(4/11-2)【阿羅漢への挑戦】101―10『永遠の仏陀』を読む―努力に比例した世界―『天御祖神 武士道を語る』逆風のなかで師のために命を捨てられる弟子は何人いるか―「心の浄化」正念・正定について―『真説・八正道』目は「霊的な進化と目覚め」に大いに貢献している―『釈迦の本心』大いなる第一歩

『永遠の仏陀』を読む

12 血の池地獄は今も存在する。動物的本能が勝って、自制心や、本物の愛が破れた場合に往くのだ。

13 血の池地獄に往かぬためには、『白骨観』をするとよい。相手が白骨となっても、あなたはその魂を愛せるか。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に「四弘誓願」を立て、『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、「正しき心の探究」と「地上仏国土ユートピアの実現」のために「四正道」と「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
われらの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
われらを真なる幸福へと導きたまえ。』
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
はじめに、今日の一日を振り返りつつ、一日一生の精神をあらたにすべく、『天御祖神 武士道を語る―現代に求められる真実の死生観』の教えを確認します。とても大切な教えですので、教典をお持ちでない方は、支部・精舎・全国の書店にてお求めください。【税抜1700円】
―今日、命がなくなったとして、おまえはそれで満足できるかどうか」ということを、日々、自らに問うということだな。そういう生き方をしなさいということだ。―天御祖神
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
■『天御祖神 武士道を語る』
四、「本物の信仰」に見える武士道
〇逆風のなかで師のために命を捨てられる弟子は何人いるか

質問者A 神様と普段、接していると、すごく―武士というわけではないですが―いわゆる武士道といわれるような生き方は、根本的に持っていらっしゃるのかなと思うのです。総裁先生を見ていても。

天御祖神 うん。

質問者A あそらく、総裁先生の魂の(ご兄弟の)方々もみなどこかに、やはり「潔く生きて、嘘偽りのない心で生きて、正義のために戦って、私心なく生きる」とか、そういうところは必ず入っているから、神様が地球を創られたときに、必然的にそういう教えは世界各地に、「武士道」と言わなくても入って入るのかなという気もするのですけれども。

天御祖神 これは信仰心の問題が入ってくるけれどもね。
本当は、神あるいは神近き人たちは、
その神の教えのために、あるいは思想を護るために、
命を捨てて戦ったりしてきたのが歴史です。
けれども、たとえば、大川隆法は、
自は、昨日の日中に自問自答していたことではあるけれども、
「幸福の科学に信者がいったい何人いるんだろうか」
というようなことを考えていた。
「もし、大川隆法が、
ソクラテスやイエス・キリストのように窮地に追いやられて、
そして周りから嘲笑され、
逆風のなかで死んでいかなければいけないような事態になったとして、
師のために命を捨てるという弟子がいったい何人いるだろうか。
そういう意味での信者が何人いるだろうか」
というようなことを、昨日、大川隆法は考えていた。
そのときに、
「信者の数は、何万、何十万、何百万、何千万」
と言うことは簡単ではあるけれども、
それは単に「月刊誌を読んでいる」とか、「本を読んでいる」とか、
「説法を聴いたことがある」とかいうようなレベルではなくて、
そうした、主を護る、あるいは、神を護るために自分の命を賭す
というところまで行っている人が何人いるかといえば、
「はたして十人いるだろうか」
というようなことを、昨日考えていたのを、
私は見ておりましたがね。
逆に言えば、大川隆法は、
人類を救うために「究極の選択」を迫られたら、
自分の命はたぶん惜しまないと思う。

質問者A それはそうでしょうね。

天御祖神 それは、それを惜しむようなら、悟っていないだろうから。
いっぱいいっぱいまで命を生かして、
戦いは続けるだろうけれども、
ただ、多くの人たちを助けるためには、
そういうことを―自分の命を長らえることなどは―
望まないだろうと、きっと思うね。
だから、”逆”になってしまっているのが、
「現代が、今、下った文化のなかにある」ということなんだ。

【大川隆法『天御祖神 武士道を語る』より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
今日の一日を振り返りつつ、教典『新・心の探究』より反省の原点である「心の浄化」について学びます。心を清浄にして妖怪性から脱却しましょう。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
■心の浄化
6 正念・正定について

