9 実在世界の法則は、与える者は与えられ、奪う者は奪われるということである。
10 だから、与える愛で損をする者はなく、他人を騙して、奪って得をする者はないのである。
【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。
三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に「四弘誓願」を立て、『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。
そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、「正しき心の探究」と「地上仏国土ユートピアの実現」のために「四正道」と「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。
引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。
『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
われらの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
われらを真なる幸福へと導きたまえ。』
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はじめに、今日の一日を振り返りつつ、一日一生の精神をあらたにすべく、『天御祖神 武士道を語る―現代に求められる真実の死生観』の教えを確認します。とても大切な教えですので、教典をお持ちでない方は、支部・精舎・全国の書店にてお求めください。【税抜1700円】
―今日、命がなくなったとして、おまえはそれで満足できるかどうか」ということを、日々、自らに問うということだな。そういう生き方をしなさいということだ。―天御祖神
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■『天御祖神 武士道を語る』
三、神仏と一体となって生きる
〇忠誠があって私心がなかった軍人の鑑(かがみ)・乃木希典(のぎまれすけ)
天御祖神 乃木将軍も有名だけれども、
「陸戦においては戦が下手であった」
といわれていることも、多いことは多い。
しかしながら、
旅順のロシアの要塞を攻撃するに当たって、
自分の息子二人まで失わせながら、
「数万人の人たちをそこで死なせた」
ということに対しては深い責任を感じていて、
明治帝の崩御とともにみずからも自害の道を選んだけれども、
責める人は少なかった。
それを責める人は少なかった。
質問者A 『現代の武士道』にも乃木将軍のことが書かれているのですが、児玉源太郎が知恵を使って戦に勝ったようなところもあります。
されど、乃木将軍のほうが名前は有名というか、その精神性に感じ入る方が多いと思いますが、その違いは何かあるのでしょうか。
天御祖神 いや、命懸けで戦ってはおったからね。
児玉は、もう一段、兵法的な面で、
自分を安全なところに置きながら勝てる方法を考えついたというところにおいては、
天才的なところはあったのだろうと思うが。
乃木は要するに、
日本軍の兵士たちが―
ロシアの要塞は山の上、二〇三高地にあったわけなので、
それを駆け上って突撃しているときに、
その背後から弾を撃つというか砲撃することができなかったのだね、
乃木はね。
それは自分たちの見方を殺してしまうから、できなかった。
けれども、その考えよりは、
こちらから攻撃を一切やめてしまうと、
向こうから、要塞から狙い撃ちされてしまって、
死者の数が多くなるということで、
そうした数学的計算から見れば、
「攻撃し続けるなか、突撃したほうが、
実は、敵の要塞は落としやすかった」
というような考えもある。
日清戦争のときには、
短い時間で旅順にある二〇三高地を落としてしまっているのに、
ロシアのテリトリーになってからは、
厚いコンクリートと、すごい砲撃力を強化されて、
前とまったく違う状況になっていたんだね。
それが分るのにちょっと時間がかかったところはあって、
実際、陥落させた後も、なかを見てみたら、
ロシア軍のほうがよっぽど、
食糧も武器も弾薬も、日本軍よりも優れていたという、
その状況のままで降伏しているということだよね。
だから、「積極果敢な、死を恐れない戦い方をしたことで、
向こうのほうが白旗を揚げた」
ということはあったのだろうと思うので、
「何万人もの人を死なせた」ということに対して、
指揮官としての責任はあったとは思うけれども、
乃木に私心がない―
本当に忠誠があり、私心がなかったということは、
やはり「軍人の鑑」としての面はあって、
各国の観戦武官たちも感心しているところでもある。
そういう立派な侍がいたということが、
やはり、何と言うかな、
国民を、背筋をシャンとさせる、
そういうふうな能力はあったのではないか、
力があったのではないかなと思えるが、
戦後、そういう人が極めて少なくなったね。
