82 「竜神を守護霊に持て」とかすすめている密教教団がある。現世利益に集まってきた蛇霊(じゃれい)をもらい、やがて、小悪魔、魔王と取り憑いてくるので、できるだけ早く離れることだ。幸福の科学で説く「因果の理法」以外で救われることはない。
【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】
22 キャー、キャー、ギャー、ギャーと騒ぐだけで何ら世の中に貢献なき者は、猿のような姿となって群れている。(バカ・ミュージックのミーハーファンなど。)
【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。
三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に「四弘誓願」を立て、『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。
そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、「正しき心の探究」と「地上仏国土ユートピアの実現」のために「四正道」と「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。
引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。
『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
われらの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
われらを真なる幸福へと導きたまえ。』
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はじめに、今日の一日を振り返りつつ、天御祖神の御教えを振り返るために、二〇二一年十二月十四日にさいたまスーパーアリーナでのエル・カンターレ祭大講演会にて説かれました『地球を包む愛―天御祖神の教え』から学びます。
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『地球を包む愛―天御祖神の教えと真の世界正義』
3 「あの世を信じる心」はなぜ大切なのか
〇「武士道がある日本の思想は、中国の孔子の思想をも超えていた」と言った李登輝(りとうき)元台湾総統
二〇一九年でしたが、私は台湾に講演に行きました。「淡水(たんすい)」という所に李登輝さんの実家があるので、そちらのほうも講演会の翌日には言ってきたのですけれども、元台湾総統の李登輝さんの書物のなかにはとてもおもしろい一節が書かれていました。
それはこういうところです。
李登輝さんは、「日本の思想というのは、中国の孔子の思想をはるかに凌(しの)いでいる」ということをはっきり言っていました。これを私が読んだのは、この方が書いたものが初めてです。
それは、「孔子の思想は『論語』を中心にいくつかありますけれども、『論語』のどこを読んでも『あの世の世界』を中心に幾つかありますけれども、『論語』のどこを読んでも『あの世の世界』について書いていない、『死後の世界』について書いていない」ということです。そしいて、それを問われても、「未(いま)だ生を知らず、焉(いずく)んぞ死を知らんや」―いまだ、この人生を生きるということの意味が分からない、この人生の意味が分からない自分が、どうして死後の世界のことがわかるだろかというようなことを、確かに、『論語』のなかで孔子は答えています。
これを捉えて、李登輝さんは、「日本には武士道がある。少なくとも、江戸時代には山本常朝(やまもと・じょうちょう)という人が『葉隠(はがくれ)』という本を書いて、『武士道とは死ぬことと見つけたり』という言葉を遺している」というようなことを言っています。
もちろん、死ぬこと自体が目的ではありませんけれども、「この世の寿命というのが本当に短いものであって、はるかに長い人生を生きているなかで、この世に下りてきて何十年かの人生を生き抜けていく」、そのことを考えれば、常に、自分の死のことを考え、死後のことを考えた上で、
「自分は正しい選択をしているか」
「正しく生きているか」
「人生を偽っていないか」
「他人の人生を狂わせたりしていないか」
「間違ったことをしていないか」
「正しいことをしているか」
「他の人に対して優しい行為をしているか」
「苦しい人に対して慰めを与えているか」―そういうことを、自分の死ということを毎日毎日考えることによって、「この世の生」の意味、「一日一生」ということの本当の意味を悟れるということです。
