94 大局観のない秀才が国を滅ぼす。
【大川隆法 箴言集『人生への言葉』より】
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3月7日は「宗教法人設立記念日」です。1991年3月7日に「幸福の科学」は宗教法人格を取得して、その存在が公に認められ、「幸福の科学が永遠に続くことになった始まりの日」です。
「宗教法人設立記念日」は「幸福の科学」が宗教法人として、世に誕生したことを記念する日です。この日をはじまりとして、幸福の科学は永遠の法灯がともされることになりました。
「宗教法人設立記念日」には、大宇宙の根本仏であられる主エル・カンターレ 大川隆法総裁先生に、永遠の法灯を灯して下さったことへの感謝を捧げます。
そして、発祥の時において、いかに盤石なエル・カンターレ信仰を打ち立て、
揺るぎない形で主の法を後世に伝えることができるかが重要な使命であることを心に刻み、
真理の法灯を子々孫々に継承していく決意を固めてまいりましょう。
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もうあと三十年以上戦い続けられるか。
体を鍛え、頭を鍛え、心を鍛え続ける。
無神論国家を信仰国家に変え、
世界に真実と愛と平和を取り戻す。
弟子たちが成長し、組織が一層大ならんとすることを欲す。
されど「自助論」の限界まで、私は戦いをやめない。
その頃、コロナ禍の時代など、
はるか昔の話になっていることだろう。
(『真理の法灯は永遠に』あとがき より)
ここからは、2017年3月7日に説かれました「魔境からの脱出」を引用して振り返ります。
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■『悪魔からの防衛術』第2章「魔境からの脱出」
4宗教修行者に訪れる「魔境」とは
〇「霊的目覚め」のときに通過する「魔境」
さて、幸福の科学の教えを通して、「人生の挫折への対処法」をいろいろと勉強している人は多いでしょう。当会には、人から批判を受けたとき、経営的に破綻したとき、家族・親族に不調和が起きたとき、病気になったとき、あるいは職業等を失ったときなど、さまざまな失敗や挫折についての教えが数多くあります。
それは、人間として生きていく上での「力強さ」というか、「強靭さ」のようなものをつくっていくために説かれた教えです。
例えば、「光明思想」的な教えや「勇気の法」的な教え、あるいは「忍耐の法」的な教えもあれば、霊界の存在を説くことによって、「この世的なものに、あまりとらわれすぎないようにしよう」というような教えをもあります。そのように、失敗や挫折の切り抜け方については、何かと教えてはいると思うのです。
ただ、本章のタイトルは「魔境からの脱出」なので、「逆境からの脱出」とはちがった、もう一段、難しい問題についても触れてみたいと思っています。これは、いわゆる宗教修行にすでに入っている人たちにとってのテーマになるでしょう。
要するに、普通の段階の問題ではありません。例えば、「泥棒に入って、金銭を持って逃げたところ、すぐに捕まえられて非難の対象になった」というような問題ではないわけです。それがこの世的に悪いのは、誰にでも分るでしょう。ここでは、そのようなことを言っているわけではないのです。
やはり、宗教的な修行に入って、修行が進んでいくと、「自分も少しは人を教えられるような身分になったかな」と思えるときが来ます。また、霊的な感覚などが芽生えてきて、いろいろなものを視たり感じたり、あるいは、直感が働いたり、ときどきは奇跡が起きたりするようにもなります。修行が進んでくれば、そういうことは、当然、起きてくるわけです。
ただ、そのように修行が進んできて、ある程度、霊的な覚醒を得るレベルに達したあとに、「魔境」というものがあります。これは、現在の常識というか、学校での勉強や本、新聞、テレビ等では知ることができないものなのですが、「魔境」には、たいていの人が引っ掛かるのです。
もちろん、その人が人間的に駄目なわけではなく、一定以上に人格も練れていて、宗教的にも修行が進み、霊的にも目覚めてきている状況ではありましょう。人を、ある程度教えたり導いたりできるレベル、あるいは、善悪の判断などができるレベルにまでは来ているわけです。
しかし、そのように、霊的に視えたり、聞こえたり、感じたりできるようなレベルに達したとしても、実は最終の悟りのではありません。これはまだその前の段階であって、ここには必ず通過しなければならない「魔境」があるのです。
〇霊の声が聞こえ、病気を治せたとき、気をつけるべきこと。
例えば、この段階では、「霊の声」だからといって、単純にありがたがったりするような人もいるでしょう。あるいは、自尊心やプライドが正当なものならよいのですが、高くなりすぎていて、不当なレベルになっているような人もいるわけです。こういう場合、霊のほうが騙してきたり、嘘を言ってきたりしても、それにまんまと乗せられるようなことがあるので、このあたりが怖いところかもしれません。
