(9/27-1)【基礎教学通信】270【★2009年9月27日桑名支部開設】『太陽の法』を読む3「太陽の昇る時」存在と時間―「悟りの挑戦(上巻)」真に「無我」となる方法―『黄金の法』高橋信次の正法神理

幸福の科学入門

10 大名商売をするな。千人のお客様のうち、買ってくれるのは三人だ。

【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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さて、私たち、幸福の科学の信者の幸福とは「悟りの幸福」です。私たちは、「正しき心の探究」を通して「愛と悟りとユートピア建設」をこの地上に実現するための使命を仏から与えられ、その実現のためにすべてを既に与えられました。
ここで、お釈迦様の教えである仏教的精神を振り返り、私たちの幸福を全世界に述べ伝える原動力となすべく、教典『悟りの挑戦(上巻)』を共に学びます。経典をお持ちでない方はこの機会に是非ご拝受ください。【税込み1800円】
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■『悟りの挑戦(上巻)』第4章「無我とは何か」
5 真に「無我」となる方法

無我については、霊的な説明、霊界での生存としての説明を先ほどしましたが、では、『釈迦の本心』はいったいいかなるところにあったのかということを、さらに説明しておきます。

釈迦が無我を説かなければならないかった理由の一つは、「結局、人生の苦しみのほとんどは執着にある」というところです。執着とは、何かに執われることです。この執着のもとにあるものが「我」なのです。我欲。あるいは「我あり」と思う心、あるいは我見―我でもって見る、自分に非常に都合のよい偏りのある目で見る。こうした我に基づく見方や欲望によって、人生の苦しみはすべてできているのです。ほとんどそうです。

そして、それが最も出ているところは、四苦八苦のなかの「求不得苦」(求めても得られない苦しみ)です。みんなこれは持っています。この求めても得られない苦しみというのは、もともとは「我」のところからきているのです。「我あり」と思う心からきているのです。「我あり」と思う心から「我がもの」という心も出てきているのです。これはおわかりでしょう。

「我なし」ならば「我がもの」もないのです。「我あり」と思うから「我がもの」があるのです。

自分のものだと思う―「あの人は私のものだ」「私の部下だ」「私の恋人だ」「私の妻だ」「私の子どもだ」「私の親だ」「私の椅子だ」「私のお墓だ」・・・。何でもあります。

まず「我」があって、「私のもの」というものが出てきます。これが執着の原因です。この「私のもの」というものがあって、そこに執着が生まれてきます。

ですから、この執着を断つためには、まず「私のもの」というのを切る必要があります。「私のわたしの」「我の我の」というのを、やめることです。

本来のあなたの存在というのは、いったい何でしょう。それは、大宇宙の根本の神仏が、光として人間を存在あらしめようとして出したのです。それが本来の姿でしょう。それを忘れてはいけません。その本来の姿でしょう。それを忘れてはいけません。その本来の姿を思い起こしたときに、人間は神仏と一体になれるのです。

この無我の教えは、二つの面から、もう一度点検されなければなりません。無我とは、物理的物体としての「我」がないということを言っているわけではありません。無我なるものの本質の一つには、「あなたは神仏と一体にならなくてはいけない」という部分があります。
己を空しうしなければ、神仏は一体にはなれません。「自分が自分が」と思う心が強ければ、神の光も射してきません。

神仏と一体になるために、仏教的に言えば、もちろん反省、瞑想がありますし、キリスト教的に言えば、神への祈りもあるでしょう。一人で神に一生懸命祈るのもそうでしょう。「神仏と一体となる」、これが一つです。

無我になる方法として、もう一つは、「利他、愛他」があります。

他人のために生きる。
他人の苦しみを自分の苦しみとして、
他人の悲しみを自分の悲しみとして、
他人のよろこびを自分のよろこびとして生きる。
愛他の心を持って生きる。

これも無我になっていくための道です。

要するに、神仏と一体になるのも、他人と一体になるのも、両方、無我の教えなのです。「これが結局あなた方を生かしていく道なのだ」ということを教えているわけです。

この教えに間違いありません。死んであの世に還ってみると、地獄に行っている人はみな、「俺が俺が」「私が私が」というように、「私のもの」ということに執着しています。そして、死んで迷っている者は、地上の人間に取り憑いています。遺された妻や夫、子供、あるいは家にしがみついている者もいます。

それから、土地にしがみついている者もいます。お墓にしがみついている者もいます。会社の机にしがみついている者もいます。地縛霊というのがこれです。役所などでも、「いつも自殺者が出る」というところがあります。窓から飛び降りて死んだ高級官僚などがいるとき、その人の机のあたりから、毎年、自殺者が出るのです。地縛霊になっているのは、ほぼ間違いありません。