これが日本の武士道の意味だということで、「生きながらにして自分の死、『死して後、何を残したか』ということを課題として生きてきた日本人は、孔子の思想も超えていた」というようなことを、李登輝さんは言っていたのです。
【大川隆法『地球を包む愛―天御祖神の教えと真の世界正義』第一章より抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、教典『真説・八正道』より反省の本質を学びます。妖怪性からの脱却をはかり、「反省からの発展」さらに「中道からの発展」を目指しましょう。
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5希望実現の法則【正念】
④「念」によって他の人を縛ろうとしてはならない
さらに、この自己実現においては、単に戦車のようになればよいというものではありません。ここにはもう一つ、「方向性」という問題もあります。
念の世界というのは実現性があるため、間違った方向の念いであっても、確かに実現してしまうのです。したがって、方向性というものが極めて大事になります。
ここで、「念」による自己実現をするときに、どうしても考えてほしいことがあります。
それは、絶対に「念」によって他人を縛ろうとしてはいけないということです。自分の道を開くために、他人の人生を自分の都合のよいようにねじ曲げようという考えは、絶対に起こしてはいけません。これは間違いです。
自分なりに目標を設定し、「これを実現するためには、あの人がこうならないかぎり駄目だ」というように考えた自己実現では駄目だということです。ここを間違えてはいけません。これでは「念」が「害」になってしまうのです。
こういうタイプの自己実現は、間違えれば地獄です。間違わなかった場合でも、裏側の世界です。そのどちらかです。これははっきりしています。その自己実現の結果、他人を不幸にしていけば地獄に行きます。そこまで行かなかったとしても、「他人を自分の都合のよいように変えていこう」とするような念の使い方で道を開いてきた人は、必ず裏側へ行きます。
それはなぜでしょうか。そこに愛がないからです。愛が欠けているのです。
これは「自己愛」なのです。本当の「与える愛」や「利他の愛」ではないのです。こういうところで「表」と「裏」が分かれるわけです。
表側の世界は、本当に他の人によかれと思って自己実現をしていく人々の集まりですが、裏側のほうは、自己発揮に燃えている人たちの世界なのです。その結果、いろいろな”超念力の世界“に入っていきます。これは、「限りなき自己愛」です。ここを間違わないでください。
【大川隆法『真説・八正道』第8章「正念」267pより抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。
三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。
そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、「正しき心の探究」と「地上仏国土ユートピアの実現」のために「四正道」と「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。
引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。
12/15(日)は「エル・カンターレ祭」を開催致します。エル・カンターレ祭は、7月の御生誕祭と並んで幸福の科学の二大祭典です。22日(日)までエル・カンターレ祭を10時、13時、19時にて連日開催いたします。皆さまご参集ください。
主に心から今年一年の慈悲と知恵とご指導へと感謝と、さらなる報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。
エル・カンターレ祭では、大宇宙を創り、生きとし生ける者を創り出され、永遠の愛を与え続けておられる「創造主の愛への感謝」を深め、主
大川隆法総裁先生より、この一年間に賜った数々の御慈悲を振り返り、心からの感謝・報恩の念いを捧げさせていただきます。そして、大川隆法総裁先生のご復活を心より祈念し、全世界の信者一同で、エル・カンターレ祭版「復活の祈り」を執り行います。
『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
われらの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
