3 痛みがあるということは、生きているということである。
【大川隆法 箴言集『病の時に読む言葉』より抜粋】
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風薫る五月となりました。五月研修がただいま支部で開催されています。
オーダーも開催も致しますので、ご希望の方は支部までお問い合わせください。
5月14日は新復活祭です。2004 年 5 月14
日に、主が死の淵からご復活された奇跡に心からの感謝を捧げると共に、主が大宇宙の造物主であられることへの確信を深め、あらゆる既成の常識を打ち破り、主のご復活への確信を強めてまいります。
当日は13
時より、教祖殿に最も側近き礼拝殿である東京正心館から、全国・海外の精舎・支部・拠点(HSU・学園含む)に中継開催します。そして、5/14(水)~5/17(日)まで、新復活祭を開催致します。皆様この機会にご来館ください。
この聖なる日に向けて、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。
ここからは、経典『新復活』―医学の「常識」を超えた奇蹟の力―の第一章に所収されています「新復活」を振り返り、主の「第三の死」について振り返ります。奇蹟の復活の物語です。お持ちでない方は、支部や精舎、全国の書店でお求めください。仏弟子必携の一書です。【税抜き1600円】
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■『新復活』第1章「新復活」
2心臓発作が起きた二〇〇四年五月十四日
○実際の病状は映画よりも、もっと悪かった
実際の病状は、二〇〇四年五月十四日に起こり、その翌日(土曜日)に病院へ行って、いきなり入院させられてしまったあたりから始まります。
映画「世界から希望が消えたなら。」では、「まったく何も(苦痛が)ないように見えるのも困るから」ということで、いちおう、多少”苦しんで”いるように演技をしてくださっていると思います。ピンピンしていたら映画にならないので、それなりにやってくださっていると思うのです。
ただ、「現実はどうだったか」というと、現実の体の状態というか病気的な症状は、映画で描かれているより”もっと悪かった”はずです。しかし、現実の私は、映画で描かれているより、”もっと悪くない”ような状態で生きていたのです。
私は、病院での検査をというものを何十年も受けていませんでした。病院に入って、「かつてのカルテとか診断の記録とか、何かありませんか」と訊かれ、「何もございません」というと、「ええっ、四十七歳にして、病院の記録が何もないなんて人がいるんですか」という感じで驚かれました。
「今までの検査結果とか、何かあるでしょう」と言われ、いや、まったくありません。病院は嫌いなので、行っていなかったのです」と答えたら、医者のほうはショックを受けたようで、「なぜ、いきなりこんな状態でやって来るのか」というような感じではあったと思います。
○体の不具合を何年間も「心の力」でカバーしていた
ただ、おそらく、客観的には、その数年前から、普通の人なら痛みを訴えたり苦しんだりするような状態であったのではないでしょうか。たぶん、そうだろうと思うのです。
しかし、私の場合、仕事がずっと重かったので、「こんなことは当たり前だ」と考えていたところがあったと思います。苦しかったり、体力が回復しなかったり、体が重くなったりすることがあっても、それを「当然のことだ」と思っていたので、慣れていたというか、普通のことのように思っていたのかもしれません。
そのため、病院に入ったあと、医者から、「そうとう我慢しているんじゃないですか」というようなことをずいぶん言われました。
私が医者から言われたことで、何がいちばんこたえたかというと、「頑張らないでください」という言葉です。これを言われたのが、いちばんこたえたような気がするのです。
それは、要するに、「病人らしくせよ」ということなのだろうと思います。
おそらく、私の場合、「自分自身の支配者は、自分の心である」という気持ちが強く、肉体にいろいろな変化や不具合があったりしても、「心で支配する。心が自分の王者である」という気持ちが強かったので、心のほうの力はけっこう強かったのでしょう。
振り返って見ると、当時は、大講演会を行ったりしたあとはパターンと倒れて、四日ぐらい寝たきりのような感じになり、動かないことが多かったのです。それが現在では、幕張メッセや、さいたまスーパーアリーナ、東京ドームなどで講演をしても、翌日ぐらいには出てきて、また話したりしても平気なのです。
