2 自分の心が、現象化したものが、地獄だ。
【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。
三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に「四弘誓願」を立て、『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。
そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、「正しき心の探究」と「地上仏国土ユートピアの実現」のために「四正道」と「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。
引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。
『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
われらの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
われらを真なる幸福へと導きたまえ。』
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はじめに、今日の一日を振り返りつつ、一日一生の精神をあらたにすべく、『天御祖神 武士道を語る―現代に求められる真実の死生観』の教えを確認します。とても大切な教えですので、教典をお持ちでない方は、支部・精舎・全国の書店にてお求めください。【税抜1700円】
―今日、命がなくなったとして、おまえはそれで満足できるかどうか」ということを、日々、自らに問うということだな。そういう生き方をしなさいということだ。―天御祖神
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■『天御祖神 武士道を語る―現代に求められる真実の死生観』
一、武士道の根本にあるもの
〇武士としての誇りが生まれる原点にあるものとは
質問者A 現代で「武士道」といえば、新渡戸稲造先生が書いた『武士道』と、『葉隠』になると思うのです。あとは何となくみんなが思っているもの―テレビで観るものとか、小説の藤沢(周平)作品とか、いろいろ書いてあるようなこと―を思い浮かべると思うのですが、もし、『葉隠』に天御祖神様が何か付け足すといいますか、足りないものを加えるとしたら、どんな論点になりますか。
天御祖神 いちばん有名なのは、
「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉であろうと思う。
私はこれを否定する気はないんだ。
例えば、西洋においては、どうなるかといえば、
「拳銃で撃ち合う。決闘する」
というようなことはあったとは思うし、
中世であれば、
フェンシングのような戦いもあったし、
「槍を持って馬の上で、すれ違いざまに相手を突く」
というような道もあったと思う。
また、騎士道だな。
そういうものもあったとは思うけれども、
やはり、最後はですなあ、
『葉隠』に言うような
「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉はだね、
「肉体よりも魂の存在のほうが大きい」ということであると同時に、
その魂の生き筋を見失うために、
この世的なものに、―トラップというか罠にかかってはならんという
厳しい戒めでもあったのかなとは思うんだな。
そして、中世的な日本人にとっては、
武士道とは、やはり「武士としての誇り、名誉を守る」
ということでもあっただろうと思うので、
その「武士としての名誉を守る」とは何かというならば、
どこからその矜持(※きょうじ・プライド)というか、
武士としての誇りが生まれているのかという、
この原点を探ることになるだろうと思うんだな。
刀を持っている階級は一割ぐらいであったろうと思うので、
この一割の階級が統治階級ではあったわけで、
彼らは、
「自分の身を危険にさらしても、
国民たちの秩序安寧(あんねい)、幸福等を護る」
という覚悟を示して生きるということだし、
「刀を持った侍が、
卑怯にも、敵に背を向けて、
不正を働くというようなことはあってはならない」
ということでもあるとは思うんだな。
言葉は足りないかもしれないけれども、
それ自体が間違っているとは思えない。
むしろ、現代においては、
悪徳をやめることなく、欲深くやった者が、
この世的な地位を築いたり、
富を築いたり、
この世的な悪名を馳せながら名誉を築いたり、
有名になるということが多いように思うけれど、
やはり、武士道精神から見れば、
「この世の執着を増やすような生き方は、
やはり自分を堕落させ寝るものだ」
とおもって一線を引くということが
とても大事なのではないかと思う。
※天御祖神(あめのみおやがみ)