われらを真なる幸福へと導きたまえ。』
今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
そののち、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第六章 転生輪廻とは何か
○今世と来世
諸々の比丘、比丘尼たちよ。
さらに、私の話を続けて聞くがよい。
おまえたちの幸福は、また、今世限りのものではない。
今世おまえたちが、この世にて味わった幸福は、
この地上を去った時に、あの世にて、どのような世界が、
おまえたちを待ち受けているか、それを明確に表しているのである。
おまえたちの今世得た心境が、
来世おまえたちが住む世界の境涯を決めるのである。
おまえたちはすでに学んでいることであろう。
あの世の天国と言われる世界にも、
さまざまな境涯があるということを。
下には、もちろん地獄という世界がある。
地獄という世界から上にも、まだまだ迷いの世界にいる人びともいる。
その上に、善人の世界もあり、
その上に、優れたる高級霊たちの世界もある。
世界は、幾層、幾十層に分かれており、
その細かい区分は、あの世に住んでいる者でさえ分からないほどだ。
しかし、これがやはり真実であるのだ。
おまえたちが天界と呼んでいる世界も、
数多くの層にて出来上がっている。
その人間の心のありようが、明確に規定されるのである。
地上にいた時には、その肉体のよし悪しや、
肉体を用いた自己実現によって、
さまざまな結果が現れたであろうが、
来世において、おまえたちを待ち受けているものは、
それは、おまえたちの心の境地を高下(こうげ)しかない。
心高ければ高き世界に行き、心低ければ低き世界に行く。
それ以外の基準はないと思わねばならない。
ただ、心しなければならないことは、
地獄へと行っている人は、
この世的に成功しなかった人ばかりではないということだ。
この世的には成功しても、地獄へ行っている者は数多くいる。
それらの者たちは、人の幸福を祝うことができず、
自分の幸福のみを求めた人たちである。
いや、他人の犠牲のもとに自分の幸福を達成し、
自分の幸福を追求してきた者たちが、地獄界で苦しみのなかにある。
それは、生きていた時に、
その人を成功させるために苦しんできた人たちの
怨嗟(えんさ)の声であるということだ。
生きている時に、その人の成功のために犠牲になっていった人たちの、
その悲しみや苦しみの念波が、
その者たちを、そのように苦しめているのだ。
いや、生きている時に、多くの人たちを苦しませ、
悲しませたという事実が、その人の魂に蘇(よみがえ)り、
その人の魂自身が、
今、そのカルマを刈り取っていると言ってもよいだろう。
およそ、心の世界とはそのようなものなのだ。
地上にいた時に、
自らは肉体のなかに宿っているがゆえに、鈍感であり、
他の人びとの感情に気がつかなかったかもしれないが、
もし、肉体を持っている時に、
あたかも地上を去った後のごとく敏感であるならば、
生きているうちにて、そのような地獄を感じたのである。
そのような地獄の波動を感じたのである。
されど、数十年の後に、
あの世にあって初めて、そのように苦しむ者もあるのだ。
それをあざ笑うことは、何人もできない。
なぜならば、そのあざ笑う人自身が、
やがてそのようになる可能性が高いからだ。
地上にいる者たちにも、伝えなければならない。
この世にて成功する者は、必ずしも天界高く還るものではない。
この世の地位の高さは、必ずあの世の地位の高さを示すものではない。
そうではなく、それは地位が高ければ高いほど、
転落する時に痛みもまた激しいということを知らねばならない。
もちろん、あの世の、天界の世界というものは、
すばらしい世界でもある。
それも、もちろん、
そこへ行く人、それぞれの境涯に合わせた世界ではあるが、
いずれにせよ、この地獄という世界に比べたならば、
天界は、いずこも素晴らしい。
とくに、心清く、正しく生きてきた人たちは、
やすらぎの世界に迎えられるということは難(かた)くない。
彼らは、ごく当然に、
安らぎと喜びに満ちた世界に還ってゆくこととなるだろう。
この逆に、この世で悩み苦しみの渦中にあって、
それを拭い去ることができなかった者たちは、
あの世にてもまだ悩みを続けるであろう。
しかり、それゆえに、
悟りの第一の条件として、まず心しなければならないことは、
悩みや苦しみをあの世に持って還らないということであると思える。
すなわち、今世にて、今世ただいまにて、
その迷いを解き、その悩みを断ち、その苦しみを克服することだ。
悩みを持って地上を去った者には、悩みの世界が待っている。
