(3/16-1) 【基礎教学通信】75【3月16日】『仏説・正心法語』を読む16肉体は これ霊の影―『発展思考』「臨死体験」の真相と「脳死による臓器移植」の問題点―『沈黙の仏陀』魔と「色・受・想・行・識」

『正心法語』を読む

7 新入社員は、どこまでもお荷物で、バカ扱いされる。
9 通訳なしで先輩の言葉が分かるのに、三年はかかる。

【大川隆法 箴言集『仕事への言葉』より】
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3月23日は「大悟祭」です。大悟祭とは、1981年3月23日に、大川隆法総裁先生が、霊的覚醒を経て、自らが、根本仏にして地球神であるエル・カンターレであるという大いなる悟りを得られたことをお祝いする日です。

支部におきましては3/22(日)、23日(月)は、両日とも13時より、総本山・正心館(総本山開山30周年)より、全国・海外の精舎・支部・拠点(HSU・学園含む)に中継開催します。

伊勢支部では、3/29(日)まで、10時・13時・19時に復活の祈りと共に「大悟祭」を開催いたします。大宇宙の根本仏であり、宇宙のマスターでもあられる主エル・カンターレ大川隆法総裁先生の「大悟の瞬間」(1981 
年 3 月 23 日)に思いを馳せ、人類救済の原点である主の大悟への心からの感謝を捧げます。

信仰は、悟りの高まりと共に深みを増していくものであると教えていただいています。『永遠の仏陀』ならびに、大悟祭に合わせて発刊予定の精舎経典『「永遠の仏陀」講義』からの学びを通して、大宇宙を創られた主の偉大さへの理解を深めるとともに、主に向かって悟りを高めていく精進を誓い、全世界にエル・カンターレ信仰を打ち立てていく決意を固めさせていただきます。

そして、主が「エル・カンターレの法」をお説きくださる未来を心から願い、主の心と一体となる念いを込めて、「復活の祈り」を捧げさせていただきます。

さて、ここからは1991年3月24日に説かれました大悟祭御法話『発展思考』を振り返ります。そののち、『仏説・正心法語』をともに読んでまいります。
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■初期重要講演集ベストセレクション7『許す愛』
第2章『発展思考』
2神の側から見た、この世とあの世の真実とは
〇「臨死体験」の真相と「脳死による臓器移植」の問題点
そしてまた、先ほどの医学の話に戻るとすれば、人間が死んでどうなるかさえまだ分からないのです。愚かです。

二千年前の人でも、一万年前の人でも知っていた単純な事実が、現代最高の知性を持っている人たちに分からないというのですから、「それは、はたして本当の意味の最高なのだろうか。違っているのではないか。何かが違っているのではないか」ということを思いいたさないわけにはいきません。

今、流行っているところの「脳死」という問題についても、「人間の生命とはいったい何であるか」ということが分からなくなっている。人間の生命が、臓器が動くことであるとか、血液が動くことであるとか、そんなことと、どうやら誤解をしているようであります。

「魂」というものがあるのです。こちらが本質なのです。本体なのです。

そうであるならば、魂の観点から見なければならないのです。

死んでいく人間は、安らかに死を迎え、旅立つための準備をしなくてはならないのです。

それを土塊(つちくれ)だとでも思っているのでしょうか。大変残念なことです。

人間が死ぬのは、脳波が停止するときでもなく、心臓が停止するときでもありません。それは、内に宿りたる魂が肉体から抜け出し、肉体と魂とをつないでいるところの「霊子線(れいしせん)」というものが切れたとき、これが正式な臨終であります。その線が切れたときに、もはや魂は遊離し、自分の手術の姿を見ている」といった、そういう体験です。あるいは、「あの世の天国の姿を見てきてこの世に還り、奇跡的に蘇生した」という体験です。これを信ずる人あり、これを「脳の現象による幻覚だ」という人あり、さまざまであります。

しかし、私は言っておきましょう。今、世界各地で起きているところの、こうした臨死体験は、実はあの世の霊たちが企画してやっていることであります。「あの世の世界がある」ということを、「魂がある」ということを教えるためにやっているのです。

