(3/9-2)68『仏陀再誕』を読む―忍耐と成功―平凡のなかの悟り―反省的瞑想

『仏陀再誕』を読む

75 これ以外にも、最近「妖怪蛤(はまぐり)」の例が報告されている。やっとのことで血の池地獄から逃れたと思って、ビーチでくつろいでいると、巨大化した蛤(はまぐり)にぱっくりとくわえられて、猛速度で海の中へ引きずり込まれ、溺れるのである。「セックス依存症」で妖怪になり、男を食うのである。

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

29 生前、人の生き血を吸うような仕事をやっていた者が、吸血コウモリとなって、地獄の洞窟を飛び回っているのを見た。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に「四弘誓願」を立て、『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、「正しき心の探究」と「地上仏国土ユートピアの実現」のために「四正道」と「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
われらの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
われらを真なる幸福へと導きたまえ。』
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はじめに、今日の一日を振り返りつつ、天御祖神が始まりとされる武士道について、経典『現代の武士道』から学びます。
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第3章 現代の武士道 質疑応答
質疑応答2 「降魔の戦における武士道」について

〇質問2
「降魔の戦いにおける武士道」についてお伺いします。
本来、天使として生きる使命がある人でも、魔道に堕ちて魔と一体となり、幸福の科学を攻撃してくることもあります。また、本来は正しいことを行おうと思っている人たちでも、左翼的な思想で間違った攻撃をしてくることもあります。そのような人たちに対して、愛の心を持ちつつも、やはり、武士道の精神で、斬るべきときには斬らなければなりません。

そのような「厳しい戦い」と「愛の心」とを、「現代の武士道」のなかでどのように統合していけばよいのか、お伺いできれば幸いです。

■答え(前回のつづき)
〇「神仕組み」は、必ずしもすぐに効果が現われるものではない

ただ、「神仕組み」というのは、それほど単純で、即効性のあるようなものではありません。私たちの行っていることの効果がすぐに出ないのは、それだけ難しい事業をやっているということだと思います。

後世にとって、非常に大きなターニングポイントになることだからこそ、難しいのだと思うのです。少し押したら、すぐに全体がガッと変わるような者であれば、それほど難しい仕事ではないので、私たちがやるほどの仕事でもないでしょう。

もし、それだけの大きなターニングポイントであるのならば、それは、そう簡単には勝てないでしょう。

例えば、日本の政府は、私がどれだけ言っても、貿易のことなどを考えてか、中国に対して一言もいえないような状況です。

しかし、私は、平気で中国のことも批判しています。

もし、週刊誌の疑似ぐらいですぐに首に追い込まれる大臣のような、弱い立場であれば、私は、もはや、首を何回切られているかもわからないし、胴体も切られているかもしれないぐらい、厳しいことを数多く述べています。

これは、やはり「信念の問題」でしょう。それでも、誰かが言わなければ、少しずつでも動かすことはできないと思います。

渡部昇一先生のような高名な評論家であっても、自分の言っていることが世の中ではなかなか通らないことを、長年、悔やんでいたと思うのですが、昇一先生は「釣鐘(つりがね)理論」ということを言っておられました。

「大きな釣鐘は、指で少し押すだけでは全く動かないけれども、何度も押し続けていたら、だんだんに振幅が大きくなって、大きく揺れ始め、ガランガランと鳴るようになる。同じように、私たちの言動がほとんど効かないように見えても、ずっと言い続けていると、次第に、釣鐘が動くように、動くようになる」ということです。

渡部昇一先生は組織を持っていなかったので、「個人としての戦い」だったと思います。しかし、私たちは、個人としての戦いではありません。これでも「組織」はありますし、今も拡大中です。

ですから、信念を強く持ってやり続けていたら、だんだん、だんだん、それは、一個人の評論家が言うよりも、はるかに大きな力を持つようになるはずだと思います。現に、ウイグルの活動家や香港の活動家、その体いろいろな方々が、当会に助けを求めてこられています。

ただ、すぐにそれを解決できるほどの力が、私たちにあるわけではありません。なぜなら、本気でやろうとしたら、軍隊でもなければ、もはやどうしようもないからです。

ウイグルや内モンゴル、チベットなど、あのようなところを中国から解放しようとするのであれば、はっきり言えば、米軍ぐらいの力がなければ無理でしょう。アメリカが「軍隊を派遣してでも、そこを奪回して開放する」というのであれば、できないわけではないと思いますが、そもそも、日本は自衛隊があっても、それを動かすことさえ大変です。

