88 うぬぼれは天狗の心であり、修行者としては転落への道である。知識や情報は、悟りとは違う。だから、「疑い」のジャーナリズムが「仏国土ユートピア」を創ることはない。
【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。
三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に「四弘誓願」を立て、『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。
そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、「正しき心の探究」と「地上仏国土ユートピアの実現」のために「四正道」と「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。
引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。
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■何を祈るべきか
「この地球の一員としての自分、
宇宙の一員としての自分、
この自分に与えられた使命を、
全うさせてください。
そして、願わくば、自らに縁のある人々に、
一筋の光明をお与えください。
一握りの愛を与えさせてください。
人々が幸福に生きられるように、
この世においても、
そして、この世を去った世界においても、
幸福に生きられますように」―
このように祈ることが大事です。
【大川隆法『祈りと希望』p61 より抜粋】
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はじめに、反省の基礎を学ぶべく、教典『真理学要論』より「反省と霊能力」について学びます。経典をお持ちでない方は是非拝受ください。【税抜1700円】
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■『真理学要論』第3章「反省と霊能力」
1 苦しみの原因
世の中は苦悩に満ち、悩みに満ち、至るところにジレンマがあります。それは、決して、みんさんがただけに特有の問題ではなく、どのような方にも、みなそれぞれある問題です。
人には見栄というものがあります。少しでもよく見られたいという気持ちがやはりあるもので、こういうものが苦しみの出発点になってくるわけです。
なぜ苦しむのかと考えてみると、見栄だと言われれば、みなさんがたは怒るかもしれませんが、やはり「よく見られたい」という気持はあるでしょう。
人様から見られていて、自分の見栄といいますか、外だけではなく内側も含めて、見栄がグレードダウンしてきますと、やはり「残念だ」「悲しいな」という感じになります。そして落ち込んでき始めると、人様の前にいられなくなってきます。だんだん人前から消えたくなってくる、小さくなってしまいたい、こういう気持があります。
今、そういう気持になっている方もそうとういらっしゃると思いますが、そういうときに考えてほしいのは、「そういう状態にあるのは、自分一人ではない」ということです。自分だけがそのような立場にあるわけではありません。
それは人間にとって、やはり共通性のある行動パターンなのです。「自分一人ではないんだ。長い人生では、そんなことはよくあることなんだ。ほかの人にもよくあることなんだ。自分だけでは、決してないんだ」、そういうことをまず思ってください。
そしてもう一つは、「世の中というのは敵ばかりではない」ということを信じることです。これは大事なことで、惨めな気分になっているときには、人間は、周りの人みんなが自分の悪口を言っているような気がするのです。そして、人と会えば傷つきそうな気がして、人に会えなくなってくるのです。
しかし、公平な観点で考えてみたらよいと思いますが、周りの人が一体何の利益があって、そんなに自分をいじめなければならないか、苦しめなければならないか。こういうことを考えてみると、それほど悪人ばかりがいるはずもありません。ですから、思い過ごしもそうとうあるわけです。
その思い過ごしのなかには、他の人の言葉のなかから、表情のなかから、自分に都合の悪いものを何か発見しようとしている、自分自身のそういう感覚があるのではないでしょうか。自分自身に、アンテナのように、いろいろな電波を受け止めるようなものがあり、「何か自分に不都合なものはないか、具合の悪いことはないか、そういう情報はないか」と、いつもいつもキャッチしようとしているのではないでしょうか。
そういう性格がないかどうか、よく知ってほしいのです。そういう性格のある方は、やはりその根本のところを変えていかなければなりません。
