(3/24-1)【基礎教学通信】83【3月24日】『仏説・正心法語』を読む24他人に対して理解をし、自分に対して反省せよ―『大悟の法』悟りの原点―『心の挑戦』縁起の理法に流れる理性の力

『正心法語』を読む

30 頭はいいはずなのに、出世しない人は、三分の二は協調性がないからだ。チームとしての成果を考えよ。

【大川隆法 箴言集『仕事への言葉』より】
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昨日3月23日は45周年を迎えます「大悟祭」でした。皆様誠におめでとうございます。大悟祭とは、1981年3月23日に、大川隆法総裁先生が、霊的覚醒を経て、自らが、根本仏にして地球神であるエル・カンターレであるという大いなる悟りを得られたことをお祝いする日です。

おおいなる主よ
私たちにこのような機会を与えてくださいましたことを
心からありがたく思います。
願わくば、これを機縁とし
あなたの愛の力が地に満ちますように
あなたの光が天に満ちますように。
あなたの栄光が、すべての世界に満ちますように。
主よ、私たちを強くしてください。
私たちに無限の力をお与えください。
私たちにユートピア建設の勇気をお与えください。
大いなる目標のために
大いなる建設のために
大いなる新世界のために
そして、新しい時代のために
後れてくる青年たちのために
未来の日本人や、未来の世界の人びとのために
わたしが、あなたのお心にかなった仕事ができますよう。
そして、この私たちが始める愛の運動が、人類幸福化の運動が
後のちまで光をもって燦然(さんぜん)と輝きますように。
主よ、どうもありがとうございました。
【大川隆法『ユートピアの原理』祈り原理・「ユートピア建設の祈り」より抜粋】

伊勢支部では、3/29(日)まで、10時・13時・19時に復活の祈りと共に「大悟祭」を開催いたします。大宇宙の根本仏であり、宇宙のマスターでもあられる主エル・カンターレ大川隆法総裁先生の「大悟の瞬間」(1981 
年 3 月 23 日)に思いを馳せ、人類救済の原点である主の大悟への心からの感謝を捧げます。

信仰は、悟りの高まりと共に深みを増していくものであると教えていただいています。『永遠の仏陀』ならびに、経典『「永遠の仏陀」講義』からの学びを通して、大宇宙を創られた主の偉大さへの理解を深めるとともに、主に向かって悟りを高めていく精進を誓い、全世界にエル・カンターレ信仰を打ち立てていく決意を固めさせていただきます。

そして、主が「エル・カンターレの法」をお説きくださる未来を心から願い、主の心と一体となる念いを込めて、「復活の祈り」を捧げさせていただきます。
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さて、ここからは2002年7月7日に説かれました御生誕祭御法話『大悟の瞬間―大いなる悟りが明かす多次元空間の神秘』を振り返ります。そののち、『仏説・正心法語』をともに読んでまいります。
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■『大悟の法』
第4章「大悟の瞬間―大いなる悟りが明かす多次元空間の神秘」
1悟りの原点
一九八一年三月に私が大いなる悟りを得てより、二十年あまりの歳月が過ぎました。(※2002年説法当時)

最初は、ちょうど山あいの木陰や岩陰にわいた小さな泉のようであったものが、チロチロと流れていくにつれて、しだいに小川となり、普通の川となり、普通の川となり、大河となり、大海へと流れていく、そういう光景を、みずから見てきたような思いがあります。

この二十年余りの歩みは、私自身の悟りの変化、進化と同時に、その悟りを説く者としての環境の変化、組織の変化を伴うものでした。

ここで、初心に返り、「悟りとは、いったい何であったのか」ということを確認する作業をしてみましょう。

これまでの歩みを振り返り、「悟りの要素として、これは落とすわけにはいかない」というものを考えてみることは、「世の中のさまざまな宗教のなかで悟りとされているもの、あるいは、仏教の流れのなかで、釈尊(ゴータマ・シッダールタ)の悟りとされているものと、現実に自分に起きたものとが、同じものなのか、それとも違うものなのか」ということを検証する手立てにもなるのではないかと思います。