このように、あっちにもこっちにも執着しているのです。地縛霊はすべて執着の塊です。その執着のもとは、すべて「我あり」です。「自分」というところがあるのです。これを否定しないかぎり、どうしても執着は断てません。

天国の世界に行ってみると、愛他、利他の世界です。天国の人たちは、人助けのために生きようとしています。これがすなわち無我です。自分のためだけではなく、人のために生きようとしています。こういう無我の思想があります。

【大川隆法『悟りの挑戦(上巻)』第4章「無我とは何か」より抜粋】
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さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。基本三部作の『太陽の法』を引用しながら、幸福の科学の教義を共に学びます。なお、経典『太陽の法』は、光とは何か。仏法真理とは何か。という問いに答える幸福の科学の教えの基本です。経典をお持ちでない方は、是非この機会に拝受ください。【税抜2000円】
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第1章 太陽の昇る時
3存在と時間

人間は、この地上に生まれて以来、あの燦々と光を投げかける太陽のもとに、さまざまな存在を見たり、生きとし生けるもの、ありとしあらゆるものを見てきました。そこに、ひとつの真理であるところの、普遍の法則があることを私たちは見抜かねばなりません。

そして、その法則こそ、生々流転(しょうじょうるてん)の法則なのです。この世に存在するものは何でも、すなわち、人間であれ、動物であれ、植物であれ、鉱物であれ、微生物であれ、すべて、この生々流転の法則下にあります。

では、生々流転の法則とは、何なのでしょうか。それは、この地上のものには誕生のときがあり、成長のときがあり、衰退のときがあり、そして消滅のときがあるということです。

たとえば、人間をとってみてもそうです。人間には、誕生のときがあり、成人してゆく過程があり、老化していく過程があり、やがては、死去するときがくるのです。

この法則は、自然のもの、人口のものを問わず、すべてのものにあてはまります。たとえば、自動車一台とってもそうです。自動車が生産されるときがあり、それが有効に乗り廻されるときがあります。しかし、そのうちに故障しはじめ、ついには廃車されるときにいたるわけです。植物にしても同じです。種をまくと、芽が出て、成長してゆき、花が咲きます。咲いたあとは、枯れはじめ、種、あるいは、球根のみを残して、地上から姿を消してゆきます。

このように、この三次元世界にあるものはすべて、原形の誕生―発育、または、フル稼働―衰退、または、不調―死滅、または、解体という四つの過程を必ず経ることになります。

別の言葉でいうならば、この三次元現象世界の存在は、すべて変転の時間を内包しているのだともいえます。すなわち、静止した存在はあり得ないのです。すべての存在は、変動を前提としてあることを許されているともいえます。

しかし、変転、あるいは、流転を条件づけられているこの世の存在とは、時間という映写機によって投影を繰り広げられているフィルムだともいえます。つまり、存在とは、そのなかに流転するという性質―時間を内包しているのです。

もうすこし分かりやすくいうならば、この世のものは、すべて時々刻々に変化をしており、まったく同じ状態であることは不可能だということです。たとえば、私たちの肉体細胞をとってみても、昨日の自分と、今日の自分とを比較するならば、まったく同じ状態ではないのです。

しかし、日々変化する肉体細胞によって構成されているわけですが、その人の姓名で称されている実体があるということです。その肉体細胞を統一している実在があるということです。

すなわち、時間の流れのなかで流転する存在の背後には、永遠に変化しない何かがあるのです。人間にして然り、動物にして然り、植物にして然りです。

たとえば、植物を一本の花たらしめているものは、まったく偶然に集合した植物細胞ではありません。もし偶然に集積した植物細胞が、今日という日の一本の花を形づくっているならば、日々流転し、変転するという法則のもとでは、その花は、やがて花以外の何か別のものに変わってゆくのがほんとうです。

しかし、やはり花は、花にしかすぎません。昨日も花、今日も花、明日も花。花としての在り方が変化するだけで、花が花以外のもの、たとえば、動物とか、人間とかにはなりえないのです。

また、菊の花が途中でチューリップになることもなければ、チューリップが突然コスモスになることもありません。チューリップの花は、あくまでチューリップの花としてその一生を終えていくのです。

そこには、変化の中にあって変化しない何か、流転のなかにあって流転しない何かがあるのです。そして、この何かこそが、あるときは実在といわれ、あるときは理念といわれ、また、あるときはイデアといわれるものなのです。

「色即是空 空即是色」という、仏教の有名な言葉があります。この言葉も、私が述べてきた、変化の背景にある不変なるものの実在、普遍的なる存在が投映されて、流転するこの世的存在となっていることを道破した真理の言葉なのです。

私たち人間は、時々刻々に変化する、たよりない肉体細胞の集合体をもって「人間」と称しているのではありません。人間の本質は、時間の流れのなかで変転してゆくはかない存在ではなくて、永遠に普遍の実在なのです。この普遍の実在こそ、生命であり、魂であり、霊であります。