【大川隆法『天御祖神 武士道を語る』より抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、教典『新・心の探究』より反省の原点である「心の浄化」について学びます。心を清浄にして妖怪性から脱却しましょう。
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■心の浄化
4 正思・正命について
さらに、三番目には正思というものがあります。【※教団創設初期には、『真説・八正道』などでも八正道の順番が正見・正語・正思の順番でしたが、現在は伝統的な順番である正見・正思・正語の順となっています】正しい思いです。この正しく思うということを正見の次にあげる場合がよくありますが、私はできれば正見、正語のあとにあげたほうが、正しい思いのチェックもやさしくなると考えています。なぜなら、正見、正語というのは非常に具体的な反省内容だからです。
さて、正思ということは何かというと、一日のうち自分の心の中をうずまいていたもの、これを考えるわけです。正語は言葉を外に出した場合ですが、正思の場合は外に出さない、その内のものをも反省するということです。いったん外に出したものを反省するということは明確ですが、心の中にこもっていたものを反省するということは、これは気がつかなければ、なかなかできるものではありません。
心のなかのわだかまりを出してみる、心の中に糸くずのかたまりのような、そうしたものがあるのではないか、あるいは、心のなかのしがらみ、ひっかかり、こうしたものがあるのではないか。これを考える必要があります。この心のなかの引っかかりや、しがらみが人間を不幸にしている元凶にあたることが多いのです。これは霊視をしてみるとちょうど毛糸の毛玉のようなかたまりが、反省している人の胸からボロボロと落ちてくるのが見えてきます。そういうふうにスモッグのかたまりを心のなかにため込んでいるのです。
ある人への憎しみを五年も十年も持っている人もいます。怒りの念いを抑えながら心のなかにためている人もいます。嫁・姑などの間でよくある現象です。あるいは自己卑下という毒素もあります。いつも自分をつまらない取るに足らない人間だ、そういじめ続けている人です。そうした人の心のなかにも、わだかまりがあります。毛糸玉のようなうす黒い塊があります。あるいは妬みの気持ちでいっぱいになっている、こういう思いがあります。
このように個々のなかで毛糸玉のようなかたまりをつくっている思いをひっぱり出して、その毛糸の玉を解くように、糸を一本一本くり出していくことです。そして、心を開放することが大事なのです。
また、正命ということも大事です。正命は、正しい命と書きますが、正しく生活するという意味です。一日の生活が神意に沿ったものであったかどうか、それが合理的なものであったかどうか、効率的なものであったかどうか、時間というものを十分に生かしきったか、こういう観点からの反省です。
一日を何気なく過ごしたり、やる気なく過ごしたりしていないかどうか。これは人生を終えるときにたいへん大きな差となってきます。毎日毎日を、明朗な気分で朗らかに、そして明るく、夢多く、希望おおく積極的に生きている人と、暗くよどんで後ろ向きの人生ばかりを歩んでいる人、これらの人の一生というものは非常に大きな違いとなってきます。
したがって、まず、毎日毎日を美しく輝かすこと、バラ色に生きるということ、今日一日生きてよかったなといえるような一日であること、これが大事です。仏教の言葉でいう、あるいはキリスト教でいう「一日一生」という考え方を、この八正道のなかの基準にあてはめるとするならば、この正命にあたると言えましょう。
【大川隆法『新・心の探究』第4章「心の浄化」より抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、教典『真説・八正道』より反省の本質を学びます。妖怪性からの脱却をはかり、「反省からの発展」さらに「中道からの発展」を目指しましょう。
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■『真説・八正道』
4反省への前提―三宝帰依の精神
今から二千六百年ほど前に、仏陀は語ったはずです。今、この本を読んでいる人のなかにも、そのときに、それを聴いた人はかなりの数いるはずです。「仏弟子になるためには、まず三宝に帰依せよ」ということです。
「三宝帰依」とは、「仏陀に帰依し、仏陀の説く法に帰依し、仏陀サンガに帰依する(僧団の規律を守る)」ということです。この三点を守れない者は、少なくとも、修行者として許されないわけです。
もし、修行者としてこの道に入って、「三宝帰依」の姿勢がない場合には、「山の中に入って、一週間、反省せよ」ということだったのです。そして反省できない場合には、「在家に戻りなさい」ということだったのです。仏陀教団においても、修行についてこられない者は、「在家に還る」ということ、「還俗(げんぞく)」勧められたのです。
【大川隆法『真説・八正道』第一章「序章」41p】