本当に人間の考え方というのは、いろいろなものがあります。例えば、講演中に私がパッと目を止めただけで、「目が合った」と思う人もいるのです。私にしてみれば、パッと見たときに同時に目に入ってくるのは数十人であって、一人を見つめるということは実際上ありえないことなのですが、それを「自分が見られている」と思う人がいるわけです。
そして、後ろに何か憑いているのではないかと思って、振り返ったりするのです。自分の憑依霊か何かでも見つかったのではないかと思う。「反省と霊能力」という題ですから、「ああ、そこは危ないですよ。ちょっと出てきなさい」などと言われるのではないかと思う方がやはりいるのです。
このように、人間というものは、一対多というか、大勢と自分一人という考え方はあまりできず、「自分対他」「一対一」ぐらいのものの考え方しか、なかなかできないものなのです。こういうところに苦しみの原因があるように思います。もう少し楽な気持ちで、もう少し公平な観点から、自分自身のあり方というものを見ることができるのではないでしょうか。
【大川隆法『真理学要論―新時代を拓く叡智の探究』第3章「反省と霊能力」より抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、教典『真説・八正道』より反省の本質を学びます。妖怪性からの脱却をはかり、「反省からの発展」さらに「中道からの発展」を目指しましょう。
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■『真説・八正道』第8章「正念」
7「待ちの間」の蓄積
〇神と一体となり、時間の限定をせずに努力していく
先ほど述べた三軒の家の話(p271~276を参照)についても、もし、私が自分の計らい心で、「最初の所が絶対にいい、絶対にここを手に入れる」と一点集中して思っていたら、どうなったでしょうか。相手が、「どうやら、宗教らしいので怖い」と言っているのを、「いや、宗教じゃない。科学だ、科学だ」と言って一生懸命に説得し、「家賃を十万円高くするから貸してくれ」などと交渉までして、ごり押ししていたら、どうだったでしょうか。その段階では、あとに出てくる物件のことは分からないので、そう願ったかもしれません。しかし、私は、「また次が出るだろう」と一瞬で切り替えてしまいました。
結果は前述(p271~276を参照)のとおりです。この間のズレが、せいぜい二か月でした。
このように、「時間」のところについては、あまり限定できないところがどうしてもあります。地上の時間の流れとは、多少違うわけです。また、具体的な背景も若干変わることもあります。
しかし、自分が本当に強く願っていて、それが神様と一体となっている場合には、必ず良い結果が現れてきます。ここの絆が大事です。
自己実現の一つの例として述べましたが、やはり、腰を入れて、「必ずよいほうになるだろう」「必ず道は開けるだろう」と思いながら、その間、時間の限定を外し、退却はせず、前進をしていく、その間に自分としての努力をしておくと、必ず道がついていきます。
最初のところでつまずいてギクシャクしてしまってはいけないのです。そこでオタオタするようでは、本当の意味での自己実現など、絶対にできません。腰を入れて落ち着くわけです。そいし、「必ずそうなる!」と思って待っていれば、そうなっていくわけです。
【大川隆法『真説・八正道』第8章「正念」278pより抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
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■『仏陀再誕』
第7章 信仰と仏国土建設への道
○信仰の根本
さて、以上、
大きくは宇宙の根本神、根本仏ともいうべき
大宇宙大霊に対する敬意と、
また高級霊に対する敬意の二つがある、というふうに言った。
すなわち、信仰の根本は、
優れたる者への帰依の姿勢であり、
知恵ある者への帰依の姿勢であり、
力ある者、光ある者、叡智ある者、また愛ある者への、
帰依の姿勢であると言ってもよい。
それは、物事を与え与えられ、
物事を指導される時に、どうしても必要な姿勢であるのだ。
高級霊と言われる人びとと地上の人間との差は、それは大きい。
象と蟻ほどの違いもあろう。
にもかかわらず、一匹の蟻が、その象の全体を評している姿は、
まことに滑稽(こっけい)としか言いようがない。
あなたがたも、想像できるだろうか。
一匹の蟻が、象全体をどのように評価できるだろうか。
彼が何者であるかを理解することができるであろうか。
それは、かなり難しいことである。
それと同じように、