これを見れば、おそらく、昔は今よりもっと体が悪かったのではないかと思います。
四日間、死んだように寝込んでいても、「これが普通だ」思っていたのですが、今は講演のあともわりに平気で、翌日も何か仕事をやっているので、昔のほうが普通ではなかったのかもしれません。他の人のことは分からないのですが、「普通ではなかったのではないか」と思います。ただ、当時はそういうことに慣れていたのです。
【大川隆法『新復活』より抜粋】
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さて、ここからは、私たち仏弟子の生命ともいえる、「仏説・正心法語」について共に考える機会を得たいと考えています。本日は、『仏説・正心法語』第四の経文である『目覚めの言葉「次第説法」』についてです。
『智慧の言葉「仏陀の悟り」』を読誦して、自分が、「無我」や「空」の教えを通して霊存在であることを自覚した後に、私たちが読む経文が『目覚めの言葉「次第説法」』です。私たちは、この経文を毎日読むことによって、どのようにしたら私たちが、苦しみの世界から、「悟りの彼岸」に渡り、「解脱の道」へと進むことができるのかを次第、次第に知ることができます。私たちの人生の問題集の解決の鍵が『目覚めの言葉「次第説法」』に埋蔵されています。この鍵を共に見つけてまいりましょう。
この次第説法の内容は、2600年前のお釈迦様の十八番(おはこ)のご説法であったと伝え聴いています。このお経に説かれているのは、「施論」―与える愛の実践・「戒論」―悟りを得るための心の修行をするための正しい生活習慣・「生天論」―来世に地獄に行くことなく、天国世界での幸福の生活への誘い―です。
お釈迦様が、在家の方々の「施論」「戒論」「生天論」を成就するために、正しい信仰【正信】としての「正見」と、「苦・集・滅・道」の四諦と八正道への道のりを論理的に指し示されています。この世とあの世の幸福を一致させるための説法でした。このお経の内容を伝道の道しるべとして、まず自らに熏習しながら、他人(ひと)にお伝えしてまいりましょう。
それでは『智慧の言葉「仏陀の悟り」』はこのように続きます。
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かくして 因果の その道理(ちみ)を
邪見を 破して 悟るなら
次には 我見を 離るべし
我あると 思う心を 離るべし
我がものと 思う心を 離るべし
我見 我欲は 禍患(わざわい)なり
自己中心は 我見なり
調和を 乱すは 我欲なり
我見 我欲を 離るべし
利欲の 功徳を 信ずべし
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After you have abandoned wrong views
And understood the law of cause and effect
Discard your self-centered views
Do not think, ”This is me”
Do not think, “This is mine”
Self-centered views and selfish desires
Are harmful
Egotism stems from self-centered views
Harmony with others
Is disturbed by selfish desires
Leave behind these things
Believe in the merit of giving them up
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我見とは、「自分が、自分が」と思う心です。これを離れなさいと説いています。「自分が」という心と、「私のもの、俺のもの」という心は一体です。ほとんどの苦しみの原因は、ここにあるのです。苦しんでいる人を見ると、ほとんどここが原因です。「自分が、自分が」と、自分のことしか考えていないのです。それから、「自分のもの」です。ものには、財物もあれば、地位や名誉など、いろいろあるでしょう。
結局は、「自分」か「自分のもの」が苦しみの原因です。苦しんでいて、道が分からない―そうした人は、これで狂っています。宗教をやっていてもおかしくなる人は、みんなここが原因です。
