(2/22-1)53経文「植福功徳経」を読む ①功徳を求めぬ植福が無限の功徳を生む神秘―イエスへの信仰を日本の儒学者はりかいできなかった

植福功徳経を読む

71 怒ってくれる人がいるうちが花である。

【大川隆法 箴言集『人生への言葉』より】
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おはようございます。「一日一生」。今日も、主のため、世のため、人のために、信仰に、伝道に、植福にさらに一歩進めましょう。

新しき日を 迎えるにあたり、
主エル・カンターレに
心より お誓いいたします
本日も
正しき心の探究と
愛と
知と
反省と
発展の
幸福の原理を実践し
一層 悟りを高め
地上ユートピアの建設に
力を尽くして まいります。
生命ある限り
この仏法真理を 弘めます。
どうか 私の
今日の誓いを
お聞き届けください
ありがとうございました(合掌)

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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。本日も全国・全世界の信者の信仰心を結集し①10:00~、②13:00~、③19:00~と世界同時に主の奇跡を願い、復活の祈りを捧げさせていただきます。皆様の祈りの結集をお願いいたします。

3月7日は「宗教法人設立記念日」です。「幸福の科学が永遠に続くことになった始まりの日」です。

1991年のこの日に、「幸福の科学」は宗教法人として、世に誕生したことを記念する日です。この日をはじまりとして、幸福の科学は永遠の法灯がともされることになりました。
「宗教法人設立記念日」には、大宇宙の根本仏であられる主エル・カンターレ 大川隆法総裁先生に、永遠の法灯を灯して下さったことへの感謝を捧げます。
そして、発祥の時において、いかに盤石なエル・カンターレ信仰を打ち立て、
揺るぎない形で主の法を後世に伝えることができるかが重要な使命であることを心に刻み、
真理の法灯を子々孫々に継承していく決意を固めてまいりましょう。

はじめに、津支部にて2009年2月8日に賜りました御法話『信仰と富』を学びます。
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〇イエスへの信仰を日本の儒学者は理解できなかった
この日本の伝統思想からいくと、「原始キリスト教も原始仏教も思想的には十分ではない。一面しか説けておらず、神の資格の必要十分条件を満たしていない」と見えるところがあります。

そのため、日本にはキリスト教がなかなか入ってきませんでした。

また、江戸時代に、密入国をした宣教師を、儒学者である新井白石が尋問したとき、白石には、イエスへの信仰が、どうしても理解できませんでした。

「なぜ、捕まって殺された人を信仰するのか。それは、ご利益がない神にしか見えない。あまりにも弱すぎる。『敵を撃退した』ということなら分かるが、『磔にあった人が神で、世の中を救う』と考えるのはおかしい」

このように、何か「引っ繰り返っている」ように見え、しかたがなかったのです。「人々を救うためにイエスは殺されたのだ」という思想を、江戸時代の儒学者たちは「倒錯している」と感じたわけです。

これは意外にまっとうな判断です。パウロなどの伝道者たちは、事実をひっくり返して、強引に「イエスは、実は、復活するために十字架にかかったのだ」という考えを持っていき、伝道を行いました。

やり手といえば、やり手であり、そうとうな剛腕です。事実を逆転させ、教えを押し広げていき、やがて、強いローマを教えでは支配していきます。次々と殉教しながら、何百年もかかって人々に教えを広げていきました。

したがって、宗教には、本当に難しくて分からないところがあります。

ただ、イエスの生涯から見て、キリスト教には、ある種の悲劇性のようなものが流れていることも事実です。どちらかというと、「人間は、もともと罪人なのだから、罪を贖(あがな)うためだと思って、病気や試練に耐えよ」というような教えのほうが多く、そのような考え方で、わりと落ち着くのです。

〇日本人は伝統的に「宗教を見る目」が肥えている
日本の神はというと、やはり、「もっと”パッピー”でなくてはいけない」と考えます。江戸時代の後半以降に起きてきた宗教を見ると、天理教や黒住教などにしても、「陽気に明るく生きていこう」という、「陽気ぐらし」系の思想が強いのです。