苦悩を持って地上を去った者には、苦悩の世界が待っている。
悲しみを持って地上を去った者には、悲しみの世界が待っている。
しかし、
喜びを持って地上を去った者には、喜びの世界が待っているのだ。
【大川隆法『仏陀再誕』第六章「転生輪廻とは何か」より抜粋】
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続いて、地上への執着と煩悩を断つ修行法として『漏尽通力』を共に学びます。
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第四章 漏尽通力
5 平凡のなかの非凡
こうした観自在能力を持って生きている人間は、ともすれば、非常に異質な存在となります。そして、自分はそうしたことが分かるからといって、それをやたらと人に吹聴したくなってきます。「あの人はこうなるであろう」「あの人は過去にこういうことがあった」「あなたは今、こういうことを考えているだろう」ということをズバズバと歯に衣着せずに言っていると、この世的には、いわゆる奇人変人の類(たぐい)に入れられることになってしまいます。そして、残念なことに、本人は不本意な気持ちで生きなければならないいようになっていくのです。
そうであるからこそ、高級霊体質であるとしても、観自在能力を持っているとしても、この世的には、もう一度、自分自身の箍(たが)を締め直さなければなりません。そういう面があるのです。これが、努力すべき目標として、「平凡のなかの非凡」という言葉で表されるものです。
「自分は明らかに非凡である」と思うと、それは異常な人格へとつながっていきます。誰が見ても、異様な人格、異常な人格に見えます。しかし、そうではなく、「平凡のなかの非凡」を目標とすべきです。通常人と変わらないような平凡な生活をしていながら、そのなかに非凡の芽を潜ませる。非凡な力を発揮していく、これは、静かに自己を発揮するということとも一致します。
成功したがる人間は、ともすれば、自己顕示の思いにとらわれます。どうやって自分をよく見せるか、アピールするか、人々によく思われるか。こういうことにのめり込んでいきます。そうして、だんだんと異常な性格となっていき、人生に両極端の波が訪れてきます。こうしたことがあってはいけません。
平凡のなかの非凡。平凡な生活のなかに、淡々と流れていくような毎日のなかに、非凡な光を放つ。これが大事です。通常人と同じようにしながら、おなじではない何かを感じさせる。これが大事です。
この平凡のなかの非凡さこそ、やはり誇るべきものです。「明らかに非凡であって、非凡な人が非凡に生きている」ということはまた平凡なことです。そうではない。普通の人でもできるような平凡な生活をしていながら、そのなかに魂の煌めきを残していく。光を残していく。これが大事です。どうか、そういう考えを大事にしていただきたいと私は切に思います。
非凡さそのものを追求してはいけません。非凡さそのものを追求しても、それは一回限りのことです。その人限りのことであり、他の人々の手本にはならないのです。他の人たちも生きられるような生き方のなかにおいて、魂の輝きを増す。光を放つ。これが大事です。
では、平凡のなかの非凡とは、具体的にいったい何でしょうか。例えば、ビジネスの問題があります。ビジネスに生きる人たち、ビジネス倫理のなかに生きる人たちは、宗教的信条を明らかにしたがりません。またねそれにとらわれたがりません。言いたがりません。そうしたものを信じていないというように装いたがります。確かに、それはそれで結構です。職場のなかで、ビジネスのなかで、「いかに神や仏が好きだ」とかいうことを常々言っている人は、この世的には、やはり、奇人変人と言われていくでしょう。そういうことであってはいけません。そういう意味での非凡さを求めてはいけません。
やはり、「この世的にきちんと仕事をやる。仕事を実践している。このなかにおいて、真理を学んだということが何らかの光を放つような生き方」、これをしていかねばならないのです。
たとえ神や仏の名を出さなくても、霊や高級霊、守護霊等の話などしなくても、ただ、生きているなかに、人間としての優しさ、心のあり方、心の不思議を追求、探求していく自分、そして、後ろ姿でもって、人々を指導していく自分、影響力でもって、人々を指導していくような自分であればよいのです。そういう、あなたがたであればよいのです。