次に正念ということをあげておきたいと思います。これは正しく念ずるというふうに書いてあります。この正しく念ずるというのは、人間の念い、すなわち方向性を持ち、目的性を持った、心の念いのことを意味します。

実はこの正しい念いというのは、人間を限りなくすばらしい世界に連れていくためにどうしても必要な作業なのです。この正念ができていなければ、人生行路は次つぎとずれていき、また堕落していくことにもなりかねません。この正念がつねに神の方向へ、より高い方向へより理想的な方向へ向いていることが大事なのです。それによって世界はすばらしくなっていくのです。

この正念のなかには、ある意味での祈りというものを入れてもよいかもれしません。すなわち、みずからの将来に向けての念を正していくということですから、神仏に対する祈りもこの正念のなかに入れていくことが可能であろうと思います。

また、正念のなかには、瞑想のなかでもビジョンを描く瞑想を入れることができると思います。未来の自分について積極的イメージをつくり出し、そして、つねにそれを持続することによって夢を実現する方法。そのような自己実現の方法がありますが、こうした自己実現も正念のなかに入れてよいでしょう。

ですから、この正念の反省をするとするならば、一日のなかで自分が念っていた自分のビジョン、未来ビジョンが間違っていないかどうか、そして自分は常に未来に向けて仕事をしているか、将来への念いがあるかどうか。また、神仏への念いはどうであったか。自分の守護霊や指導霊に対して感謝の念があったか。そして、守護霊や指導霊に対して間違った念いを持ったときに、それを素直に詫びたかどうか。こうした感謝の念をも正念として考えていく必要があると思います。

そして八正道の最後にあるものが何であるかというと、有名な正定です。正しく定に入るということです。これが精神統一の時間を取るということです。その作法は各宗派でいろいろに分かれますが、結局は、呼吸をととのえてそして心を平静に保ち、みずからの守護霊やあるいは指導霊と対話できるような状態をつくり出していくということです。

ですから、初心者の場合の正定とはいったい何であるかというと、一日のうちに自分の心のうちを見つめ、そして反省の時間を持ったかどうか、祈りの時間を持ったかどうか、瞑想の時間を持ったかどうか、一定の時間、心を静めながら自らを振り返ったかどうか。これが大事なわけです。

これは、修行が進めば進むほど奥のある修行です。すなわち、修行が進んでくると、次第に霊道開けるという現象が起きてくることがあります。そして自分の守護霊の声を聞く、指導の霊の声を聞く、そういうことがあります。そしてさまざまな霊的能力を授かり、未来が素晴らしく展開していくことがあります。この正定の極致にあるものは、大宇宙と一体になるという、そうした精神です。大宇宙と一体となる。すなわち、究極の神ともつながっていくという修法です。

それゆえに、ここで、人間は人間であるということを超えることが可能になってきます。肉体に縛られた三次元人間である自分を離脱し、そして、四次元以降の実在界に通じる心、そうした豊かな心を持って未知なる体験を積み、そして、大いなる認識力をもって自らの人生を振り返ることができる。こういう黄金の法則がこの正定のなかにあるのです。ですから、その出発点として、第一歩として、みずからを振り返る時間、精神統一の時間を持つということが大事になるわけです。

【大川隆法『新・心の探究』第4章「心の浄化」より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
今日の一日を振り返りつつ、教典『真説・八正道』より反省の本質を学びます。妖怪性からの脱却をはかり、「反省からの発展」さらに「中道からの発展」を目指しましょう。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
■『真説・八正道』
2神仏の業(わざ)を見る【正見】
〇目は「霊的な進化と目覚め」に大いに貢献している

こうしてみると、八正道の初めに出した「正見」は、人間の器官のなかで、世界を認識するためにいちばん大きな働きをしている器官に結びついているわけです。

いろいろな「肌の感覚」という触覚によっても、世界認識は不十分です。「目がある」ということが、どれだけみなさんの「霊的な進化と目覚め」に貢献しているか、これに改めて気づくのではないでしょうか。

「器官をいつだけ選べ」「感覚を一つだけ選びなさい」と言われたときには、「目がある」ということが、人間として生きていることを認識する上においてどれほど役に立つか、考えてみてください。