普通、病気で死んでいく人間は、肉体のなかに宿っている魂もまったく同じ状態になっています。肉体が心臓病であるならば、魂も心臓病のごとき様相を呈(てい)しております。肉代がガンで病んでいるならば、魂もそのときには同じような痛みを感じております。そのように、まったく、心と肉体とが一致して修行をしているのが、私たちであるのです。

ですから、「臨死体験」といっても、肉体から魂が出て自分を見ているときに、何らの痛みを伴わずに見られるということは、それは、「あの世の光の天使たちが助力して見せている」ということであって、通常はそう軽々と肉体から魂が抜け出すわけではありません。通常は、亡くなるときに、人はその肉体と同じ苦しみにのなかにあって、次第しだいに魂の自覚というものに目覚めてまいります。

このときに、地獄というところにやがて赴(おもむ)くことになっている魂は、肉体から抜け出すことがほとんど不可能の状態になっております。この人たちは、生きているときに、大多数、「死ねば何もかも終わりである」と思っていたがために、肉体というものに執着します。そしてその肉体が焼かれるまで分かりませんし、焼かれてもまだ分からない人たちがおります。

「死んですぐに一直線にあの世に還ってくる」という人たちには、地上に生きていたときに真理をよく悟り、そして守護・指導霊たちと常にコンタクトできるような状況にあった方であるならば、臨終を迎えたときに彼らが迎えに来てくれます。そして、比較的スムーズに肉体を離れていくことが可能になってきます。

しかし、大多数の人たちはその事実が分かりません。なぜなら、あの世も信じていなければ、魂の存在も知らず、神仏の存在も知らないからです。「死ぬ」ということがどういうことであるかが分からないから、肉体にのなかにいる以外方法がないのです。

だから、脳死による臓器の移植などの話が出ましても、もちろん、真理もすべて知っている、そして、それでもまだ、命ある人の命を延ばさんとして自分の肉体を提供せんとするならば、それもまた一つの菩薩の道かもしれませんが、「何もかも死ねばなくなる」と思ってそうしている場合には、医者も患者も大変なことをしていることになります。医者のしていることは”殺人罪”であります。また、患者がそれを承知しているならば”自殺幇助(ほうじょ)”となります。これが現状であります。それを知らずにやっているのです、”医学の進歩”という名の下に―。その結果、大多数、魂があの世に旅立つのを妨げていることになります。まことにまことに残念な事態であります。

(※必ずしも臓器移植のすべてを否定する趣旨ではなく、霊的な真実を深く理解した上で行われる場合には愛の行為になることもある。すなわち、臓器提供者や仏法真理を学び合いの心で与えたいと思っているとともに、提供される側も深く真理を理解しつつ感謝してそれを受けるような場合には成り立つこともある。(『永遠の生命の世界』『霊界散歩』〔共に幸福の科学出版刊〕等参照)

ああ、こんな、私たちの目から見れば非常に近い事柄が、どうして現代に生きている知識人たちには分からないのだろうか。不思議で不思議でなりません。

【大川隆法 初期重要講演集ベストセレクション⑦『許す愛』第2章「発展思考」より抜粋】
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さて、ここからは、私たち仏弟子の生命ともいえる、「仏説・正心法語」について共に考える機会を得たいと考えています。

教義として主よりたくさんの御教えをいただいていますが、その中心にあるのが、「仏説・正心法語」です。たくさんの仏法真理を主よりいただいていますが、数多の経典は「正心法語」を正しく理解するためにあるといっても、けっして過言ではありません。
「仏説・正心法語」は仏の光であり、仏の生命であり、私たちの力であり、仏弟子の生きていく寄る辺です。

七つの経文が収められていますが、「毎日、全編を繰り返し読誦してください」とお勧めさせていただいています。理屈抜きで、毎日、正心法語を読むと元気になるからです。

経文にも、「ああ 七色が 相集い 仏の御国を 照らし出す」とあるように、「仏説・正心法語」は本来、七つの経文が合わさって一つの法身を表現しています

正心法語は法華経・般若心経の一万倍の力があると教えていただいていますが、私たちサンガは正心法語の威力を十分に使いこなせていないのではないかと思います。
私も含めて皆様の中で、今日からさかのぼって一日のうち、正心法語の全編読んだ人がどれだけいるでしょうか。読経の習慣化が法力を生むことを私たちは主から教えていただき知りながら、なかなか実践できずにいます。実にもったいないことです。

