(12/17-2)80『仏陀再誕』を読む―信仰と仏国土建設への道―仏陀への帰依―幸福なる日々

『仏陀再誕』を読む

88 「化ける」「化かす」という言葉がキーワードだが、はたして人間が、狐や狸に化かされることがあるのか。動物としての狐や狸は変身できないとしても、妖力、あるいは妖術として人を化かせるのか。あるいは霊体となってからそのような力を得るのか。

89 私はルーツの一つとして、「稲荷信仰」があり、稲が豊作になることを祝う、秋祭りがあると思う。地上の人間が祠(ほこら)を建て、神社を建てて、豊作を願い、日照りや洪水、虫害除去を祈っていると、その祈りのパワーを霊界で受け取る存在があると考える。

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

17 「畜生道」では、身体は動物と同じとなるが、時々、顔は、人間時代の顔にぶれて見える。

16 「動物性が極めて強い」と判定されると、次は、「畜生道」・「動物界」という地獄に送られる。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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【正念】「待ちの間」の蓄積
〇腰を落ち着けて「基礎知識」と「経験」を蓄える

これは、幸福の科学の発足自体についても同じようなことが言えるでしょう。私はその間、五年、六年待ちました。発足までにそれだけの時間がかかった分、遅れたようにも見えますが、私自身のいろいろな勉強や経験の期間が必要だったということです。

ただ、そのような間は、「道は示さているのに、どうしてできないのか」ということで、非常にイライラしたり、焦ったりするものです。レールは敷かれているものの、まだ新幹線の速度では走れず、鈍行で走っているようなつらさがあるわけです。「必ず前へ進んでいく」というのは分かっていても、つらいものです。

しかし、ここが、この正念場における、いちばんの「正念場」なのです。ここがこらえどころであり、腰を落ち着けてじっくりと前進していく、蓄えをしていくという姿勢が大事なのではないかと思います。

その間に、蓄積をもとにいろいろな構想を立てていくと、もっと早くなっていき、取り返しができるようになっていきます。

やはり、基礎というのは非常に大事です。物事の判断でも何でもそうですが、「基礎知識」と「経験」がなければ、なかなか見えてこないところが多いのです。反対に、そういう材料があれば、非常に素晴らしい展開となっていくことになります。

【大川隆法『真説・八正道』第8章「正念」280pより抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に「四弘誓願」を立て、『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、「正しき心の探究」と「地上仏国土ユートピアの実現」のために「四正道」と「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

エル・カンターレ祭は、7月の御生誕祭と並んで幸福の科学の二大祭典です。22日(日)までエル・カンターレ祭を10時、13時、19時にて連日開催いたします。皆さまご参集ください。

主に心から今年一年の慈悲と知恵とご指導へと感謝と、さらなる報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

エル・カンターレ祭では、大宇宙を創り、生きとし生ける者を創り出され、永遠の愛を与え続けておられる「創造主の愛への感謝」を深め、主 
大川隆法総裁先生より、この一年間に賜った数々の御慈悲を振り返り、心からの感謝・報恩の念いを捧げさせていただきます。そして、大川隆法総裁先生のご復活を心より祈念し、全世界の信者一同で、エル・カンターレ祭版「復活の祈り」を執り行います。

『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
われらの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
われらを真なる幸福へと導きたまえ。』

今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
そののち、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第七章 信仰と仏国土建設への道 
○仏陀への帰依

しかして、私は言い置く。
宇宙を創造したところの、根本の大霊に対する信仰と、
また地上を去った霊天上界における
実在界の偉大な高級霊に対する敬意と、
そして、もう一つ、敬意を払うべきところがあるということを。

それは、地上に生まれたる仏陀の存在である。
仏陀は仏陀として尊いのではない。
仏陀は、その力を、その悟りを、その光を、その愛を、その慈悲を、
偉大なる大霊から授かっているがゆえに、尊いのである。
たとえ、宇宙の根本仏に対する帰依の姿勢があろうとも、
たとえ、霊実在界におけるところの
高級霊に対する帰依の精神があるとしても、
地上に降りたる仏陀に対する帰依の精神なくば、
この信仰は偽物である。
なぜならば、過去の世界における偉大な宗教を伝えた者は、
すべて地上に降りたる覚者、悟りたる者、仏陀であるからだ。
そのような立場の人を通さずしては、
仏の声を、仏の思想を、仏の理想を、
地上に伝えることはできなかったのである。

