80 子供はかわいい。しかし情に溺れたら、経営者は、部下の信頼を失う。
【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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12月8日は降魔成道記念日です。主エル・カンターレ
大川隆法総裁先生が、1985年12月8日に名古屋の地(降魔成道館)にて、救世主として法を世に説くことを決意しようとしたとき、これを何としても阻止せんと、悪魔が総攻撃をかけてきました。降魔成道記念日とは、この悪魔を打ち倒して、仏法真理の流布に立ち上がったことを記念する聖なる日です。
主は、ただ一人往くという不退転の決意によって魔を下し、降魔成道をなされ、救世主として立たれたことに心からの感謝を捧げると共に、大川隆法総裁先生のご復活を心より祈念し、全世界の信者一同で、「降魔成道記念日」感謝式典版「復活の祈り」を執り行います。
主のご復活を妨害する悪霊・悪魔・妖怪・妖魔・闇宇宙・唯物論の勢力といった悪しき者たちの呪いを打ち祓い、主がこの地にて「エル・カンターレの法」を再びお説きいただけるための、結界を皆様と共につくってまいります。皆様ぜひご参加ください。
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さて、私たち、幸福の科学の信者の幸福とは「悟りの幸福」です。私たちは、「正しき心の探究」を通して「愛と悟りとユートピア建設」をこの地上に実現するための使命を仏から与えられ、その実現のためにすべてを既に与えられました。
ここで、お釈迦様の教えである仏教的精神を振り返り、私たちの幸福を全世界に述べ伝える原動力となすべく、ひきつづき教典『悟りの挑戦(下巻)』を共に学びます。経典をお持ちでない方はこの機会に是非ご拝受ください。【税込み1800円】
―本書をていねいに精読するならば、『悟りの挑戦』が、仏陀自身の仏教解説であることがわかることだろう―上巻「あとがき」より
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■『悟りの挑戦(下巻)』第6章 仏性と成仏
8 平等と公平の問題
さてここで、「仏性と成仏」という論点をさらに詰めたいと思います。これは結局、『太陽の法』(幸福の科学出版刊)などにとかれている平等と公平の問題なのです。この論点なのです。
人間の平等性というものを追究していくと、「どの人にも仏性があり如来蔵がある」という思想になっていき、これが納得性、説得性のある議論であることは事実なのです。
ところが、それでは、そのような可能性を持っているのなら、みんなが同じなのかという疑問点が出てきます。「もしみんなが同じだっだっら、修行というものはいらない。この世の努力処ヴ信というものはまったくいらないし、過去・現在・未来と転生輪廻していく過程はいったいどうなる。三世の因果はいったいどうなる」という疑問が出るわけです。これに答えられないのです。
これに答えるためには、やはり平等と公平の両方の観点がいります。平等の可能性を持っていながら、ずっと「因・縁・果」が続いてきて、その努力、修行の結果によって公平に処遇されているのです。
もし、人殺しをした人も、人を救った人も、同じく天国で暮らすだけだったら、これは天国自体が地獄になっていきます。そんな人殺しばかりするような人と菩薩が一緒に住んでいたら、そこは天国ではなくて地獄に変わるはずです。ですから、行く先が違ってくるのです。
平等と公平の問題を理解できなかった場合には、仏教の思想も、歴史的にはこのように流れてしまうということを、ここで見ておかなければいけないのです。
ここで、「仏性がある」ということが、すなわち「成仏できる」(仏性=成仏)ということではないということを、結論としてはっきりしなければないのです。
仏性はあっても、五割以上は地獄に堕ちているわけですから、それを救うのが宗教の使命です。もし、「仏性があるから、みな成仏できるのだ」と言ってしまったときには、宗教の使命はそこでなくなって、放棄したことになります。これは安易ですし、間違いを含んでいます。新興宗教のなかの間違った流れには、このようなものがものすごく多くあります。
たとえば、この如来蔵思想というものには、教典では他に『如来蔵経』などの如来蔵系経典がありますが、仏教のなかにあっては、これは一種の光明思想なのです。生長の家の谷口雅春氏も、おそらくこうした経典を勉強されたのだと思います。