『古事記』や『日本書紀』よりも古いとされる古代文献『ホツマツタエ』に出てくる日本民族の「祖(おや)」に当たる創造神。約三万年前、アンドロメダ銀河のマザー星から約二十万人を率いて富士山の裾野に降臨し、「富士王朝」を築き、日本文明の基を創った。「正義」「礼節」「秩序」「調和」等を人々に説き、その教えは、中国やインド、中東などユーラシア大陸へ、さらに世界各地の古代文明に広がるとともに、「武士道」の源流として現代まで脈々と受け継がれている。大宇宙の創造主にして地球神でもあるエル・カンターレの本体意識に近い存在の一人とされる。(『天御祖神の降臨』〔幸福の科学出版刊〕等参照)
【大川隆法『天御祖神 武士道を語る―現代に求められる真実の死生観』より抜粋】
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ここで一日の終わりに反省をする前に、反省がそもそもなぜ大切なのかについて経典『幸福の科学とは何か』から学びます。経典をお持ちでない方はこの機会に是非お求めください。【税抜1600円】
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■『幸福の科学入門―初歩からの仏法真理』
第5章「反省はなぜ必要か」
2 心の曇りと悪霊
次に、心の曇りと悪霊について述べてみたいと思います。
人間は主として表面意識を頼りにして生きていくわけですが、この途中に、さまざまな心の曇りというものをつくっていきます。その曇りの多くは、要するに、仏の心に反した思い、あるいは、仏の思いに反した行為に基づいて発生した不調和の現象が呼び起こすものです。
仏の思い、仏の願いに反した思いを出したり、そういう行動をとったりしていると、次第しだいに心の周りに”スモッグ”が出てきます。すなわち、心のなかに陰りが出てくるわけです。そして、本来、百パーセントの自分の心のうち、表面意識のあたりだけが、ごみや埃(ほこり)をかぶりはじめ、そして、潜在意識層との連絡も、次第しだいに途絶えがちになってきます。
心が純粋であれば、魂の生地が浮き出してきて、その人のさまざまな傾向、本来の仏性というものが出てくるのですが、そうではなく、この表面意識のあたりに曇りができてくることがあるわけです。
専門的には、この部分を、表面意識とは言わず、「想念帯」と呼んでいます。
表面意識と潜在意識との中間部分にある想念帯に曇りができてくると、だんだんに表面意識と潜在意識層とが隔離され、仏の光が心に射さなくなってきます。
こういう状況になると、ちょうど、空に雨雲が垂れこめているのと同じ現象が起きてくるのです。いくら太陽が大空の上で燦燦(さんさん)と輝いていたとしても、雲が空いっぱいにあれば、太陽の光は射さなくなります。その雲は何でできているかというと、単純なもの、つまり、水の粒子、あるいは氷の粒なのです。こういう単純なもので雲はできているけれども、それが太陽の光を妨げるのです。
同じように、人間の思いによってできるもの、この生産物で、いろいろな現象が起きてきます。そして、空に雲がかかっていくようなことが起きてくるのです。
空に雲がかかると、日が射さなくなり、日が射さなくなると、地上が暗くなります。同じように、心に曇りができた場合には、その人の人生観に陰がさしてきます。そして、その暗い心の陰に、次第しだいに近づいてくるものがあります。これが、悪霊といわれるものなのです。
本来、仏は悪霊をつくっているわけではありません。しかし、幾転生を繰り返すうちに、だんだん心の傾向性が悪に染まり、物質に惹かれ、この世的な執着にとらわれた魂たちが、地獄に堕ち、悪霊となっているのです。
こういう悪霊たちは、地獄の苦しみから逃れたくて、何とか地上の人に憑依しようとしてきます。こうして、地上の人は、この悪霊の支配を受けるようになってきます。
しかし、これも、悪霊そのものが悪いというよりも、その原因行為は、やはり自分自身がつくっていると言ってよいでしょう。
太陽の光が射さなくなるのは太陽のせいではありません。同じようよ、仏の光が心に射さなくなったのは仏のせいではないのです。
それは、その光を妨げるような想念の曇りを自分自身がつくったからです。それによって影ができ、闇ができ、その暗い部分に、「同類相集まる」の法則に基づいて、悪霊が寄ってきているのです。【※波長同通の法則】
それゆえに、この悪霊を近づけないようにするためには、常々、心の曇りを取っておく必要があるわけです。
ここで、宗教を学んでいる人に特有の誤りについて述べておきましょう。
よく、お祓(はら)いを受けて悪霊を落としたり、あるいは、悪霊に憑かれないように、魔よけの札を貼ったり、お守りを持ったりします。しかし、悪霊たちがいちばん怖いのは、仏の心を心として生きている人なのです。
お祓いは、確かに、お祓いを行ない人に霊的な力からある場合、そういう超能力、心霊能力がある場合には、その光の影響で、悪霊たちが一時期その人から離れることがありますが、神社の境内を抜けたとき、あるいは、お寺を出たときに、その影響はすぐになくなって、元の曇りのところにまた悪霊が呼び寄せられることになります。