また、病気直しについても似たようなことがあります。
ちなみに、キリスト教の『聖書』を読むと、病気直しをしたイエスそれを見た人から、「あれは、悪魔の頭が来て、悪霊を追い出しているんだ。悪魔の頭(かしら)の一人のベルゼベフがきて、悪霊を追い出しているに違いない」というようなことを言われているシーンがあります。イエスはそれに対して、「そのように仲間割れをしていたら、悪魔の国だってなりたないだろう」と、遠回しに言っていたように思います。ただ、現実に、そうしたことがないわけではありません。幾つかの宗教を見てみると、霊能系の宗教のなかではよく起きています。
例えば、病人でも病気で亡くなった人の霊や、亡くなってまもない人の霊に取り憑かれることで病気になっている場合があります。憑いている霊を叱ると病人から出ていくので、一時期、病気が治ったように見えるのです。
要するに、「病気が治る」といっても、高級霊の指導を受けている宗教ばかりではありません。やや大きめの悪魔系のものが来た場合には、ついている霊を外すことができるので、病気の人が一時的に楽になったように見えることがあるのです。
そのため、ここで騙されて、「病気が治ったから、これは神から受けた力だ」と思ってしまうことがあります。このあたりにも、まだ一つ、狙われるスポットはあるわけです。
〇詐欺師とほとんど同じ手口を使ってくる悪魔たち
やはり、そういう特殊な能力を持てば、人は自惚れてもくるでしょう。
ただ、「自分は特別だ」と思って自惚れていると、悪魔にその自惚れた鼻の下をくすぐって入ってこられます。うやって、やられてしまうことがあるので、これが難しいところです。
たとえ、「反省の教え」を勉強し、人に教える立場にあっても、いざ、自分がそういうところでくすぐられれば、それをにわか信じて増長してしまうことはあります。そのとき、隙間に入ってこられるわけです。
例えば、悪魔は、最初のうちは、自分にとって有利なことを言ってくれたりもします。物当てをしてくれたり、いいことを言ってくれたりするのです。そのようにして信用させ、そのあと、だんだんに引きずり込んでいくのが、悪魔の通常のやり方なのです。
これは、詐欺の師の手口とほとんど同じでしょう。トランプゲームのポーカー等でお金を巻き上げるにしても、最初は相手に勝たせて、その気にさせます。そして、乗ってきたところをだんだんに引きずり込んでいき、最後には、「あら!?もうちょっとだったのに、あっという間にやられた」という感じで、大きな負けにするのです。パチンコや競馬・競輪なども、だいたいそのようなものかもしれません。まったく勝てないと、お客さん来なくなるので、ときどきは勝たせてもらえるのですが、長引いたら、だんだん引きずり込まれていって、やられるというパターンなのです。彼らは、こういう手を使います。
ともかく、悪魔系の者やその手下どもは、「ずる賢いこと」を考えているわけです。最初は、多少、手伝いをしているように見えるのですが、ここで騙されることが多いので、気をつけなければいけません。
ただ、こういう話は、街の小さな教祖などのところではよくあるものなのです。信者がだいたい百人もいれば宗教はできますし、日本では、一教団当たりの平均信者数は三百人と言われています。そして、信者が三百人と言われています。そして、三百人ぐらいの宗教であれば、最初のころに、物当てができたり、予知ができたり、行方不明の人の居場所を当てたり、いろいろするのです。ところが、そうしているうちに、だんだん、”大きいもの”がやってくるようになります。やがて、相談する人が増えてきて、教団が大きくなろうとするときには、魔境が訪れて、まんまと罠にはまることがあるわけです。このトラップ(罠)から抜けるのは、そう簡単ではありません。
平凡人だと、「信者三百人ぐらいの教祖」あたりで、けっこう慢心して出来上がってきます。そういうレベルなので、ここを狙い撃ちされるとたいていコロッと騙されて引きずり込まれていくのです。そして、「気がつけば、信者のなかに集団憑依がたくさん起きている」というようなことが、いつのまにか起きています。そういう宗教もあるわけです。
【大川隆法『悪魔からの防衛術』第2章「魔境からの脱出」より抜粋】
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さて、ここからは、私たち仏弟子の生命ともいえる、「仏説・正心法語」について共に考える機会を得たいと考えています。
教義として主よりたくさんの御教えをいただいていますが、その中心にあるのが、「仏説・正心法語」です。たくさんの仏法真理を主よりいただいていますが、数多の経典は「正心法語」を正しく理解するためにあるといっても、けっして過言ではありません。