私たちサンガ・幸福の科学の活動は多岐にわたっていますが、あらゆる活動の力の源泉は「仏説・正心法語」から生まれています。だから、この経文を毎日、読誦することを繰り返すことで、私たちは主より法力という名の力を授かることができるようになります。

このメールマガジンでは、日々の活動で「仏説・正心法語」からどのように活動のエネルギーを引き出していくかという視点で、お届けしたいと考えています。この経文に関する主の御解説は経典『信仰論』に説かれていますので、伊勢支部にてぜひご拝受ください。「法力」という名の悟りと救済力と得るために必要な経典です。

それでは、「真理の言葉 正心法語」から始めましょう。「正心法語」はこのように続きます。
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人間は これ 霊にして
霊とは 不滅の 知性なり
霊とは 不滅の 力なり
霊は 全ての 全てにして
肉体は これ 霊の影
人生の 大河を 流るる 小舟なり

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本日の引用部分は英語版の「正心法語」-The True Words Spoken By Buddha-では、このようになっています。

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Real Human beings have Spirituality.
The Spirits are Immortal Powers.
The Spirits are Immortal Forces.
The Sprits are real Entities.
The Physical Bodies are The Shadows of The Spirits.
It means you are The Boats sailing down The Great River.
The Great River is The Symbol of the course of Lives.

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本日の引用箇所はとても重要なので、経典『信仰論』から引用させていただきます。
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人間のほんとうの姿は形あるものではなく、究極的には、本当に自由自在な、個性を持ったエネルギー体があるだけなのです。

どのような人間にも、それ自体が仏と同じ性質を持った、仏性というものがあります。霊界では、それが霊的な姿をまとって生活しているのです。そして、地上では、それがさらに肉体をまとって生活しています。

したがって、肉体が乗り物であるように、霊体も一種の乗り物であり、ほんとうは個性あるエネルギーがあるだけなのです。・・・

この経文では、霊の究極にあるものとして、「不滅の知性」「不滅の力」をあげています。・・・「不滅の知性、不滅の力としての性質を持っているものが霊存在なのだ」ということを知ってください。

「霊は 全ての 全てにして」とあるように、ほんとうは霊が究極の全てなのです。・・・すなわち、不滅の知性、不滅の力としての霊存在、霊エネルギーであり、個性を持ったエネルギー体としての存在です。これが全てなのです。

「全ての全て」とは、「個性あるエネルギー体は、実は根本仏と結ばれており、根本仏と一体のものなのだ」ということです。・・・

したがって、肉体に執(とら)われない為には、霊主肉従-「肉体はこれ霊の影」という考え方を持っていなくてはなりませんし、同時に、「色心は不二である」ということも知っている必要があるのです。

【大川隆法『信仰論』より抜粋】
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私たち人間の本質は、「霊」です。「霊」の対極にあるのが「肉体」ですが、霊が光であるならば、肉体は光に寄り添う影であるということです。
この霊と肉体は、コインの裏表のように、別々に分けることができないものです。

肉体は、この三次元世界で修行をするために、一時的に必要な乗り舟です。現代的に解釈すれば、例えば、自動車にあたるものが「肉体」であり、運転席に座っているのが「霊」や「魂」、そして「心」にあたります。

英語版正心法語では、
「無限の知性」の部分が「Immortal Powers」
「無限の力」の部分が「Immortal Forces」となっているのが大変印象的です。
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私たちの魂の成り立ちについて経典から引用します。
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〇魂の起源
諸々の比丘、比丘尼たちよ。
魂の成り立ちに気づけ。
魂の成り立ちを思い出せ。
魂の大いなる起源に思いを寄せよ。
おまえたちは、すでに聞いたはずである。
偉大になる大宇宙の大霊が、
その宇宙を、繁栄と発展のなかにおくために、
人格化して、その姿を顕(あらわ)した。
そして、この地球にも、大いなる力を持った人格大霊が顕れた。
その人格大霊は、自らが得た力を発揮して、
数多くの魂をつくっていった。

