22 キャー、キャー、ギャー、ギャーと騒ぐだけで何ら世の中に貢献なき者は、猿のような姿となって群れている。(バカ・ミュージックのミーハーファンなど。)
【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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■何を祈るべきか
「この地球の一員としての自分、
宇宙の一員としての自分、
この自分に与えられた使命を、
全うさせてください。
そして、願わくば、自らに縁のある人々に、
一筋の光明をお与えください。
一握りの愛を与えさせてください。
人々が幸福に生きられるように、
この世においても、
そして、この世を去った世界においても、
幸福に生きられますように」―
このように祈ることが大事です。
【大川隆法『祈りと希望』p61 より抜粋】
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はじめに、教典『心眼を開く』より、霊界の裏側の世界についての学びを深めてまいります。
本経典の霊指導は、天御祖神であると言われています。大切な教えですので、教典をお持ちでない方は是非拝受ください。全国の書店・支部・精舎でお求めいただけます。【税抜1500円】
「やや宗教的な面を強く出し、天狗、仙人、妖怪、妖魔の世界にも言及し、日本で「宗教」と思われているもののなかに、世界宗教としての仏教やキリスト教の奥にある考えとの相違があることを示した。いずれにしても、心の清らかさから、物事の真実を見極める、幸福の科学の立場を説明していると思う。」―「まえがき」より―
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■『心眼を開く』第2章「心眼を開く②」
3 「裏側」の霊界の諸相を明かす
〇平清盛や源義経など、歴史的に天狗はたくさんいる
そのように、天狗は高い鼻を持っていて、山登りをするのですが、特徴の一つとして、「歯が一枚しかない下駄を履いて登っている」とよく言われています。
この下駄だと、坂道の登りは上がれるのですが、下りが下りられないのです。下るときには転げ落ちてしまって、歩けません。上へ上がっているときには気分よく上がれるのですが、下りのときには非常に不便な下駄なのです。登りのときには、一枚歯の下駄でもつっかけて上がってはいけても、下りになったら今度は止めが利かなくて引っ繰り返ることがあるわけです。
これが「天狗の高転び」といわれる現象ですが、ほとんどの天狗には、それは現象として出てくることがあります。
天狗にも器があるので、その人の器までの成功は可能ではあるのですが、その器を超えたところまで行くと高転びをする癖があって、急速に失速する、転げ落ちるというようなことがあるのです。
「大天狗」になると、出世もけっこうすることがあります。日本の歴史で言うと、天皇の地位を狙った僧の道鏡など、ああいう人も天狗だったと言われていますが、あのようなかんじでしょうか。権勢を誇ったりもするわけです。
【※道鏡・奈良時代の僧侶。俗姓から、弓削
道鏡とも呼ばれる。孝謙・称徳(女性天皇)天皇に重用されて太政大臣禅師、さらに法王という例のない地位に就いて並ぶ者のない権勢を誇ったが、称徳天皇の崩御により失脚し、下野薬師寺に左遷されて同地で死去した。政治の最高権力を握り、僧侶でありながら天皇になろうとして和気清麻呂(わけのきよまろ)に阻まれた事件は有名】
おそらく、平清盛のような人も天狗であろうとは思います。一時期、全盛を極めるけれども、あっという間に平家の時代は終わっていきました。
平家の時代は二十年もあったかどうかというところですが、あの高転びの仕方は尋常ではありません。日本国中を平家一門で治めて、「平家に非ずんば人に非ず」と言っていたのが、高転びをして、あっという間に、平家は滅ぼされてします、源氏の世になってしまいます。
ただ、その平家を打ち滅ぼした源氏のほうでも、源義経など、やはり天狗だろうと言われています。身軽で「八艘飛び」などもしていますし、兵法を見ても意表を突くようなことをしていますが、千里眼のようなものがおそらくあったのではないかと思います。
義経は、嵐の日に和歌山のほうから徳島に渡って陸伝いに行き、香川の八島を護っている平家を後ろから襲いました。本来、瀬戸内海から来ると思っていたところを、徳島の豪族を引き連れて後ろから襲い、追い散らしてしまったのです。その平家の重大拠点を脱してしまって、だんだん船で逃げていく平家を、義経は下関の壇ノ浦のほうに追い込んでいく戦いをしています。