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今日の一日を振り返りつつ、1991年7月に説かれました『永遠の仏陀』を振り返ります。
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■『永遠の仏陀』
第二章 真実の人となれ
〇正直に生きる
諸々の比丘(びく)、比丘尼(びくに)たちよ。
私は、おまえたちに言っておこう。
心に、常に、このわが言葉を刻んでおくがよい。
おまえたちは、
真実の人とならねばならない。
真実に生きる人間とならねばならない。
真実の下に、ただひたすら歩むこと以外に、
みずからの歩み方があると思ってはならない。
まず、おまえたちは、うそをついてはならない。
正直を旨とせよ。
時に、正直に生きることが、
この世的に、どれほど愚かに見えることがあるとしても、
やはり、おまえたちは正直一途(いちず)に生きなくてはならない。
うそを言って、世渡りするものもある。
そのような者が次々と手柄を手にしているかに
見えることもあるだろう。
しかし、私は、おまえたちに言っておく、
うそを言い続けて、真に成功する人はいないということを。
そのうそは、いつか他の人の見抜くところとなり、
やがて、そのような人は辱めを受けることとなるだろう。
しかし、万一、今生において、
そのうそ、ばれることなく、逃げおおせたとしても、
人間には来世というものがある。
この来世というものの恐ろしさは、
そこでは一切のうそが通じないというところにあるのだ。
菩薩の心を持っていなければ、
菩薩たちの世界に住むことはできない。
また、地獄の鬼たちは、
鬼の心をもって生きていると言わざるをえない。
この地上を去った世界では、
一切のうそ、偽り、言い逃れは通用しないと
心しなければならない。
さすれば、この地上においても、
お前たちの真価は、
正直に、おまえたち自身の、
その思いと行いを表しているところに表れるのだ。
もし、うそ、偽りを使わなければ、
お前たちが世に認められないというならば、
そのような成功は、やがて、仮面をはがれ、
暗い淵のなかに投げ入られることになるであろう。
よって、正直に生きる者は、最後には勝利するのだ。
それを忘れてはならない。
けれども、おまえたちは、私に問うかもしれない。
「正直に生きるとは、
どのように生きることであるか」ということを。
「その内容を知りたい」というであろう。
「何をもって正直に生きるというのか。
何をもって偽りの人生を生きるというのか」と。
確かに、みずからの人生が偽りの人生であるということに、
気づかぬままに生きてゆく人は、
数多くあると言ってもよいだろう。
気づかないのだ、
それが偽りであることに。
しかし、よくよく見るがよい。
みずからは気がついていないにもかかわらず、
偽りの人生を生きている人には、
明らかに共通する特徴がある。
かれらは、すべて、この世的なる物差しを基準としている。
地位や、名誉や、金銭の多寡、
そのようなものを、この上なく愛し、
己の心の価値というものを認めていない。
それが彼らの特徴だ。
私は、決して、
努力多くして成功し、
世の人々のために生きている人に、
地位があろうが、
名誉があろうが、
そして富があろうが、
それを悪いものだとは言わない。
正当なるものとして評価されているものには、
それだけの光があるものだ。
けれども、ここで注意をせねばならぬことは、
そのような、傍目に見えるような基準でもって、
自分自身の値打ちを測ろうとする、
愚かな人々の存在であるのだ。
大きな家に住んでいるから、偉い人間だと錯覚してみたり、
髙い車を乗り廻しているから、偉い人間だと錯覚したり、
そういう人がいるから問題だと言っているのだ。
これらは本末転倒であるのだ。
やはり、その人の心に、生き方に、人生に、値打ちがあってこそ、
その他の、この世的なる道具も、生きてくるというものなのだ。
その順序を間違えてはならぬ。
少なくとも、
自らの心のあり方というものを
考えたことがない人間には、
正直に生きるということさえ、分からないであろう。
なぜならば、正直に生きるということは、
己の良心に忠実に生きるということだからだ。
そして、己の良心に忠実に生きるとは、
己の心のなかにある守護霊の声に、
忠実に生きるということなのだ。
そしてまた、その守護霊は、
上位にある高級霊の心に忠実に、指導せねばならないのだ。
これが、正直に生きるということの根本だ。
すべては仏から始まる。
仏の心を心として生きるということが、
正直に生きるということなのだ。
この、仏の心を心として生きるということが、
なかなか分からぬから、
みずからの良心に忠実に生きるというふうに、
普通、言われるものなのだ。
【大川隆法『永遠の仏陀』第2章「真実の人となれ」より抜粋】
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続いて、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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■『釈迦の本心』