そう、あなたがたが仏陀と呼んでいるこの魂は、
あなたがたの魂の親でもある。
あなたがたを、数多く創り、育て、
そうして学ばせていた親でもあるということなのだ。
さすれば、仏陀と僧とは、親と子の間柄にあたる。
そして、仏陀の説く法は、
親と子をつなぐところの、
母と子をつなぐところの、
臍(へそ)の緒でもあるということなのだ。
法は、ある時には栄養の供給源となり、
法は、ある時には血液の供給源となり、
法は、ある時には酸素の供給源となり、
法は、ある時には生命の供給源ともなる。

人々よ、知れ、
師と弟子との関係は、父と子、母と子の関係でもあるのということを、
そして、この親子をつなぐものが法であるこということを知れ。
法というものを通して、つながっている間、
あなたがたは、飢えて渇くことはないであろう。
あなたがたが飢え、あなたがたが渇く理由は、
その法を学ぼうとしないからだ。
その法を実践しようとしないからだ。
その法を、我が血肉としようとしないからだ。

【大川隆法 『仏陀再誕』第一章「我、再誕す」より抜粋】
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■「あの世でのパスポートです!」
あの世に勲章を持って還っても、残念ながら、まったく通じません。ノーベル平和賞を持って還るよりは、『仏説・正心法語』を持って還ったほうが、あの世でのパスポートとしては、よほど効き目が大きいのです。

【大川隆法『修行の王道とは何か』p.32より抜粋】

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仏に三身ありと言われており、仏のお姿には「応身」「報身」「法身」の三種類あります。そのなかの最も尊いのが「法身です。これは、肉体存在や目に見えるものではなく、宇宙を統治する法則としての存在です。たとえば、「原因・結果の法則」「波長同通の法則」「生々流転の法則」など、仏教で言えば「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の「三法印」も仏の法身です。また幸福の科学の基本教義である「愛」「知」「反省」「発展」の四正道もエル・カンターレの法身仏にあたります。
そして、何よりも「光とは何か」を教える『仏説・正心法語』こそが、私たちの主、エル・カンターレの法身そのものなのです。

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最後に、経典から抜粋いたします。
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仏神は光です。
光は、あるときは粒子として顕われ、あるときは波として顕われます。
光が粒子として顕われたとき、そこに物質が出現します。
光が波として顕われたとき、それは想念、念いの作用としてのみ存在します。
仏神の心というものは、
凝集されて一点となれば物質となり、
それが人間となり、地球となり、三次元宇宙となります。
仏神の心というものは、
凝縮されて一点となれば物質となり、
それが人間となり、地球となり、三次元宇宙となります。
仏神の心が、
凝集された粒子というかたちではなく、波として顕われたときには、
想念の波動として、念いとして、宇宙を飛び交う電波としてのみ存在します。
これが大宇宙の秘密なのです。

【大川隆法 『不滅の法』序章「心のなかの宇宙」より抜粋】
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ここで、仏教の修業論に立ち返るべく、教典『沈黙の仏陀』を学びます。経典お持ちでない方は、ぜひお求めください。【1800円税込み】
―仏陀入滅して二千五百年。その教えは沈黙の中におかれた。しかし、その真意を解く鍵は、修業論のなかにある。沈黙の仏陀の声なき声がそこにある―『まえがき』より
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第7章 魔とは何か
2 魔と「色・受・想・行・識」

確かに、『阿含経典』等を読むとそのように読める箇所もあります。例えば、「魔とは何か」と釈迦が問われて、「魔とは、色・受・想・行・識、これなり」と答えているところがあるのです。

「色」とは、肉体のことです。肉体をとり巻いている物質環境のことも「色」ということは可能ですが、通常はいわゆる肉体のことを言います。

「受」とは、感受性、感じ取る力です。感覚器官、あるいは神経作用と言ってもよいでしょう。これが「受」です。

「想」とは、想い、すなわち表象(ひょうしょう)作用です。思いを固めていく力です。感受性で感じ取った者に対して、それをどのように思うか、表象するか、外に表わすかという作用としての「想」があります。

「行」とは、意志、あるいは決断、実行です。要するに、肉体があり、それに付随する感覚器官があって、感覚が何かをキャッチし、そのキャッチしたものについて、自分なりのイメージや考えをまとめるのが「想」ですが、「行」では、それに対して何らかの意思が出てくるわけです。心のなかの考えがまとまった段階で、それをどうするかという意思が出てきます。意志が固まったときに身体が当然動きますから、行動に移ります。これが「行」です。

