7 他人(ひと)の成功に学ぶのは秀才。他人の失敗に学ぶ人は、秀才を超える。
【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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さて、私たち、幸福の科学の信者の幸福とは「悟りの幸福」です。私たちは、「正しき心の探究」を通して「愛と悟りとユートピア建設」をこの地上に実現するための使命を仏から与えられ、その実現のためにすべてを既に与えられました。
ここで、お釈迦様の教えである仏教的精神を振り返り、私たちの幸福を全世界に述べ伝える原動力となすべく、教典『悟りの挑戦(上巻)』を共に学びます。経典をお持ちでない方はこの機会に是非ご拝受ください。【税込み1800円】
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■『悟りの挑戦(上巻)』第4章「無我とは何か」
2 人間の魂としての個性
確かに、釈迦は「三法印(さんぽういん)」(さんぼういんとも読む)のなかで、二番目に「諸法無我」という教えを説いています。
この場合の「諸法」とは、いわゆる「教え」という意味ではありません。「法」には、教え、すなわち人間の正しい生き方としてのダルマ(法)という意味がありますが、感じで使っている「法」にはもう一つの意味があります。それは「さまざまなものごと」という意味なのです。すべてのもの、あるいは森羅万象、こうした現象のことです。宇宙の現象すべてのことを「法」ということもあります。「法」には、このような二つの意味があります。正法無我の「法」は、諸々の「法」すなわちすべての存在という程度の意味なのです。「すべての存在は無我である」と説いているのです。
これを字義通りにとれば、「すべて『我がない』『無我である』というのだから、結局は、空中で分解してバラバラになって、何もかもなくなってしまう」というようにとられる惧(おそ)れもあります。そうした考え方は、いわゆる神光物理学【※仏光物理学】としての、光の作用ですべてのものができあがっているという考え方からは言えば正しいのですが、一方、人間の生き方として、現実に魂の修行をしている主体、この世で魂修行をしている人間の生き方として、現実に魂修行をしている主体、この世で魂修行をしている人間あるいは動物、植物、そのうした主体として修行をしている側から見た場合には、必ずしも正しい考え方ではないとも言えるわけです。
なぜか―。あくまでも、人間の魂としての個性はあるのです。この個性はもともと神から分かれてきた光が、地上に肉体と持ったりして魂修行をしているうちに明確化してきたものです。それが、個性化した歴史なのです。その個性化そのものは、もちろん、神様のよろこばれる方向であったわけです。いろいろなものがあって発展・繁栄していること自体が素晴らしいことである、というのは事実ですが、本来においては、神の子としての光の性質であったわけです。その意味では、本来に立ち返れば、みな、もともと同じ存在でもあるのです。このように、違ったものであることを要請されながら、本来はまた同じものでもあるという、一見矛盾するようにも見える意味を持っているものなのです。
もう少し具体的な説明に入っていきたいと思います。
仏教学者が間違っている根本は、その無我説を、結局「人間の存在というものは、五蘊(ごうん)の仮和合である」と説明するところです。
この五蘊とはなにかというと、「色・受・想、行、識」のことです。「色」というのは、肉体を意味します。「受」は、感受性の受です。「想」は、表象作用、すなわちイメージをつくる力です。「行」は、そのイメージを具体化するための行動です。行動作用、意志の作用と言ってもよいでしょう。人間の意志です。最後の「識」は、認識作用です。
すなわち、まず肉体(色)があって、感覚作用(受)があります。それから、イメージ作用、表象作用(想)があります。その次に、イメージを具体化しようとする意志の力(行)があります。さらには、自分がしようとしていること、していることが何であるかということを判別するための認識作用(識)があります。
その「色・受・想・行・識」という五つが、人間をかたちづくっている形成要因です。この五蘊、五つの作用が仮に合わさってできたのが人間です。このなかの最初の「色」は肉体なので別ですが、残りの「受・想・行・識」の四つは精神作用です。人間の心の作用です。つまり、「肉体と心で、人間はできているのだ」という考え方があるわけです。
そして、「これが仮和合(けわごう)、仮に和合している。そういう者が、仮に一つになってできている。もともと何もないものだったのに、そういう肉体物質と心の四つの作用とが合わさって、五蘊が仮和合して、人間らしいものができている。そのようなものは、風が吹いたら飛んでいくような、あるいは火に燃やしたら消えていくような、そうした無常なものである」という考えがあるわけです。