口が動かなくても、耳が聞こえなくても、社会的にハンディはあっても、「世の中がどうなっているか」は分かります。しかし、生まれつき目が見えない方は、この世界を理解するのに困難を極めます。「人間とは何か」が分からない。「動物とは何か」が分からない。「植物とは何か」も分からない。「目が見えない」ということは、そういう困難を伴うのです。

〇正見の「見」は「see」ではなく、「look」の意味
真実の「正見」とは何であるかというと、実は、「見るという行為をもっと高める」ということです。「映像としてのみ見、映像としてのみ受け取るのではなくて、もっと、その奥にあるものを見よ。神仏の動きを見よ」と言われているのです。「神仏の手がなした業(わさ)を見よ。その業の結果を見よ」と、ここまで言われているわけです。

それを見抜くことができない者は、少なくとも、「神の子、仏の子として地上に生きて、見た」とは言えません。それは「目が開いていた」ということのみであって、「見た」とは言わないのです。

それを見抜くことができない者は、少なくとも、「神の子、仏の子として地上に生きて、見た」とは言えません。それは「目が開いていた」ということのみであって、「見た」とは言わないのです。

これは、英語で言うならば、「see」と「look」の違いに似ているかもしれません。正見の「見」は「look」のほうです。「see」のように「漫然と目に映る」というのではなく、「意志を集めて見る」ということです。意図的に、積極的に見なければならないのです。

3「正見」の出発点
「見る」という行為の反省の入り口は「他人の姿」【正見】

この「見る」という行為をさらに分析してみたいと思います。「見る」という行為を分析したときに、問題点として、いったい何があるでしょうか。

「見る」という行為の反省で、出発点としてまず考えてよいことは「他人の姿」です。これが入り口としてはいちばん分かりやすいのです。

それは、人間が過ちを起こしやすい理由、心に間違いを起こしやすい理由の一つが、「他人の存在を理解できない」ということであるからです。「理解できない」というという言葉が不十分であるとするならば、「理解尽くせない」と言いかえてもよいでしょう。

いくら見ても見ても、その人の真実の姿はそう簡単に見えてきません。十年付き合っても二十年付き合っても、見えないものは見えないのです。

しかしながら、私たちは、目を通し、映像として見ているその人の姿のなかに、その人の人格を見ていることは明らかです。そのどこを見ているのか、それは定かではないけれども、目に映じてくるその人の姿、そこからその「人となり」を判断しています。すべての人が、世界七十七億の人が、こうしたかたちで、それぞれ判断をしているのです。

それは、一見、無責任な判断です。「自分が他人をどう見たか」ということに関して責任を問われたことは、かつてほとんどなかったはずです。自分自身を振り返ってみて、そうではないでしょうか。「ある人を自分はこう見た」ということに対して責任を問われたことは、ほとんどないはずです。

問われたことがあるとするならば、「それを語ることによって」です。後に述べる「正語」においては、これが問題となります。「語ること」「表現すること」によって責任を問われることはありますが、「見る」ということのみにおいて責任を問われることはないのです。

【大川隆法『真説・八正道』第2章「正見」52p】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
今日の一日を振り返りつつ、1991年7月に説かれました『永遠の仏陀』を振り返ります。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
■『永遠の仏陀』
第2章 真実の人となれ
〇努力に比例した世界

この中道から外れる生き方を起こさせるものに、
他の者への嫉妬心がある。
この嫉妬は、嫉妬する心は、
決しておまえたちを幸福にすることはない。
このことを知らねばならぬ。
嫉妬は、毒牙を持った一匹の蛇である。
この蛇が、心のなかに忍び込むや、
おまえたちは夜も眠れなくなる。
常に、他の人間がうらやましくて、
その心、落ち着く時がない。

心せよ。
かくのごとき毒蛇を、みずからのうちに引き入れてはならぬ。
嫉妬は、その芽のうちに摘んでしまわねばならない。
嫉妬の芽を摘むための考え方は、
これは、他の人に対する公平な評価にあると言ってよいだろう。