また、内陸部のほうでは、兵庫のあたりかと思いますけれども、鵯越(ひよどりごえ)という所もあります。普通は馬で下りられないような崖なのですが、義経は三十騎かそこらの騎馬を連れて、真夜中に「鵯越の逆落とし」というものをしたわけです。
平家は、「まさか、後ろの崖から攻めてはこられまい」と思っていたため、それを背にして野営をしていたのですが、いきなり夜中にウワーッと鬨の声が上がって、後ろから攻められました。三十騎ぐらいでも、火をかけて走られたら、「一万の大群でも来たか!」と、みな、算(さん)を乱して逃げ出してしまい、平家はこれも大敗しています。
これなどは、天狗の真骨頂が出たところではないかと思います。まるで空を飛ぶような姿です。
しかし、その義経もまた、兄(※源頼朝)に滅ぼされています。京都の天皇から兄より先に位を授かって偉くなったりしたことも原因で、嫉妬されたところもあるのでしょうが、脇が甘かったのでしよう。義経は欧州まで逃げ延びましたが、最後は滅ぼされることになったのです。
歴史的には、そういった天狗はたくさんいます。出世することもありますが、最後は、やや残念な最期になることが多いようです。
【大川隆法『心眼を開く』第2章「心眼を開く②」より抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、教典『真説・八正道』より反省の本質を学びます。妖怪性からの脱却をはかり、「反省からの発展」さらに「中道からの発展」を目指しましょう。
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■『真説・八正道』
5正しく人を見るための判断基準【正見】
⑤神仏と心を通わせる気持ちで、自他の思いを見る
四段階目で「仏法真理の基準において正しく見る」ということを挙げましたが、これはまた違ったかたちで見ることも可能です。四段階目の「仏法真理の基準に照らして、あるいは仏法真理の知識に照らして見る」ということもなかなか困難な部分はあるので、そのときには、もう一つ違った方法があります。
【※第一段階は「映像を客観的に捉える」、第二段階は「自分の感じ方を知る」、第三段階は「相手を相手の立場から見る」第四段階は「仏法真理の立場から見る」でした】
それは何であるかというと、「心を空しゅうして、神仏と心を通わせる気持ちで、神仏の心に通じる気持ちで、静かに自分の思いと相手の思いを見てみるということです。空しく、まったく利害というものを放下(ほうげ)し、そして、執着というものを去って、自分のあり方、他人のあり方などについて見てみるのです。「自分の見た相手の像が間違っていないか。あるいは、相手の『自分はこうだろう』と思っている自己像のほうが本当に間違っているのか。また、こうした像のズレを知ったときに、いったいどのように埋めていけばよいのか」ということを、心を空しくして見なければならないのです。
こうしたときに、例えば、自分の受ける相手の印象が悪かったとしても、「実はとんでもない考え違いであった」と気づくこともあります。「相手の立場のほうがやはり正しかった。そのように見られたら、相手は『不当だ』と思うだろうけれども、そう思う方が正しい」ということもあるのです。
【大川隆法『真説・八正道』第二章「正見」65p】
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今日の一日を振り返りつつ、1991年7月に説かれました『永遠の仏陀』を振り返ります。
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■『永遠の仏陀』
第三章 不滅の力
〇人生最大の悦び
我の記憶のなかには、
幾代、幾十代、幾百代、昔に、
さまざまな国において法を説いた、
その思いが遺っている。
それぞれの地で、
たとえ、おまえたちの姿形は変わるとも、
おまえたちは、いつもわが弟子として、
わが身辺を固め、
そして、我に従いてきたものであった。
そのような、ある時代の、ある時に、
わが法を学ぶために、
生命(いのち)を捨てることも惜しいと思わなかった者は数知れない。
その身、虎に食わるるとも、
求道の心はやまずと言った人は多かった。
その教えを知るためには、自分の生皮をはいででも、
そこにでも教えを書きとめたいと願った求道者もいた。
そのように、過去の求道者は、すべて、
己の生命をかけて精進してきたのだ。
精進とは、そのようなものなのだ。
