごとく、光が与えられ、パッと輝くのです。

それは一時だけのことかもしれません。しかし、そうした思いを持って日々を生きている人のまわりには、笑顔や光が絶えないのです。

ある人が部屋に入ってくると、急に周りがパッと明るくなることがあるでしょう。常に「まわりの人びとを幸福にしよう」という思いで満ちている人からは、後光がずいぶん出ています。そうした人が入ってくると、パッと明るくなるのです。プラスの思いを持ち続けることを習慣にしていると、それが一定の実力となり、現象となって現われてくるわけです。

【大川隆法『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』第1章「人を愛し、人を生かし、人を許せ」より抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、教典『新・心の探究』より反省の原点である「心の浄化」について学びます。心を清浄にして妖怪性から脱却しましょう。
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■心の浄化
2 釈迦の提唱した反省法―八正道

このようにまず、心を浄化するさいには、すでにうず高く積もっているゴミや埃を、まずとりのぞくということが必要です。このゴミをとりのぞく方法にあたるものが、いわゆる反省法といわれるものです。

この反省法の典型的なものとしては、釈迦の唱えた八正道というものがあります。これは、正しさというというものを追い求めて、八つの基準でもってその日一日の自分を振り返るという作業です。

【大川隆法『新・心の探究』第4章「心の浄化」より抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、教典『真説・八正道』より反省の本質を学びます。妖怪性からの脱却をはかり、「反省からの発展」さらに「中道からの発展」を目指しましょう。
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■『真説・八正道』第1章「序論」
3反省の出発点とは
〇信仰から「正しき心の探究」は始まる

この「信仰心」というべきものは、従来使われている「信仰心」という言葉で表現される内容ではありません。ここで言う信仰とは、「事実の確認」そのもの、「真実の確認」そのものであるということです。そうした「大いなる叡智の断片を見た」ということであり、「仕組みを見た」ということの確認なのです。

「見た」という以上、それを「知る」ということ、それを「受け取る」ということ、「了解する」ということ、そして、それを「信ずる」ということ、そうした行為を信仰というのです。

信仰というのは、決して”摩訶不思議なものに対して祈ること”でも何でもないわけです。それは、「この宇宙の創造の秘密」を知り、「人間創造の秘密」を知って、それを納得のいくものとして理解することです。これが信仰というものの前提です。

この前提がない人は、このあと、いくら仏法真理の書物を読んだところで、いくら法話を聞いたところで、いくら勉強したところで、何の役にも立たないのです。

「まず、その土台を押さえよ」ということを述べておきたいと思います。

【大川隆法『真説・八正道』第1章「序論」35p】
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今日の一日を振り返りつつ、1991年7月に説かれました『永遠の仏陀』を振り返ります。
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■『永遠の仏陀』
第1章 目覚めよ
〇信仰という命綱

そして、
法を説く仏陀への、
信仰と帰依の姿勢を忘れてはならない。

帰依とは、
教えを受けとるために、
弟子としての道を知ることだ。
弟子としての態度を確立することだ。
師に対する態度を示し、弟子の道を行ずることだ。
これを帰依という。

そして、信仰とは、
師より流れ出してくる仏法真理の大河を敬い、
その法を恭(うやうや)しく受け、
究極なる仏に対して、誓いを立てることを言う。
仏弟子として、仏法真理の縁にふれて、生まれ変わったならば、
必ずや、その報恩のために生きるということを、
必ずや、その教えを人生の指針として生きるということを。
こうした誓い、誓願を立てることをもって、
あなたがたの信仰は本物となるのだ。

たとえ、千貫(せんがん)の重き岩が、
汝らの頭上より転げ落ち、その身を撃ち砕かんとしても、
仏法真理のために、その岩壁をよじ登ろうとする努力を
忘れてはならぬ。
その岩壁に垂らされたるところの一本の命綱を、
決して手放してはならぬ。
この命綱こそ、信仰と呼ばれているものなのだ。
たとえ、岩に、その身、打ち砕かるるとも、
たとえ、千頭の獅子に、その身、食われ、
たとえ、万羽の鷲に、その目、えぐられるるとも、
この信仰という名の命綱を決して手放してはならぬ。
あなたがたは、その肉体を失うとも、
その名声や、地位や、金銭を失うとも、
この信仰という命綱で、仏陀につながっているかぎり、
永遠の生命を失うことはないのだ。