「仏説・正心法語」は仏の光であり、仏の生命であり、私たちの力であり、仏弟子の生きていく寄る辺です。
七つの経文が収められていますが、「毎日、全編を繰り返し読誦してください」とお勧めさせていただいています。理屈抜きで、毎日、正心法語を読むと元気になるからです。
経文にも、「ああ 七色が 相集い 仏の御国を 照らし出す」とあるように、「仏説・正心法語」は本来、七つの経文が合わさって一つの法身を表現しています。私が全編読誦を強くお勧めするのには理由があります。
正心法語は法華経・般若心経の一万倍の力があると教えていただいていますが、私たちサンガは正心法語の威力を十分に使いこなせていないのではないかと思います。
私も含めて皆様の中で、今日からさかのぼって一日のうち、正心法語の全編読んだ人がどれだけいるでしょうか。読経の習慣化が法力を生むことを私たちは主から教えていただき知りながら、なかなか実践できずにいます。実にもったいないことです。
私たちサンガ・幸福の科学の活動は多岐にわたっていますが、あらゆる活動の力の源泉は「仏説・正心法語」から生まれています。だから、この経文を毎日、読誦することを繰り返すことで、私たちは主より法力という名の力を授かることができるようになります。
このメールマガジンでは、日々の活動で「仏説・正心法語」からどのように活動のエネルギーを引き出していくかという視点で、お届けしたいと考えています。この経文に関する主の御解説は経典『信仰論』に説かれていますので、伊勢支部にてぜひご拝受ください。「法力」という名の悟りと救済力と得るために必要な経典です。
それでは、「真理の言葉 正心法語」から始めましょう。「正心法語」はこのように続きます。
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光 分かれて 七色の
虹は 天空 地に架かる
仏の慈悲は 広がりて
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本日の引用部分は英語版の「正心法語」-The True Words Spoken By Buddha-では、このようになっています。
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Through the Prism of Buddha,
There appeared the Seven Colors of Rainbow,
Arching over in the Sky.
Here you can see Buddha’merchy.
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ところで、私は、在家時代に、絵画の販売・接客業や、メガネの商品開発やデザインなどをしていました。在家時代に色や光の勉強をしていたんですね。ですので、この分野に関しては、少し知識があります。
光は、電磁波の一種で、エネルギーであり、本来無色透明です。しかし、この無色透明な光は、様々な色の光が組み合わさり透明になっています。
色の三原色というと、マゼンダ(赤)、シアン(青)、イエロー(黄色)ですが、絵具では、この三色を混ぜると黒に近い色になってしまいます。絵具は、他の色を次々に足して混ぜていくと、限りなく黒色に近い色になってしまいます。絵を描く人でしたらよくご存じないでしょうか。
絵具は物質ですから、ある光を吸収して、ある色を反射します。例えば、青色の絵具は、青色の光だけを反射して、青色以外の色をすべて吸収しているから青色に見えるというわけです。私たちの目が近くする様々な色は、反射した物質の色を見ているということです。ですから、私たちは光がなければ、そもそも色をみることができません。これは、部屋の明かりを真っ暗にすれは、色がすべて失われることからも明らかですね。黒色は、すべての色を吸収して反射しないから黒に見えます。黒色が、宗教の世界で、地獄や闇を象徴するのも神の光(エネルギー)を反射しないからであると言えます。
また、絵具の色が肉体的人生観、唯物論的人生観を象徴すると仮定するならば、私たちは、人生という名のキャンパスに様々な色【欲・煩悩】を塗り重ねていくことで、心の絵が真っ黒になっていくことを象徴することができます。煩悩をいくら重ねても色は透明になることは決してありません。
ですが一方、光は、違う色が重なると、どんどん透明になり、どんどん明るくなります。最終的にすべての色が加わると、限りなく明るく、限りなく透明になります。私は色と光の勉強をしているとき一番不思議に思ったのがこの点でした。
これを同じように、光の色が霊的人生観・唯心的人生観を象徴するものと仮定するならば、私は、人生というドラマに様々な色の光【仏の生命・エネルギー】を加えることで、限りなく透明で、限りなく明るい過去・現在・未来の映像をありありと思い描くことができます。この点からも、光と愛はとても似ているのではないかとひそかに感動しています。