仏教学者のなかには、この考え方を進めていって、「五蘊の仮和合だから、人間は死んだ後、バラバラになって雲散霧消して、霊気のような何だかわからないものに拡散していくのではないか」というイメージを持っている方が多いのです。
【大川隆法『悟りの挑戦(上巻)』第4章「無我とは何か」より抜粋】
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さて、ここからは、幸福の科学の基本書3部作『黄金の法』を通して、エル・カンターレの歴史観を共に学んでまいります。『黄金の法』は、光の菩薩たちが主の悲願である地上仏国土ユートピア建設のためにどのような活躍をなしたのかを記すものです。人類の歴史に隠されていた地球神を、光の天使・菩薩たちはどのように実行したのか、その一端を学びます。経典をお持ちでない方は、是非この機会に拝受ください。【税抜2000円】
『エル・カンターレが観た歴史観であるとともに、エル・カンターレが立案したところの、地球的仏法真理の大河の鳥瞰図でもあります』(「『黄金の法』まえがき」より)
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第5章 愛の押し寄せる時
7 マホメット
西暦570年、アラビアの商業都市メッカにマホメット(ムハンマド)は生まれました。イエス・キリストが死して五百四十年近い年月が過ぎたときのことです。当時のメッカでは、クライシュ族が支配権を握っており、マホメットは、そのクライシュ族の末流であるハシム家に生を享けたのでした。マホメットは、誕生前に父を失い、六歳のときに母アミーナ(Aminah)を失って、孤児となります。最初は祖父アブドゥル・ムッタリブ(Abdul
Muttalib)、その没後は亡父の弟アブー・フーリブ(Abu
Talib)という叔父に引き取られて、苦労して少年時代を送ったのです。【※この時期、日本では、聖徳太子が生誕しています。(五七四年~六二二年)】
二十五歳のとき、マホメットは、商隊の持ち主の、裕福で美貌の四十歳の寡婦ハディージャ(Khadijah※現在に転生して大川紫央様に転生しています)に見込まれて結婚し、その後、三男三女をもうけたのです。こうしてマホメットは、裕福な商人として十五年間を過ごすことになります。しかし、運命は彼を放っておきませんでした。西暦六一〇年、すなわち、マホメットが四十歳になったときのことです。彼は一年の内のある期間、メッカの郊外、北東約五キロメートルの山中に引きこもり、瞑想や祈りを実践する毎日を送っておりました。ラマダン月のある晩のこと(「威力の夜」〔ライラト・アル・カドル〕と呼ばれる)、ヒラー(Hira)山で、彼は圧倒されるような霊的体験をしました。洞窟中に厳かな声が響きわたり、光り輝く正・
・不明のものが、彼の喉をつかまえ、洞窟中に厳かな声が響きわたり、光り輝く正体不明のものが、彼の喉をつかまえ、啓示された神の言葉を復唱するように、つまり霊言を暗唱し、あとで記録するように命じたのです。彼は最初、自分がジンつまり悪霊に憑依されたと思い込み、恐ろしさゆえに運命から逃れようとします。しかし、妻ハディージャに励まされ、やがて人々に教える使命を確信し、六一三年頃から伝道を開始します。彼の妻ハディージャが、最初のよき理解者として信者になりました。
後に、ハディージャのいとこのキリスト教徒のワラカやユダヤ教徒に教えられたことをヒントに、自分に霊示を伝えているのはジブリール(Jibril 大天使ガブリエル)だと彼は信ずるようになりました。イスラム教では唯一神アッラーへの帰依を説きますが、アラーとは固有名詞ではなく、アラビア半島で信仰されていた創造主を意味する「神」のことです。その証拠に、預言者マホメットの父はアブド・アッラー(Abd
Allah神のしもべ)、略してアブドッラー(Abdullah)という名前でした。中東の信仰において、創造神を特定するなら、エローヒム、すなわち、エル・カンターレのことになります。する・カンターレの教えはイスラム教においては、ユダヤ教、キリスト教の預言者と同じ使命を帯びてマホメットが人類に遣わされたことを示す寛容さに表われています。
マホメットは様々な霊的啓示を人々におしえますが、記録された教えは、第三代カリフ、ウスマーンの時に、百十四章からなるコーランにまとめられました。教えの内容は、アッラーの他に神なしとする唯一神信仰であり、以下に、天使・経典・預言者・来世・天命の六つの信仰の要諦が述べられております。