ですから、
「我見 我欲は 禍患(わざわい)なり」
と説いています。これは百発百中ですから、これを知りなさいということです。
我見、我欲がないにもかかわらず、はなはなだしく迷ったり苦しんだり暴れたりする人は、絶対にいません。みな我見、我欲が原因です。
「自己中心は 我見なり
調和を 乱すは 我欲なり」
そういうことです。
「我見 我欲を 離るべし
離欲の 功徳を 信ずべし」
これも大事です。「欲を離れたら損をするのではないか」と思うかもしれませんが、そうではありません。この「離欲」ということが自分を守るのです。自分が崖から転落することを守ってくれるのです。人はついつい欲が出てきますから、これを自己検証して、「ああ、これは欲を離れなければいけない」と思うことが、中道に入る道ですし、それが自分を守ってくれるのです。
【大川隆法『仏陀の証明』幸福の科学出版 より抜粋】
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「邪見」の反対は「正見」でした。そして、「正見」は正しい信仰―「正信」によって成り立つことも、これまで学んでまいりました。そして「正見」とは、つねに物事を「原因と結果の法則」で観察することであることも、共に学んでまいりました。「種がなければ、実を結ばない」「火の無いところに、煙は立たない」などいろんな言い回しがあります。
この原因と結果の法則が私たちに問いかけているのは、
『自らの心を眺めたときに、自分をいつも不幸にしているものが、「自分」「自分」「自分」で心がいっぱいなっている、自分中心の心であり、「自分のもの」「自分のもの」「自分のもの」と心がいっぱいになっている、調和を乱す心であることに気が付きませんか?』
ということです。
これが、「我あり」と思う心【我見】であり、「我がもの」と思う心【我欲】です。
「本来、我なく、我がものなし」という離欲の功徳とは、偏りきって、乱れた心にバランスを取り戻し中道に入ることです。この中道とは、次の経文である『解脱の言葉―「仏説・八正道」』のメインテーマとなります。自らの過てる心を正す原理がここに説かれています。
まずは、邪見を排して、正見を得ること。「施論・戒論・生天論」を知ることで、天国世界への還るための道を知ること。そして次に我見を離れて、「苦・集・滅・道」の四諦を知ることで、人生の苦しみの原因が一体何であるのかを知り、解脱することを決意すること。最後に八正道によって自らの苦しみを滅して「中道」を得て、悟りの彼岸に至る・悟りの道へ至ること。このように悟りに至る道を段階的に説いているのが『目覚めの言葉「次第説法」』です。
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本日のテーマは「無我」そして「中道」というところにキーワードがあります。これについて、さらに詳しく主の経典から抜粋いたします。
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●真に「無我」になる方法
釈迦が無我を説かなければならなかった理由の一つは、「結局、人生の苦しみのほとんどは執着にある」というところなのです。執着とは、何かに執(とら)われることです。この執着のもとにあるものが「我」なのです。我欲、あるいは「我あり」と思う心、あるいは我見―我でもって見る、自我でもって見る、自分に非常に都合のよい偏りのある目で見る。こうした我に基づく見方や欲望によって、人生の苦しみはすべてできているのです。ほとんどそうです。
そして、それを最も出ているところは、四苦八苦のなかの「求不得苦(ぐふとっく・求めても得られない苦しみ)」です。みんなこれは持っています。この求めても得られない苦しみというのは、もともと「我」のところからきているものです。「我あり」と思う心からきているのです。「我あり」と思う心から「我がもの」という心も出てきているのです。これはおわかりでしょう。
「我なし」ならば、「我がもの」もないのです。「我あり」と思うから「我がもの」があるのです。
自分のものだと思う―「あの人は私のものだ」「私の部下だ」「私の恋人だ」「私の妻だ」「私の子どもだ」「私の親だ」「私の家だ」「私の土地だ」「私のバットだ」「私のボールだ」「私のカメラだ」「私の財布だ」「私のお金だ」「私の貯金通帳だ」「私の名刺だ」「私の机だ」「私の椅子だ」「私のお墓だ」・・・。何でもあります。