光は霊天上界から降り注ぐエネルギーであり、力です。無色透明な光は、あらゆる色の光が一つの束になったものです。その天国世界では太陽の霊体である霊太陽から降り注ぐ光が、地上に降り注いでいます。
繰り返し確認ですが、高次元にある光源を失しなえば、つまり、根本仏が光を創造するのをやめてしまえば、大宇宙は一瞬にして消滅してしまいます。いま地上に光が降り注いでいること自体が根本仏の慈悲なのです。その慈悲の光が地上に降り注ぎ、広がっています。
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仏に三身ありと言われており、仏のお姿には「応身」「報身」「法身」の三種類あります。そのなかの最も尊いのが「法身です。これは、肉体存在や目に見えるものではなく、宇宙を統治する法則としての存在です。たとえば、「原因・結果の法則」「波長同通の法則」「生々流転の法則」など、仏教で言えば「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の「三法印」も仏の法身です。また幸福の科学の基本教義である「愛」「知」「反省」「発展」の四正道もエル・カンターレの法身仏にあたります。
そして、何よりも「光とは何か」を教える『仏説・正心法語』こそが、私たちの主、エル・カンターレの法身そのものなのです。
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最後に、経典から抜粋いたします。
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仏神は光です。
光は、あるときは粒子として顕われ、あるときは波として顕われます。
光が粒子として顕われたとき、そこに物質が出現します。
光が波として顕われたとき、それは想念、念いの作用としてのみ存在します。
仏神の心というものは、
凝集されて一点となれば物質となり、
それが人間となり、地球となり、三次元宇宙となります。
仏神の心というものは、
凝縮されて一点となれば物質となり、
それが人間となり、地球となり、三次元宇宙となります。
仏神の心が、
凝集された粒子というかたちではなく、波として顕われたときには、
想念の波動として、念いとして、宇宙を飛び交う電波としてのみ存在します。
これが大宇宙の秘密なのです。
【大川隆法 『不滅の法』序章「心のなかの宇宙」より抜粋】
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■「『般若心経』や『法華経』の一万倍ぐらいの力がある、地上最強の経文です!」
この経文は、いま幸福の科学の三帰誓願者(仏・法・僧の三宝に帰依することを誓った者)にのみ授与されている『仏説・正心法語』という経典のなかの経文のひとつですが、たとえば、いま尊いお経と言われている「般若心経」や「法華経」の一万倍ぐらいの力があります。
・『仏説・正心法語』という経典は、九次元霊界、最高霊界のなかの仏陀意識からストレートに降りているものです。ゆえに、地上にはこれ以上の経文はないのです。過去もなく、今もないのです。ですから、これは実際に一万倍ぐらい効くと思ってください。「般若心経」を一万回唱えるのと、「正心法語」を一回唱えるのとは同じぐらいです。そのぐらいの力なのです。それだけの力を持っています。三帰誓願者はそういう経文を使うことが可能です。 【大川隆法『信仰と愛』p.153~154より抜粋】
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ここで、仏教の修業論に立ち返るべく、教典『沈黙の仏陀』を学びます。経典お持ちでない方は、ぜひお求めください。【1800円税込み】
―仏陀入滅して二千五百年。その教えは沈黙の中におかれた。しかし、その真意を解く鍵は、修業論のなかにある。沈黙の仏陀の声なき声がそこにある―『まえがき』より
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第5章 智慧とは何か
4 この世的観点とあの世的観点
①煩悩を断ち切る力としての般若の智慧の智慧
最後に、「この世的観点とあの世的観点」ということについて述べておきたいと思います。
「無常」「苦」「無我」「空」という言葉があります。これは仏教の大事な言葉なのですが、どれを捉えてみても、この世的な知識や情報として理解するには、やはり無理があります。この悟りの言葉というのは、この世的な知識だけでは、どうしても理解させることが無理なのです。これを知るためには、やはり宗教的境地を拓かなければ、いけないのです。そうした洞察力を持たなければ理解できない、あるいは霊的なものを信じていないと、どうしてもつかむことができないものなのです。
