9 妖怪は悟ったふりが好きだが、実態は、精進が嫌いで、人の目をごまかす。
【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】
91 救世主や、仏陀を殺した者が、許されることはない。国法も、政治信条も、マスコミ世論も通用しない。
【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。
三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に「四弘誓願」を立て、『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。
そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、「正しき心の探究」と「地上仏国土ユートピアの実現」のために「四正道」と「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。
引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。
『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
われらの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
われらを真なる幸福へと導きたまえ。』
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はじめに、今日の一日を振り返りつつ、『天御祖神の経済学』の教えを確認します。
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■『天御祖神の経済学』
2 富の源泉と考えられているもの
〇国をつくり、発展させる際に考えるべき二つの観点とは
天御祖神
また、「平等」の考えをめぐっても、いろいろと難しいものはあります。
農村社会においては比較的、平等の考え方はつくりやすいことはあります。それは、お米の収穫や農作物の収穫は天候に支配されることが多いので、誰にとっても条件が同じように現われるからです。
雨がよく降る年と降らないとし、日照りの年もあれば、台風や洪水の年もある、同じように被害が出るし、同じような恵みを受けることがあって、平等の考え方はつくりやす傾向はありますので、「豊作の年と凶作のときに、共に喜びも痛みも分かち合う」という考え方は成り立ちうる原初的形態ではあると思います。
しかし、またこれも、農業において技術革新が行われていったときには、いろんな差は出てくることになるでしょう。
例えば、ビニールハウスを一つ発明することによって、季節を外れた野菜や果物がつくれるようになるということになってくると、収穫量に違いが出てきます。まあ、そういうようなことだし、肥料というものが開発されることによって、収穫力に変化が出てくることもあります。
また、頭のいい人がマネジメントをすることによって、より大規模な農業を展開して、個人個人がバラバラに働く以上の成果をあげうる場合もあります。この農家のなかの資本家的な存在が、より多くの成果を出して、トータルでは以前よりも全体を豊かにすることもありえます。
かと思えば、農業に素人であるところの政治家が全部を計画経済でやろうとして、先の中国の「大躍進政策」のように、数千万の死者を出すような大失敗を出すようなこともございます。このへんについては、技術的にも難しいところはあるだろうというふうに思います。
ただ、私の考えるところは、少なくとも二つのことについては常に考えておかねばならないということであります。
一つは、「それぞれの国において、国の民草、国民が生活をしていけるように、あるいは、少しでも未来がよくなるように、導いていけるような国をつくる」ということは、基本的によいことです。
しかし、二番目の条件としては、「その国の発展が、他の国々の発展と調和して、総合的に世界が豊かで喜びに満ちたものになっていくかどうか」という観点も、もう一つはあります。
先ほど述べた軍隊でも、「先軍政治」というような考え方もあります。軍隊のほうを先に強くしておけば、他国からの侵略を退けることができて、場合によっては、「軍事にかけた予算を、他国を侵略することによって財産に換える、あるいは食糧やエネルギーに換える」という経済学も、”野蛮人の経済学”ですけれども、存在することは存在するのです。
ただ、これに対して現代人としては「言論や思想、あるいは法治国家的なものの考え方や国際法の考え方において、調整していかねばならないところがある」ということを言っておかねばならないでしょう。
最後に、「美」が富になる場合もあります。美がその希少性と需要の多さから富を生むという点です。
例えば、ダイヤモンドにはその希少性から値打ちがあります。なぜなら、「見た目に美しい存在であり」、数が少ないことによって、人間がそれに値打ちを見いだしているからです。また、日本の絵画の世界では、展覧会などで入賞した著名な画家の場合、「号」という絵の単位面積当たりで、とても高い値段が付いて、一枚の絵が何千万円も何億円もするところまで行くことがあります。
【大川隆法 『減量の経済学』第2章「天御祖神の経済学」より抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、教典『真説・八正道』より反省の本質を学びます。妖怪性からの脱却をはかり、「反省からの発展」さらに「中道からの発展」を目指しましょう。
