(12/27-1)【基礎教学通信】361【12月27日】『太陽の法』を読む94「太陽のメッセージ2」新しき世紀へ獅子のごとく2―『悪魔の嫌うこと』悪魔はどのような存在か―「発展思考」すべての世界を光に満ちたものに変えていく「発展思考」とは

『太陽の法』

79 人生の目的と使命を発見せよ。あなたが今、生きている意味である。

【大川隆法 箴言集『人格への言葉』より抜粋】
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本日今年最後の七の日です。本年一年主よりたまわりました感謝と報恩の誓いを共に捧げさせていただきます。

さて、降魔成道記念日を迎えて、あらためて「悪魔」とは何かを、主の御教えから振り返ってまいります。本日は経典『悪魔の嫌うこと』より降魔についての学びを振り返ります。経典をお持ちでない方は、この機会に是非ご拝受ください。【税抜き1600円】

―本書には、エル・カンターレの説く、悪魔の嫌う三箇条が明らかにされている。精読の上、くり返しお読み頂きたい。その価値は無限で、国民全員に、そして、全世界の人々に読んでほしいと痛切に願っている。

大救世主降臨を知らずして、今、知るべきことはない。求めよ、さらば与えられん。真実の智慧を体得するがよい―「まえがき」より
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■『悪魔の嫌うこと』第3章「悪魔の正体の見破り方」
3 悪魔が狙ってくるポイント
〇「邪な心を持った権力者」は悪魔に狙われやすい

実は、頭のよう人にも悪魔は入りやすいのです。

そういう人は、この世で出世したり、権力を持ったりしやすいパターンになるので、悪魔としては「その人に入れば大きな力を持てる」とばかりに、もっと狙ってくるわけです。したがって、心によこしまな部分があれば、入ってこられることがあります。

キリスト教系の悪魔を描いた映画「オーメン」シリーズでは、主役にあたる悪魔の化身・ダミアンが、大きな財閥を乗っ取ってその長になるとともに、米国駐英大使になるなど、政界を駆け上っていこうとするところが出てきます。

そのように、この世的な権力を持とうとして、自分の勢力下、支配下を増やそうとするところもあるので、財界人や政界人だから善人だというわけではなく、そういった人にも悪魔は入れるのです。

たとえ、外に向けて、口ではいかに上手にPRしていても、実は欲があって、心の奥底で考えていることが違えば、そこに入っていくことはできます。

〇悪魔は、その人の「いちばん大事なもの」を狙ってくる
それから、もう一つ、悪魔の嫌なところは、その人の「いちばん大事なもの」を狙ってくること、担保に取ってくることが多いところです。それによって揺さぶりをかけてきます。

何に対して揺さぶりをかけるかというと、「信仰心」に揺さぶりをかけてくるわけです。

例えば、愛している子供が重病に罹(かか)りお祈りをしたにもかかわらず死んでしまう。そのような経験をしたことで、信仰心を捨ててしまうようなことがあるかもしれません。

また、真理企業として頑張っていたのに、突如、アメリカ発の不況の波が来て倒産してしまい、それで信仰心を捨ててしまうというような場合もあるでしょう。

あるいは、一生懸命にやっていたのに、夫婦の片方が死んでしまうとか、親子の間でいさかいが絶えないなどということが起きたりすることもあるわけです。

こうしたことを見ると、意外に、影響力の少ない人の場合はそうでもなく、力を持ってきたり、活躍し始めたり、活躍するポテンシャル、潜在的な力の強い人などのところに、悪は「惑わかし」でよく入ってくるのです。

しかも、その人個人ではなく、その人の近場にいて、本人に影響を直接与えられる人のところに入ってきます。要するに、「家庭のなかの弱いところ」に揺さぶりをかけることがあるのです。

例えば、非常に親孝行な人であれば、親のほうが狙われると、子供としては信仰心が揺れるでしょう。それは、きょうだいであってもそうだと思います。きょうだいのなかでも当然、デコボコはあるので、弱いほうを狙って揺さぶってきます。そうすると、熱心に信仰することによって、何だか家庭に不和が起きているように見えたりするわけです。

そのように、いろいろなことが起きます。

〇悪魔に取り憑かれたときに聞こえてくる「声」
それから、日本では年間二万人を超える自殺者が出ています。自殺者の全員が全員、悪魔に魅入られた人はそうとういるでしょう。