生命(いのち)をかけて行うものなのだ。
生命をかけるとは、いかなることか。
それは、
自分の求めているものの値打ちを
知るということなのだ。
その真なる値打ちを
知るということなのだ。
これが、人生最大の悦びとなる。
地上において、この仏法真理のみならず、
さまざまなる学問があるであろう。
それぞれの学問を学んでいる途中でも、
さまざまな悦びはあるであろう。
しかし、仏法真理を学びたる悦びは、
これは何物にもかえがたいものなのだ。
魂は打ち震え、手は踊り、足は宙に舞うであろう。
それだけの悦びを持たねばならぬ。
大宇宙の秘密を教えられ、
人間の秘密を教えられるということの素晴らしさよ。
また、この地上を離れた世界があるということを確信した時の、
あの悦びよ。
それは、王侯貴族の位ともかえがたいものだ。
この事実は、何度繰り返しても、充分すぎるということない。
まさしく、そのとおりなのだ。
頭上に飾る一つの純金の王冠よりも、
一巻の仏法真理の書を選ぶことが、
どれほど素晴らしいことであるかが分かるだろうか。
それは、人間として生まれて味わいうる、
最大の悦びであるのだ。
【大川隆法『永遠の仏陀』第三章「不滅の力」より抜粋】
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続いて、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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■『釈迦の本心』
第二章 八正道の発見
7 正命
次に、「正しく命を全うする」「正しく生活する」という観点から反省を考えてみましょう。
だれにとっても、一日は二十四時間、一年は三百六十五日で成り立っています。また、誰もがやがては地上を去ることになっています。大多数の人は百歳まで生きることさえできません。
人間は一日の枠のなかで何時間かを睡眠にとられ、さらに何時間かは食事など生活に必要な時間にとられます。そして残された時間が、仕事の時間だったり、自分のための時間だったりするのです。
だれに対しても一日が同じ枠として与えられているという事実は、恐るべきことです。生まれつきの才能などに関係なく、誰に対しても同じく二十四時間が与えられており、その二十四時間をどう使うかによって、その人の人生が決まっていくというのは、このうえなく、公平なことだと私には思えます。
この二十四時間を使って、ある人は一国の宰相となり、ある人は大学者となり、ある人は思想家となりますが、ある人は単なる無為徒食の輩となることがあります。この差は、時間という観点から見たときには、結局、「時間の中身をどのように充実させていったか」ということに起因するのです。
したがって、正命を現代的に翻訳し直すならば、「どのように一日を生きているか。どのように二十四時間を使っているか」という考え方になります。また、「二十四時間の積み重ねである毎月毎年を、どう生きているか」ということにもなります。
ここで私は大事な事実を指摘しなければなりません。それは、「時間を貴重なものだと考えるならば、一日の枠を一生として考え直し、そのなかで時間をいかに使うべきかに、思いを巡らせなければならない」ということです。
たいていの人は、「きのうがあったように、きょうがあり、きょうがあるように、あすもあるだろう」と楽観していますが、あすの生命があるという保証はないのです。もし、きょう一日で、きょうの夜中の十二時で、みずからの人生が閉じてしまうならば、さお、どうしますか。あなたはどう生きますか。「しまった」と思うことのほうが多いのではないでしょうか。
結局、正命とは、「きょうで生命が終わると考えたならば、おそらく自分はこのように生きただろう」という観点なのです。こうした観点から見たとき、反省すべき点が出てくるはずです。あちらにもこちらにも、さまざまな可能性があったのに、その可能性を捨てて生きていた自分を思い知らせさるのです。
要はこの一点です。「一日を一生と思い、その一日で死んでしまうと思ったとき、はたして悔いのない一日であったか」という観点から、一日の出来事や自分の言動を判断していくことです。これを続けることによって初めて、「正しく生活をしている」と言うことができるようになるのです。
なお、伝統的仏教的解釈としては、違法な手段(犯罪的行為)で生計を立てることや、明確に仏法真理に反することを職業とすること(邪教、唯物論の思想家など)も、正命に反するとされます。