さらには、私たちには、政権与党にも入っていない政党しかなく、また、私の言論にしても、別に、国民全体が読んでいるわけではありません。

そういう意味では、おそらく、はるかに届かないところがあるのではないかと思います。

しかしながら、必ずどこかで誰かが聞いていることはあるので、その良心に訴えかけているところがあるのだということです。(次回に続く)

【大川隆法 『現代の武士道』第3章「現代の武士道」質疑応答 より抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、教典『真説・八正道』より反省の本質を学びます。妖怪性からの脱却をはかり、「反省からの発展」さらに「中道からの発展」を目指しましょう。
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1未来を拓くための積極的反省―正念
〇反省には「過去の悔い改め」だけでなく「未来の発展への芽」もある

「正念」とは「正しく念ずる」と書きますが、この意味はそう定かには分からないのではないでしょうか。仏教書などを見ても、この「正念」の意味が分かっている人はいないと思われます。看破していないのです。やはり、言葉の意味にとらわれ、本当に意味での「正念」とは何かということが分かっていないのです。

それは、「心の作用」としてのさまざまなあり方について実体験している人が「正念」を語っていないからです。この「心の作用」についての実体験を通さずに「八正道」を語り、「正思」や「正念」などについての話をしたとしても、その本当の意味は分からないわけです。

私の話を聴いても、実は、それを単に聴くだけでは分かりません。それを実践に移し、実体験することによって、初めて分かってくるのです。

私がこれから「正念」について述べようとしている内容は、従来の仏教的反省を離れた部分になってくるでしょう。それは、「真説・八正道」においては、この「正念」のなかに、従来の仏教的反省よりももう少し積極的なところを盛り込んでいるからです。『釈迦の本心』や『太陽の法』等のなかでも少し触れているように、この「正念」の位置づけを「未来に対する心のあり方」という考え方でかなりまとめ上げています。この考え方を入れておかなければ、当会が四正道として説いている教えのなかの「反省からの発展」という思想につながっていかないのです。

「反省」を、単に「過去に対する悔い改め」ということだけに限定していると、「反省からの発展」という考えは出てきません。しかし、反省そのもののなかに、実は「発展への芽」がなければいけないのです。

「正見」「正思」「正語」「正業」「正命」「正精進」と反省を深めていくなかで、自分の心を明瞭化し、心の汚れを取り除いていく作業を終えたあとに、「未来に向けての布石」というものがなければならないわけです。

この転換点が、実は、「八正道」の七番目に出てくる「正念」であると考えてください。

〇正念を通しての「ユートピアづくり」

この「正念」が、特に「愛」と関係があるならば、それは他者との積極的なかかわりというところに眼目があります。この点に求められるでしょう。

「念」というものは、自分の内側から外側に対して発射するものです。ですから、少なくとも、他の人の人生に何らかのかかわりを持つことになります。必ず影響を与えるのです。

したがって、この「念」というものの「性質」および「内容」について考えることは、実は「ユートピアづくり」ということと非常に関係があるわけです。ここを間違ってはいけません。

すなわち、反省のなかに、積極的な「未来づくり」、あるいは「社会づくり」、「国づくり」、また「人間関係づくり」などのいちばん大事な部分が入っているということです。

【大川隆法『真説・八正道』第五章「正精進」242pより抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
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第五章 忍耐と成功 
○平凡のなかの悟り
さて、以上のたとえ話で私が何を話したかったか、
あなたがたにわかるだろうか。
この大男と村人というのは、けっして別々の人のことではない。
実は、あなたがたの心のなかに住んでいる住人であるのだ。