さすれば、大宇宙の根本仏と、
実在界の高級霊と、
地上に降りたる仏陀とは、
三位一体(さんみいったい)にして、ともに尊き存在である。
この三者を同じく尊崇する気持ちがなければ、
そこに信仰というものは生まれない。
自分の都合によって、勝手な偶像を大宇宙の根本仏として描き、
また、実在界にあるところの
特定の霊を心のなかに描いて、信仰したとしても、
もし、地上にある仏陀の教えを誹(そし)り、これに背くものあらば、
それは大宇宙大霊の意に反していると言ってよい。
なぜならば、
大宇宙大霊はその時代にすべての責任を仏陀に命じているからである。
仏陀はすべての権限を持って、地上に降りているからである。
その時代の価値観を決め、
その時代の正しさを決め、
その時代の善とは何かを決め、
その時代の真理とは何かを決める者、
それが仏陀である。
したがって、たとえ心のなかで、宇宙の彼方に住むかもしれぬという仏神を、
いかに尊敬しても、
地に降りたる仏陀を尊敬する気持ちがないならば、
もはや、信仰ある者とは言えない。
もはや、道ある者、道を求める者とは言えない。
求道(ぐどう)の者とは、そうした立場をわきまえなければならない。
こうした、心なき者は、
イエスの時代に生まれても、
イエスそこに在りと信じなかった者は数多い。
イエスここに在りと信じえなかったその者たちが、
その後、数百年、数千年を経て、地上に生まれ変わり、
キリスト教会にて、十字架の姿のイエスに対して信仰しておるのだ。
このような愚かなことを繰り返してはならない。
地上に覚者あるときに、
その覚者に対する信仰を忘れてはならない。
地上に覚者あるときに、
その時代に生まれ合わせた喜びを忘れてはならない。
その権威を畏(おそ)れなければならない。
その権威を信じなければならない。
その権威を否定し、忌み嫌い、
この権威を自分の理解の範囲内で解釈しようとする者は、
ことごとく間違いの淵のなかに投げ入れられる。
それは、宇宙の仏を否定することと同じ。
宇宙の仏を冒瀆(ぼうとく)することと同じであるということだ。
このように、仏の代理人を地上に送るということは、
天上界における人格大霊の一致した考えであり、
そうした代理人が地上に降りてゆく時には、
その者の考えにすべてを合わせてゆくことが正しい行為であるのだ。
これが信仰の根本であるということを、
私は繰り返し繰り返し言っておく。

【大川隆法『仏陀再誕』第七章「信仰と仏国土建設への道」より抜粋】
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続いて、地上への執着と煩悩を断つ修行法として『漏尽通力』を共に学びます。
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第五章 仏法真理と学習
4 幸福なる日々

さて、漏尽通力のなかの「仏法真理と学習」ということについて話を進めているわけですが、ここで「幸福なる日々」ということについて考えてみたいと思います。

人間は、「何をもって幸福の科学とするか」という問いに答えるならば、それが、「その人とはいったい何者であるか。その人の本質がいったい何者であるか」という問いかけに対しては、「その人が何をもって幸福としているかによって定義される」と言われています。

古来、それ以外の定義ももちろんあります。「その友人を見れば、その人が分かる」という考えもありますし、「蔵書を示せ。さすれば、汝の人格を言い当てん」という言葉もありましょう。ただ、やはり、「その人の幸福とするものが一体何であるか」を見ることによって、だいたい、その人の器、人柄、人生、魂の器量といったものが分かるのではないかと思います。

私自身は、何をもって一番自分の幸福と感じるかというと、結局のところ、次のようなことではないかと思います。

個人の側面というものを取ってみれば、「より深い仏法真理、知識を得るということ。それでもって、自分自身の認識力が高まるということ。認識力が高まることによって、世界がよりよく分かるということ。より多くのことが分かるということ。理解できるということ」、これが、何にもまして幸せであるように思います。これが個人の側面です。

また、個人以外の側面として見るならば、「その様な神仏の経綸(けいりん・国家を治めととのえること。その策)、仏法真理というものを知ることによって、より多くの人々の幸福をつくり出すことができる自分、そうしたことに貢献できる自分」というものを、非常にうれしく思うわけです。

「この世のなかで、どれほど幸福な人がいるか」と言ったときに、「多くの人々の悦びをつくり出せるほど幸福だ」と言う人は、数少ないと思うのです。「自分の悦びのためだけの幸福」というのは、はかないものです。ただ、「多くの人々の幸福につながるような生き方をしている人」というのは、自分へ還ってくる幸福の供給源も、また無限であろうかと思います。「幸せになろうとすれば、他人に親切にすることです」という言葉もあります。そのとおりであって、他の人々が喜ぶようなことをしていれば、人間は自然に幸福になるのです。

もちろん、このときに重要なチェックポイントとして、あまり自己犠牲という面を強調しないことが大事だろうと思います。【※「自己犠牲」については、2017年11月22日の法話「自己犠牲の精神」において、公的使命に自らの全人生を捧げるような、より高次な偉人的な生き方としての「聖なる自己犠牲」が改めて説かれた。『青銅の法』(幸福の科学出版刊)参照】
「自分を犠牲にして他人を幸福にしよう」という考え方は、やはり、不幸な感覚の一つであろうかと思います。そうではなくて、「他人を幸福にしていくなかに自分も幸福になっていく」という道を選んでいくことが、真に幸福なる日々を築いていくことではないでしょうか。そのように、私は思うわけです。