商用で旅したシリア地方では、マホメットは、ユダヤ教やキリスト教の影響も強く受け、当時のメッカの氏族宗教だった太陽崇拝、天体崇拝、岩石崇拝などの偶像崇拝を否定するようになりました。このようにして、彼の新宗教は、貧民、奴隷などの支持を受けて、燎原(りょうげん)の火のように広がってゆきます。しかし、宗教的にも政治的にも支配者であったクライシュ族に迫害され、マホメットは、六二二年にメッカを追われ、現在のメジナ、ヤスリブに移りました。これが「ヘジラ(Hijrah)」と言われた聖なる転戦です。ここでマホメットは、教団を組織し、具体をも指揮して、六三〇年メッカに攻め上り、これを制圧。すなわち、アラブ諸民族の統一を図ったのです。
マホメットは、八次元如来界の人です。彼が洞窟のなかで受けた天上界のメッセージは、旧約の預言者たちが受けた啓示やイエスが受けた啓示と同じ高級霊団グループのものでした。ただ、マホメットが、商業を基礎とする地域に法を説いた点、及び、軍事的にも指導権を握った点は、時代性と地域性が大きく影響しています。また、コーランの教えも、礼拝、断食、戒律を中心とするものだったため、やがては、イスラム教が形式宗教に流れ、頃の教えを失ってゆく原因ともなりました。
マホメット自身が、イエスのような宗教的修行を十分に積んでいなかったために、受け取ることができた啓示に、心の教えまで至る深みがなかったことと、政治的、軍事的にも手腕を発揮して「聖戦(ジハード・Jihad)」を強調したことが災いして、後に回教徒同士の宗教戦争の遠因ともなったと言えるでしょう。中東は、現在もなお、暗い想念の霧に包まれております。
最後に、イスラム教は、それまで多神の中の至高神であったアッラーを、唯一神(つまり、他に神はいないことになる)としたことが最大の特徴の一つですが、霊界の真相から見ればこれが間違いであることは、賢明な読者ならおわかりのはずです。これがアッラーを至高神とするクライシュ族との戦争の原因ともなりました。なぜなら、カーバで祭られていた他の神を否定することになったからです。事実認定の成否に拘泥することなく、マホメットの唯一神信仰は、旧(ふる)い宗教から脱皮するための一大イノベーション(宗教の革新運動)として意義があったと理解すべきでしょう。
また、キリスト教徒からは、マホメットが最初の妻ハディージャ死後、愛妻アイーシャ(Aisha)をはじめ、十人を超える妻を迎えたことや、イスラム教では一夫多妻を認めることを根拠に、イスラム教を悪魔の教えとする考えが根強くありますが、相次ぐ宗教戦争で寡婦や孤児が多数出現したイスラム教徒たちに対して、当時なりの社会福祉政策として許可した面、女性たちへの公平な接し方を義務とした面も、特記しておくべきでしょう。【アイーシャは預言者ムハンマドの、〔ハディージャ亡き後の〕妻。アブー・バクルの娘。アブー・バクルは、初代
カリフであり、ハメネイ師の過去世】
【大川隆法『黄金の法』第5章「愛の押し寄せる時」より抜粋】
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※中東に関する補足説明
中東発祥である宗教の基礎知識
① ユダヤ教の成立
ユダヤ教は、モーセ、第一・第二イザヤ、エレミヤなど、古代ユダヤの「預言者」たち
に連綿と下った神の声をもとに成立した宗教です。ユダヤ人は現在のパレスチナ地方に王
国を築いて繁栄しますが、その後は異国のバビロンに捕囚されるなど(紀元前 6 世紀)苦
難が続きます。しかし、その都度、「十戒」などの戒律を引き締めて民族の結束を強めてき
ました。その反面、自民族の救済が主な関心であるとして、「選民思想」と批判されること
もあります。
② キリスト教の成立
やがてイエス・キリストが登場します(1
世紀)。戒律中心で生命力を失っていた当時のユダヤ教を批判し、普遍的な「愛」の教えを説きました。イエスは殺されましたが、彼を救世主と考える人たちがキリスト教を形成してゆきます。イエスの死後、ユダヤ人たちはローマ帝国との戦いに敗れ、世界各地に離散していきます。
③ イスラム教の成立
7
世紀、アラビア半島にムハンマド(マホメット)が登場し、イスラム教の開祖となります。ムハンマドを最終の預言者とし、特に「神の前の平等」を強調した教えです。彼は軍事的にも勝利を収め、イスラム帝国の基礎を築きます。ムハンマドの死後、正統カリフと呼ばれる後継者たちがいましたが、そのうちの第四代アリーを崇めるシーア派が分離し、主流のスンナ派と勢力を二分しています。現代のイスラム国の多くはスンナ派ですが、イランやイラクはシーア派が多く、内戦中のシリアも支配層はそうです。
④ 三宗教の融和に向けて
歴史を通じて、三宗教は紛争と融和を繰り返しました。特にキリスト教とイスラム教は世界に広がり、十字軍で激しく戦いました。現代に入ると、さらに大きな問題が持ち上がります。第二次世界大戦後、長く離散していたユダヤ人がパレスチナ地方にイスラエルを建国したのです。その際、先住のイスラム教徒を追い出したことから、ユダヤ教とイスラム教の争いが激化。イスラエル建国を欧米のキリスト教国も応援していたため、キリスト教とイスラム教の関係も険悪になります。現在、これらの宗教の融和が緊急の課題になっているのです。
① ムハンマドの魂は日本も建国した!?