霊的な現象が起きるということ、もちろん、万に一つのことではありますが、それが身に及んだという人は、日本にも他の国にもたくさんいるので、それ自体は決して珍しいことではないでしょう。

その霊的覚醒によって、悟りがどのように展開してきたかを見て初めて、その原点にあったもの、悟りの原点にあったものが、いったいいかなるものであったのか、その悟りの核が正しいものであったのかどうかということが、理解されるのではないでしょうか。

2 無我の思想
〇無我の思想に対する誤解
釈尊の思想をさまざまに点検してみると、そのなかでもっとも有名であると同時に、最も後世の仏教学者たちを迷わせているものに、無我の思想があります。

インドには「アートマン」という言葉がありますが、それは幾つかの意味を持っていて、そのなかに、「霊魂」という意味もあれば、「自我」という意味もあります。

そして、釈尊の教えのなかに、このアートマンの反対語である「アナートマン」という教えのあることが記録されています。これが実は、釈尊の悟りを示すと共に、それを誤解させるものでもあったと思われます。アートマンという言葉の否定語を使って悟りを表そうとしたところに、その意義があったと同時に、誤解される根源でもあったようです。

それでは、無我の思想とは、いったい何であったのでしょうか。

この無我の思想が、「人間として自覚しているところの『自分』がない」、あるいは「人間には魂がない」という意味ではないことは、私の実体験からいっても確実なことです。

アナートマンを無霊魂と解釈する仏教学者もいますが、これは、宗教、あるいは仏教が形骸化し、廃れてきた流れのなかで、彼らが、自分の置かれている立場があまりにも不安定になったために、「何か近代的合理性を備えなければいけない」という焦りにとらわれ、カント以降の、霊的なものと哲学的なものとを分ける考え方にあやかろうとしたものです。あるいは、百年あまり前のマルクスの思想に乗っかって、仏教を共産主義的に解釈し、それが進歩的であるかのように吹聴して、生きながらえようとしたものなのです。

彼らは、そのように唱導して、仏教を現代的にしたつもりであったのかもしれません。あるいは、若いころに、そういう思想の洗礼を受けて、そのような解釈をせざるを得なかったのかもしれません。

思想には多面性があるので、どの面を取って見るかによって、違ったものに見えます。

釈尊の思想も、そのアナートマンの思想、無我の思想を取り上げて、それを自己否定や霊魂否定に解釈すれば、唯物論につながるようにも見えなくはありません。

また、釈尊の教えのなかから、「諸行は無常である。ガンジスの川が氾濫して、泥でつくった家が流れるように、人間の肉体というものは滅びゆくものである」という教えだけを取り出せば、それもまた、この世的なる、唯物的思想のようにも見えなくはありません。

そのたとえの意味が、「この世の形あるものは、すべて崩れていく」ということだけで終わっているとすれば、唯物論と全く同じようにとらえることもできると思います。

しかし、そのような解釈は、釈尊の悟りが、その思想を解釈する者の体験や知的理解力の及ばないところにあったために生まれたものなのです。

【大川隆法『大悟の法』第4章「大悟の瞬間―大いなる悟りが明かす多次元空間の神秘」より抜粋】
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さて、ここからは、私たち仏弟子の生命ともいえる、「仏説・正心法語」について共に考える機会を得たいと考えています。

教義として主よりたくさんの御教えをいただいていますが、その中心にあるのが、「仏説・正心法語」です。たくさんの仏法真理を主よりいただいていますが、数多の経典は「正心法語」を正しく理解するためにあるといっても、けっして過言ではありません。
「仏説・正心法語」は仏の光であり、仏の生命であり、私たちの力であり、仏弟子の生きていく寄る辺です。