結局、般若の智慧によって何を得ようといているのかというと、「無常」「苦」「無我」「空」、こうした宗教的悟りの言葉の意味をつかもうとしているのです。
では、何のために、そうした無常や苦などを知らなければいけないのでしょうか。
確かに、この世的に観れば、「無常である」と言われても、わかりません。机は机で確固としてあるように思う。自分は自分で確固としてあるように思う。他人は他人で確固としてあるように思う。それがなぜ無常なのか、「常らなず」なのか―。
ものごとができるには原因がありますが、滅びていくには原因は要りません。ほうっておけば必ず滅びていく性質を持っています。存在自体に滅びを含んでいるものなのです。
机ひとつとっても、それが永久に存在することはありません。いつかの時点で、必ずこの地上から姿を消すものです。机というものは、ノートや本を乗せ、読んだり書いたりして使用しているときには机なのですが、その使用が終わった段階では、机ではなくなるのです。材木になってしまったり、薪(たきぎ)にされてしまうこともあるのです。
小学校などの古い木造の校舎が、いつか壊されて鉄筋に建て直されることがあります。その際に、机と椅子を組み合わせたような古い木の机が、すべて壊されて校庭に出されます。そうすると、小学生たちが「あれは机だ」と認識していたものが、焚火の材料に変わってしまいます。
そのように、この世のすべて、恒常なるものではなく無常なるものなのですが、この世的な目で観るかぎりは、それがわからないのです。机は机、椅子は椅子、黒板は黒板、ライトはライトにしか見えません。しかし、そのなかには、変化し、移り変わっていって、必ず消滅していく要素を持っているのです。このようなことは、この世的な知識では、なかなかわかるものではありません。やはり霊的な洞察が必要なのです。般若の立場に立って初めて分かるのです。
あるいは、「人間は、この世に生まれてくる時に、あの世から出てくる」というようなことは、いくらこの世的に言われても分かりません。医学部で勉強しても、はやり理解できないのです。医者というものは、人間がお腹に宿った時、赤ちゃんができた時からなら理解できますが、その前のことについては、いくら言葉で説明されても理解できません。説明もできませんし、わかることができません。やはり、般若の立場が必要です。
また、「この世は苦しみである」ということについても同じです。多くの人びとは、この世はよろこびだと思ったり、楽しみだと思ったりしていますが、聖なる立場、霊的な世界から観れば、実は苦しみにすぎないことがあります。「苦」という立場も、やはり般若の智慧を持たないとわかりません。「酒を飲めば楽しいじゃないか。若者同士で遊んでいれば楽しいじゃないか。こんな楽しいことをしているのに、なぜ、それがいけないというのか、それを苦しみだというのか」と、まったく理解できないのです。「欲しいものを手に入れて何が悪い。追いかけて何が悪い。快楽を求めていれば幸福じゃないか」と思う人もいるでしょうが、霊的な目から観れば、間違いであることがあるのです。
たとえば男性であれば、本能のままに行くと、美しい女性を見れば手に入れたいと思います。ところが実際は、それによって家庭が崩壊したり、苦しみをつくることになります。そして、思いもしないような不幸があとで来ることがあります。
その立場になって初めて、「いったい何が悪かったのかな」と思うのですが、智慧の立場から言えば、そうしたことは最初から分かっているのです。「こうしたら、あなたはこうなります」ということがわかっているのに、そういう洞察、ものの道理を見吹く力がない人にとっては、それが楽しみだと思っているわけです。「苦しみになりますよ」と言っているのに、どうしてもそれがわからないのです。この世的な楽しみで人生を終えたとしても、来世、霊界に還ってからの苦しみになることも、もちろんあるわけです。そういうことを何度言っても、わからないのです。
「無我」がわからない方もそうです。「空」についても、やはりなかなかわかるものではありません。
このように、般若というのは、悟りの言葉を理解するためにも大事です。なぜそれを理解する必要があるかというと、悟りの言葉を知り、その意味を知ることによって、煩悩を断ち切る力が生まれてくるからです。般若の智慧というのは、この煩悩を断ちる力として現れてくるのです。
この世的な欲望は、「自分がある」と思う。自我の思いから出てきます。自分という思いから、自分のものが欲しくなり、自己拡張欲が出てきます。そして、そこに苦しみが出てくるのです。その結果、悩みが出て、たいへんなことになるわけですが、この般若の立場に立つと、それが消えていきます。そのように、煩悩を断つ力が現れてくるのです。
【大川隆法『沈黙の仏陀』第5章「智慧とは何か」より抜粋】