最後の「識」は、認識の識です。すなわち、肉体があり、感覚器官があって、外部的なさまざまな情報、事件等を、自分なりに判断して行動を起こす。そして、その過程を見ている自分が価値判断する。どのように捉えるかという、考え方、精神作用を持った自分がある。これを認識の「識」と言うのです。

たとえば、外からサッカーボールが飛んできたとします。これが身体に当たると、「痛い」という感覚を起こします。これが「色」「受」です。それから、「想」のところでは、「ボールが当たっていたいところが、やがて悪か腫れてくるかもしれないな」と思います。そして「行」、意志の作用としては、「赤く腫れたところを冷たい水道で冷やさなければいけないのではないか」「薬を塗らなければいけないのではないか」「医者に行かなければいけないのではないか」「包帯を巻かなければいけないのではないか」―このような、判断を伴う意志活動を行なうわけです。そして、その結果、「識」すなわち認識力として、「ちょっと水で冷やしてみたけれども、まあ、これは大したものではないから、一時間もすれば腫れもひくだろ�


�し、全体的には、サッカーボールが飛んできて身体に当たった程度では、生命に別条はない。それだけのことだ」と、トータルな判断をしていくわけです。

ですから、サッカーボールが飛んできて身体に当たって、それからどうするかという人間的活動の一つを捉えても、「色・受・想・行・識」という五つの問題があるわけです。

これは、基本的で簡単な説明ですが、これと同じように、人間が人生を生き渡っていく過程において、さまざまな問題が出てきます。肉体に伴う病気や事業の失敗、恋愛の失敗、結婚の失敗、修行面での行き詰まりなど、人生の諸課題が現われてきます。

その場合にも、やはり「色・受・想・行・識」の問題があります。肉体も当然関連しています。身体のコンディション、頭の状態といった健康の問題もあります。また、それをどのように感じるかという「受」の問題があります。現代的に言えば、神経作用やストレスの問題、あるいは神経症と言われる問題かもしれません。これをどのように感受するか。それについてどう想うか。地獄的な想いを出すか、天国的な想いを出すかという「想い」があります。そして、現実に「行」、行動が出てきますし、さらに、それについて自分はどう判断しているかという「識」が出てきます。判断が低い人だと、天国と地獄が引っくり返るような逆判断をすることもあります。

ですから、肉体を持ち、肉体舟に乗って、今世の魂修行をしている過程で遭遇する様々な出来事について、肉体機能を中心に判断することを「色・受・想・行・識」と言うのです。

釈迦が、「魔とは何か」と問われて、「魔とは、色・受・想・行・識、これなり」と言っているのは、要するに、「肉体生活、肉体を持った自分というものの、その生活に基づく迷いであるのだ」と言っているわけです。

これ自体は間違いではなく正しいことなのですが、仏教学者のなかには、そのような答えがあることを根拠に、「ああ、結局は、魔というのは比喩にしかすぎないのだ。魔などというものはないのだ。これは人間の迷いなのだ。煩悩の働きなのだ。心の曇りなのだ。あるいは神経作用なのだ。神経症の問題なのだ。心の迷いを取り払わなければ悟りが開けないということを、象徴的に言っているのに過ぎないのであって、天女が化けた様々な魔女が出てきたり、あるいは軍隊を率いた悪魔がやってきて、戦車に乗って弓矢を放ったりしたというのは、戯曲化して、物語的に比喩で言っているのだ。釈迦がピパラの樹のもので禅定していたときに、実際に戦車に乗った魔の大軍が来ることもないし、天女が色気を使って釈迦の悟りを妨げよう�


�いうことがあろうはずもない」、このように考える人もいるわけです。

けれども、私は、二千六百年前に悟りを開いた釈迦とほぼ同じような体験をした人間として、仏教学者以上に、「降魔成道(ごうまじょうどう)」あるいは「魔とは何か」ということについて述べることができると思うのです。