これは、わりと日本神道の中心的な考え方です。天照大神や天御中主神など、日本神道の中心指導霊は、こういう考え方に近いのです。

これは日本の「古代思想」なのですが、意外にも現代のアメリカは、これと同じような一種の光明思想を持っていて、「発展することは、よいことだ」という考えを、ここ百年以上、持ち続けているように思います。

日本の宗教のレベルが低いかと思いきや、案外そうでもないのです。「日本神道は”中身”がない」という説もあるのですが、前述したように、日本人には、イエスの受難物語を聞いて, 
「これを神とするには足りない」と判断するような宗教的知性があることはあります。「自分も救えない人が、どうして人を救えるのだ」と考えるような智慧があるのです。

その意味では、なかなか隅に置けませなん。中身がないように見えて、意外に中身があります。日本神道は、宗教として二千年以上の歴史を持っているだけのことはあって、したたかなのです。

「日本人には宗教心がない」といわれることもありますが、日本は意外と「宗教王国」なのです。

日本人は数多くの宗教を経験してきました。いろいろな宗派が並び立ち、長い間、宗教同士が競争してきました。日本人は、古い宗教をたくさん見てきたため、とても目が肥えていて、新しい宗教が出てきても、そう簡単には信じません。「騙されないぞ」と思い、すぐには信じないで、じっと見ています。

「無神論です」「無宗教です」などと言っても、ある意味では、宗教に関して、”玄人好みの趣味”を持っているので、そう簡単には乗ってきません。「偽物には食いつかないぞ」と考えるだけの伝統があるのです。

外国人は、よく、「日本には無宗教で信仰心のない人が多い」という言い方をしますし、日本のマスコミも、そういう報道をするのですが、裏にまわってみれば、日本は宗教の伝統が長く、日本人は目が肥えていて、なかなか一筋縄ではいかないのです。

外国生まれの宗教が、日本に入ろうとしても、なかなか入れないのは、そのためです。日本は、外国の宗教にとって、伝道がとても難しい国なので、「日本人は信仰心のない国民だ」と言われたりするのですが、実は、宗教が多すぎ、目が肥えすぎているため、そう簡単には信じられないのです。それが真相です。

一種の”刷り込み”によって、「日本人には宗教心がない。日本人の多くは無宗教で唯物論者だ」というようなことが、世間一般では言われていますが、日本人には、「建前と本音とは違う」という面がかなりあります。自分自身でも本当は理解していないのかもしれませんが、日本人は、宗教に関して、「料理の味にうるさい人たち」のようなところがあると思うのです。

【大川隆法『日本の繁栄は、絶対に揺るがない』第四章「信仰と富」より抜粋】
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ここで、仏教の修業論に立ち返るべく、教典『沈黙の仏陀』を学びます。経典お持ちでない方は、ぜひお求めください。【1800円税込み】
―仏陀入滅して二千五百年。その教えは沈黙の中におかれた。しかし、その真意を解く鍵は、修業論のなかにある。沈黙の仏陀の声なき声がそこにある―『まえがき』より
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第4章 五停心観(ごじょうしんかん)
5「因縁観」―愚痴(ぐち)多き人が修する観法

三番目には「因縁観」というものがあります。これは「貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)」の「癡(ち)」を対象としています。癡とは愚かであることです。現代的には、愚痴や不平不満の代表のように言われていますが、もとをただせば、愚かであるから不平不満が出てくるわけです。

愚痴や不平不満が出る人というのは、なぜ出るのかということを考えてみると、結局のところ、因果の理法に無知だからなのです。出ている結果にがまんがならないわけです。不満だから、いろいろなことで愚痴が出るわけです。

たとえば、会社で自分が昇進しないのはおかしいと怒りが出たり、不満が出たり、他人(ひと)に対して八つ当たりしたり、家に帰って奥さんに八つ当たりしたり、子供に「いくら勉強したって、おまえなんか出世できない」と言ってみたり、そのような愚かな行為が出てきます。