私は、「霊」という言葉でもって、摩訶不思議な特異現象をさしているのではありません。それは、人間の本質であり、不変の実在であり、生命のイデアなのです。

肉体人間を支配している個性ある知性。肉体人間を存在せしめている個性ある意識体。これらが、人間の本質なのですから、霊という言葉に対して、世人がいかなる印象を、もとうがもつまいが、真実はひとつなのです。すなわち、花には花の生命体があり、人間には人間の生命体があるということです。

【大川隆法『太陽の法』第1章「太陽の昇時」より抜粋】
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さて、ここからは、幸福の科学の基本書3部作『黄金の法』を通して、エル・カンターレの歴史観を共に学んでまいります。『黄金の法』は、光の菩薩たちが主の悲願である地上仏国土ユートピア建設のためにどのような活躍をなしたのかを記すものです。人類の歴史に隠されていた地球神を、光の天使・菩薩たちはどのように実行したのか、その一端を学びます。経典をお持ちでない方は、是非この機会に拝受ください。【税抜2000円】

『エル・カンターレが観た歴史観であるとともに、エル・カンターレが立案したところの、地球的仏法真理の大河の鳥瞰図でもあります』(「『黄金の法』まえがき」より)
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第5章 愛の押し寄せる時
10 高橋信次の正法神理

さらに、近年においては、高橋信次が生まれました。一九二七年に長野県に生を享け、一九七六年に没しております。彼は、ごく最近の方であり、また、彼が教えを説いたのも、亡くなる前の七、八年間でした。その教えは、みるみるうちに広がり、教線が伸び、GLAという団体にも勢いがついてきたのですが、四十八歳という働き盛りで過労死したので、プツリと教えが切れたような形になってしまったのです。高橋信次が亡くなった後、わずか十九歳の長女が跡を継いだために、教団に動揺が出て、その教勢は衰えたと言えます。

高橋信次は、仏教の再興を願っていたわけですが、彼の教えのそのものは、仏教の持つ豊かな法脈にまで突きあたることはなく、釈尊が成道前に通過したヨーガ仙人的関心に止まっていたようです。「悟り即、霊能力」と捉えていたフシがあり、仏教の特徴である「智慧」や「信仰」「伝道」にまで悟りがつながってゆきませんでした。【※その後の霊査で、生前の高橋信次を指導していたのが、釈尊が成道前の山野での修行したときに禅定の手ほどきを少し受けた、仙人のアーラーラ・カーラーマであったことが分かっています。経典『宗教選択の時代』第五章「方便の時代は終わった」p159参照」】

しかし、谷口雅春が、主として神道に基礎をおきながら、仏教、キリスト教、欧米のニューソートを吸収していったのに対して、高橋信次の場合は、主として仏教の復活に力点をおきながら、キリスト教やユダヤ教、回教も同根であることを説明しようと試みていた点は評価できます。

高橋信次の教義の中核を説明すると、まず第一に、理論的には不十分ながら、釈迦の八正道を中軸において、反省の大切さを説いていることです。すなわち、反省の本来の意義は心の曇りを晴らして、仏の光を直接取り入れ、よって、自らの守護・指導霊とも交流ができるようになるということにあります。

第二は、左右の両極端を捨てて、中道に入ることによって、大調和を実現するということです。

第三には、人間の修業の中心は、自らの「心と行ない」を正してゆくことにあるという点を明らかにしました。

第四には、人間は転生輪廻の結果、さまざまな時代に、さまざまな地域に生まれているのであり、正法神理というものも変遷してきたのだということを明確にしました。そして、親族や弟子たちの一部によるサクラが多かったとはいえ、霊動現象によって、過去世の言葉を思い出して語ることによって、人々が、かつて、インド、中国、イスラエルの時代に生まれていたことを実証しようとしたのです。

第五には、心を探究した結果、心の仕組みと物理化学的な法則とのかかわりを明らかにしました。

高橋信次の教義には、以上のような特色があるのですが、彼の出生の目的と使命について、実在界の側からも説明をしておきたいと思います。

高橋信次の生命体の本体は、実在界では、エンリルと言われている九次元の生命体です。天上界を構造的に捉えるならば、裏側という分類に入り、祟り神的側面があり、その教えを信奉した場合、吉凶はかりしれず、といった感じがします。古代ユダヤ教にもエンリルの影響がかなりありますが、ユダヤ人の三千年の歴史を見るかぎり、祟り神に翻弄された迫害の歴史であったと言えます。

また日本では、役行者(えんのぎょうじゃ)として仙道を開きましたが、大弾圧された大本教を指導した「艮(うしとら)の金神」の正体も、この役行者とその眷属(けんぞく)でした。