【大川隆法『沈黙の仏陀』第6章「解脱の意味」より抜粋】
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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〇「地の果てまでも伝道せよ。」
エル・カンターレとは、地球の光です。
エル・カンターレとは、天上界の光です。
エル・カンターレは、始まりであり、
エル・カンターレは、終りです。
エル・カンターレは、最後の審判です。
エル・カンターレは、最後の審判であり、
世界の人々にとっての新たな希望なのです。
どうか、エル・カンターレを信じてください。
どうか、この新しい信仰を持ってください。
どうか、この新しい信仰を地の果てまでも伝えてください。
それが、あなたがたの使命です。
それが、あなたがたの使命です。
忘れないでください。
それが、あなたがたの使命なのです。

エル・カンターレを信じてください。
エル・カンターレ信仰が、いま求められているのです。
どうか、エル・カンターレ信仰を中心に据えてください。
それが、あなたがたの使命です。
そして、エル・カンターレ信仰を、世界の人々に伝えてください。
地の果てまでも伝えてください。
人々に伝えてください。
それが、あなたがたの使命です。
それが、私の願いです。
それが、すべてです。

【大川隆法 英語説法『Focusing on El Cantare-Belief』の和訳を抜粋】
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■伊勢支部 十五戒■
主のため、世のため、隣人を救うために、ユートピア建設のために、なお、一歩を進めよう。

■信仰の五戒【毎年の戒】―エル・カンターレ信仰がわれらの全て
一、主エル・カンターレを信じきる―【戒・定・慧・教学を徹底する】
二、主を愛し、隣人を愛する―【「進歩」と「調和」を顕現するために「四無量心」と「四摂時」を徹底する】
三、三宝帰依を徹底する―【反省(八正道)を実践する】
四、四正道を徹底する―【瞑想を実践しエル・カンターレ信仰を確立する】
五、六波羅蜜多を推進する―【仏国土ユートピア実現のために祈り、伝道を習慣にする】

■伝道の五戒【毎年の戒】―主が一番喜ばれることは伝道・主の御名と御教えが世界中に広がること
一、一人を三帰信者に導く
二、二人の三帰信者を育成する(フォロー)
三、三人を入会伝道に導く
四、四人の入会者を三帰に導くために育成する(フォロー)
五、新たに出会う五人の一般の方に主の御名と主の御教えを伝える

■植福の五戒【毎年の戒】―植福は執着を断つ大切な修行・三千年先の未来の希望のために福を植える
一、「一切は空」―悟りを得るために植福する
二、主への感謝を込めて「御生誕祭」と「エル・カンターレ祭」に植福する
三、三宝への感謝を込めて「宗教記念日」に植福する
四、四正道へ感謝を込めて「支部」「精舎」「聖地」に植福する
五、主のため、世のため、隣人を救うため、3000年先の幸福の科学の発展のために、仏国土建設のために植福を習慣にする

信仰の凡事徹底に関して、戒を持つことが仏道修行の第一歩です。主の悲願である、一切の衆生を救済と仏国土ユートピア建設を成就するために、戒を持ち、阿羅漢を目指して、天使菩薩になるために毎日、仏道修行を共にしましょう。
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〇「沈黙の仏陀」の教え

戒めを守り、禅定を行い、そして智慧を得る。
智慧を得ることによって
この世的な束縛、執着というものを断ち切る力を得ていく。
そして、解脱を味わう。
解脱を味わったところで、
また、この世が神仏の偉大なる慈悲の場であることを悟る。
そしてまた、現界において努力する。
そこに、多くの人びとを此岸から彼岸へと渡していくために、
渡し守(もり)としての菩薩の仕事が現われてくる。
一人でも多くの人びとを悟りの彼岸へ導いていこうとする、
渡していこうとする、
そのような肉身の菩薩の仕事がそこから始まってくる。
すべては、己れというものの執らわれを去り、
真実の自己というものを知り、
真実の自己というものを中心として、
この世のあり方を、もう一度まったく違った目で見、
そこに感謝とよろこびを感じて、
他の人びとをも、悟りの彼岸へと渡そうとする。
一切の衆生の苦しみを救おうとする。
そのような大いなる大悲の心が沸き起こってくる。

これが私がみなさんに勧めていきたい人生修行の道です。
【大川隆法『沈黙の仏陀』より抜粋】
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Focus on Lord El Cantare―時代は今、主エル・カンターレ―
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100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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文責:蒲原宏史 

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