自分も、他人も、はるかなる昔に、
仏の子として、人間の生命を得たものであるが、
その時より、今日に至るまで、
幾千回、幾万回、
あるいは、それ以上の転生輪廻を重ねてきたのだ。
それだけ多くの回数を、地上生活として送ってきたのだ。
ある者は、他の人々の幸福のために生き、
ある者は、他の人々を多く害して生きてきた。
その両者が、もし同じ扱いを受けるとするならば、
仏の創った世界は、
なんと不公平に満ち満ちていることであろうか。
やはり、それだけ多くの転生を経てきて、
人間には、
それぞれの魂の器というものが、
でき上ってきているのだ。
そうした、転生の過程を経てかたちづくられたる、
魂の器というものを認めない考えは、
これは、他人の努力を認めない考え方であり、
暴君のような、暗い心に支配されていると言わざるをえない。

おまえたちも、
アリとキリギリスの話を聞いたことがあるであろう。
夏のあいだに、汗水を垂らして、
アリは、せっせせっせと、えさを運び、蓄えた。
そして、キリギリスに対して、
「キリギリスさん、あなたは歌ばかり歌っているが、
将来への備えはしなくてもよいのですか」と問うても、
キリギリスは、その日暮らしの楽しみのなかに生きて、
「先のことは先のことだ」と考えた。
やがて、木の葉が落ち、秋風が吹き、
冬将軍が訪れた時に、
夏のあいだに、せっせと働いたアリは、
そのえさを食べて、冬を過ごすことができたが、
夏のあいだ、遊び暮らしたキリギリスは、
その食料も尽き果てて、
惨(みじ)めに死んでゆくこととなったのだ。

このような話を、
単なる戯(ざ)れ言(ごと)と思ってはならない。
単なる比喩と思ってはならない。
これが人生の真実の姿であるのだ。
一生懸命に働いて蓄えたものとは、本当は食糧ではない。
それは、天の蔵に積まれた宝であるのだ。
それぞれの人が、一生を生きるたびに、
いくばくかの宝を手にすることができる。
その宝が天の蔵に積まれてゆくのだ。
そうして、幾転生、幾十転生、幾百転生をくり返して、
宝を山のように持っている者もあれば、
生まれ変わりの時、
いつもその宝をすり減らしてゆくものもある。
しかし、やはり、各人の努力に比例した世界が天界してこそ、
仏の慈悲は成就されると言わざるをえないのだ。

【大川隆法『永遠の仏陀』第2章「真実の人となれ」より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
続いて、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
■『釈迦の本心』
第1章 菩提樹下の悟り
10 大いなる第一歩

ゴータマは菩提樹下において最初の悟りを得ました。悟りというものは、いったん最高のものを味わうと、そのままでいたいと思うわけですが、どうしても、再び平凡な生活のなかに取り紛れていくことが多いのです。ゴータマもまた、そうしたことが多かったと言えましょう。

それゆえに、ピッバラの樹の下で悟り、仏陀となったゴータマは、「この悟りを一日も早く、多くの者たちに伝えていかねばならない。これを語らずにいて、自分ひとりの心の奥に秘めておくだけならば、私の今世の生の意味がないだろう」と考え、だれかに伝えようとしたのです。

そこで、単に托鉢するだけではなく、だれかれなしにつかまえては、「私は悟りを開いた。私は覚者となった。私はこういう体験をした」と言ってまわったのですが、人びとは取り合ってくれませんでした。

「修行者よ、おまえは頭がおかしくなったのだ。あまりうぬぼれるものではない。おまえはだれのもとで修行して、そんなに偉くなったのか。独学で悟りが得られるものではないのだ」
という言葉が返ってきたのです。

しかし、この感動をなんとか人びとに伝えたいと思った仏陀は、「私がルドラ・ラーマプトラのもとに入門し、すぐさま師と同じレベルの悟りに達したのを見て驚き、その後、一緒に苦行した五人の修行者たちに、私の悟りを伝えることが出発点だ」と考え、彼らを探す旅に出ました。こうして、伝道の最初の一歩が始まったのです。

結局、伝道の第一歩は「伝えようとする思い」にあったということです。自分自身が体験したことを、だれかに伝えんとする行為、同じく道を歩む者、同じく悟りを求める者に伝えようとする行為があったのです。ここに、次なるステップが隠されていました。

「これが伝道の始まりだ。のちの世に初転法輪と呼ばれることになるだろう」と思うと、仏陀の胸は高鳴り、熱い血潮を抑えることができませんでした。「人に伝えたい」という気持と、「もっと悟りを深めたい」という気持が交互になりながら、「一日もじっとしていられない」という思いがつのってくるのでした。