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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〇「地の果てまでも伝道せよ。」
エル・カンターレとは、地球の光です。
エル・カンターレとは、天上界の光です。
エル・カンターレは、始まりであり、
エル・カンターレは、終りです。
エル・カンターレは、最後の審判です。
エル・カンターレは、最後の審判であり、
世界の人々にとっての新たな希望なのです。
どうか、エル・カンターレを信じてください。
どうか、この新しい信仰を持ってください。
どうか、この新しい信仰を地の果てまでも伝えてください。
それが、あなたがたの使命です。
それが、あなたがたの使命です。
忘れないでください。
それが、あなたがたの使命なのです。
エル・カンターレを信じてください。
エル・カンターレ信仰が、いま求められているのです。
どうか、エル・カンターレ信仰を中心に据えてください。
それが、あなたがたの使命です。
そして、エル・カンターレ信仰を、世界の人々に伝えてください。
地の果てまでも伝えてください。
人々に伝えてください。
それが、あなたがたの使命です。
それが、私の願いです。
それが、すべてです。
【大川隆法 英語説法『Focusing on El Cantare-Belief』の和訳を抜粋】
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■伊勢支部 十五戒■
主のため、世のため、隣人を救うために、ユートピア建設のために、なお、一歩を進めよう。
■信仰の五戒【毎年の戒】―エル・カンターレ信仰がわれらの全て
一、主エル・カンターレを信じきる―【戒・定・慧・教学を徹底する】
二、主を愛し、隣人を愛する―【四無量心を徹底する】
三、三宝帰依を徹底する―【反省を実践する】
四、四正道を徹底する―【瞑想を実践しエル・カンターレ信仰を確立する】
五、六波羅蜜多を推進する―【仏国土ユートピア実現のために祈り、伝道する】
■伝道の五戒【毎年の戒】―主が一番喜ばれることは伝道・主の御名と御教えが世界中に広がること
一、一人を三帰信者に導く
二、二人の三帰信者を育成する(フォロー)
三、三人を入会伝道に導く
四、四人の入会者を三帰に導くために育成する(フォロー)
五、五人の一般の方と新たに出会う
■植福の五戒【毎年の戒】―植福は執着を断つ大切な修行・三千年先の未来の希望のために福を植える
一、「一切は空」、悟りを得るために植福する
二、主への感謝を込めて「御生誕祭」と「エル・カンターレ祭」に植福する
三、三宝への感謝を込めて「宗教記念日」に植福する
四、四正道へ感謝を込めて「支部」「精舎」「聖地」に植福する
五、植福を習慣にする
信仰の凡事徹底に関して、戒を持つことが仏道修行の第一歩です。主の悲願である、一切の衆生を救済と仏国土ユートピア建設を成就するために、戒を持ち、阿羅漢を目指して、天使菩薩になるために毎日、仏道修行を共にしましょう。
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〇「沈黙の仏陀」の教え
戒めを守り、禅定を行い、そして智慧を得る。
智慧を得ることによって
この世的な束縛、執着というものを断ち切る力を得ていく。
そして、解脱を味わう。
解脱を味わったところで、
また、この世が神仏の偉大なる慈悲の場であることを悟る。
そしてまた、現界において努力する。
そこに、多くの人びとを此岸から彼岸へと渡していくために、
渡し守(もり)としての菩薩の仕事が現われてくる。
一人でも多くの人びとを悟りの彼岸へ導いていこうとする、
渡していこうとする、
そのような肉身の菩薩の仕事がそこから始まってくる。
すべては、己れというものの執らわれを去り、
真実の自己というものを知り、
真実の自己というものを中心として、
この世のあり方を、もう一度まったく違った目で見、
そこに感謝とよろこびを感じて、
他の人びとをも、悟りの彼岸へと渡そうとする。
一切の衆生の苦しみを救おうとする。
そのような大いなる大悲の心が沸き起こってくる。
これが私がみなさんに勧めていきたい人生修行の道です。
【大川隆法『沈黙の仏陀』より抜粋】
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Focus on Lord El Cantare―時代は今、主エル・カンターレ―
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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文責:蒲原宏史
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