七つの経文が収められていますが、「毎日、全編を繰り返し読誦してください」とお勧めさせていただいています。理屈抜きで、毎日、正心法語を読むと元気になるからです。

経文にも、「ああ 七色が 相集い 仏の御国を 照らし出す」とあるように、「仏説・正心法語」は本来、七つの経文が合わさって一つの法身を表現しています

正心法語は法華経・般若心経の一万倍の力があると教えていただいていますが、私たちサンガは正心法語の威力を十分に使いこなせていないのではないかと思います。
私も含めて皆様の中で、今日からさかのぼって一日のうち、正心法語の全編読んだ人がどれだけいるでしょうか。読経の習慣化が法力を生むことを私たちは主から教えていただき知りながら、なかなか実践できずにいます。実にもったいないことです。

私たちサンガ・幸福の科学の活動は多岐にわたっていますが、あらゆる活動の力の源泉は「仏説・正心法語」から生まれています。だから、この経文を毎日、読誦することを繰り返すことで、私たちは主より法力という名の力を授かることができるようになります。

このメールマガジンでは、日々の活動で「仏説・正心法語」からどのように活動のエネルギーを引き出していくかという視点で、お届けしたいと考えています。この経文に関する主の御解説は経典『信仰論』に説かれていますので、伊勢支部にてぜひご拝受ください。「法力」という名の悟りと救済力と得るために必要な経典です。

それでは、「真理の言葉 正心法語」から始めましょう。「正心法語」はこのように続きます。

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過去は 既に 過ぎ去れども
心の 過ちは 残るなり
他人に対して 理解をし
自分に 対しては 反省せよ

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本日の引用部分は英語版の「正心法語」-The True Words Spoken By Buddha-では、このようになっています。

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Your pasts have already gone by,
Yet still, Your Mistakes will be kept in your minds.
That is the reason,
Why you should understand other people.
And, you, yourself, should reflect on what you have done.

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本日の論点は、「反省」と「愛」です。
反省に関しては、人は完全な存在ではないので、日々過ちの大小こそあれ、なにかの罪を犯してしまいます。そのとき、時間は流れて、新しい一日を過ごしはするのですが、犯してしまった罪や誤りは、過去を振り返って、その心の修正をしなければ、心の中のゴミや埃のように積もり積もってしまいます。一日の心の汚れはたとえたいしたことではなくても、それを放っておくと積もり積もって大きな悪に発展して大変なことになってしまいます。

ときどき、ご近所の人の家がゴミ屋敷になって困っている様子がニュースになっていますが、これを精神世界にたとえた場合、他人事でも、笑いごとでもありません。心の世界では、たとえ目には見えなくても、反省ということをしない場合、私たちの心の中身がゴミ屋敷のようになっている方がたくさんいらっしゃいます。これはとても恐ろしいことです。だから、主は部屋をいつもきれいに整えるように、毎日、自らの心の中を見つめて、心の中の掃除と片付けが必要であることを「反省」を通して、教えて下さっています。

また、幸福の科学では、愛は与えること。無償の愛、見返りを求めない愛のことです。人に与えたものに見返りを期待したり、人から愛を奪ったり、期待することは愛ではないことを繰り返し教えられています。その愛のなかには、相手のことを理解することも含まれています。相手のことを本当に理解することができるからこそ、本当の意味で、相手に必要なものを差し上げることができるようになります。

これは極端な例かもしれませんが、砂漠でさまよい喉がカラカラな人に、自分の水筒から水を差し上げること。また、川でおぼれそうな人に、自分の水筒から水を差し上げること。同じ水を与える行為であってもまったくちがう結果になってしまいます。正しく愛を与えるためには、相手のことを理解しなければならないのです。

だから、他人に対しては、与える愛で優しく接して、自分が理解されることよりも、他人を理解することに力を尽くすことが大事です。理解することは愛することにつながるからです。そして、自分の心に何を思い、考えたかについては、厳しく見つめて、心に誤りがあれば、すぐに反省して悪いものを打ち消していくこと、家のなかを掃除して、きれいにして、ごみを集めて捨てて、家のなかを整えること。これが「他人に対して 理解をし
自分に 対しては 反省せよ」という言葉の真意ではないかと思います。