あなたがたの心のなかには、
実はどうすることもできない粗暴な大男がおり、
またその大男に対して、脅(おび)え、恐れおののく
小心な自分というものがある。
誰の心のなかにも、こうしたものはあるのだ。
自分の心を統御しようとしても、
どうしても欲望にひかれてゆく心があるはずだ。
その欲望にひかれている心は、
たとえば異性を見ては、心が狂い、
金銭を見ては、心が狂い、
また他人の持ち物を見ては、心が狂い、
あるいは他の人が幸福になるという話を聞いては、心穏やかではない。
そうした荒れ狂う台風のように統御できないものが、自分のなかにあるはずだ。
その統御できないものこそ、
実はこのたとえ話に出てくる大男であるのだ。
しかし、この統御できない大男も、
かつて鎖につながれていた時に、
どこかの誰かに統御されてきた、
支配されてきた、
飼いならされてきたという、懐かしい気持ちが残っている。
その懐かしい気持ちを思い起こさせたならば、
すなわち懐かしい笛の音(ね)を聞かせてやったならば、
この大男をおとなしくすることはできるのだ。
それは、もっともっと力の弱い、
小さな村人だと思われるものであっても、
その大男を統御することができる。

その通り―。
まず恐れというものをなくさねばならない。
自分の心は自分の手に負えぬものだと思ってはならない。
自分が自分ではないような、
まったく魔に踊らされ、魔に自由にされるような、
そんな自分であると思ってはいけない。
自分は必ず、自分自身の心を統御できると思わなくてはならない。
そして、統御する方法はというと、
実は決して腕力によって統御するのではない。
脅かしたり、傷つけたりすることによって、統御するのではない。

これが何を言っているかわかるだろうか。
それは、決して難行・苦行によって、
自分の心を統御することができるわけではない、
ということを言っているのだ。
滝行をしたり、あるいは断食行をしたり、
いろいろな難行・苦行があるが、
難行・苦行によって、
その心をなだめよう、心を統御しようとする試みは、
弓矢を射かけたり、あるいは罠をしかけたりして、
大男を何とか取り押さえようとするのと同じで、
かえって大男を狂暴にさせてしまうことになるだろう。
心はいっそう自由にならなくなる。

そうではない。
もっと平和的で、
もっと小さな気づきを用いて、
もっと楽しい方法によって、
心というものは統御できるのだ。
つまり、私は、
決して非凡な世界のなかに悟りというものがあるのではない、
決して非凡な経験のなかに悟りというものはあるのではない、
ということが言いたいのだ。
日々の平凡な生活のなかに、実は悟りへのよすががある。
実は、悟りへの道があるのだ。
そして、平凡な日々のなかの、
平凡な一日一日のなかの悟りとは、
実は、本の小さな発見にあるということを、私は言いたいのだ。

ほんの小さな発見とは何であるか。
それは、かつて、私たちが実在界・天上界にいた時に、
知っていたところの音色だ。
その音色を思い起こすということなのだ。
私たちが悟りに到るためには、
実在界で味わっていたところの、その音色を思い出すことだ。
それが、大事なのだ。
実在界で味わっていた音色とは何であるか。
それは、人に対する優しい気持ちでもあっただろう。
人に対する祝福の気持でもあっただろう。
また、欲望を強くせず、足ることを知る心でもあっただろう。
あるいは、ともに相和し、ともに協力し合い、
ともに生かし合う姿であっただろう。
決して、自分一人が幸福になろうとする心ではなく、
また我欲をつっぱるのでもない。
そういう姿があっただろう。
限りなく透明感にあふれ、限りなく優しい、限りなく暖かい、
そうした気持ちがあったであろう。

しかり、そのような世界こそが天国である。
そのように地上に降りて生きていても、
この天国のことを思い出して、日々、生きることだ。
天国の生活を、日々、思いにおいて描いて生きることだ。
さすれば、その時に小さな小さな草笛を吹いていることになる。
やすらぎの世界のことを常に思い描いて日々を生きることだ。
そのときに、大男は静まり、やがてあなたがたの敵でなくなるだろう。
あなたがたを味方し、あなたがたの思いのままに動いてくれる、
大切な大切な力となるであろう。

【大川隆法『仏陀再誕』第五章「忍耐と成功」より抜粋】
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続いて、地上への執着と煩悩を断つ修行法として『漏尽通力』を共に学びます。
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第二章 霊的現象論
3 反省的瞑想

「想念帯に曇りがある」という話をしましたが、それを取り去るための作法があります。
これは古くはインドの時代に釈迦が教えた教えです。

釈迦は「八正道」というものを提唱しました。そして、禅定に入り、「正しく見る」「正しく思う」「正しく語る」などということを一つひとつ基準にして、自分の一日の思いと行いを反省してみることを毎日やっていましたし、これを弟子たちに教えました。人生は、日々、決算である。一日一日が決算であり、一日一日、心のなかの点検が必要である。こういうことを考え、それを実践していました。