取っても取っても憑いてくるわけです。ちょうど、蠅(はえ)を追っているのと同じです。蠅は、追っても追っても、また戻ってきます。それは、そこに臭いものがあるからです。そのようになっているのです。
悪霊には、もちろん、その心の傾向性に応じて、いろいろな種類があります。たとえば、恨みの霊というものがあります。いわゆる怨恨霊です。「憎い。悔しい」という怨恨を、どうしても消し去ることができないでいる人です。
あるいは、足ることを知らぬ欲望のままに生きている霊もいます。とにかく、「欲しい、欲しい」という思いを持っている人です。物質欲の強い人、色情欲の強い人、名誉欲の強い人など、いろいろな人がいます。
このような特定の傾向性を持ち、そういう種類の悪霊がたむろしている場合と相感応するような心をもつと、そこに縄梯子をかけて悪霊が来るようになってきます。
それゆえに、ここが、いちばん大切なことですが、「執着をつくるな」という古くからの教えは、まさしく、「悪霊に縄梯子をかけられないようにせよ」ということを教えているのです。
縄梯子をかけるには、書けるだけの理由が必要です。それだけの出っ張りが必要です。引っ掛ける先が必要なのです。
この引っ掛ける先のところが、執着といわれているものです。地上に生きている人間が、地獄に住む、いろいろな霊たちの心の特徴にあった思いを、いつも持っていると、ここに縄梯子をかけられることになります。
したがって、悪霊のみを責めるのではなくて、やはり、自分の心のなかにある、そういう傾向性について、深く反省をしていく必要があるのです。
その反省は一朝一夕になるものではありません。
心の傾向性が、何十年もかかって、つくられてきたものであるならば、また何十年もかけて、それを切り換えていくことが必要です。慣性の法則というものがあって、長年、心に刻んできた傾向性は、そう簡単に変わるものではありません。それは、同じだけの量と質を求めるようになってきます。
要するに、私は、ここで、「悪霊を呼びこんでいるものは、ほかならぬ、自分自身の心である。心の曇りが、その原因である。したがって、『心の曇りを晴らすことによって悪霊は去っていく』という真実があるのだ」と言いたいのです。
【大川隆法『幸福の科学とは何か―初歩からの仏法真理』第5章「反省はなぜ必要か」より抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、教典『真説・八正道』より反省の本質を学びます。妖怪性からの脱却をはかり、「反省からの発展」さらに「中道からの発展」を目指しましょう。
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■『真説・八正道』第1章「序論」
1反省とは何か
〇なぜ「反省」というものがあるのか
本書においては、「八正道」に関する私自身の現代的解釈、および、現代における反省法の考え方について、「真説・八正道」という題で論じていきたいと思います。
今の時点で、なぜ、こうした「反省法」というものが必要とされるのでしょうか。それを多くの皆さんは深く考えたことがあるでしょうか。また、考える必要に迫られたことがあるでしょうか。そのように自分の胸に自問自答するときに、「深く考えることなく数十年の人生を生きてきた」ということに後悔せざるをえないのが、いわゆる凡夫の姿ではないでしょうか。
そこで、「なぜ、こうした反省というものがあるのか、ありうるのか」、あるいは、「なければならないのか」ということを、まず初めに考えてみたいと思うのです。
みなさんは、今、さまざまな仏法真理や霊言・霊示によって、永遠の転生輪廻をしていることを既に教えられています。「はるかなる昔から、数百年、あるいは、数千年の単位で転生輪廻をくり返しているのがみなさんである」と言われているわけです。
みなさんは、「そうした内容を書物で読んでいながら、それを目に映した知識としてのみ理解しているのか、それとも、本当に魂の底から理解できる内容として、了知(りょうち)できる内容として、納得できる内容として受け止めているのか」ということが、まず問題とされるのです。
【大川隆法『真説・八正道』第一章「序論」p26】
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今日の一日を振り返りつつ、1991年7月に説かれました『永遠の仏陀』を振り返ります。
そののち、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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■『永遠の仏陀』
第一章 目覚めよ
〇信ずることの大切さ
まず、私があなたがたに語っておきたいことは、
信ずるということの大切さだ。