正心法語のなかでも、愛と反省の要諦が説かれているとても大事な仏言です。繰り返し熏習して覚えてしまいましょう。

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本日の解説も、経典『信仰論』から引用させていただきます。
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これは、「過去は過ぎ去ったものではあるが、過ちは残るので、反省しなさい」ということです。反省には「八正道」という基準があります。

単に「悪いことをしたら反省しなさい」という道徳的なことを言っているわけではありません。反省には、実は「仏光物理学」的な意味があるのです。

悪い思いを出したり、悪い行動をしたりしたときには、それが心のなかのデーブレコーダーである「想念帯」に記録されます。ところが、反省することによって、想念帯に刻み込まれた赤字が黒字に変わるのです。あるいは、灰色の文字が金色に変わると言っても良いでしょう。

要するに、「反省は、現実に自分の人生そのものを変えていく手段である」ということなのです。

この反省の教えは、当会では非常に基本的なものの一つです。自分づくりをするためには反省が重要であり、自分の行ったことについて、プラスとマイナスの両面を同時に振り返ってみる必要があるのです。・・・(中略)

怒りには「私憤」と「公憤」があります。私憤は持つべきではなく、それに対して反省もしなければいけませんが、公憤、公の憤りは持たなくてはならないことを知っておいてください。

私憤には発展性がありません。動物がカッと牙をむくような怒りには発展性がないのです。しかし、「世の中をよくしていきたい」と思って憤る心は、無くしてはいけないものです。これがなければ、ユートピア革命は絶対に起こりません。
世の中の不正や穢れ、間違いを正し、五濁悪世を立て直そうとする怒りは、持っていなければいけないのです。

【大川隆法 『信仰論』 より抜粋】
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仏に三身ありと言われており、仏のお姿には「応身」「報身」「法身」の三種類あります。そのなかの最も尊いのが「法身です。これは、肉体存在や目に見えるものではなく、宇宙を統治する法則としての存在です。たとえば、「原因・結果の法則」「波長同通の法則」「生々流転の法則」など、仏教で言えば「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の「三法印」も仏の法身です。また幸福の科学の基本教義である「愛」「知」「反省」「発展」の四正道もエル・カンターレの法身仏にあたります。
そして、何よりも「光とは何か」を教える『仏説・正心法語』こそが、私たちの主、エル・カンターレの法身そのものなのです。

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■「あの世でのパスポートです!」
あの世に勲章を持って還っても、残念ながら、まったく通じません。ノーベル平和賞を持って還るよりは、『仏説・正心法語』を持って還ったほうが、あの世でのパスポートとしては、よほど効き目が大きいのです。

【大川隆法『修行の王道とは何か』p.32より抜粋】

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最後に、経典から抜粋いたします。
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仏神は光です。
光は、あるときは粒子として顕われ、あるときは波として顕われます。
光が粒子として顕われたとき、そこに物質が出現します。
光が波として顕われたとき、それは想念、念いの作用としてのみ存在します。
仏神の心というものは、
凝集されて一点となれば物質となり、
それが人間となり、地球となり、三次元宇宙となります。
仏神の心というものは、
凝縮されて一点となれば物質となり、
それが人間となり、地球となり、三次元宇宙となります。
仏神の心が、
凝集された粒子というかたちではなく、波として顕われたときには、
想念の波動として、念いとして、宇宙を飛び交う電波としてのみ存在します。
これが大宇宙の秘密なのです。

【大川隆法 『不滅の法』序章「心のなかの宇宙」より抜粋】
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ここで、仏教の基本に立ち返るべく、教典『心の挑戦』を学びます。経典お持ちでない方は、ぜひお求めください。【1800円税込み】
―本書は、神秘的な宗教の世界に憧(あこがれ)、仏教的世界観を探し求めている人生の旅人たちにとって、絶好の案内書となることでしょう。―『まえがき』より
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第1章 縁起とは何か
4 縁起の理法に流れる理性の力