地上の人間が、偉大なる高級霊を評価することは難しい。
なぜなら、その全体像を知ることはできないからである。
されど、心の奥深くを観た時に、
あなたがたには必ず感じるものがあるであろう。
仏教といい、キリスト教といい、他の諸宗派といい、
さまざまな教えが説かれているが、そのなかに説かれている内容は、
魂の奥において、どこかで学んだことがあるものではなかったろうか。
いや、きっとそうであったにちがいない。
あなたがたは、仏教を読み、キリスト教を読んでも、
なぜか魂の郷愁を感じ、なぜか理解しえるものがあるであろう。
時代を変え、地域を変えて出た光の先達(せんだつ)たちの言葉が、
数千年の歴史を隔てて、今あなたがたに理解され、
あなたがたの魂を揺さぶるという事実をなんと見るか。
それを不思議と見るか、
それとも、それをまことにもって当然のことと見るか。
そう、それは必ずしも不思議ではない。
さまざまな地域に、さまざまな時代に、教えを説いた、
そうした高級霊たちが、今、実在界にいて、
またあなたがたを守護・指導しているのである。
あなたがたはこの大きな力のもとに、
今、結集し、
今、法を学んでいるのだ。
【大川隆法『仏陀再誕』第7章「信仰と仏国土建設への道」より抜粋】
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続いて、地上への執着と煩悩を断つ修行法として『漏尽通力』を共に学びます。
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■『漏尽通力』
第5章 仏法真理と学習
3 漏尽通力の鍵としての知力
この「知」の本質、「知力」というものを、本書の表題である漏尽通力との関わり合いにおいて、話をしてみたいと思います。
まず、「知」と「霊能力」との関係ということについて考えてみたいと思いますが、この最初の問題については、非常に例外的なことが多かったということが言えましょう。日本でも古来、霊能者というのは数多くいたわけですが、彼らの知力が非常に高いという場合は、珍しいケースであったと思います。たいていの場合、学問もなく純粋に生きていて、人生の転機に「神の声、仏の声を聞いた。高級霊の声を聞いた」と言って、宗教家になっていくことが多かったかもしれません。
ところが、そのために、一つの問題点が出てきました。それは、「高級霊」と称するもののなかに、他のいろいろな諸霊、悪霊たちの声が混ざることがあるということです。それによって、非常に世の中を混乱させることが数多くありました。
低級霊たち、あるいは、悪霊たちの本質というものは、結局、「論理的に整然としたものの考え方ができない」というところにあるわけです。彼らは感情の起伏のなかに生きており、非常に感情的な生活を送っているため、理路整然とした物事の組み立てや考え方ができません。そういう状態ですから、悪霊や低級霊たちのささやきを見破るためには、ある程度の知力を持っているということが大事であるわけです。
ところが、ここに、もう一つ別の問題点があります。知力を持っている、知が高いということが災いして、今度は逆に”非常に感動しないような人間”が出来上がることがあるということです。宗教の出発点は、やはり「霊的感動」であり、「霊的感応」です。学問で自分を固めたような人間というのは、非常に警戒心が強く、疑う心が強いがために、かえって信仰の道に入れないことが多くあります。そのようなわけで、逆効果になることが多かったのです。むしろ、歴史的に見れば、「学問をやった人ほど『霊』や『神』、『仏』といったものを否定する傾向があった」言ってもよいかもしれません。それは、この世的なる知、”小知”が仏法真理の理解を妨げていたということです。
そういう観点からすると、やはり、「霊能者でありつつ巨大な知力を持っているということは非常にまれであった」と言えるかと思います。
ただ、近代の霊能者の流れを見ると、「巨大霊能者は非常に知力も高かった」ということが言えるのではないでしょうか。出口王仁三郎(でぐちおにさぶろう)しかり、谷口雅春しかりです。こうした最近の偉大な霊能者たちは、「知的な面でも非常に優れていた」と言えると思います。また、「霊能者」とは言えないかもしれませんが、内村鑑三のような方も、非常に知的には高かった人であろうと思います。
そのように、結局、「正邪を分かち、漠然とした、曖昧模糊(あいまいもこ)とした霊的世界をこの世の人間に分かるように解説し直すためには、それだけの知的な組み立て、あるいは知的なフィルターが必要だ」ということが言えるのではないでしょうか。