また宝積部経典の「迦葉品」第七十節に、釈尊が弟子の迦葉(かしょう)尊者に、「カーシャパよ、たとえば、次のようである。燈火が灯されると、すべての暗黒はなくなるが、その暗黒はどこからやってきたのでもなく、どこかへ行くのでもない。東西南北の四方のどこかへ行くのでもなく、どこかから来たのでもない。さらに、カーシャパよ、この燈火が、『私は暗黒を追放してやろう』と思うわけではない。それにもかかわらず、燈火が灯されるならば、その光によって暗黒はなくなる(長尾雅人・桜部建訳、中央公論社『大乗仏典九』の訳による)」と説法しています。これを読むと、現代の光明思想も、その原点は大乗仏教にあることが、はっきりわかります。ともあれ、こうした「如来蔵思想」の論理的帰結は、当然、光明思・
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�につながっていくのです。
ただ、本当に籾殻一枚をペロッとはげば出てくるようなものかと言えば、現実にはそうではない部分がそうとうありますから、一歩譲れば、これは仏性が即成仏につながるような短絡的な思想になっていきます。
要するに、「一躍跳入如来地」ということは、励みとして聞けばよいのですが、「今日、祈願したら、みんな如来になれますよ」というようなことを言うとしたら、はっきり言って間違いになります。【※(例)南無阿弥陀仏】あるいは、「仏典を手に取っただけでみんな如来になれる」【※(例)南無妙法蓮華経】というよなうことを言うのも、はやり間違いです。仏典を縁として勉強し、修行すれば如来になれるかもしれませんが、手に取っただけとか、のそ名を唱えただけで如来になれるとか、くらっとそちらに向いただけでなれるとか言ったら、それはやはり間違いになります。実態論としては、やはり間違いです。このような論理的な隙があります。
たとえば、生長の家の系統から分かれたある宗派でも、「もうみんな救われるのですよ。みんな天国へ行くことになっているのですよ。悪いことが起きたら、みんなそれは消えていくだけなのですよ。消えていく姿なのですよ」と説いています。このように、「何の努力もいらない、みんなよくなるしかない」と努力論を切っていくと、結局、そこの教祖は地獄に堕ちるようになるのです。
最澄が地獄に堕ちたのも、おそらく同じ理由だろうと私は思うのです。ですから、「一切衆生悉有仏性」と言うのはよいのですが、これを「悉皆成仏」のほうへ強引にもっていったのが最澄ではなかったでしょうか。少なくとも最澄以後の天台本覚思想は現世そのものを肯定し、腐敗と堕落を生む方向へ向かったのは歴史的事実です。このせいで、その後の千数百年間、日本の仏教の流れのなかに、間違いなくこの毒水が流れているのです。
ここから修業論がなくなっていく流れが出てきて、現代の新宗教のなかでも、ご利益宗教には、このように成仏を甘く解釈する思想がそうとう流れています。この毒水の源泉は「悉皆成仏」のところにあるのです。ですから、先ほどの新宗教の教祖とまったく一緒で、最澄自身がその思想の間違いの責任を取らされたのは、ここのところだろうと私は思うのです。彼自身が日本の天台本覚思想の完成者ではなかったとしても、彼が、『大乗起信論』『法華経』『華厳経』を皮相に解釈して本覚思想の基盤をつくったことは間違いありません。
要するに、「仏性があるから、努力しなくても、みんなすぐに如来になれるのだ」という思想は間違いだということです。可能性は可能性、しかしその可能性、チャンスを使ってどうするか、その結果については平等でないということです。
この”結果平等”を追究するとどうなるでしょうか。政治的にいうと共産主義などがそうです。結局は誰も働かなくなるのです。どんなことをしても、みんな一緒に扱いはじめると、努力も認めないし、自由性もありません。結果に差がなければ、人間はやる気をなくしていって、そして福祉だけ、みんなの分け前だけを求めるようになっていきます。そうなると、全体が落ち込んでいきます。
ですから、宗教の歴史のなかで、のそようなものがありましたから、多分、政治のほうでも、時代を追って同じような現象が出てくると思うのです。
民主主義は、この「一切衆生悉有仏性」「一切衆生悉皆成仏」、それから如来蔵の思想などに、非常に近いものがあると思うのです。そういう意味で、政治の究極の理想が出ていると思うのですが、究極の理想、理論的な極限までいったら、次に堕落が始まるのは同様で、衆愚政に堕ちていく可能性を内に秘めています。要するに、結果平等に走ったら、結局はそうなるのです。
「みなさん、すぐ如来になれますよ」と言ったときに、もはや宗教の使命もなければ、修業論もなくなるのです。日本の天台宗は、その名を冠しているところの天台大師智顗が本来、始覚的であったことを顧(かえり)みて、その宗祖の教えに反して、天台本覚思想を極まで押しすすめて日本仏教を堕落させた罪を謙虚に反省すべきです。
【大川隆法『悟りの挑戦(下巻)』第6章「仏性と成仏」より抜粋】
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さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。