したがって、「反省的瞑想」ということが最大の課題であったわけです。

このときに主としてどういうことを考えたかというと、結局、「心のなかに波風が立ったことはないか。苛立ちはなかったか。怒りの心はなかったか。うぬぼれの心はなかったか。憎しみの心はなかったか。嫉妬心はなかったか」などということです。こういうことを一つひとつ点検していったわけです。

〇正見―正しく見る
その方法論として、例えば、「正しく見たか」とい観点がありました。

「正見」「正しく見る」といっても、人間は、「見る」ということを、なかなか正確にはできません。相手の存在を正しく見る。これだけでも大変なことです。ある人を見て、いろいろな人がいろいろな評価をします。しかし、そうした「いろいろな評価が出る」ということは、本当の意味において、「その人を正しく見ていない」ということです。

「正しく見ていない」ということでは、自分自身の姿も同様です。「他人の目に映る自分の姿が見えない」ということがあります。これ以外に、「神や仏の目から見た自分たちの姿が見えない」ということもあり、これも真実です。

そのように、「見る」ということ一つ取っても、なかなか大変です。神や仏の心で見て正確に見直すのは非常に難しいことなのです。

〇正思―正しく思う
「正思」「正しい思い」というものもあります。「正しく思う」ということで。これも難しいことです。

一日の自分を振り返ってみる。どういう思いが本当に正しい思いであったのか。他人に対して悪しき思いを持たなかったかどうか。自分自身に正直に生きたかどうか。偽りをしなかったかどうか。欲望のままに生きなかったかどうか。こういうことを点検する。自分のこころのなかに 去来した思いを、もう一度、点検する。出した言葉だけではなく思いを点検する。こういうことも必要です。

〇正語―正しく語る
また、「正語」「正しく語る」という問題もあります。正語もユートピア建設のために非常に大事な作業です。

「この世の不幸は言葉から出ている」という考え方もあります。「憎しみに満ちた言葉、怒りの言葉、人を蔑(さげす)む言葉、苦しめる言葉、悩みの言葉、愚痴の言葉、こうした言葉が、結局、人生の不幸と苦悩をつくり出している」という考え方です。

さすれば、「言葉の調整をする」といことが一つの「幸福の鍵」となると言えるのではないかと思います。

やはり、愚痴が心の曇りをつくっていきます。しかし、それは、他人から指摘されないと、なかなか分かりません。愚痴の原因はなにかというと、結局のところ、自分自身の理想と現実とのギャップに関する不満感です。不満が生じてくるのです。

怒りもそうです。怒りは、心のなかから憎しみが込み上げくる場合に出ます。憎しみが徹底的に込み上げてくると、これが怒りの原因になるわけです。そして、怒りを相手にぶつけます。

これ以外に、「嫉妬」というものもあります。嫉妬の言葉です。あるいは、猜疑心に満ちた言葉があります。

こういう言葉を出さないでいればいいのです。出さないでいれば、まだ、自分のなかで、その毒がこもっているだけですが、出すことによって、この毒が伝染していきます。こういう”伝染病”です。

したがって、「正しい言葉を選ぶ」というのは非常に大事なことです。一日を振り返ってみて、正しい言葉を出すことができていなければ、そのことを反省し、次の日からまた、正しい言葉を出していくようにしなくてはならないのです。

〇正業―正しく仕事をする
「正しく仕事をする」などという「正業」の問題もあります。自分の今日一日を振り返って、例えば、「正しく仕事をしたか」を考えてみます。サラリーマンであったなら、「会社のなかで、本当に貢献できるような仕事をしたか。投げやりな仕事をしたのではないのか。本当に誠心誠意やったか」を点検するのです。

主婦であれば、「主婦として、こういう、魂の修行の場を与えられていることに感謝しながら、精一杯、生きたかどうか」を点検します。

ちゃんと子供の面倒を見たか。ちゃんと仕事をしたか。旦那さんのために何かをしたか。家庭の前進のために何かを考えただろうか。無駄なお金を使わずに、ちゃんと貯蓄に回したか。子供の教育に無駄な時間をかけなかったか。家事は諸事万端うまくいっているか。旦那さんが明日、素晴らしい気持ちで出勤できるようにしたか。