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2神仏の業(わざ)を見る【正見】
〇目は「霊的な進化と目覚め」に大いに貢献している
こうしてみると、八正道の初めに出した「正見」は、人間の器官のなかで、世界を認識するためにいちばん大きな働きをしている器官に結びついているわけです。
いろいろな「肌の感覚」という触覚によっても、世界認識は不十分です。「目がある」ということが、どれだけみなさんの「霊的な進化と目覚め」に貢献しているか、これに改めて気づくのではないでしょうか。
「器官をいつだけ選べ」「感覚を一つだけ選びなさい」と言われたときには、「目がある」ということが、人間として生きていることを認識する上においてどれほど役に立つか、考えてみてください。
口が動かなくても、耳が聞こえなくても、社会的にハンディはあっても、「世の中がどうなっているか」は分かります。しかし、生まれつき目が見えない方は、この世界を理解するのに困難を極めます。「人間とは何か」が分からない。「動物とは何か」が分からない。「植物とは何か」も分からない。「目が見えない」ということは、そういう困難を伴うのです。
〇正見の「見」は「see」ではなく、「look」の意味
真実の「正見」とは何であるかというと、実は、「見るという行為をもっと高める」ということです。「映像としてのみ見、映像としてのみ受け取るのではなくて、もっと、その奥にあるものを見よ。神仏の動きを見よ」と言われているのです。「神仏の手がなした業(わさ)を見よ。その業の結果を見よ」と、ここまで言われているわけです。
それを見抜くことができない者は、少なくとも、「神の子、仏の子として地上に生きて、見た」とは言えません。それは「目が開いていた」ということのみであって、「見た」とは言わないのです。
それを見抜くことができない者は、少なくとも、「神の子、仏の子として知事ように生きて、見た」とは言えません。それは「目が開いていた」ということのみであって、「見た」とは言わないのです。
これは、英語で言うならば、「see」と「look」の違いに似ているかもしれません。正見の「見」は「look」のほうです。「see」のように「漫然と目に映る」というのではなく、「意志を集めて見る」ということです。意図的に、積極的に見なければならないのです。
3「正見」の出発点
「見る」という行為の反省の入り口は「他人の姿」【正見】
この「見る」という行為をさらに分析してみたいと思います。「見る」という行為を分析したときに、問題点として、いったい何があるでしょうか。
「見る」という行為の反省で、出発点としてまず考えてよいことは「他人の姿」です。これが入り口としてはいちばん分かりやすいのです。
それは、人間が過ちを起こしやすい理由、心に間違いを起こしやすい理由の一つが、「他人の存在を理解できない」ということであるからです。「理解できない」というという言葉が不十分であるとするならば、「理解尽くせない」と言いかえてもよいでしょう。
いくら見ても見ても、その人の真実の姿はそう簡単に見えてきません。十年付き合っても二十年付き合っても、見えないものは見えないのです。
しかしながら、私たちは、目を通し、映像として見ているその人の姿のなかに、その人の人格を見ていることは明らかです。そのどこを見ているのか、それは定かではないけれども、目に映じてくるその人の姿、そこからその「人となり」を判断しています。すべての人が、世界七十七億の人が、こうしたかたちで、それぞれ判断をしているのです。
それは、一見、無責任な判断です。「自分が他人をどう見たか」ということに関して責任を問われたことは、かつてほとんどなかったはずです。自分自身を振り返ってみて、そうではないでしょうか。「ある人を自分はこう見た」ということに対して責任を問われたことは、ほとんどないはずです。
問われたことがあるとするならば、「それを語ることによって」です。後に述べる「正語」においては、これが問題となります。「語ること」「表現すること」によって責任を問われることはありますが、「見る」ということのみにおいて責任を問われることはないのです。
【大川隆法『真説・八正道』第2章「正見」52p】
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今日の一日を振り返りつつ、1991年7月に説かれました『永遠の仏陀』を振り返ります。
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第二章 真実の人となれ
〇努力に比例した世界
この中道から外れる生き方を起こさせるものに、
他の者への嫉妬心がある。
この嫉妬は、嫉妬する心は、
決しておまえたちを幸福にすることはない。
このことを知らねばならぬ。
嫉妬は、毒牙を持った一匹の蛇である。
この蛇が、心のなかに忍び込むや、
おまえたちは夜も眠れなくなる。
常に、他の人間がうらやましくて、
その心、落ち着く時がない。
心せよ。
かくのごとき毒蛇を、みずからのうちに引き入れてはならぬ。
嫉妬は、その芽のうちに摘んでしまわねばならない。
嫉妬の芽を摘むための考え方は、
これは、他の人に対する公平な評価にあると言ってよいだろう。
自分も、他人も、はるかなる昔に、
仏の子として、人間の生命を得たものであるが、
その時より、今日に至るまで、