しかし、この命綱を放した時、
ああ、あなたがたが落ちてゆく先は、決して地面ではない。
それは無限に近い深い深い闇なのだ。
その闇にそこなく、
あなたがたは、
どこまでもどこまでも落ちてゆくことになるのだ。
これを地獄という。
信仰を失いて、地獄の底に落ちるぐらいならば、
目の前に、獅子が現れて、
内臓を食い破られるほうが、ましではないか。
鷲が現れて、その目をえぐられる痛みに耐えることのほうが、
まだましといってもよい。
地獄は、魂の死である。
魂は、生かしてこそ、仏への感謝、報恩となるのだ。
尊きダイヤモンドのごとき生命をいただいておきながら、
それを、汚泥のなかに投げ捨てんとするのか。
そのようなことは、決してしてはならない。

あなたがたは、強くならねばならない。
信ずるということを通して、強くならねばならない。
信仰は、あなたがたを強くするものなのだ。
信仰は、あなたがたを弱くするということなど、

過去、あったためしがないのだ。
真に信ずる者は強くなる。
信じても信じても、みずからが弱いというならば、
その信仰はまだ本物ではない。

あなたがたが、つかんでいる、
その命綱は、そのロープは、
私の袈裟衣であるということを知らねばならぬ。
その命綱をつかんでいるかぎり、
仏陀と仏弟子とは一つであるのだ。
仏陀がいまだ地上において、
敗れたることがないように、
あなたがたも、敗れることはないであろう。
仏陀が、いまだ地上において、
その誓願を成就せぬことなかりしがごとく、
あなたがたも、あなたがたの立てたる誓願を、
成就せぬことはない。

【大川隆法『永遠の仏陀』第一章「目覚めよ」より抜粋】
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続いて、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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■『釈迦の本心』
第一章 菩提樹下の悟り
6 生命への意欲

村娘スジャーターと出会ったゴーダマは、「自分を立て直していかねばならない」と強く感じました。ほおを伝う涙は、ある意味で、過去への惜別(せきべつ)だったかもしれません。

ゴーダマは、ミルク粥が胃のなかを伝っていくとき、なんともいえない力強さ、おいしさを感じ、「食物を否定することは、必ずしも真理に至る道ではない」ということを知ったのです。そして、「人間に食べられ、人間の高度な活動に昇華されていくことは、食物にとって喜びとなるのではないだろうか。人間に食べられることは、食物によって無駄ではないのではないか」と考えました。

「結局、この世のありとあらゆるものは、より偉大なるものへの奉仕の材料として存在しているのではないのか。その材料を、材料だけでは意味がないと見捨ててしまうことは、修行者の名において、傲慢の罪を犯しているのではないだろうか。確かに材料だけではどうにもならないが、材料があって初めて料理ができるのであり、素晴らしい料理をつくることを、仏神は願っておられるのではないのか」

こうしたことをゴーダマは感じたのです。「よし、もう一度、生まれ変わって生きてみよう。新生してみよう」と思い立つことができたのは、みずからのほおを伝う涙、内臓にしみわたっていく食物のありがたさ、スジャーターの歌にある、「琵琶の弦は、中ほどに締めると音色がよい」という文句でした。

「なるほど、中ほどに締めればよいのか。確かに、強く締めれば、弦を弾くと切れてしまうことがある。反対に、ゆるみすぎては音色がよくないし、音が出ないかもしれない。現在の自分は強く張った弦であり、少し触っても切れてしまいそうだ。こんなことでは、よい音はでないのだ。

自分は、悟りだとか修行だとか言って肩をいからせていたが、それは、ごく自然なふるまいのなかで生きていく少女にも見劣りするのではないか。

いま天国の門が開くとして、スジャーターと私と、どちらを迎え入れるかといえば、天国の門は間違

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