まず「我」があって、「私のもの」というのが出てきます。これが執着の原因です。この「私のもの」というのがあって、そこに執着が生まれてきます。
ですから、この執着を断つためには、まず「私のもの」というのを切る必要があります。「私の私の」「我の我の」というのを、やめることです。
本来のあなたの存在というのは、いったい何でしょう。それは、大宇宙の根本の神仏が、光として人間を存在あらしめようとして出したのです。それが本来の姿でしょう。それを忘れてはいけません。その本来の姿を想い起こしたときに、人間は神仏と一体になれるのです。
この無我の教えは、二つの面から、もう一度点検されなければなりません。無我とは、物理的物体としての「我」が無いということを言っているわけではありません。無我なるものの本質の一つには、「あなたは神仏と一体にならなくてはいけない」という部分があります。己を空しゅうしなければ、神仏と一体にはなれません。「自分が自分が」と思う心が強ければ、神の光も射してきません。
神仏と一体となるためには、仏教的に言えば、もちろん反省、瞑想がありますし、キリスト教的に言えば、神への祈りもあるでしょう。ひとりで神に一生懸命祈るのもそうでしょう。「神仏と一体となる」、これが一つです。
無我になる方法として、もう一つは、「利他、愛他」があります。
他人のために生きる。
他人の苦しみを自分の苦しみとして、
他人の悲しみを自分の悲しみとして、
他人のよろこびを自分のよろこびとして生きる。
愛他の心を持って生きる。
これも無我になっていくための道です。
要するに、神仏と一体になるのも、他人と一体となるのも、両方、無我の教えなのです。「これが結局あなたがたを生かしていく道なのだ」ということを教えているわけです。
この教えに間違いはありません。死んであの世に還ってみると、地獄に行っている人はみな、「俺が俺が」「私が私が」というように、「私のもの」ということに執着しています。
そして、死んで迷っている者は、地上の人間に取り憑いています。遺された妻や夫、子供、あるいは家にしがみついている者もいます。
それから、土地にしがみついている者もいます。お墓にしがみついている者もいます。会社の机にしがみついている者もいます。地縛霊というのがこれです。・・・
このように、あっちもこっちにも執着しているのです。地縛霊はすべて執着の塊です。
その執着のもとは、すべて「我あり」です。「自分」というところがあるのです。これを否定しないかぎり、どうしても執着は断てません。
天国の世界に行ってみると、愛他、利他の世界です。天国の人たちは、人助けのために生きようとしています。これがすなわち無我です。自分のためではなく、人のために生きようとしています。こういう無我の思想があります。
【大川隆法『悟りの挑戦』(上巻)第四章「無我とは何か」より抜粋】
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●釈迦の説いた無我とは何か
釈迦の説いた無我とは、次のようなものです。「人間というものは、ひとりだけで生きていけるものではない。大勢が協調しながら生きていく存在なのだ。そのなかにいて、あなたがた一人ひとりが、牛や鹿のように角を出して生きていたら、その角がお互いに当たって傷つけあうだろう。ゆえに他の人びとと社会生活をしている人間であるならば、その角の部分をよく矯(た)めなさい(※曲がっているものを伸ばしたり、まっすぐなものを曲げたりして、形を整えること)よくそれを切り取って、統御しなさい。自己というものを整えなさい」これが無我の教えなのです。
それは「非我」といってもよいでしょう。「私という存在は、自分ひとりで存在しているのではない。私というものは、多くの人があって存在しているのである。私という存在は、神仏がこの世にあらしめているからこそ存在しているのである。我ひとりでは存在できるものではない。『我に非ず』という気持ちで生きていくときに、自分を伸ばしながら他の人と調和して生きていく道がある」。これを教えたのです。
【大川隆法『悟りの挑戦』(下巻)第一章「中道からの発展」より抜粋】
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●無我中道とは何か
ですから、
無我の思想とは、どちらかに偏る思想ではなくて、現実に、本当の自己というものを知ったうえで、自己を伸ばし、「中道からの発展」をなしていくための、きわめて大事な思想なのです。