このように、他人(ひと)に八つ当たりしたりするわけですが、結果として自分がなぜ出世しないのかという、その因果の理法をもっとよく見なければいけないのです。何が原因で自分は出世できないのかを考えてみると、原因は必ずあります。

会社というのは、会社にとってプラスになる人、会社の利益になり発展に貢献している人を、長くは冷遇していられないのです。たまに、好き嫌いの人間関係でだめなこともありますが、長い目で見て、会社にとって有用な人、有能な人が埋もれつづけるということは、やはりないものです。ですから、出世できないというのは、その原因がその人なりに必ずあります。それに気づいていないだけのことなのです。あるいは自分が認めていないだけのことで、原因を探求すれば、そうした処遇をされた理由は必ずあるのです。

これを知らずして、勝手に八つ当たりをしたり、あいは自己卑下をしてみたり、自暴自棄になってみたり、世を儚(はかな)んだり、神を恨んだりするようなことは、完全な間違いなのです。それは愚かな人間の特徴です。その原因をよく知らなければなりせん。貴方が今そうなっているのは、それだけの原因があったからです。その原因を探ろうとしなさい。そうすれば不平や不満が止まります。「あ、これが原因で、自分はこうなっているのだな」ということがわかります。

現代的に言い換えるならば、たとえば、マスコミ等でよく取りあげている「偏差値問題」があります。「私立高校に入るのに偏差値がいくら必要だとか、そうした偏差値を云々(うんぬん)するということは、いけないことだ」と、新聞やテレビで騒いでいるわけですが、これを「愚痴」の問題として考えてみましょう。

偏差値自体に罪があるかどうかということを考えてみると、偏差値には罪はないかもしれません。昔であれば、たとえば「五百点満点で何点」という絶対的な点数だけで、成績の良し悪しを判定していたわけですが、実際には問題の難易度があり、易しかったり難しかったりするので、昨年は平均八十点で受かっても、今年は、平均八十点で受かるかどうかはわかりません。ところが偏差値であれば、問題の難易度にかかわりなく、受験生全体のなかで自分がどのくらいのレベルに位置しているかということが、ある程度わかります。去年は八十点が合格点であったけれども、今年は問題が難しいので七十五点で合格できるというようなことが事前に分かります。そうした効果もありますし、あるいは選択項目によって点数が上がり下がり・

�るので、それを均(なら)す効果もあります。そういう意味では、偏差値そのものには何の罪もありません。

それでは、いったい何が問題とされているのかというと、「高い偏差値を取れないと、いい私立高校に行けないという、進学障壁があるのがいけない」ということを実際は言っているのです。

しかし、偏差値をなくせば、これがなくなるものかどうかを考えてみると、やはりなくならないのです。何らかのかたちでの選別方法は必要なのです。

試験制度そのものがいけないと言うならば、ほかに何で測ればよいのかということになります。家柄でしょうか。親の経歴でしょうか。あるいは本人の人格ということもあるかもしれませんが、中学あたりで人格を云々(うんぬん)されても困ります。まだまだこれから勉強して人格をつくっていく段階です。

大学入試でも同じです。「人格本位」ということもありますが、大学の先生に面接されて合否を決められたのでは、やはりたまりません。大学の先生自身がオールマイティーなバランスの取れた先生であればよいのですが、実際はそうではありません。普通の企業などには勤められないような人が、かなりたくさんいます。そのような人の目で人格をされた場合には、偏った人ばかりが受かってしまいます。それもまた怖いことです。

そういうことで、公平を期する意味では、物心がまだ充分についていない若い段階、社会的な修行が終わっていない段階で、人物であるとか家柄であるとか、あるいは財産であるとか、そのようなことで決められても困ります。やはり公平性が大事です。その意味では、学力で測るという方法は非常に公平なものさしなのです。

ですから、根本は、偏差値制度が悪いわけではなくて、学力が一定に達していないところに問題があるわけなのです。

たとえば、某私立高校に行きたいけれども、偏差値が七〇もあるので入れないという場合、偏差値制度が悪いから入れないのかといえば、そうではありません。自分の子供が、英語ができない、あるいは数学ができないということが問題なのであって、それをできるようにすることが正しい道なのです。その子にあった進路があるわけです。