ガブリエルの霊言では、第二イザヤ―神武天皇の転生が事実であるかどうかも議論されましたが、霊言終了後の大川総裁の総括により、事実としてほぼ確定されました。そうだとれば、同じ霊人が、ユダヤ、日本、イスラムの各文明で建国の役割を担っていたことになります。
また、日本の中心神である天御中主神が第四代正統カリフ・アリーとして転生したこと、(※現在大川家三男)十字軍を撃退したイスラムの英雄サラディンが、日露戦争でロシア・バルチック艦隊を破った東郷平八郎(※現在大川家の孫)であったことなどもすでに判明しており、同じ神々が日本とイスラムの両方を指導していることが分かります(『中東で何が起こっているのか』)。
② 日本とユダヤ両国に暗雲を投げかける神とは
一方、「旧約聖書」に登場する神「ヤハウェ」は偏狭な民族神であり、ユダヤ人が迫害さ
れる原因にもなりました(『「ヤハウェ」「エホバ」「アッラー」の正体を突き止める』)。その後の霊査で、このヤハウェが、元寇で日本を襲ったフビライ・ハーンや、第二次大戦で日本を倒した
F・ルーズベルト米大統領として転生していたことも判明しています(『フビライ・ハーンの霊言』)。日本とユダヤでは、主流の神々の交流もありますが、両文明に暗雲を投げかける存在もあるということです。
③ 今後の課題とは
今後の宗教問題の見通しについてはどうでしょうか。第一イザヤ・第二イザヤの霊言は、ユダヤ教の排他性を指摘し、ユダヤ人のアイデンティティーやイスラエル国家の存続にこだわるべきではないと警告するものでした。一方のイスラム教圏については、争いが絶えないことや人権意識の低さが問題になっていますが、ガブリエルをはじめ、多くの霊人が「改革の必要あり」と考えているようです。
日本は、ユダヤ教とイスラム教の両方と霊的に縁が深いことが判明しました。明治以降、欧米のキリスト教文明も摂取しており、啓典宗教の全てを受容できる環境が整っています。そして何より、中心的な「愛の神」としてあらゆる世界宗教を指導した地球神エル・カンターレが大川隆法総裁として下生しています。日本から発する新たな教えを世界中に広げることこそ、現在の宗教紛争を終息させる最終手段と言えるでしょう。
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幸福の科学は、この地上に真のユートピアを建設するために、日夜努力しています。私たちが「正しき心の探究」として「愛・知・反省・発展」の四正道の教えの実践と四正道の全世界への布教に向けて伝道しているのは、「仏国土ユートピア建設」のためです。
ここからは、経典『正しき心の探究の大切さ』より、「愛」「知」「反省」「発展」の四正道ついて主より教えていただきます。
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■『正しき心の探究の大切さ』第1章「未来へ」
〇真理を伝える際に心がけること
「四正道」をまとめて話してもよいですが、それでは理解できない場合は、どれかの教えを一発、バシッと打ち込むのです。そして、「その人の心のどこかに風穴を開け、仏法真理を差し込み、学習意欲をつくる」ということが大事なことであるわけです。
そのように、一般向けには、簡単に、どこかの切り口からアプローチをかけて、真理を教える必要があります。
「そもそも、大川隆法先生の説かれた二十年間の説法は・・・」などと言って、その内容を、『平家物語』でも聞かせるように延々と話したら、もう、みな逃げて帰ります。途中でいなくなりますから、それはいけません。そうではなくて、教えのポイントを、自分の言葉でズバッと語れるようにしていく必要があると思います。以上が、伝道の仕方として、言っておかなければならないことです。
【大川隆法『正しき心の探究の大切さ』第1章「未来へ」より抜粋】
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続きまして、経典『幸福の科学とは何か』より、反省について学びを深めます。
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〇悟りへの第一歩
反省を中心に話を進めてきましたが、もうひとつ大切なことを言っておかねばなりません。すなわち、悟りについての考え方ですが、悟りの第一歩、第一関門は、この反省であるということを、どうか肝に命じてほしいということなのです。