今日も経典『太陽のメッセージ』を引用しながら、幸福の科学の基本書である『太陽の法』の大切さを共に学びます。本書は1998年の年末に『太陽の法』の講義としていただいたものです。【現在は絶版となっています】
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太陽のメッセージPart1
第2章「魂の世界とその真実」
7 心の自由性と悟りの第一関門
魂は自由自在な性質を持っていますが、悪を想ったり働いたりすることもできるのでしょうか。「地獄をつくったり、罪悪を働くことも、魂の創造性によるのか。」といった問いかけに対する答えは、「然り、然り。否、否。」という答えになります。なぜ然りかといいますと、「魂には創造の自由性が与えられている。自由であるということは、規則がないこと、妨げるものがないことであり、この意味において、もし規制や妨げがあるとするならば、これは自由とはならない。」ということであります。
地獄に堕ちるのがいけないのであるならば、神様は人間にもう悪いことが思えないようにしてしまえばいいのではないかという考えもあります。たとえば、ロボットはプログラムさえ間違っていなければ地獄にはおちないであろうと思われるからです。悪いプログラムをして、どんどんその方向に進めていけば別かもしれませんが、まったく完全な心としてプログラムをピシッと入れておいて、そのとおりに動くようにしておけば、地獄におちることがないでしょう。
しかし、人間の心には自由性があってロボットのようにはまいりません。ですから、自分の心が自由にならない、制御できないという方は、かえってこの自由性を恨んだりすることもあります。
心というのは、暴れ馬のような感じになるときがあり、このときが修行のなかで最初の関門として、いちばん苦しいときなのです。特に真理に目覚めて、霊言集などを読み、そして、「そうだなあ、そうしなければない。」と思いつつ、自分自身の一日の思い、一年の思い、
あるいはそれ以上の思いを反省してみると自由になっていないことが多いのです。「自由になるはずなのにならない。」ということで、自分の心が暴れ馬、悍馬(かんば)のようで、それを抑えようとするのですが、ふり落とされるのです。そのような自由にならない苦しみがあると思います。しかし、これは、修行者として当然の苦しみなのです。
これはどなたにも、過去に大なり小なりはあるでしょうが、悟りというものに縁のあった方はみなこれを通り越してきたのです。ですから、本書をお読みになっている読者のなかにも、こうした心を制御することができずに苦しんでいる方は、そうとういらっしゃると思いますが、まさしくこれが、第一関門であると思わなければいけません。
まず心の自由性に気づくところまではよいのですが、そのあとで、これが思い通りにならないということで苦しむのです。このギャップがあるわけです。このような思いさえ出なければ、どれほど楽であるかわからない、そして思うまいと思えば思うほど、悪いことを思ってしまったりするのです。また、人を恨んではいけないと思いつつ、どんどん恨んでいったり、嫌な人だな、と思ってはいけないと思えば思うほど、いやだな、という気がしてくるわけです。
そして次第しだいにとらわれていき、いつも心がそこに行ってしまう。これが第一関門なのです。どうしもこれを突破しなければなりません。これを突破したときに、この自由性の持つ素晴らしさがわかるのです。
〇平常心と不動心
この心の自由性の素晴らしさというのは、けっきょくこの悍馬(かんば)、暴れ馬を自由に乗りこなせるようになってくるということなのです。この乗りこなせるようになってくるという心の状態が、一つは平常心ということです。平常心とは、いつも心が波立たないような状態です。これが持てるようになってくるのです。
もう一つは、平常心よりももう少し意志の力が強くなってくる心の状態があり、これが、苦難・困難に際しての不動心です。これが出てくるのです。平常心というのは、通常の生活のなかで、心が揺れないようにしていくための力でありますが、不動心というのは、もう少し大きな苦難・困難が出たときにも、これに打ち克って盤石(ばんじゃく)、岩石のようにガンとした感じで向かっていくことができる、これが不動心です。
こうしたものが、次第しだいにできてきます。ここに至る途中においては、いろいろな悩みを経過せざるをえません。やはり、これを乗り越えていかないと、ほんものの平常心や、不動心はついてはこないのです。けっきょく、これは何かといえば、運転技術そのものであると言えるでしょう。
8 心の運転技術
人間は自由意志というものを神から与えられましたが、この自由意志とはハンドルさばきのことを言っているのです。自分の心、あるいは魂といってもよいのですが、この自分という車の運転をまかされているといえるのです。車の中に入りドアを閉めて、そのあとどう運転するかは、各人の自由であるとされているわけです。