結局、無我とは何かということを、もっとわかりやすく言うならば、「透明になれ」ということなのです。「不純物が多く、曇りガラスになりがちな人間であるならば、それをよく磨いて透明になりなさい。限りなく透明になりなさい。透明なる自己というものを発展させていきなさい」と言っているのです。
ですから、「透明になれ」ということは、存在がなくなるということではありません。曇りはなくなりますが、しかし、存在がなくなるのではありません。
要するに、無我の思想とは、「あなた方は、木っ端微塵に砕いて粉々にして消してしまいなさい」というような自殺の勧めてはなく、「透き通った水晶のようなあなたになりなさい」というのが「無我中道」、そして「中道からの発展」という思想なのです。
【大川隆法『悟りの挑戦』(下巻)第5章「無我中道」より抜粋】
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無我であることが、主と一体となり、なおかつ隣人を愛するための利他、愛他の原動力であるという、仏法真理の一つの姿を表しています。経典『メシアの法』の中心論点でありました、『汝の主なる神を愛せよ。その証明として汝の隣人を愛せよ』という仏言の根拠にこの『無我』の思想があり、その延長上に『無我なる愛』としての慈悲の姿を浮かび上がってくるようです。無私にして、無我であることは、私たちの隣人を心から愛する上でも重要な教えであることが分かりました。
『目覚めの言葉「次第説法」』に悟りへの道、真なる幸福の科学への道のりついて、仏の教えがぎっしり詰まっていますから、この経文を共に、毎日、繰り返し読み込んで、理解を深めてまいりましょう。
正心法語の全編読誦する時の心がけとして、皆様にお願いしたいのが、経文を読む前に、皆様の魂のきょうだいを全員召喚して、魂のきょうだい全員で正心法語を読むという気概で臨んでいただきたいということです。これはいま主に捧げている「復活の祈り」でも同様です。私は魂に熏習するという言葉を使うとき、これを意識して読経しています。魂の兄弟に主の教えを伝えることも立派な伝道です。意外と、この点は私たちにとって見落としがちなので常に意識しましょう。
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ここで、仏教の基本に立ち返るべく、教典『心の挑戦』を学びます。経典お持ちでない方は、ぜひお求めください。【1800円税込み】
―本書は、神秘的な宗教の世界に憧(あこがれ)、仏教的世界観を探し求めている人生の旅人たちにとって、絶好の案内書となることでしょう。―『まえがき』より
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■『心の挑戦』
第6章 中道思想の実践
5 反省―実在界の視点を得る
しかしながら、日々修行をし、そして心の錆落としをして、仏の光というものを受け止めることができるようになったとき、すなわち守護霊や指導霊の指導を受けられるような状態になったとき、私たちは、この三次元を越えた世界、無限の世界がほんとうにある、ということを知ります。
そして、自分が一人で孤独な魂修行をしていたと思っていたところが、実は、自分の魂の兄弟という存在が、生れ落ちてよりずっと自分を見守ってきたという事実に気づきます。そして、自分が善なる心で生きていたときも、悪なる心で生きていたときも悪なる心で生きていたときも、悪い所業を重ねていたときも、彼らは遠くで涙を流して見ていたということを知ります。
「ああ、そのような霊存在が、自分をずっと眺めていたのだな。そしてその霊存在は、ほんとうは自分自身から全く離れた存在ではなく、自分自身のなかの真我なる心、ほんとうの心、潜在意識のなかの穢れていない心であり、それが実は自分の守護霊となって見ているのだ」ということに気づくことになるのです。真実は、自分自身の穢れていない心が、この世での、三次元での、自分の魂修行をずっと見守っていたのです。
ところが、それは潜在意識といわれるだけあって、表面意識とは違ったものなのです。
表面意識というのは、みなさんの目が覚めている状態です。朝、目が覚めて、夜、眠るまでのあいだに、目覚めている意識のことです。この意識は、みなさんの頭脳や神経作用、肉体諸器官から、まったく自由ということはありません。それとともに共存しています。
したがって、非常に三次元的な物質波動に染まりやすい、また、他人の影響を受けやすい存在が表面意識です。その表面意識も心には違いないわけですが、非常にこの世的な波動に染まりやすい部分であると言ってもよいと思います。