ですから、問題をすり替えてしまってはいけません。そういう制度があるからいけないと考えるべきではなく、基本は学力が足りないのですから、どの科目が不得意なのかということを考えればよいのです。

それが不得意な理由は、結局は勉強が足りないからなのではないか。勉強ができるようになるには、どうしたらよいのか。あるいは、愚痴を言っているけれども、自分がそのような私立高校に張れなかった理由は、実際は過去にこうした勉強を怠ってきたからではないのか。そのようなことを振り返ってみると、やはり不平不満を言っていること自体に問題があるのではないか―。

こうした「癡」の部分は、因果の理法をきちんと突き詰めていき、原因があって結果がいま出ているのだということを知っていくと、実は収まってくるものなのです。

このようなことは、社会に出てからも、いくらでもあるだろうと思います。課長に昇格する年齢が来たのに、同期より一年遅れた。「あいつが早く昇格するのはおかしい」と言うけれども、過去を振り返ってみて、入社して十年余り、自分がどういうことをしてきたかをずっと見てみると、なるほどと納得のいくものがやはりあるわけです。

このように、原因行為をきちんと押さえて、その結果が出ているのだと知ることを、「因縁観」といいます。愚痴や不平不満を抑える役割があり、縁起の理(ことわり)を対象とした観法です。これは応用の範囲が非常に広いので、まだまだ考えていく余地があると思います。

【大川隆法『沈黙の仏陀』第4章「五停心観」より抜粋】
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さて、
本日から「植福功徳経」について共に考える機会を得たいと考えています。

教義として主よりたくさんの御教えをいただいていますが、その中心にあるのが、「仏説・正心法語」です。七つの経文が収められていますが、「毎日、全編を繰り返し読誦してください」とお勧めさせていただいています。

一方、『エル・カンターレへの祈り』には、「エル・カンターレへの祈り」「伝道参加のための祈り」「植福功徳経」の三つが収められており、「信仰」「伝道」「植福」という、私たち仏弟子の救世運動の理念が凝縮されています。

ですから、私が支部活動で行き詰まる時、いつも原点回帰するのが「エル・カンターレへの祈り」です。そういう意味では、私たちの宗教活動の中心にある大変重要なお祈りです。

本日、特集をしています「植福功徳経」を深く学ぶために、主より経典『「エル・カンターレへの祈り」講義』をいただいていますので、ぜひ伊勢支部にて拝受して下さい。
詳しい解説は、この経典をご覧いただくとして、このメールマガジンでは、日々の活動にこの聖なる祈りをどのように生かしていくかという視点で、お届けしたいと考えています。

「植福功徳経」はこのように始まります。
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功徳を求めぬ植福こそ
無限の功徳の始まりなり
それ信仰心に対価なく
見返り求めぬ心こそ
心の修行の原点なり
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「功徳を求めぬ植福こそ 無限の功徳の始まりなり」

植福功徳経は、大変印象的な禅の一転語から始まります。
「見返りを求めないお布施が、尊い仏への供養であり、無限の悟りへの道の始まりである」始まりおいて、悟りの一転語を与えています。

ちなみに、「エル・カンターレへの祈り」には、「エル・カンターレへの祈り」と「伝道参加のための祈り」の二つと「植福功徳経」が収められていますが、「植福功徳経」のみ、お経となっています。お経は仏様の教えですから、植福功徳経自体が「法」の解説であることを意味しています。「植福実践行」に対する弟子への教えなのですね。

幸福の科学では、お布施にあたる奉納を林業の植林に例えて「植福」という言葉を使っています。英語にすると、その名の通り「Happiness Planting」となり、「福を植える」という意味です。

まず前提として知っておきたいことは、私たちの植福はすべて主エル・カンターレに捧げるものであるということです。仏・法・僧に帰依した私たちは、その御仏に対する限りない感謝を植福として形に表しています。