こういうことを主婦は反省しなければいけないわけです。

また、「立場相応」ということがあります。新入社員のときには「新入社員の心掛け」というものがあったでしょうが、やがて課長になり、部下を持つと、長たる者の仕事はまた別になってきます。そういう心得が要求されます。これ以外にも、部長になったり役員になったりすると、ますます権限と責任が増大してきます。

人間は自分が偉くなることばかりを期待するけれども、偉くなるには偉くなるだけの理由があるし、偉くなった場合には、それだけの責任が出てくる。この責任を果たしているか。

社長となれば、自分の個人の事情だけでは判定や判断ができない。やはり、全社員の運命や幸福を握っている。そういうことで、一つの判断であろうとも、本当に点にもすがる気持ちで、必死の判断をしなければいけないことがいっぱいある。そうしたことを部下は知っているだろうか。

こうした問題があるわけです。

〇正命―正しく生活する
それ以外に「正命」があります。これは「正しく生活する」ということであり、「規則正しい生活、神の子、仏の子としての恥ずかしくない生活をしたかどうか」ということなどを点検します。

〇正精進―正しく道に精進する
「正精進」では「正しい道に精進したか」を点検します。自分は仏法真理の勉強をし、仏法真理の前進のために何らかのことをしたか。あるいは、他人の幸福のために何をしたか。人のために祈ったことがあったか。神仏への感謝の念があったか。こういうことをするのが精進です。

〇正念―正しく念ずる
「正念」もあります。これは「正しく念ずる」「正しく思う」ということです。人間には、「祈り」という方法が与えられていますが、この祈りの部分でもあるわけです。さまざまな念波が全地球を飛びまわっているわけですが、この念波が悪ければ、世の中はだんだん混乱していきます。

さすれば、一人ひとりの出す念は、非常に素晴らしいものでなければいけませんし、積極的で建設的で明朗なものでなければいけません。この意味において、念のコントロールは非常に大事です。正しき念を常に出す必要があるのです。

〇正定―正しく定に入る
最後に「正定」があります。これは「正しく定に入る」ということです。「精神統一の時間を持つ」ということ、そして、「神仏との交流」「自分の守護・指導霊との交流」「自分自身の一日や過去を振り返る作業」が大事です。

こうしたことがトータルで「反省的瞑想」と言われていることなのです。

これは必ずしも積極的先進のための材料でないかもしれませんが、少なくとも、この世から地獄をなくす、あるいは、あの世から地獄をなくす方法論であるわけです。

こうした反省的瞑想ができるようになれば、人間は少なくとも地獄には行かないですみますし、地獄にいる人はそこから出てくることができるのです。また、この地上から地獄界を消していくことができます。そういう偉大な力を持った修法です。

この反省的瞑想を復活させなければなりません。釈迦の時代の「反省的瞑想」の復活が大事です。

これは単に釈迦だけが教えたのではありません。キリスト教系には、「懺悔(ざんげ)」ということがあります。神に対して懺悔をし、自分の罪を詫びる。これは、結局、反省的瞑想と同じことを意味しているわけです。

また、日本神道系においては、「禊祓(みそぎはら)い」ということをやります。これも、「神のまえに、清い心でもって立つ。謙虚に坐す」ということではないでしょうか。これも結論的には反省的瞑想と同じです。

モーセの時代にイスラエルにおいては、「神との誓い」ということを大事にしました。『旧約聖書』における、「旧約」「新約」の「約」という言葉は、「契約」という意味であり、「神と人類との約束」ということです。「神との約束に、忠実に生きる」ということが反省の材料なのです。

今日は神との約束を破らなかったかどうか。「汝、殺すなかれ」という約束を破らなかったか。「汝、隣人の妻を貪ることなかれ」という約束を破らなかったか。「汝、隣人について偽りの証を立てることなかれ」という約束を破らなかったか。神を裏切らなかったか。神の期待に応えたか。

「この契約が守れたかどうか」を毎日毎日、考え、反省する。こういうことがありました。

すべて同じです。すへては、結局のところ、「神の子、仏の子としての正しい在り方を追求、探求する」という姿勢です。こういう意味において、「反省的瞑想」ということも捉えてほしいと思います。