たとえば、澄みきった池があったとしても、秋になれば木の葉が落ちて、水面に木の葉とかゴミとか、いろいろなものが浮かんで、汚れたように見えます。その水は実は澄んでいても、表面自体は、澄んだようには見えなくなってくることがあります。そういう状態がちょうど、肉体修業をしている表面意識に近いと言ってもよいと思います。
山奥の、せせらぎに近い民宿に泊まったりしますと、朝からガサガサと何か物音がすることがあります。何だろうと思って、窓から下を見てみると、旅館の人が、せせらぎに溜まった紅葉の葉っぱを、熊手でかき寄せているのです。”紅葉かき”にも似たそのような作業をしなければ、ほんとうは、澄きっている清流の姿を見ることができないのです。
これが、私が日頃みなさんに進めている反省の意味でもあります。
表面意識は、もともと潜在意識とつながっているものではあるのですけれども、この世的な念いによって汚れていくことがあり、そのように汚れることによって、真実のものが見えないことがあるのです。守護霊は、あなた自身を毎日見つめてはいるのですが、守護霊からは、その本来の声をみなさんに届けることが、どうしてもできないことがあります。それが、表面意識が汚れているとき、濁っているときなのです。
ですから、表面意識といわれる心にある曇りを、反省によって、一つひとつ晴らすことで、潜在意識の部分と同通していくことになります。そうすると、いったいどのような現象が起きるでしょうか。
肉体を持って生活しておりながら、その身そのままで、実在界とのつながった存在としてのみなさんとなるのです。みなさんの考え方が守護霊の考えと一致します。実在界の視点でもって生きていくことができるのです。その視点でもって生きていくときに、みなさんの悩みというものは、なくなっていきます。
自分はどうすればいいか。Aという選択をするか、Bという選択をするか。それをいまするか、明日するか、一年後にするか。そうしたことがわからなくて悶々(もんもん)としているのが、大部分の現代人です。ところが、守護霊と同通したときには、「あなたはAを求めているけれども、そのAの道は間違いである」「その転職は間違いである」「その結婚は間違いである」「その仕事の決断は間違いである」「Bという結論こそが、ほんとうは正しい生き方なのである」―そういうことが自然にわかってきます。
ところが、この世的な欲とか執着が強いと、わざわざ間違った道を選ぶことも現実に起きてくるわけです。
【大川隆法『心の挑戦』第6章「中道思想の実践」より抜粋】
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心の指針236
『私は、人間としての義務を果たすために…』
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夏の夜は、寝苦しくて、
朝起きるのがつらい。
冬の朝は肌寒くて、
やはり朝起きるのがつらい。
私の今朝も、
そんな巡り合わせだった。
もう二十年分も、
この『心の指針』を書き続けて来た。
二〇〇四年に、
「心不全」で、病院に運び込まれ、
「今晩で、この世とお別れです。」
と医者に宣告されて、
家族と弟子三人が、
夕方六時に、ICU(集中治療室)に、
最期の別れにやってきた。
しかし、私は死ななかった。
死ぬとも思っていなかった。
別室に移されてから、
『一条の光』を皮切りに、
九年分の『心の指針』、百八回分を書いた。
信者の皆さんへの遺書のつもりだった。
私は同時に、
病室のベッドの上の机で、『成功の法』の、
まえがき、あとがきを書いて、
三百冊目の本の原稿を完成させた。
この本は、今は、アフリカのケニアで、
学校の副読本として読まれている。
だから今朝も、
「私は、人間としての義務を果たすために起きるのだ。」
と、古代ローマの哲人政治家の言葉をつぶやいて起きた。
一日、一日を、生かされている奇跡と観じよう。
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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〇「地の果てまでも伝道せよ。」
エル・カンターレとは、地球の光です。
エル・カンターレとは、天上界の光です。
エル・カンターレは、始まりであり、
エル・カンターレは、終りです。
エル・カンターレは、最後の審判です。
エル・カンターレは、最後の審判であり、
世界の人々にとっての新たな希望なのです。