第1章 菩提樹下の悟り
8 己心の魔との戦い
ガヤーの町というのは、ちょっとした市街であって、人口は数千人ぐらいだったでしょうか。町の中心地には商店街があり、人の行き来のけっこう多いところでした。人口が数千人というのは、当時としてはなかなかの都会だったと言えます。
ゴータマはこの町で、托鉢に出て布施を受け、帰ってくると主として夕方から明け方にかけて、自分の悟りのための時間をとることにしたのです。
そのため、日が暮れるころ、河からそう遠くないピッバラの大樹(アシヴァッタ樹ともいう)の下で禅定することを日課にしました。このピッバラは、幹の太さがひと抱えもふた抱えもあるほどの大樹であり、その下で雨露を防ぐことができたのです。
ここでゴーダマは、主として「反省的瞑想」を進めていきました。単に目をつむり、思いを一点に集中しようとするだけだと、悪霊、邪霊のたぐいから、さまざまな惑わしを受けることが多いので、自分の心を調和していくために、まず、過去に自分が思ったことや行なったことを、幼いころから一つひとつ思い出し、良心に照らして間違っている点があるならば、素直に反省していったのです。
しかし、そうした反省が進み、やがて二十代後半の時代に差し掛かってきたとき、反省しても反省しても、どうしても解決がつかない思いが、自らの内に突き上げてきました。それは、妻ヤショーダラーと、わが子ラーフラのことでした。
二人の顔が思い浮かんできて、「ラーフラはもう大きくなったかもしれない。ヤショーダラーはどうしているだろうか。私のことを思い、切ない思いをしているのだろう」と考えると、どうしても心が揺れるのでした。
そのころ、ゴータマは心の窓が少し開けてきており、霊界のさまざまな者たちの声が聞こえるようになっていましたが、こうしてピッバラの下で禅譲していると、あるとき、胸の内から声が響いてきました。
「ゴータマよ、わしは梵天である。梵天であるわしがおまえに語るが、おまえは悟りを求めて、六年間も修行をしてきたのだろう。六年間の修行の結果が何だ。結局、自分が平凡人であることを証明しただけではないか。
おまえは人間の基本を忘れている。人間の基本は、結婚して家庭を持ち、子供を持ち、そのなかで幸せに生きていくことだ。その幸せを捨て去り、妻も子も捨てて、ピッバラの木の下で禅定しているおまえなど、生きていて何の意味があるのか。おまえは間違っている。早くカビラヴァストゥに帰り、妻と子を喜ばせてやれ。そうするうちに、おまえは大悟できるのだ。
人間には、この世の喜びを喜ばずして、来世の喜びなどというものがあるものではないのだ。この世で楽しめるだけ楽しめ。喜べるだけ喜べ。その喜びの量が大きければ大きいほど、来世の喜びもまた大きいのだ。
おまえは充分に喜んでいないではないか。もっともっと家族との生活を楽しめ。もっともっと優雅な日々を送れ。それがおまえの今世の修行の意味なのだ」
梵天と名乗る者が、このように語りかけてきたのです。
確かに、もっともなところ、納得するところもありましたし、また、ゴータマのいちばん弱点であるところも突いてきました。
妻や子を捨てたことへの反省や、父王や義母など、幼いころから自分を養育してくれた人たちへの愛着を、ゴータマは心のなかで深く感じていました。自分が親不孝者であり、妻や子にとっては、よくない夫や父親であるということは、反省しても反省しても、どうしようもないことだったのです。
そのため、心は揺れ、「そうだ。やはり、私はカピラヴァストゥに帰って、父の跡を継がねばならないのではないか」という思いも去来しました。
しかし、この梵天と名乗る者の言葉のなかで、最後の言葉がどうしても気にかかりました。「この世で楽しめば楽しむほど、あの世の楽しみも大きくなる」ということに対して、「ここに微妙なすり替えがある」と感じたのです。
そして、「これは、自分の心のなかにまだ潜んでいた、この世への執着を、あぶり出されているのではないのか。梵天と名乗る者は、実は魔ではないのか」ということを、ゴータマは見破りました。
「おまえは魔だな。梵天を名乗っているが、梵天ではあるまい。正直に白状しろ。おまえは修行者を惑わしているマーラ(魔)であろう。悪魔・波旬(はじゅん)よ、我はおまえの正体を見破ったり」
ゴータマがこう言ったとたん、梵天と名乗る者の声は、高笑いとともに、「見破ったか、ゴータマよ。おまえもずいぶん修行が進んだものだ。また、せいぜい修行をして、虚しい人生を生きるがよい」という言葉に変わったのです。
このとき、ゴータマは「己心の魔」というものを深く感じたのでした。
「自分を魔が惑わしているのではなく、自分自身のなかにある弱みやこだわりが魔を呼び寄せている。こうした執着を断たねば、ほんとうの意味での安らいだ心にはなれない。たとえ妻や子、父や母を思う人間的な心であっても、その思いが一点にとどまって執着となったとき、それは苦しみとなって展開していく。そして、その人情の隙をついて魔が入り込んでくる」ということを知ったのです。