いろんな考え方をする方がいるでしょうが、悟りというものは、まずこの反省を通して得られるのです。第一段階の悟りとは何かというと、すなわち本来の自己を取り戻すこと、自分が神の子であるということ、実在界から出てきた存在であるということ、また、自分が霊的存在であるという事実にめざめること、こうしたことが悟りの第一歩なのです。この霊的自己にめざめること、本来の自己にめざめることというのが、反省の中核をなさねばならないと私は思います。
すなわち、反省というのは、道徳的に教えられた良いこと悪いことを振り返って、マル・バツをつける行為ではないのです。ほんとうは、霊的な自分というものがあり、その霊的な自己は、成長していく方向があるのです。この方向に延びていけば成長するが、これと違った方向に伸びていけば、これは失敗する、あるいは自己のためにはならない、霊的成長を阻害されるという方向があるのです。この部分を中心に、反省をせねばならないのです。自分の霊性が本来めざしている方向に、すくすくと伸びていけるような努力をそこしなくてはいけないのです。
したがって、反省の基準はこの霊性、真実の霊性にめざめること、真実の霊性にめざめるための手段でなければならないということ、こうしたことが強調されるのです。すなわち、霊的進化に奉仕しない反省は、真実の意味での反省とは言えないということなのです。
たとえば、他人を自分の思い通りにしようとして、それが出来なかったから反省するという反省は、ほんとうの意味での反省ではありえないということなのです。他人を自分の思いのままにする、あるいは自分の欲望を晴らさんとする、こうしたことの結果がとげられないがために、そこに自分の落ち度があったとしてそれを反省するということが、反省ではないということなのです。神の心に反した行為、これを反省せねばならないのです。
また、神の心ということから引いてくることのできる結論として、本来一人ひとりの人間は、心のなかに良心というものがあります。このよい心、この善我なる自分、神性を含んだ部分、これが結局、その本来の姿に立ち返るために、その良心自身が要求するもの、神性自身が要求するものであるはずです。それがほんとうの方向なのです。したがって反省のもう一つの視点は、自分自身の深い心、真心との対話ということになりましょう。
ほんとうに、真底から自分がこうありたいと思っているのかどうか、これを考えることです。人の評判や人のつくり出した価値、また、さまざまな人間的な思いやレッテル、こんなもので自分の価値観が振り回されているのではないか、この部分をよくよく考えてみなければいけないのです。自己実現と言っても、まちがったレッテルなどに基づく自己実現であってはいけないのです。真実の自己実現は、やはり霊性の実現です。霊性のめざめです。その到達です。これこそが、ほんとうに望まれるところなのです。
それゆえに、まず私たちは、謙虚に自分というものを見つめていく必要があります。
どうしても謙虚さというものを忘れて、自分が巨大化すればいい、自分の活躍場面さえ増えればいいというように考え方がありますが、それは、ともすれば悟りの逆に近づいていくことになるということです。心のさび止めということにも関係すると思いますが、謙虚さということが、どうしてもここでもう一度、中心になっていかざるをえないのです。
すなわちこの反省も、また別の基準から言えとするならば、「自分自身を振り返ったときに、謙虚であったかどうか、神のまえに、神仏のまえに謙虚な自分であったかどうか、傲慢でなかったかどうか、これを振り返る必要があります。もうひとつは、他人に対して真実優しかったかどうか、愛を与えたかどうかということです。
この、自分に対して謙虚で、他人に対して優しくあるということ、これを実践することが、ひとつの反省でもあります。日々要求される反省の積み重ねとは、結局、この二つの言葉に帰結されるかもしれません。自己に対して謙虚に、また他人に対して優しく、これは「己に厳しく他人に寛大に」という言葉になりましょう。
いずれにしても、こうした心構えをもっていることは、無限の悟りを得ていくための方法でもあるのです。悟りは無限です。それは無限の階梯を持っています。この二つのことを基準に考えてください。ともすれば人間は、他人に対しては要求をし、自分に対しては甘くてぬるい考え方をしがちです。しかし、そうであってはいけないということです。
こうした考え方をしてみると、悟りを求めるという行為は、結局、無限に人格に向上させていく道でもある、無限に器の大きい人格をつくることでもあるとそのように言い換えることもできるでしょう。ここに、みなさんの研究課題がまだまだあると言わざるをえません。
【大川隆法『幸福の科学とは何か』第5章「反省はなぜ必要か」より抜粋】