どうか、エル・カンターレを信じてください。
どうか、この新しい信仰を持ってください。
どうか、この新しい信仰を地の果てまでも伝えてください。
それが、あなたがたの使命です。
それが、あなたがたの使命です。
忘れないでください。
それが、あなたがたの使命なのです。
エル・カンターレを信じてください。
エル・カンターレ信仰が、いま求められているのです。
どうか、エル・カンターレ信仰を中心に据えてください。
それが、あなたがたの使命です。
そして、エル・カンターレ信仰を、世界の人々に伝えてください。
地の果てまでも伝えてください。
人々に伝えてください。
それが、あなたがたの使命です。
それが、私の願いです。
それが、すべてです。
【大川隆法 英語説法『Focusing on El Cantare-Belief』の和訳を抜粋】
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■伊勢支部 十五戒■
主のため、世のため、隣人を救うために、ユートピア建設のために、なお、一歩を進めよう。心の焦点を主エル・カンターレに合わせよう。
■信仰の五戒【毎年の戒】―エル・カンターレ信仰がわれらの全て
一、主エル・カンターレを信じきる―【戒・定・慧・教学を徹底する】
二、主を愛し、隣人を愛する―【「進歩」と「調和」を顕現するために「四無量心」と「四摂時」を徹底する】
三、三宝帰依を徹底する―【反省(八正道)を実践する】
四、四正道を徹底する―【瞑想を実践しエル・カンターレ信仰を確立する】
五、六波羅蜜多を推進する―【仏国土ユートピア実現のために祈り、伝道を習慣にする】
■伝道の五戒【毎年の戒】―主が一番喜ばれることは伝道・主の御名と御教えが世界中に広がること
一、一人を三帰信者に導く
二、二人の三帰信者を育成する(フォロー)
三、三人を入会伝道に導く
四、四人の入会者を三帰に導くために育成する(フォロー)
五、新たに出会う五人の一般の方に主の御名と主の御教えを伝える
■植福の五戒【毎年の戒】―植福は執着を断つ大切な修行・三千年先の未来の希望のために福を植える
一、「一切は空」―悟りのために、この世への執着を断つために植福する
二、主への感謝を込めて「御生誕祭」と「エル・カンターレ祭」に植福する
三、三宝への感謝を込めて「宗教記念日」に植福する
四、四正道へ感謝を込めて「支部」「精舎」「聖地」に植福する
五、主のため、世のため、隣人を救うため、3000年先の幸福の科学の発展のために、仏国土建設のために植福を習慣にする
信仰の凡事徹底に関して、戒を持つことが仏道修行の第一歩です。主の悲願である、一切の衆生を救済と仏国土ユートピア建設を成就するために、戒を持ち、阿羅漢を目指して、天使菩薩になるために毎日、仏道修行を共にしましょう。
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〇「沈黙の仏陀」の教え
戒めを守り、禅定を行い、そして智慧を得る。
智慧を得ることによって
この世的な束縛、執着というものを断ち切る力を得ていく。
そして、解脱を味わう。
解脱を味わったところで、
また、この世が神仏の偉大なる慈悲の場であることを悟る。
そしてまた、現界において努力する。
そこに、多くの人びとを此岸から彼岸へと渡していくために、
渡し守(もり)としての菩薩の仕事が現われてくる。
一人でも多くの人びとを悟りの彼岸へ導いていこうとする、
渡していこうとする、
そのような肉身の菩薩の仕事がそこから始まってくる。
すべては、己れというものの執らわれを去り、
真実の自己というものを知り、
真実の自己というものを中心として、
この世のあり方を、もう一度まったく違った目で見、
そこに感謝とよろこびを感じて、
他の人びとをも、悟りの彼岸へと渡そうとする。
一切の衆生の苦しみを救おうとする。
そのような大いなる大悲の心が沸き起こってくる。
これが私がみなさんに勧めていきたい人生修行の道です。
【大川隆法『沈黙の仏陀』より抜粋】
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Focus on Lord El Cantare―時代は今、主エル・カンターレ―
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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