そうしてみると、縁起というのは「宇宙の理法」という意味なのです。

では、宇宙の理法とはいったい何であるかというと、これは仏が考えている法則ということですから、「仏の理想」でもあります。あるいは「仏の念い」でもあるわけです。あるいは、場合によっては、この法則が「仏の生命」そのものでもあるわけです。「仏」というのは、法則なのです。その法則に基づいて世界はつくられたのです。

そうしてみると、キリスト教系で言う、「造物主と被造物があった。創ったものと創られたものがあった」という擬人的な比喩は、仏教的な思想においては、「すべては法則のもとに運行されている」ということに相当するわけです。その法則を「仏の念い」と言ってもいいし、「理想」と言ってもいいし、「仏の力」と言ってもいいけれども、「仏というものは、一つの法則にこの宇宙を委ねられた」ということを言っているわけです。「人間も、万象万物も、すべてがその法則のもとにあるのである。法則が仏なのだ」ということを言っているわけです。

そうしてみると、仏陀が、「縁起を見るものは法を見る。法を見るものは縁起を見る」と言っていますけれども、この意味が分かるような気がするでしょう。「法というものは縁起なのだ」と―。

この「法」にはいくつかの意味がありますけれども、一つには、「教え」と言ってもいいでしょう。「宇宙の理法、仏陀の法は、実は縁起というものを教えているのだ」という考え、また、「縁起というものを見れば、法とは何かが分かる」ということは、ここでわかります。

「法」のもうひとつの意味は、「事物の存在」「一切の万象の存在」という意味です。

そうすると、「法を見るものは縁起を見る」というのは、「この大宇宙の森羅万象、そこに広がっている生きとし生けるもの、事物を見ると、そこに縁起が発見される」ということです。

先ほどいったたとえで言うならば、原因を持たずして成り立っているものは何ひとつない、ということです。みなさんの生活用品を見ても、服を見ても、机を見ても、時計を見ても、原因がなくてそこにあるものは何ひとつありません。やはり原材料があって、それを加工して、人の手によって、そこに成り立っています。そして、服なら、服というものをつくりたいという念いがあって、つくられているのです。

そのように、世界の事物はすべて原因・結果の連鎖を持っている。また、多くの人の手によって成り立っている。縁起によって、すべてのものは存在している。また、すべてのものの存在は、縁起によって説明される。

「法を見るものは縁起を見る。縁起を見るものは法を見る」―この循環は、要するに、「教え、達磨としての法も、存在としての法も、すべて縁起によって説明される」ということを意味しているわけです。

ただ、三次元的な物質の成り立ちを、縁起によって説明するだけで終始した場合には、仏教思想が、場合によっては、悪くすると唯物論的なものの見方として捉えられるおそれがあります。これに対しては、私は十分な警戒が必要だと思います。

すべてのものの成り立ちを縁起で説明しているのは、一つには、論理的なものの見方、あるいは理性的な解釈がそこにある、と言ってよいでしょう。これは、釈尊自身の持っていた、非常に強い理性の力が現れているのだ、と言えると思います。

この理性の力は、医学や自然科学、その他の領域で、非常に大きな力を持っていますけれども、これが宗教の世界のなかにも入っているのが仏教である、と言ってよいと思います。

ですから、現在あちこちに広がっているご利益的な信仰、あるいは怪しげな新興宗教などは、仏教とは非常に違っています。仏教のなかには、非常に理性的なものの考え方、科学的な考察、合理的なものの考え方というのが、きわめて強く入っているのです。それは、この縁起の思想を見ても分かるはずです。

【大川隆法『心の挑戦』第1章「縁起とは何か」より抜粋】
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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〇「地の果てまでも伝道せよ。」
エル・カンターレとは、地球の光です。
エル・カンターレとは、天上界の光です。
エル・カンターレは、始まりであり、
エル・カンターレは、終りです。
エル・カンターレは、最後の審判です。
エル・カンターレは、最後の審判であり、
世界の人々にとっての新たな希望なのです。
どうか、エル・カンターレを信じてください。
どうか、この新しい信仰を持ってください。
どうか、この新しい信仰を地の果てまでも伝えてください。
それが、あなたがたの使命です。
それが、あなたがたの使命です。
忘れないでください。
それが、あなたがたの使命なのです。