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伝道の原点は、「四正道」を簡単に伝えることです。これは大切な点です。
そして、エル・カンターレという神の名を伝えることが今とても大切です。
経典『地獄の法』の第五章「救世主からのメッセージ」では、
「正しき心の探究」としての「現代の四正道」を実践することの大切さが説かれています。
主におかれましては、「信仰心を持って生きることを、大きな意味において『正しき心の探究』といいます。そして、その『正しき心の探究』の中身とは何であるかといえば、「愛・知・反省・発展」という「現代の四正道」に、今は集約されています」と説かれています。
そして、経典『「正しき心探究」の大切さ』では、
『(伝道において)では、何を伝えてほしいかというと、原点に返れば、「愛・知・反省・発展」の「四正道」です。まず、「四正道を、どれだけ簡単に伝えられるか」ということが原点になります』と説かれており、伝道において、「四正道」分かりやすく伝えることが大切である、と教えていただいています。
また、本日の学びでは、
『悟りについての考え方ですが、悟りの第一歩、第一関門は、この反省であるということを、どうか肝に命じてほしいということなのです。・・・悟りというものは、まずこの反省を通して得られるのです。第一段階の悟りとは何かというと、すなわち本来の自己を取り戻すこと、自分が神の子であるということ、実在界から出てきた存在であるということ、また、自分が霊的存在であるという事実にめざめること、こうしたことが悟りの第一歩なのです。この霊的自己にめざめること、本来の自己にめざめることというのが、反省の中核をなさねばならないと私は思います。
という言葉がとても、心に染み入りました。また、別の箇所では反省と謙虚さと自己実現についてこのようにありました。
『真実の自己実現は、やはり霊性の実現です。霊性のめざめです。その到達です。これこそが、ほんとうに望まれるところなのです。それゆえに、まず私たちは、謙虚に自分というものを見つめていく必要があります』
また、反省の結果として、自らへの謙虚さと、他人に対する優しさが指標にすることも学びました。
『この反省も、また別の基準から言えとするならば、「自分自身を振り返ったときに、謙虚であったかどうか、神のまえに、神仏のまえに謙虚な自分であったかどうか、傲慢でなかったかどうか、これを振り返る必要があります。もうひとつは、他人に対して真実優しかったかどうか、愛を与えたかどうかということです。
この、自分に対して謙虚で、他人に対して優しくあるということ、これを実践することが、ひとつの反省でもあります。日々要求される反省の積み重ねとは、結局、この二つの言葉に帰結されるかもしれません。自己に対して謙虚に、また他人に対して優しく、これは「己に厳しく他人に寛大に」という言葉になりましょう』
さらに、反省の基準として次のポイントも学ぶことができます。
『反省の基準はこの霊性、真実の霊性にめざめること、真実の霊性にめざめるための手段でなければならないということ、こうしたことが強調されるのです。すなわち、霊的進化に奉仕しない反省は、真実の意味での反省とは言えないということなのです』
やはり、反省と与える愛の実践と悟りという名の幸福とは深い関係があることを改めて確認できました。一日のうち、少しずつ反省と与える愛を重ねてまいりましょう。そして、悟りという名の幸福を手に入れましょう。
本日も愛と天使の働きをなすために、そして私たちの隣人を助けるために、主の教えと信仰心の大切さを伝え、入会・三帰へと導いてまいりましょう。そして、私たちは、人の不幸を呪うのではなく、人の幸福を祈る者になりましよう。
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are One, with our Lord. 我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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TEL:0596-31-1777
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文責:蒲原宏史
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(9/24-1)【基礎教学通信】267幸福の科学入門47『正しき心の探究の大切さ』真理を伝える際に心がけること―「悟りの挑戦(上巻)」人間の魂としての個性―『黄金の法』マホメット