これは実際に私達が車を運転するときも同じで、いったん車に乗ってしまえば、あとどうするのかは自分次第です。教習所であれば教官がブレーキを踏んでくれたりもするわけでありますが、いったん免許を取って自分の車に乗ったのであるならば、まったく自由に任されるわけです。
極端なことをいえば、人を跳ね飛ばそうと思えば可能でありますし、また崖から落ちようと思っても不可能ではありません。また、交通違反もいくらでも起こすことができますし、反対に、交通ルールを守ろうと思えば守れるというように自由自在です。まさしく車のようなものです。
けっきょく、何をコントロールするために練習しなさいといっているのかと申しますと、ハンドルであるということです。「ハンドルさばきの練習をしなさい。交通法規をしっかり学んで、一万キロくらい運転すれば、だいたいどのような事態があっても乗り越えていけるようになりますよ。」ということです。
いつも街中でノロノロ運転ばかりしている人が、はじめて高速道路に出たりすれば、やはり恐れを感じます。また、いつも明るい昼間ばかり乗っている人が、夜や雨の日に運転すれば、やはり慣れていないために恐れを感じます。それでも、運転しているうちにだんだんと慣れてくる。これと同じようなものです。
したがって、霊格の高い人というのは、運転という意味でたとえるならば、かなり運動神経が発達しているハンドルさばきの上手な方といえましょう。仮免許の試験において、一回で受かる人もいれば、何回も落ちる人もいるといったように、いろいろな方がいらっしゃると思いますが、これは持っている能力の問題であって、なかにはしかたのない部分があります。ですから、自分の悩みがどうにもならなくて苦しんでいるという状態の方がいらっしゃると思いますが、これは車の運転であると思えばよいのです。
運転の免許を取得するときにおいても、年代の数だけかかるとよくいいます。これは、五十代の人は五回くらい受けないと受からないとか、二十代の人は、だいたい二回で受かるとか、十代は一回で受かるとかいう意味で言われているようです。
同じように、人生においても、四十年、五十年、突っ走って来てはじめて心の世界に触れたような人である場合、この運転技術をマスターするのには時間がかかるということなのです。早いうちにこの心のコントロールに気がついた人はやはり上達が早いのです。
つまり、二十歳ぐらいでこのような心のコントロールに気がついた人は、そののちそれほど罪を犯すことなく生きていけるというわけです。ところが、五十、六十で初めて真理に触れた人はやはり、ハンディがあります。教習所で免許を取るにしても、やはり五回くらい落ちなければ、受かることができないように、それだけ努力がいるわけです。
9 自由意志の相克によるひずみ
本来は自由であるという以上、それを妨げるものはないはずです。しかし、魂の性質そのもののなかに、積極的に悪を働いたり地獄を創ったりするものがあるかといえば、そのようなものは本来予定されていないのです。つまり、悪とは、「魂そのものに潜む性質ではなく、その自由意志の相克するところに出てくる歪(ひず)みである。」ということができるでしょう。
この一行の文を知っているだけで、これも一つの悟りのなります。簡単な悟りではありますが、これを一〇〇人の人に説いたならば、九九人は知らない悟りであると思います。人間について考えたことのない人は論外として、これついて考えたことのある人のなかでさえも、性善説であるとか、性悪説であるとか、あるいは両方の折衷であるとか、さまざまな人がいるのです。
実際にキリスト教で専門にやっている人であっても、この悪の問題について答えきれない面があるのです。その理由としては、やはり魂そのものの性質として、魂そのもののなかに悪があると考えるからなのです。しかしこれは神の創造であるとしたときに不可解になるわけです。神が悪そのものを創られた事になるのであろうか。それを認めれば、神の御心のままに世界をよくしていこうとする考えそのものがまったく虚しくなってしまいます。
あるいは、もう一つの別な考え方として、悪というものは外部にあるという考え方もあると思います。ギリシャ神話のなかに、パンドラの箱に関する伝説がありますが、何かの拍子で外部に悪が出て、それがばらまかれて人間が汚染されたというような考え方です。これは、たとえば文明・文化が進化したことによってそのような悪が出てきたのだとするような外部要因に帰する考え方であります。これには多少の意味合いもあるかと思いますが、しかしほんとうのところ、他人の存在とのかかわりにおいてはじめて悪はその姿を現してくるということなのです。
たとえば、誰もいない建物のなかで、一人で悪をなそうと思ってもなかなか難しいのです。ぶり的な破壊はもちろん可能でありまずが、それ以外においては難しいと思います。ところが、人が大勢いるところでは、ひとを怒らせようと思えばいくらでもできますし、その人をふんがいさせて、夜眠れないようにしようと思えばすぐにできるわけです。いくらでもできるのです。試しに、まわりの人の頭をコツンとたたく、それだけで地獄は発生してきます。このように、他人との存在のかかわりで、悪は発生してくるのです。