よって、
植福をするにあたっては、私が、私がという自我を捨てて、ただ、ただ、真心から主への感謝と共に植福をご奉納させていただいています。

植福は「大切な宗教修行」であるということを心得ることが、私たち信仰者にとって大切な心がけとなります。植福による布施行は、「執着を断つ心の修行」です。ですから、植福に対価を求めることは心得違いであるということになります。植福の動機が不純であるということになってしまうのです。

俗世間では、何かお店で何かサービスを求めるとき、私たちはその価値に見合う代金を支払います。そして、その支払いに相応したサービスを受け取ります。例えば「スーパーでお金を出して、お米を買う」など、私たちがお金を店に支払うとき、必ず商品やサービスを見返りとして求めます。これは売買契約であるので、ふだんのくらしの中では当たり前のことです。

しかし、その世間一般の売買契約を、信仰の世界に持ちこむと、大きな過ちとなってしまいます。これを難しい言葉で「対価性」と言いますが、信仰における価値とは対価性のない、この世の価値基準ではかるべきものではないからです。仏教では、お布施することを喜捨すると呼びますが、このように喜んで仏のために捧げる気持ちがとても大切なことです。

布施行は仏との契約では決してありません。これを勘違いするとせっかくの信仰が現世利益になってしまいます。この点注意が必要です。

「これだけの植福やお布施をしたから、私は天国へ行ける。この先必ずいいことがある」
このような気持ちで植福すると功徳がないですよ。という戒めです。
特に、今、純粋な信仰の大切さをサンガ全体で再認識している中、現世利益的な信仰は、純粋ではなく、また長続きしないことも事実です。

この世における思いや、言葉や行いに関する報いは、必ず、その行い自体に報いが、必ず返ってまいります。植福の功徳があるとするならば、「今、植福をする、仏への喜捨をすることで、次の植福の機会を得ることができる。心の修業を積み重ねることができるという行為自体に報いがすでにある」ということです。私たちが普段からしている何気ない行為は、必ず習慣化されるからです。

植福は心の修行です。植福はこの世的な執着を断つ聖なる修行です。
見返りを求めない心が、心の修行の原点なのです。

繰り返し強調しますが、植福は、執着をとり去る無我修行の一つであり、心の修行です。
執着があることの霊的・この世的な問題点をまとめるとこのようになります。
・執着があると死後天国に還れない
・執着があると霊症になる
・執着があると正しい判断ができない
・執着があると悩み苦しみから逃れられない
・執着があると守護霊と同通できない
・執着があると阿羅漢になれない
・執着があると菩薩の力を発揮できない
・執着があると伝道ができない

このように、このようにこの世的な執着を断つ修行というものは、仏弟子にとって特に重要な修行課題です。そして執着を断った無執着の境地はきわめて天国的な境地です。私たちは、これを目指しています。

この心の清らかさに絶対必要な無執着の境地を得るために、私たちは布施行をとおした植福実践を心の修業として重ねています。
植福の大切さ―布施の大切さについて、いて主よりこのように教えていただいています。
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それから、「執着を断つ」ということも非常に大切な修行ではあります。そこで、やや仏教的にはなるかもしれませんが、当会においても、「植福」、あるいは「布施」というものがあります。仏教的には、「喜んで捨てる」ということで「喜捨(きしゃ)」とも言われています。これ自体は、対価があるものを買ったり、サービスに対する何かの対価を払ったりしているわけではありません。「自分の持っているお金は命の次に大事だ」という人もいるかもしれませんが、これを差し出すことによって、「自分自身の執着を断つ」という修行をしているわけです。

【大川隆法『悪魔からの防衛術』第三章「悪魔の発生源」より抜粋】
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are The One, with our Lord.  我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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◆映画「ドラゴン・ハート」伝道植福について
5月23日(金)に全国の映画館にて公開されます映画「ドラゴン・ハート」は大川隆法総裁先生制作総指揮による28作目の映画となります。この映画の大成功に伊勢支部信者全員の信仰心を結集させていただきます。皆様の尊い布施をどうぞ、この映画伝道植福に託して、私たちに縁ある方々の心と魂を救うべく、この映画を主の御名と共に、全国・全世界で広宣流布してまいります。映画伝道植福への喜捨を何卒宜しくお願い致します。