こうして、「執着を断つ」ということが修行の第一歩となっていきました。これは、「食欲を断つ」「粗衣粗食(そいそしょく)で過ごす」ということとは別に、「心の世界において執着を断つ」ということを深く考えはじめるきっかけだったのです。
【大川隆法『釈迦の本心』第1章「菩提樹下の悟り」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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■伊勢支部精舎の理念■
100 パーセントエル・カンターレ信仰
―天御祖神と共に―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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・「信仰心と国を愛する心」という問題について言えば、やはり国民の信仰心がなくなったら、その国は衰退に入っていくし、いずれ滅びると私は思います。
・みなさんには、どうか強い信仰の思いを全国に発信していただきたいと思います。
―「信仰心と国を愛する心について」 ―2013 年4月21 日 伊勢支部精舎御巡錫―
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■伊勢支部の行動指針■
【菩薩の本懐である六波羅蜜多を推進して妖怪性を払拭する】
私たち、伊勢支部信者は、エル・カンターレ信仰をキチッと確立して、天御祖神の武士道精神のもと、仏教的精神を打ち立て、伝道に邁進し、隣人を救い、私たちの愛する街に、必ず仏国土ユートピアを建設します。
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大宇宙の根本仏 唯一なる 主エル・カンターレよ
伊勢支部精舎は、今年落慶17周年、そして御巡錫13周年を迎えました。
2009年1月24日、日本の中心とも言われる伊勢の地におおいなる光の灯台を賜りましたことを仏弟子一同・伊勢支部信者一同心より感謝申し上げます。
そして、2013年4月21日に、伊勢支部精舎に御巡錫を賜り、御法話『信仰心と国を愛する心について』をお説きくださいました。主の御慈悲に心より感謝申し上げます。
私たち伊勢支部信者一同、主への純粋なる信仰の下、「主の復活の祈り」を通して
エル・カンターレ信仰を確立し、「愛」と「知」と「反省」と「発展」の四正道を日々実践し、主の御名と御教えを伝えます。
そして、われらが愛する、この伊勢の地を、三重の地に主の悲願である仏国土ユートピアを必ずや建設いたします。
私たち、伊勢支部信者は、菩薩の本懐である六波羅蜜多を推進して、自らの心に巣くう妖怪性を払拭します。そのために、三宝を熱く敬い、「愛」「知」「反省」「発展」の四正道に帰依して、エル・カンターレ信仰をキチッと確立し、「天御祖神」の武士道精神のもと、仏教的精神を復活させて、伝道に邁進し、隣人を救い、私たちの愛する街に、必ず仏国土ユートピアを建設するために、以下のことを改めてお誓いいたします。
①私たちは、主から頂いた仏性を輝かせ、自らの善きものを隣人に分け与え、一切のみかえりを求めません。主から頂いた教えを必ず伝え伝道します。【布施波羅蜜多】
②私たちは、自らの戒を持ち、戒を守り、仏法真理の教学に力をつくします。
そして法友の育成・養成に力を尽くします。【持戒波羅蜜多】
③私たちは、主の御心を実現するために、目標を明確に持ち、実現するまで計画を実行しつづけます。【せん提波羅蜜多】
④私たちは、主の御手足となる本物の菩薩になるために、救世活動を日々の精進として積み重ねます。【精進波羅蜜多】
⑤私たちは、常に主を信じ、主を愛し、主と一体となるために反省と瞑想を重ね、祈りの生活を送ります。【禅定波羅蜜多】
⑥私たちは、主から既にすべてを与えられていること、主から愛されている自分を発見し、エル・カンターレ信仰さえあれば、あとは何もいらないという絶対幸福をえて、隣人と分かち合います。【般若波羅蜜多】
私たちは、主への報恩として 日本に 全世界に 「天御祖神」と共に、エル・カンターレ信仰を弘め地球ユートピアを実現してまいります。
主よ、私たちの信仰心が主の復活の力となり、主から預かりました伊勢支部精舎が、光の灯台として、一人でも多くの方に主の光を届けることができますよう、お導きください。主よ、まことにありがとうございました。
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1 病気とは、魂の休息日である。
【大川隆法『病のときに読む言葉』より】
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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TEL:0596-31-1777
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エル・カンターレ・大好き