10 地獄界からは生まれ変わってこない理由
「悪というもは、他人との存在のかかわりで発生する。」と思っただけでも、だいぶ心が楽になる面があると思います。もともと魂のなかに悪が埋め込まれている、あるいは地上には地獄から生まれ変わってきている人が半分いると思えば、これはひじょうにつらいことです。
私もこのような真理の世界に入る前には、ある程度宗教的なものや、魂も信じていましたが、よくある二分論、二分法に陥っておりました。
すなわち、天国から生まれる人もいるけれども、やはり地獄から出てくる人もいるのであろうと思っていたのです。そうして、人をじっと見ていて、「あの人は地獄から出てきたような顔をしている。」などといったように、人間評価をするときに、悪そうな人は地獄から生まれてきたのだと思ったわけです。だいたい、このように人間の色分けが始まるわけです。そうしますと、永遠に本当の意味で人を愛することはできなくなってしまいます。
そして、人を愛することができないだけではなく、自分自身の魂の進歩が止まってしまうのです。人物ができてきて、「よくわかる。自分の前にいる〇〇さんは人相がよくないから地獄から出てきたに違いない。」などというように思って、それでだいたい人間を見て分かったような気になって満足してしまうわけです。これは、やはり最初の迷いの段階です。
しかし、もう少し実際の勉強を続けていくにつれて、「やはり、地獄界からは生まれ変わってくることはない。」ということが分かりました。これは、悪霊の多くを体験してわかったのです。もし彼らが、地獄から生まれ変わてくることができるのであれば、赤ちゃんとして悪霊が誕生してくるはずです。憑依などする必要はありません。生まれ変わってくればよいのですから、生まれ変わってもう一回やり直せばよいのです。人生に失敗して、死後、地獄に落ちて苦しいのであれば、赤ちゃんに宿ってもう一回やり直せば楽なのです。
しかし憑依して出てくるということは、基本的にそれができないということなのです。ですからあのような悪さをするのです。そう気がついて、「ああ、やはり地上に出てきている人は、みんな最低限度は悟って天国から来たのだな。」と悟ったときにはじめて「ユートピアを創っていこう。」という気分が湧いてまいりました。そうではなくて、半分くらいは地獄から出てきていると思っているならば、やはりいやです。このような考え方を持たないだけでも、そうとう心は楽になると思います。
11 善悪を人間関係の調整論としてとらえる
したがって、善悪の問題を存在論にしないで、調整論とすることです。人間関係の調整論として善悪の問題を考える。これはひじょうに大切な考え方だと思います。そうしていけば、無限に研究の可能性があるのです。
たとえば、嫌な人が出てきた場合、もともとこれはそういう嫌な人であるのだから嫌なのだと思うかわりに、やはり彼と私にどこか合わないところがあるからこうなるのだろうと思う。ここに一つの魂の発展の余地があるわけです。どうしてこのようないやな感情が起きるのか。相手は本来悪い人ではないはずです。なぜかといいますと、自分とは合わなくとも、ほかにはその人を好きな人が絶対におり、友達がいたり、奥さんがいたりするわけですし、一概には自分の好みや趣味だけでは否定できないところがあるからなのです。
やはり、その人のことをいい人だと思う人もいるのですから、関係論において何か問題があると考えなければいけないのです。そうずれは、そこに何か方法があるであろう。それを考えてみよう。自分にも何か問題があるのかもしれない。このように考えていくときに、魂の発展の余地は出てくるのです。
このように考えずに、当初からそうだと思えば、もう救いがないのです。ただ、これを某団体のように、本来悪はないのだけれども、「本来悪なし」の一点張りで通せばどうかというと、やはりこれは厳しい面があります。現に地獄というものもありますし、悪霊というものがあるというのも事実です。これには目をつむることはできないのです。現実にないという人にも憑いていたりすることが多いのですから、しかたありません。こような存在がある以上は、あるものはあると現実的には認めて、これをなくすようにしなければいけないと思います。
光一元的な考え方も、存在論や状態論というもので善いものしかないというように考えたとき、やはり論理的にミスはあると私は考えます。本来はもちろんそのとおりだけれども、現実はどうかといえば、現実にはある。現実が悪いのは、悪人がいるのではなくて、めぐりあわせで、人間関係あるいは環境のなかで、そのようなひずみが出てきているのだと考えるからこそ、乗り越えていけると考えることができるわけです。私はこのあたりがやはり真理だと思っています。