あなたがたは、さまざまな価値観に、
心乱れ、心揺れることもあるであろう。
しかし、信ずるということが、
あなたがたがこの世ならざる存在であるということを、
雄弁に物語っているのだ。
いかなる人の心にも、
信ずる気持ちがある。
信じたいという気持は、
この世の存在を信じたいということではない。
この世をはるかに超えたる世界を、
その世界のなかにあるところの叡智を、
信じたいということなのだ。
現代人の多くは、傲慢にも、
自分たちの知力によって理解できぬものは
何もないと言わんばかりに、
驕(おご)り、高ぶっているかに見える。
しかし、そのような現代人たちであっても、
深く己の心の内を眺め入るならば、
そこに、理解を超えたものへの熱いまなざしを感じるであろう。
いくらその目を伏せたとて、
仏法真理に寄せる熱い眼(まなこ)は、閉ざすことができまい。
たとえ、この地上で、
どのような博学の人であると言われようとも、
夜空を見上げてみよ。
そこにちりばめられたる星々の神秘を、説明することができるか。
なぜ、地球が丸く、自転しているかを、説明することができるか。
なぜ、太陽が必ず東から昇り、西に沈むかを、説明できるか。
その奥にあるものは、
この世界において魂修行をしてゆく者たちへの、
おおいなる愛であるのだ。
大いなる愛が顕現して
魂修行をしている人間たちが、たとえ気づくことがなくとも、
彼らに、生きてゆくための環境を与えているのだ。
あなたがたは、この大いなる愛を感じとらねばならない。
地上にある人間たちの理解が及ぼうが、及ぶまいが、
そんなことにかかわりなく、
人々を生かし続けている、
大自然の不思議よ。
大宇宙の神秘よ。
ああ、そこに、
一辺の感動を見いだすことができる者であるならば、
信ずるということは、ことのほか、たやすいことであるのだ。
信ずるとは、まず、
みずからが生かされていることを知った時に、
魂の奥深くから溢れ出してやまない気持ちであるのだ。
その真実に気づいた時に、
あなたがたの、仏法真理を求めるそのまなざしは、
さらにさらに、奥にあるものへと向けられてゆくであろう。
【大川隆法『永遠の仏陀』第一章「目覚めよ」より抜粋】
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続いて、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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■『釈迦の本心』
2 師を求む
二十九歳でカピラヴァストゥを出て出家したゴータマは、とりあえず師を求めて、あちらこちらをさまよいました。どのような師を求めて、どのような修行をしたかは、現在に伝わる多くの仏伝に記されています。
師を求める旅、師を求めてなした修行は、ゴータマの精神形成上、必ずしも無駄にはなりませんでした。少なくともゴーダマはそのとき、「修行者とは何か、また、修行者は何を求めて修行しているのか」ということを、つぶさに見たのです。そして得た結論は次の二つでした。
当時のインドにおける修行の特徴は、一つには”スーパーマン信仰”であり、この世的な人間とは別の人間になろうとする傾向が強かったということです。なんらかの意味で、この世の苦しみから逃れ、スーパーマンになろうとする人が多かったと言えます。
もう一つは、今風に言うならば、”幸福の原理”が説かれていたということです。「どうすれば人間は真の幸福を得ることができるのか」ということを中心に、数多くの師がそれぞれの法を説いていたのです。
ある人は「肉体を徹底的に痛めつけることが悟りへのよすがであり、近道である。肉体的なるものから心を遠ざければ遠ざけるほど、悟りに近いのだ」と説いていました。そのため、火のなかをくぐったり、水中で作善をしたりする者がいました。なかには、逆立ちをしたり、刃物で体を傷つけたり、針を全身に突き刺したりする者もいました。
また、他の者は「思いを止める」ということに専念していました。彼らは「すべての悩みの根源は、心に去来する思いにある。この思いを止めることさえできれば、悩みはなくなり、心は安らぎ、至福を得ることができるのだ」と考えていました。これは「無念無想」という考え方のはしりだと言えます。
また、何をもって「悟り」とするかを明らかにせず、弁術論のようなものを職業としている人もいました。彼らは「相手の批判をどうかわすか」ということを中心に勉強しており、「議論に勝つことが、すなわち悟りである」と考えていたのです。
こうした経験を積むにつれ、ゴーダマのなかで、「何かが違う」という感覚がしだいに強くなっていきました。何が違うのかというと、「結局、教えの中身がないではないか。いったい何をもって悟りとするのか。人生の目的とは何か。人間の霊性の本質とは何か。それをずばり答えてくれる人は、いくら探してもいないではないか」ということでした。