エル・カンターレを信じてください。
エル・カンターレ信仰が、いま求められているのです。
どうか、エル・カンターレ信仰を中心に据えてください。
それが、あなたがたの使命です。
そして、エル・カンターレ信仰を、世界の人々に伝えてください。
地の果てまでも伝えてください。
人々に伝えてください。
それが、あなたがたの使命です。
それが、私の願いです。
それが、すべてです。

【大川隆法 英語説法『Focusing on El Cantare-Belief』の和訳を抜粋】
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■伊勢支部 十五戒■
主のため、世のため、隣人を救うために、ユートピア建設のために、なお、一歩を進めよう。心の焦点を主エル・カンターレに合わせよう。

■信仰の五戒【毎年の戒】―エル・カンターレ信仰がわれらの全て
一、主エル・カンターレを信じきる―【戒・定・慧・教学を徹底する】
二、主を愛し、隣人を愛する―【「進歩」と「調和」を顕現するために「四無量心」と「四摂時」を徹底する】
三、三宝帰依を徹底する―【反省(八正道)を実践する】
四、四正道を徹底する―【瞑想を実践しエル・カンターレ信仰を確立する】
五、六波羅蜜多を推進する―【仏国土ユートピア実現のために祈り、伝道を習慣にする】

■伝道の五戒【毎年の戒】―主が一番喜ばれることは伝道・主の御名と御教えが世界中に広がること
一、一人を三帰信者に導く
二、二人の三帰信者を育成する(フォロー)
三、三人を入会伝道に導く
四、四人の入会者を三帰に導くために育成する(フォロー)
五、新たに出会う五人の一般の方に主の御名と主の御教えを伝える

■植福の五戒【毎年の戒】―植福は執着を断つ大切な修行・三千年先の未来の希望のために福を植える
一、「一切は空」―悟りのために、この世への執着を断つために植福する
二、主への感謝を込めて「御生誕祭」と「エル・カンターレ祭」に植福する
三、三宝への感謝を込めて「宗教記念日」に植福する
四、四正道へ感謝を込めて「支部」「精舎」「聖地」に植福する
五、主のため、世のため、隣人を救うため、3000年先の幸福の科学の発展のために、仏国土建設のために植福を習慣にする

信仰の凡事徹底に関して、戒を持つことが仏道修行の第一歩です。主の悲願である、一切の衆生を救済と仏国土ユートピア建設を成就するために、戒を持ち、阿羅漢を目指して、天使菩薩になるために毎日、仏道修行を共にしましょう。
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〇「沈黙の仏陀」の教え

戒めを守り、禅定を行い、そして智慧を得る。
智慧を得ることによって
この世的な束縛、執着というものを断ち切る力を得ていく。
そして、解脱を味わう。
解脱を味わったところで、
また、この世が神仏の偉大なる慈悲の場であることを悟る。
そしてまた、現界において努力する。
そこに、多くの人びとを此岸から彼岸へと渡していくために、
渡し守(もり)としての菩薩の仕事が現われてくる。
一人でも多くの人びとを悟りの彼岸へ導いていこうとする、
渡していこうとする、
そのような肉身の菩薩の仕事がそこから始まってくる。
すべては、己れというものの執らわれを去り、
真実の自己というものを知り、
真実の自己というものを中心として、
この世のあり方を、もう一度まったく違った目で見、
そこに感謝とよろこびを感じて、
他の人びとをも、悟りの彼岸へと渡そうとする。
一切の衆生の苦しみを救おうとする。
そのような大いなる大悲の心が沸き起こってくる。

これが私がみなさんに勧めていきたい人生修行の道です。
【大川隆法『沈黙の仏陀』より抜粋】
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Focus on Lord El Cantare―時代は今、主エル・カンターレ―
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