【大川隆法『太陽のメッセージ』第2章「魂の世界とその真実」より抜粋】
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続きまして、教典『復活の法』の第3章より「天国に還る方法」を学びます。これは、1988年11月20日に上級セミナーとして、『永遠の法』講義として賜ったものです。経典をお持ちでない方はこの機会に是非ご拝受ください。【税抜1800円】
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■『復活の法』第3章「天国へ還る方法」―死後の行き先は生前の心境で決まる―
1死後は心境に応じた世界へ還る
〇『永遠の法』は、あの世のガイドブック
私の著書『永遠の法』(幸福の科学出版刊)は、四次元から九次元まで、そして、それ以上の世界という、この世を去った実在界の次元構造を説明したものですが、その内容には、奥が深くて言い尽くせない部分があります。また、『永遠の法』は、その題のとおり、ほんとうに永く遺る本になるだろうと思います。
その内容自体は、おそらく五百年たっても千年たっても古くはならないでしょう。あの世の世界について権威をもって語ることは、そう簡単にできることではないからです。後世、、各次元世界について、さらに細かい分析をした理論が出された場合には、多少、古く感じられるようになるかもしれませんが、それでも、『永遠の法』の中身そのものは古くならないでしょう。
ちょうど、月に雲がかかっても、雲の上には月が皓々(こうこう)と輝いているように、私が帰天したあとも、後世に遺っていく本の一つであると思います。
『永遠の法』の第1章は「四次元の世界」です。ここに述べられている内容がほんとうに分かっていれば、ほとんどの人は救われます。多くの人は、この四次元幽界、すなわち、あの世の最初の世界が理解できずにいるのです。
あの世の世界が分からない原因の一つに、「追体験ができない」という点があります。確かに、死後の世界について、いろいろと話を聞いたとしても、実際にどういう世界なのかが分からない部分はあるでしょう。
しかし、「誰もが必ず地上を去る」ということは確実であり、この事実だけは逃れようがないのです。
幸福の科学で勉強することによって、多少なりとも死後の世界に希望が持て、死に対する苦しみや悲しみが少なくなったならば、それだけでも良しとしなければならないと思います。
みなさんが死後にあの世で経験することを、すでにあの世で霊となっている人たちは経験済みなのです。その経験の内容を盛り込んである『永遠の法』を「あの世に持っていこう」と強く思えば、念の集合体として持っていくことができるので、あの世でよく読み、自分のいる所がどのあたりか推定してください。『永遠の法』には、将来、みなさんの行く世界が、すべて書いてあります。
「死後、どの世界へ行くか」ということは、その人の心境によって決まります。「自分は、いま、どのあたりの心境にあり、将来、どの世界に行く可能性があるのか」ということは、『永遠の法』に書かれている各段階の心境を知れば推定がつくのです。
【大川隆法『復活の法』幸福の科学出版 第3章「天国へ還る方法」より抜粋】
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本日の、『永遠の法』講義「天国へ還る方法」では、『永遠の法』は、あの世のガイドブックとい視点で学ぶことの大切さを教えていただきました。「人間は一体どこから来て、どこへ還るのか」という問いに、明確な答えを出すための尊い経典であることを再度認識しました。
「自分の今持っている心の心境に応じた霊的世界と私たちは常に同通しており、私たちが死後に還る世界も、自らの心の波長に応じた世界であること」
これを理解することができるならば、まさに『永遠の法』はあの世のガイドブックであると断言できます。しっかりと学んでまいりましょう。
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are One, with our Lord. 我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
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FAX:0596-31-1778
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文責:蒲原宏史
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(12/6-1)【基礎教学通信】340『太陽の法』を読む73「太陽のメッセージ」魂の世界とその真実2―「悟りの挑戦(下巻)」平等と公平の問題―【『復活の法』第三章「天国へ還る方法」】『永遠の法』はあの世のガイドブック
『太陽の法』