それゆえに、ゴータマは師を求めることを捨てたのです。出家してから、師を求めることを捨てるまでに、一年とはかかりませんでした。こうして、みずからの心を師とし、みずからのなかに仏を発見する道を模索するようになっていったのです。法理の発見こそ、修行の目的となったのです。
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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■伊勢支部精舎の理念■
100 パーセントエル・カンターレ信仰
―天御祖神と共に―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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・「信仰心と国を愛する心」という問題について言えば、やはり国民の信仰心がなくなったら、その国は衰退に入っていくし、いずれ滅びると私は思います。
・みなさんには、どうか強い信仰の思いを全国に発信していただきたいと思います。
―「信仰心と国を愛する心について」 ―2013 年4月21 日 伊勢支部精舎御巡錫―
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■伊勢支部の行動指針■
【菩薩の本懐である六波羅蜜多を推進して妖怪性を払拭する】
私たち、伊勢支部信者は、エル・カンターレ信仰をキチッと確立して、天御祖神の武士道精神のもと、仏教的精神を打ち立て、伝道に邁進し、隣人を救い、私たちの愛する街に、必ず仏国土ユートピアを建設します。
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大宇宙の根本仏 唯一なる 主エル・カンターレよ
伊勢支部精舎は、今年落慶17周年、そして御巡錫13周年を迎えました。
2009年1月24日、日本の中心とも言われる伊勢の地におおいなる光の灯台を賜りましたことを仏弟子一同・伊勢支部信者一同心より感謝申し上げます。
そして、2013年4月21日に、伊勢支部精舎に御巡錫を賜り、御法話『信仰心と国を愛する心について』をお説きくださいました。主の御慈悲に心より感謝申し上げます。
私たち伊勢支部信者一同、主への純粋なる信仰の下、「主の復活の祈り」を通して
エル・カンターレ信仰を確立し、「愛」と「知」と「反省」と「発展」の四正道を日々実践し、主の御名と御教えを伝えます。
そして、われらが愛する、この伊勢の地を、三重の地に主の悲願である仏国土ユートピアを必ずや建設いたします。
私たち、伊勢支部信者は、菩薩の本懐である六波羅蜜多を推進して、自らの心に巣くう妖怪性を払拭します。そのために、三宝を熱く敬い、「愛」「知」「反省」「発展」の四正道に帰依して、エル・カンターレ信仰をキチッと確立し、「天御祖神」の武士道精神のもと、仏教的精神を復活させて、伝道に邁進し、隣人を救い、私たちの愛する街に、必ず仏国土ユートピアを建設するために、以下のことを改めてお誓いいたします。
①私たちは、主から頂いた仏性を輝かせ、自らの善きものを隣人に分け与え、一切のみかえりを求めません。主から頂いた教えを必ず伝え伝道します。【布施波羅蜜多】
②私たちは、自らの戒を持ち、戒を守り、仏法真理の教学に力をつくします。
そして法友の育成・養成に力を尽くします。【持戒波羅蜜多】
③私たちは、主の御心を実現するために、目標を明確に持ち、実現するまで計画を実行しつづけます。【せん提波羅蜜多】
④私たちは、主の御手足となる本物の菩薩になるために、救世活動を日々の精進として積み重ねます。【精進波羅蜜多】
⑤私たちは、常に主を信じ、主を愛し、主と一体となるために反省と瞑想を重ね、祈りの生活を送ります。【禅定波羅蜜多】
⑥私たちは、主から既にすべてを与えられていること、主から愛されている自分を発見し、エル・カンターレ信仰さえあれば、あとは何もいらないという絶対幸福をえて、隣人と分かち合います。【般若波羅蜜多】
私たちは、主への報恩として 日本に 全世界に 「天御祖神」と共に、エル・カンターレ信仰を弘め地球ユートピアを実現してまいります。
主よ、私たちの信仰心が主の復活の力となり、主から預かりました伊勢支部精舎が、光の灯台として、一人でも多くの方に主の光を届けることができますよう、お導きください。主よ、まことにありがとうございました。
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7 着実に近づいてくる「死」について考えてみよう。
【大川隆法『病のときに読む言葉』より】
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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エル・カンターレ・大好き