こういう観点から、人生の幸福というものを、もう一度、捉え直してみたいと思います。そうすると、どのようなことが言えるかというと、結局、「日々、自分の魂が進化しているかどうか。日々、自分の魂が何らかの向上を得たと思って、悦びを得ているかどうか」ということが大事なのではないかと思います。

また、「他の人々が悦びを味わうことによって、魂がいかに喜んでいるか」という魂の向上の悦び、魂の拡張の悦びが本当の幸福ではないかと私は思うのです。「自分自身の魂が、さらに霊的に進化して悦んでいるかどうか」、あるいは、「他の人の悦びをも自分の悦びにすることができ、より大きな自分へと拡張することができたのかどうか」といった面が重要であろうと思います。

「幸福とは、自分が追い求め追い求めすると、指の間からすり抜けていくようなものだ」と言った人がいます。これも、結局、「魂の幸福」の意味を言っているのだろうと思います。【※心の指針「幸福のしっぽ」参照】幸福とは、「人に与えん与えん」として生きていると、やがて自分に与えられるものですが、「自分が得よう得よう」として追い回していると、やがて、蝶々のように飛びまわって逃げていくもののように思います。

このように、結局のところ、「幸福の本質」「いちばん幸福になる方法」は何かというと、「自分のことを考えずに、一生懸命、人のために考えて生きること」だと思います。こういう生き方をしていると、非常に幸福になれます。ここが、結局、漏尽通力の幸福への適用の段階となるわけです。

漏尽通力が大事であるというのは、この「幸福感」と非常に密接な関係にあるからです。というのは、霊的能力を持った人、霊能者というものは、ともすれば、エゴイストになりやすのです。あるいは、別の面からいくと、「自分が、自分が」という気持になりやすいのです。お山の大将になりやすいのです。

どうしても、霊能者というものは、「自分はとにかく偉いのである。周りの人たちは、自分にひざまずけばよいのである」という考えを持ちがちです。しかし、これが誤りであるということを、私は今、みなさんにお伝えしようとしているわけです。そうした「自分のエゴを拡張し、伸ばすためだけの霊能力」というものは、非常にもろく、はかないものです。そうではなくて、そうした霊能力を持ったのであるならば、それを一人でも多くの人々のために生かそう、役立てようとする心が大切なのです。

こうしてみると、そうした霊能力を多くの人たちに役立てようとする心が、また自分の幸福に還ってくることになるわけですが、多くの人々に霊的能力を役立てようとするときに何が必要かというと、結局、知力の問題が大事になるのです。

知力の部分が弱いと、慈悲魔になってしまったり、人のために「よかれ」と思ってやったことが、悪い形で出てきたりするようになります。そうしたものです。

したがって、本当に幸福なる日々を生きんとするならば、「霊的能力の現実世界への適用の仕方が大事だ」ということになりましょう。

【大川隆法 『漏尽通力』第5章「仏法真理と学習」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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◆「天御祖神 感謝報恩植福」について

・この度、日本文明の祖にして、武士道の源流にあたる天御祖神が日本に降臨され、いまもなお、霊的にご指導を賜っていることへの感謝を捧げるために、箱根強羅の地に天御祖神を讃える「天御祖神記念館」を建立させていただくこととなりました。

・本植福を通じて、天御祖神への感謝を深めていくとともに、武士道精神を復活させ、神国・日本としての誇りを取り戻していくことで、この日本の地を主エル・カンターレの教えを発信するにふさわしい地としていくことを誓ってまいります。

日本神道の屋台骨である高天原が、日本人の不信仰と愛国心の欠落により、崩れてしまっている今、私達伊勢支部信者が先頭となって、日本神道の屋台骨を支え、日本国の誇りを取り戻すべく先頭に立たなければならないのではないでしょうか。伊勢支部としては、「天御祖神記念館」建立事業を全力で応援致します。私たちの信仰心をここに結集して参りましょう。

・「天御祖神感謝報恩植福」(2022/1/1~)は、天御祖神の日本への御降臨と、いまもなおご指導を賜っていることへの感謝を捧げ、報恩への誓いを固める植福です。

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・私は二〇一五年ぐらいから公開しておりますけれども、実は日本文明というのは、今から三万年ほど前に、天御祖神という方が、今の富士山があるところの近くに、宇宙より降臨したところから、始まっているということを、何冊かの本で説いております。(略)

(天御祖神の)教えの中心は、今も片鱗としては伝わっています。一つ、言わなければならないことは、「神の子、仏の子としての人間」として生きるということは、「正しく生きる」ということであるということですね。これが大事な柱でした。(「地球を包む愛」)

・「天御祖神の教え」とは何でしょうか。(略)おそらくは、「鍛錬ということの大切さ」や、「自分を鍛えて力強くあることの重要さ」というものも教えていたのではないかと思います。 
(『現代の武士道』)

・葬られているのは、今で言うと、強羅温泉の近くです。
 (「超古代リーディング―天御祖神と日本文明のはじまり―」)

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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
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FAX:0596-31-1778
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文責:蒲原宏史 

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