大宇宙の すべての根源であり 地球の創造主であられる
主エル・カンターレ 大川隆法総裁先生

映画『ドラゴン・ハート❘霊界探訪記❘』を賜り
心より感謝申し上げます

本作は 未知なる世界に飛び込む勇気を与え
人類に真実への目覚めを与える映画です
全世界の人々に
霊的真実と主エル・カンターレの御存在を
弘めてまいります

仏弟子一同 力を合わせて 
一人でも多くの方を 主のもとへと誘(いざな)ってまいります

■映画『ドラゴン・ハート―霊界探訪記―』四つのポイント■

①「天国・地獄」の存在を知らしめ、全人類の魂を救済する映画です。
映画では、霊界探訪記として現代の地獄の有様を詳細に描いています。つまり、今死んで地獄に落ちるとしたらどんな世界なのかということがリアルに映像体験できる映画です。死後の世界を詳細に紹介することで、「あの世はない」「霊界なんてばかばかしい」と考える人の間違えた考えをカブト割りする映画です。この映画は、このままでは地獄に落ちてしまうたくさんの方々に救いの縁を届ける「魂の救済」映画です。正しい霊界観や信仰を持たない人にこそ届けたい映画です。

②地球の霊的中心地・シャンバラの危機を救う映画です。
今、地球の霊的中心であるシャンバラは、地上世界で、信仰心が薄れ、神仏や霊的世界を信じない人が非常に増えていること、巨大な唯物論科学国家である中国が、インドやネパール等への覇権を強めていることによって、非常な危機にあります。現に中国・洞庭湖のほとりにあるシャンバラの入り口は発見するのが相当難しくなっています。

シャンバラという地球の霊的センターが護られていることで、魂修行の場としての地上世界も安定いたします。もし、シャンバラが崩壊するようなことがあれば、地球を護る霊的結界が失われ、宇宙の邪神やダークマターの悪想念による更なる地球介入を招く事態となります。

本映画は、霊界思想を地球の霊的センターとしてのシャンバラの存在を全世界へと知らしめることによって、崩壊への危機にあるシャンバラを護るという「神の戦い」そのものを描いた映画です。

③全世界の人々が主なる神エル・カンターレと出会い、一つなる道を示す映画です。
この映画は、全世界の人々に造物主エル・カンターレのご存在を知らしめる映画であり、本年の幸福の科学の活動テーマである「日本全国・全世界にエル・カンターレ信仰を打ち立てよう。なお、一歩を進める」の中心となる作品です。

主人公たちの地獄巡りは、現代社会の諸相そのもの。しかし、そうしいた人類の、かつてない混乱、混迷の先には、大いなる規模、救い主の存在があることを示す映画であり、宗教の違いや、民族や国家の枠を超えて、全人類が、主なる神への共通認識の下、一つになる道を示される希望の映画です。

④仏弟子(まだ気づいていない仏弟子)たちがドラゴン・ハートに目覚め、霊的覚醒をうながす映画です。
この映画は、川で河童を追って溺れた主人公の二人が、霊界の天日鷲神に出合い、「霊界探訪で本来の自己に目覚めることができたなら地上に還してあげる」と告げられ、地獄巡りなどの一種の修行を経て、魂の親エル・カンターレと出会い、本来の自分の使命に目覚めるという、宗教的なメッセージが込められた映画です。

純粋な信仰心、そして、救世への本物の念いの確立が求められている今、私たち仏弟子や、まだ目覚めていない一般の方たちの中にいる仏弟子予備軍に対して、霊的覚醒を促す導きの映画であり、私たちのドラゴン・ハートに導かれた旅は、映画公開までに、すでに始まっていると言えるのが本年の活動です。

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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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TEL:0596-31-1777
■□■
FAX:0596-31-1778
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エル・カンターレ・大好き

文責:蒲原宏史

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