【大川隆法『釈迦の本心』第1章「菩提樹下の悟り」より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
■伊勢支部精舎の理念■
100 パーセントエル・カンターレ信仰
―天御祖神と共に―
伊勢から世界に伝える強い信仰
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
・「信仰心と国を愛する心」という問題について言えば、やはり国民の信仰心がなくなったら、その国は衰退に入っていくし、いずれ滅びると私は思います。
・みなさんには、どうか強い信仰の思いを全国に発信していただきたいと思います。
 ―「信仰心と国を愛する心について」 ―2013 年4月21 日 伊勢支部精舎御巡錫―
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
■伊勢支部の行動指針■
【菩薩の本懐である六波羅蜜多を推進して妖怪性を払拭する】
私たち、伊勢支部信者は、エル・カンターレ信仰をキチッと確立して、天御祖神の武士道精神のもと、仏教的精神を打ち立て、伝道に邁進し、隣人を救い、私たちの愛する街に、必ず仏国土ユートピアを建設します。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
大宇宙の根本仏 唯一なる 主エル・カンターレよ
伊勢支部精舎は、今年落慶17周年、そして御巡錫13周年を迎えました。
2009年1月24日、日本の中心とも言われる伊勢の地におおいなる光の灯台を賜りましたことを仏弟子一同・伊勢支部信者一同心より感謝申し上げます。

そして、2013年4月21日に、伊勢支部精舎に御巡錫を賜り、御法話『信仰心と国を愛する心について』をお説きくださいました。主の御慈悲に心より感謝申し上げます。

私たち伊勢支部信者一同、主への純粋なる信仰の下、「主の復活の祈り」を通して
エル・カンターレ信仰を確立し、「愛」と「知」と「反省」と「発展」の四正道を日々実践し、主の御名と御教えを伝えます。

そして、われらが愛する、この伊勢の地を、三重の地に主の悲願である仏国土ユートピアを必ずや建設いたします。

私たち、伊勢支部信者は、菩薩の本懐である六波羅蜜多を推進して、自らの心に巣くう妖怪性を払拭します。そのために、三宝を熱く敬い、「愛」「知」「反省」「発展」の四正道に帰依して、エル・カンターレ信仰をキチッと確立し、「天御祖神」の武士道精神のもと、仏教的精神を復活させて、伝道に邁進し、隣人を救い、私たちの愛する街に、必ず仏国土ユートピアを建設するために、以下のことを改めてお誓いいたします。

①私たちは、主から頂いた仏性を輝かせ、自らの善きものを隣人に分け与え、一切のみかえりを求めません。主から頂いた教えを必ず伝え伝道します。【布施波羅蜜多】

②私たちは、自らの戒を持ち、戒を守り、仏法真理の教学に力をつくします。
そして法友の育成・養成に力を尽くします。【持戒波羅蜜多】

③私たちは、主の御心を実現するために、目標を明確に持ち、実現するまで計画を実行しつづけます。【せん提波羅蜜多】

④私たちは、主の御手足となる本物の菩薩になるために、救世活動を日々の精進として積み重ねます。【精進波羅蜜多】

⑤私たちは、常に主を信じ、主を愛し、主と一体となるために反省と瞑想を重ね、祈りの生活を送ります。【禅定波羅蜜多】

⑥私たちは、主から既にすべてを与えられていること、主から愛されている自分を発見し、エル・カンターレ信仰さえあれば、あとは何もいらないという絶対幸福をえて、隣人と分かち合います。【般若波羅蜜多】

私たちは、主への報恩として 日本に 全世界に 「天御祖神」と共に、エル・カンターレ信仰を弘め地球ユートピアを実現してまいります。

主よ、私たちの信仰心が主の復活の力となり、主から預かりました伊勢支部精舎が、光の灯台として、一人でも多くの方に主の光を届けることができますよう、お導きください。主よ、まことにありがとうございました。
■□■□■□■□

■□■□■□■
。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
■□■□■□
E-mail:ise@sibu.irh.jp
□■□■□
https://hsise.com/
□■□■
TEL:0596-31-1777
■□■
FAX:0596-31-1778
□■
エル・カンターレ・大好き

タイトルとURLをコピーしました