幾千回、幾万回、
あるいは、それ以上の転生輪廻を重ねてきたのだ。
それだけ多くの回数を、地上生活として送ってきたのだ。
ある者は、他の人々の幸福のために生き、
ある者は、他の人々を多く害して生きてきた。
その両者が、もし同じ扱いを受けるとするならば、
仏の創った世界は、
なんと不公平に満ち満ちていることであろうか。
やはり、それだけ多くの転生を経てきて、
人間には、
それぞれの魂の器というものが、
でき上ってきているのだ。
そうした、転生の過程を経てかたちづくられたる、
魂の器というものを認めない考えは、
これは、他人の努力を認めない考え方であり、
暴君のような、暗い心に支配されていると言わざるをえない。
おまえたちも、
アリとキリギリスの話を聞いたことがあるであろう。
夏のあいだに、汗水を垂らして、
アリは、せっせせっせと、えさを運び、蓄えた。
そして、キリギリスに対して、
「キリギリスさん、あなたは歌ばかり歌っているが、
将来への備えはしなくてもよいのですか」と問うても、
キリギリスは、その日暮らしの楽しみのなかに生きて、
「先のことは先のことだ」と考えた。
やがて、木の葉が落ち、秋風が吹き、
冬将軍が訪れた時に、
夏のあいだに、せっせと働いたアリは、
そのえさを食べて、冬を過ごすことができたが、
夏のあいだ、遊び暮らしたキリギリスは、
その食料も尽き果てて、
惨(みじ)めに死んでゆくこととなったのだ。
このような話を、
単なる戯(ざ)れ言(ごと)と思ってはならない。
単なる比喩と思ってはならない。
これが人生の真実の姿であるのだ。
一生懸命に働いて蓄えたものとは、本当は食糧ではない。
それは、天の蔵に積まれた宝であるのだ。
それぞれの人が、一生を生きるたびに、
いくばくかの宝を手にすることができる。
その宝が天の蔵に積まれてゆくのだ。
そうして、幾転生、幾十転生、幾百転生をくり返して、
宝を山のように持っている者もあれば、
生まれ変わりの時、
いつもその宝をすり減らしてゆくものもある。
しかし、やはり、各人の努力に比例した世界が天界してこそ、
仏の慈悲は成就されると言わざるをえないのだ。
【大川隆法『永遠の仏陀』第二章「真実の人となれ」より抜粋】
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続いて、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第一章 菩提樹下の悟り
10 大いなる第一歩
ゴータマは菩提樹下において最初の悟りを得ました。悟りというものは、いったん最高のものを味わうと、そのままでいたいと思うわけですが、どうしても、再び平凡な生活のなかに取り紛れていくことが多いのです。ゴータマもまた、そうしたことが多かったと言えましょう。
それゆえに、ピッバラの樹の下で悟り、仏陀となったゴータマは、「この悟りを一日も早く、多くの者たちに伝えていかねばならない。これを語らずにいて、自分ひとりの心の奥に秘めておくだけならば、私の今世の生の意味がないだろう」と考え、だれかに伝えようとしたのです。
そこで、単に托鉢するだけではなく、だれかれなしにつかまえては、「私は悟りを開いた。私は覚者となった。私はこういう体験をした」と言ってまわったのですが、人びとは取り合ってくれませんでした。
「修行者よ、おまえは頭がおかしくなったのだ。あまりうぬぼれるものではない。おまえはだれのもとで修行して、そんなに偉くなったのか。独学で悟りが得られるものではないのだ」
という言葉が返ってきたのです。
しかし、この感動をなんとか人びとに伝えたいと思った仏陀は、「私がルドラ・ラーマプトラのもとに入門し、すぐさま師と同じレベルの悟りに達したのを見て驚き、その後、一緒に苦行した五人の修行者たちに、私の悟りを伝えることが出発点だ」と考え、彼らを探す旅に出ました。こうして、伝道の最初の一歩が始まったのです。
結局、伝道の第一歩は「伝えようとする思い」にあったということです。自分自身が体験したことを、だれかに伝えんとする行為、同じく道を歩む者、同じく悟りを求める者に伝えようとする行為があったのです。ここに、次なるステップが隠されていました。
「これが伝道の始まりだ。のちの世に初転法輪と呼ばれることになるだろう」と思うと、仏陀の胸は高鳴り、熱い血潮を抑えることができませんでした。「人に伝えたい」という気持と、「もっと悟りを深めたい」という気持が交互になりながら、「一日もじっとしていられない」という思いがつのってくるのでした。
【大川隆法『釈迦の本心』第一章「菩提樹下の悟り」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。
【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。
災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする 信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。
【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
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文責:蒲原宏史
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