こうしてみると、今後、仏法真理を説く場合に、「どれだけ多くの人に理解してもらうか、考えてもらうか」ということを思うと、結局、「世の人々が受け入れるようなものでなければならない」という面が、非常に強くなってくるわけです。では、世の人々の多くが受け入れるものとはいったい何かというと、「おどろおどろしいもの、恐怖心のみをかき立てるようなもの、とても納得がいかないものであって、よいわけではない」ということです。
日本人の大部分は、”高学歴”の人たちです。非常に知的水準が高いわけですから、仏法真理の内容そのものも、そうした知的水準より高いものでなければ、世の人々は感動しないし、それに喜びも感じないのではないでしょうか。この意味において、「世の知的水準を超えるような内容」というものが、最低限、要求されるわけです。
また、「知力」というものは、もう一つ別な面を持っていると思うのです。
高度な霊能力を持った人であっても、日々、生きているうちに、霊的現象のなかの渦のかなに巻き込まれてしまって、現実だか、霊界の出来事だか。幻想だか、自分の現実のなかなのだかが分からなくなります。
毎日毎日、目に見えぬ霊の話を聴いているうちに、それが本当なのか、嘘なのか、あるいは、現実が違っているのか、このあたりが分からなくなっていきます。
こうした人間の人格分裂を防ぐために、知力というものが非常に役に立ちます。知力があってこそ、その人が守られるという面、その人の人格が守られるという面があるのです。あるいは、その人を狂わせない安全弁としての知力というものがあると思います。
こうしてみると、「知を持つ」ということと、「霊的体質である」ということの両方を比較衡量(ひかくこうりょう)するときに大切なことは、「純粋な心を持ちながら、知力を磨いていく」ということではないでしょうか。そのように思われるわけです。「純粋な気持ちを忘れることなく知力を磨いていく」、これが大事だと思います。
では、どのように努力していけばよいのでしょうか。これが次なる問題としてあるわけです。それは、知力を磨くということの目的が、結局は問題なのではないかということです。何のために知力を磨こうとするのでしようか。それは、何かの手段のためでしょうか。あるいは、「目的としての知力」「知的進化」を目指しているのでしょうか。これが問題とされるわけです。
知がさまざまな仕事に役立つことは事実です。したがって、「手段としての知」というものを完全に否定することは不可能であろうと私は思います。だた、「手段としての知」ということにこだわらず、「知を深めていく」ということ自体がひとつの悦びとなり、魂の発展となっているならば、「そうした知というものには、非常に純粋なものがある」ということは言えると思います。単なる「試験に通るためだけの知」というようなものは、やはり安っぽいものであるし、それには、「頭脳を鍛える」という面意外に積極的なる面は少ないと思います。
ただ、頭脳を鍛えるだけではなくて、より高次な「人生観」を持ち、より高次な「判断力」、より高次な「認識力」を持つための知であるならば、それはトータルな人生観を押し上げ、向上させるものとなっていくであろうと思われるわけです。
こうしてみると、知を求める動機における「純粋さ」「純粋性」ということが、非常に大事なのではないでしょうか。そして、その純粋さとは、結局、「宇宙の叡智」につながっていくものだと言えるのではないかと私は考えます。神仏の属性のなかには、いろいろなものがあります。「神仏は光である」とか、「神仏は愛である」とか、「神仏は勇気」であるとか、「神仏はエネルギーである」とか、「神仏はその他諸々のものである」とか、いろいろな言い方がありますが、神仏のひとつの面として、「叡智」という面は見逃せないと思います。
大宇宙を創られた根本仏は、非常に叡智に満ち満ちた方です。整然とした宇宙を創られ、合目的的な世界を創られました。こうした神仏であるならば、非常に聡明で、非常に叡智に満ちた神仏であろうと思われるのです。ですから、この地の進化の究極にあるものは、「根本仏の叡智」そのものであろうと思います。なぜならば、「知」というものは、世界を理解し、世界を向上させんとしていくための力であるからです。結局、知の向上の限界、最高点には、「根本仏の叡智」というものがあるということでしょう。
こうしてみると、漏尽通力が霊能力のなかの最高峰とも言われますが、この最高峰である「漏尽通力の安全弁としての知」、知力というものは、結局、根本仏の叡智につながっていくものだということが言えましょう。根本仏を単なる「奇跡の神仏」と捉えるか、あるいは「叡智の神仏」と捉えるかという違いかもしれません。漏尽通力以外に、霊視能力であるとか、霊聴能力であるとか、いろいろな能力がありますが、それらは奇跡の面にしかすぎません。しかし、そうした霊能力の奥にあるものとして、根本仏の叡智そのものを捉えたときに、それが最高の力となるのは当然でしょう。