【大川隆法 『漏尽通力』第2章「霊的現象論」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are The One, with our Lord.  我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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◆映画「ドラゴン・ハート」伝道植福について
5月23日(金)に全国の映画館にて公開されます映画「ドラゴン・ハート」は大川隆法総裁先生制作総指揮による28作目の映画となります。この映画の大成功に伊勢支部信者全員の信仰心を結集させていただきます。皆様の尊い布施をどうぞ、この映画伝道植福に託して、私たちに縁ある方々の心と魂を救うべく、この映画を主の御名と共に、全国・全世界で広宣流布してまいります。映画伝道植福への喜捨を何卒宜しくお願い致します。

大宇宙の すべての根源であり 地球の創造主であられる
主エル・カンターレ 大川隆法総裁先生

映画『ドラゴン・ハート❘霊界探訪記❘』を賜り
心より感謝申し上げます

本作は 未知なる世界に飛び込む勇気を与え
人類に真実への目覚めを与える映画です
全世界の人々に
霊的真実と主エル・カンターレの御存在を
弘めてまいります

仏弟子一同 力を合わせて 
一人でも多くの方を 主のもとへと誘(いざな)ってまいります

■映画『ドラゴン・ハート―霊界探訪記―』四つのポイント■

①「天国・地獄」の存在を知らしめ、全人類の魂を救済する映画です。
映画では、霊界探訪記として現代の地獄の有様を詳細に描いています。つまり、今死んで地獄に落ちるとしたらどんな世界なのかということがリアルに映像体験できる映画です。死後の世界を詳細に紹介することで、「あの世はない」「霊界なんてばかばかしい」と考える人の間違えた考えをカブト割りする映画です。この映画は、このままでは地獄に落ちてしまうたくさんの方々に救いの縁を届ける「魂の救済」映画です。正しい霊界観や信仰を持たない人にこそ届けたい映画です。

②地球の霊的中心地・シャンバラの危機を救う映画です。
今、地球の霊的中心であるシャンバラは、地上世界で、信仰心が薄れ、神仏や霊的世界を信じない人が非常に増えていること、巨大な唯物論科学国家である中国が、インドやネパール等への覇権を強めていることによって、非常な危機にあります。現に中国・洞庭湖のほとりにあるシャンバラの入り口は発見するのが相当難しくなっています。

シャンバラという地球の霊的センターが護られていることで、魂修行の場としての地上世界も安定いたします。もし、シャンバラが崩壊するようなことがあれば、地球を護る霊的結界が失われ、宇宙の邪神やダークマターの悪想念による更なる地球介入を招く事態となります。

本映画は、霊界思想を地球の霊的センターとしてのシャンバラの存在を全世界へと知らしめることによって、崩壊への危機にあるシャンバラを護るという「神の戦い」そのものを描いた映画です。

③全世界の人々が主なる神エル・カンターレと出会い、一つなる道を示す映画です。
この映画は、全世界の人々に造物主エル・カンターレのご存在を知らしめる映画であり、本年の幸福の科学の活動テーマである「日本全国・全世界にエル・カンターレ信仰を打ち立てよう。なお、一歩を進める」の中心となる作品です。

主人公たちの地獄巡りは、現代社会の諸相そのもの。しかし、そうしいた人類の、かつてない混乱、混迷の先には、大いなる規模、救い主の存在があることを示す映画であり、宗教の違いや、民族や国家の枠を超えて、全人類が、主なる神への共通認識の下、一つになる道を示される希望の映画です。

④仏弟子(まだ気づいていない仏弟子)たちがドラゴン・ハートに目覚め、霊的覚醒をうながす映画です。
この映画は、川で河童を追って溺れた主人公の二人が、霊界の天日鷲神に出合い、「霊界探訪で本来の自己に目覚めることができたなら地上に還してあげる」と告げられ、地獄巡りなどの一種の修行を経て、魂の親エル・カンターレと出会い、本来の自分の使命に目覚めるという、宗教的なメッセージが込められた映画です。

純粋な信仰心、そして、救世への本物の念いの確立が求められている今、私たち仏弟子や、まだ目覚めていない一般の方たちの中にいる仏弟子予備軍に対して、霊的覚醒を促す導きの映画であり、私たちのドラゴン・ハートに導かれた旅は、映画公開までに、すでに始まっていると言えるのが本年の活動です。

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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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エル・カンターレ・大好き

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