【大川隆法『釈迦の本心』第2章「八正道の発見」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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■伊勢支部精舎の理念■
100 パーセントエル・カンターレ信仰
―天御祖神と共に―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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・「信仰心と国を愛する心」という問題について言えば、やはり国民の信仰心がなくなったら、その国は衰退に入っていくし、いずれ滅びると私は思います。
・みなさんには、どうか強い信仰の思いを全国に発信していただきたいと思います。
―「信仰心と国を愛する心について」 ―2013 年4月21 日 伊勢支部精舎御巡錫―
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■伊勢支部の行動指針■
【菩薩の本懐である六波羅蜜多を推進して妖怪性を払拭する】
私たち、伊勢支部信者は、エル・カンターレ信仰をキチッと確立して、天御祖神の武士道精神のもと、仏教的精神を打ち立て、伝道に邁進し、隣人を救い、私たちの愛する街に、必ず仏国土ユートピアを建設します。
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大宇宙の根本仏 唯一なる 主エル・カンターレよ
伊勢支部精舎は、今年落慶17周年、そして御巡錫13周年を迎えました。
2009年1月24日、日本の中心とも言われる伊勢の地におおいなる光の灯台を賜りましたことを仏弟子一同・伊勢支部信者一同心より感謝申し上げます。
そして、2013年4月21日に、伊勢支部精舎に御巡錫を賜り、御法話『信仰心と国を愛する心について』をお説きくださいました。主の御慈悲に心より感謝申し上げます。
私たち伊勢支部信者一同、主への純粋なる信仰の下、「主の復活の祈り」を通して
エル・カンターレ信仰を確立し、「愛」と「知」と「反省」と「発展」の四正道を日々実践し、主の御名と御教えを伝えます。
そして、われらが愛する、この伊勢の地を、三重の地に主の悲願である仏国土ユートピアを必ずや建設いたします。
私たち、伊勢支部信者は、菩薩の本懐である六波羅蜜多を推進して、自らの心に巣くう妖怪性を払拭します。そのために、三宝を熱く敬い、「愛」「知」「反省」「発展」の四正道に帰依して、エル・カンターレ信仰をキチッと確立し、「天御祖神」の武士道精神のもと、仏教的精神を復活させて、伝道に邁進し、隣人を救い、私たちの愛する街に、必ず仏国土ユートピアを建設するために、以下のことを改めてお誓いいたします。
①私たちは、主から頂いた仏性を輝かせ、自らの善きものを隣人に分け与え、一切のみかえりを求めません。主から頂いた教えを必ず伝え伝道します。【布施波羅蜜多】
②私たちは、自らの戒を持ち、戒を守り、仏法真理の教学に力をつくします。
そして法友の育成・養成に力を尽くします。【持戒波羅蜜多】
③私たちは、主の御心を実現するために、目標を明確に持ち、実現するまで計画を実行しつづけます。【せん提波羅蜜多】
④私たちは、主の御手足となる本物の菩薩になるために、救世活動を日々の精進として積み重ねます。【精進波羅蜜多】
⑤私たちは、常に主を信じ、主を愛し、主と一体となるために反省と瞑想を重ね、祈りの生活を送ります。【禅定波羅蜜多】
⑥私たちは、主から既にすべてを与えられていること、主から愛されている自分を発見し、エル・カンターレ信仰さえあれば、あとは何もいらないという絶対幸福をえて、隣人と分かち合います。【般若波羅蜜多】
私たちは、主への報恩として 日本に 全世界に 「天御祖神」と共に、エル・カンターレ信仰を弘め地球ユートピアを実現してまいります。
主よ、私たちの信仰心が主の復活の力となり、主から預かりました伊勢支部精舎が、光の灯台として、一人でも多くの方に主の光を届けることができますよう、お導きください。主よ、まことにありがとうございました。
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―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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エル・カンターレ・大好き