【大川隆法 『漏尽通力』第4章「漏尽通力」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are The One, with our Lord. 我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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◆映画「ドラゴン・ハート」伝道植福について
5月23日(金)に全国の映画館にて公開されます映画「ドラゴン・ハート」は大川隆法総裁先生制作総指揮による28作目の映画となります。この映画の大成功に伊勢支部信者全員の信仰心を結集させていただきます。皆様の尊い布施をどうぞ、この映画伝道植福に託して、私たちに縁ある方々の心と魂を救うべく、この映画を主の御名と共に、全国・全世界で広宣流布してまいります。映画伝道植福への喜捨を何卒宜しくお願い致します。
大宇宙の すべての根源であり 地球の創造主であられる
主エル・カンターレ 大川隆法総裁先生
映画『ドラゴン・ハート❘霊界探訪記❘』を賜り
心より感謝申し上げます
本作は 未知なる世界に飛び込む勇気を与え
人類に真実への目覚めを与える映画です
全世界の人々に
霊的真実と主エル・カンターレの御存在を
弘めてまいります
仏弟子一同 力を合わせて
一人でも多くの方を 主のもとへと誘(いざな)ってまいります
■映画『ドラゴン・ハート―霊界探訪記―』四つのポイント■
①「天国・地獄」の存在を知らしめ、全人類の魂を救済する映画です。
映画では、霊界探訪記として現代の地獄の有様を詳細に描いています。つまり、今死んで地獄に落ちるとしたらどんな世界なのかということがリアルに映像体験できる映画です。死後の世界を詳細に紹介することで、「あの世はない」「霊界なんてばかばかしい」と考える人の間違えた考えをカブト割りする映画です。この映画は、このままでは地獄に落ちてしまうたくさんの方々に救いの縁を届ける「魂の救済」映画です。正しい霊界観や信仰を持たない人にこそ届けたい映画です。
②地球の霊的中心地・シャンバラの危機を救う映画です。
今、地球の霊的中心であるシャンバラは、地上世界で、信仰心が薄れ、神仏や霊的世界を信じない人が非常に増えていること、巨大な唯物論科学国家である中国が、インドやネパール等への覇権を強めていることによって、非常な危機にあります。現に中国・洞庭湖のほとりにあるシャンバラの入り口は発見するのが相当難しくなっています。
シャンバラという地球の霊的センターが護られていることで、魂修行の場としての地上世界も安定いたします。もし、シャンバラが崩壊するようなことがあれば、地球を護る霊的結界が失われ、宇宙の邪神やダークマターの悪想念による更なる地球介入を招く事態となります。
本映画は、霊界思想を地球の霊的センターとしてのシャンバラの存在を全世界へと知らしめることによって、崩壊への危機にあるシャンバラを護るという「神の戦い」そのものを描いた映画です。
③全世界の人々が主なる神エル・カンターレと出会い、一つなる道を示す映画です。
この映画は、全世界の人々に造物主エル・カンターレのご存在を知らしめる映画であり、本年の幸福の科学の活動テーマである「日本全国・全世界にエル・カンターレ信仰を打ち立てよう。なお、一歩を進める」の中心となる作品です。
主人公たちの地獄巡りは、現代社会の諸相そのもの。しかし、そうしいた人類の、かつてない混乱、混迷の先には、大いなる規模、救い主の存在があることを示す映画であり、宗教の違いや、民族や国家の枠を超えて、全人類が、主なる神への共通認識の下、一つになる道を示される希望の映画です。
④仏弟子(まだ気づいていない仏弟子)たちがドラゴン・ハートに目覚め、霊的覚醒をうながす映画です。
この映画は、川で河童を追って溺れた主人公の二人が、霊界の天日鷲神に出合い、「霊界探訪で本来の自己に目覚めることができたなら地上に還してあげる」と告げられ、地獄巡りなどの一種の修行を経て、魂の親エル・カンターレと出会い、本来の自分の使命に目覚めるという、宗教的なメッセージが込められた映画です。
純粋な信仰心、そして、救世への本物の念いの確立が求められている今、私たち仏弟子や、まだ目覚めていない一般の方たちの中にいる仏弟子予備軍に対して、霊的覚醒を促す導きの映画であり、私たちのドラゴン・ハートに導かれた旅は、映画公開までに、すでに始まっていると言えるのが本年の活動です。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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エル・カンターレ・大好き
(3/16-2)75『仏陀再誕』を読む―転生輪廻とは何か―今世と来世―平凡のなかの非凡