高橋信次の功罪は『太陽の法』にも詳しいですが、仙人が仏陀を詐称した点、悪霊現象に対する興味関心を広め、新宗教のオカルトブームに拍車をかけた点に批判は集中します。

私としては、人間がこの世への執着を断つためには、霊的側面を知らせることも大切かと思いますが、霊能力や超能力をありがたがる風潮が、近年の桐山密教や真光教団、真如苑、オウム真理教などの悪霊生産工場続出への温床となっていることに対して、厳しく警告しておきたいと考えます。

大切なことは、この世を否定し、あの世的なもののみを肯定することが、宗教の本務ではないということです。この世とあの世を貫く幸福を求める道こそが、宗教の本道であることを悟るべきです。

正教徒と邪教との違いは、結局、教えを信奉する人々が、素晴らしくなってゆくか、おかしくなってゆくかです。仏教本来の深い智慧を今後とも追い求めてゆきたいと思います。

【大川隆法『黄金の法』第5章「愛の押し寄せる時」より抜粋】

【※高橋信次の転生について、その後の霊査で、紀元前二八〇〇年頃に、エンリルとして古代シュメールのバビロンに転生しています。そしてこの時、天上界からエル・カンターレが、天空神アヌ(ANU)という名前で、地上に降りたエンリルを指導していたことが分かっています。その後、紀元前一八〇〇年ごろ、ヤコブ・イスラエルとして古代ユダヤに転生しています。イスラエルの十二部族の始祖であり、現在のユダヤ人のもとをつくった人です。因みに、このヤコブは、旅先で羽のある天使と格闘したということで、「神と争うもの、戦うもの」という意味の「イスラエル」と名乗りました。「エル」は「神」の意味です。「イスラ」は「抗う」「抵抗する」「戦う」などという意味です。またサトナ・クラーマ(インド・紀元八世・


�頃)インドヨガ界の裏側存在。左慈(中国・西暦二世紀~三世紀)中国仙人界の裏側存在。役小角(日本・七世紀頃)日本天狗界の裏側存在。このように、各時代の転生では一貫して霊界の裏側の存在であり、常に表側の光の天使・大天使・菩薩・如来から裏側の世界に封印されている存在であることが分かっています。『宗教選択の時代』第五章「方便の時代は終わった」参照】
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仏教の教えに欠かすことのできない「三法印」の一つに「諸行無常」(しょぎょうむじょう)がありますが、「世の中の事象は、絶えず変化の中にあって、とどまることがない」という真理です。本日出てきた「生々流転の法則」は、これに関連した教えでした。主の教えではこのようにありました。

『この三次元世界にあるものはすべて、原形の誕生―発育、または、フル稼働―衰退、または、不調―死滅、または、解体という四つの過程を必ず経ることになります。・・・

しかし、変転、あるいは、流転を条件づけられているこの世の存在とは、時間という映写機によって投影を繰り広げられているフィルムだともいえます。つまり、存在とは、そのなかに流転するという性質―時間を内包しているのです。

もうすこし分かりやすくいうならば、この世のものは、すべて時々刻々に変化をしており、まったく同じ状態であることは不可能だということです』

この時間の中の存在の在り様に関する教えは、特に重要です。難しい概念ではありますが、「世の中は常に変化するので、変化することを私たちは常に、積極的に受け入れなければならない」ということです。身の回りのことは変化します。その変化の中に、さまざまな教えや教訓が隠されています。その意図を共に読み取ってまいりましょう。
今日も、今までとは違う変化があります。その変化の中にあって、変化しない「何か」を発見してまいりましょう。

目で見える世界、手で触れられる世界がこの地上の生活である三次元世界です。この地上の三次元世界は時間の経過とともに、誕生から死に至るまで、すべてが変化してやまない世界です。ですが、この変化が止まらない世界のなかで、人間の魂に宿る「霊」は変化することがありません。これこそが実在であると教えていただきました。

真理の言葉『正心法語』にはこのようにあります。

『霊は 即ち 仏子なり
仏子 即ち 人間なり
人間は これ 霊にして
霊とは 不滅の 知性なり
霊とは 不滅の 力なり 
霊は 全ての 全てにして
肉体は これ 霊の影』

このように説かれていまして、人間の本質は肉体ではなく、霊であることがはっきり示されています。

霊の世界とは、イデアの世界であり、純粋な「真・善・美」の世界であるとも言われています。

ですから、時間のなかで、変転万化する環境や肉体は、実在の世界から見たら、夢幻のように実在しないものです。

私たち人間にとって大切なのは、本当に実在するもの―肉体に宿る「霊」の存在です。そして霊は仏子、すなわちもともと一つであった仏さまから分かれた尊い存在であることが『太陽の法』に示されています。これは私たち人間にとってとても大切な教えなので、繰り返し読み返したいところです。

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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are One, with our Lord.  我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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文責:蒲原宏史 

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