もちろん、人生の苦しみや悩み、挫折に行き当って自殺をするパターンは多いと思いますし、悪魔といっても、小悪魔や中程度の悪魔から大きいものまで、レベルはいろいろとあります。

ただ、私が今まで経験してきたことを統計的に見るかぎり、悪魔に取り憑かれたときに、向こうの霊力が強くて、こちらの主体的な判断、念力や意志などでは打ち返せない場合には、「殺してやる」とか「死ね」などいうような声が聞こえてくるというケースがあまりにも多いのです。

ほとんどのパターンがそうなのですが、理性的に考えてみれば、そんな声が、守護霊や天使の声であるはずがありません。

しかし、そういった声が聞こえる人は現実にいます。精神科のほうに行くと、そういう人はたくさんいて、病棟のなかに大勢”かくまって”いるはずです。また、刑務所に入っている人でも、おそらく、刑務所から一般社会に出ると、人を殺したくなる衝動が出てくることはあるのではないでしょうか。

そういうときには、内側から、「殺せ」という声が聞こえてくるのだろうと思います。「人を殺せ!」「あいつは悪いやつだ!」「絶対に殺せ!」というような声が聞こえてきて、連続して人を殺してしまうようなことも起きるわけです。

そうした場合、「魔が入った」などと言われますけれども、これは本当にそのとおりなのです。

凶悪犯罪を犯すような人の場合と、人を殺したりする人の場合と、それ以外に、「死ね!」というかたちで声が聞こえてきて自分を殺す人の場合、つまり自殺の場合には、やはり、かなり凶悪なものに取り憑かれているケースが多く、これを取り払うのは、そう簡単なことではありません。

〇悪魔が「家族」のところに入りやすい理由
悪魔に取り憑かれて場合、心のなかに、そういったものを引き寄せる何かがあることは事実ではあるのですが、それだけではなく、やはり、何らかの間接的な目的があることも多いのです。

先ほども述べたように、そういう人が出ることによって、ほかの人たちが正当な活動をできなくなるような、何らかの「揺さぶり」を狙っていることが多くあり、そこが怖い所なのです。

夫婦であれば、例えば、奥さんが幸福の科学の女性部で活躍していたり、支部長をしていたりすると、旦那さんのほうに入ることがありますので、気をつけないといけません。

最初は、「愛情」や「ささやかなる独占欲」から入るのですが、次には「嫉妬心」というものが芽生えてきて、足を引っ張りたくなる気持ちが出てきます。そういうときに悪魔が入ってき始めて、家のなかで足を引っ張るわけです。

肉身というのも、本当は愛情に基づいてできているものなのですが、信仰の世界に入れてしまうと、必ずしもうまくいかない場合もあります。というのも、外に入る人のほうが、正当に評価してくれる場合があるからです。

例えば、奥さんでも旦那さんでも結構ですが、どちらかが支部長をしていて、悪霊撃退の祈願などを支部で行なっているといます。

その場合、家庭はたいてい、「うちのお母さんの祈願なんか効くわけがない」などと感じるものなのです。「もう、お金の無駄だ。そんなものは効くわけがない。悪魔がいなくなるわけがない」と思っているのは家族のほうで、外の人はそうでもありません。

「あの支部長は、普通の人に比べてかなり立派な方だから、そうとう効き目がある」と思っているのは外の人で、家族は、「周りの人は騙されているのではないか」と思うものなので、意外に家族のところというのは入りやすいのです。そして、それで揺さぶられると、活動がしにくくなってくるようなことが起きるわけです。

女性部長などでも、同じようなことは結構起きると思いますし、あるいは、男性が地区長をしていても、同じようなことは起きると思います。

「目に見えない世界」のことをまったく無視して、「この世的なもの」だけを見ると、やはり、人間の持っている時間は有限ですし、できることも限られているし、お金にも限りがあります。そのため、宗教的なことというのは、この世の常識や理性に照らして見ると、おかしく見えるようなことがたくさんあるわけです。

【大川隆法『悪魔の嫌うこと』第3章「悪魔の正体の見破り方」より抜粋】
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さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。

今日も経典『太陽のメッセージ』を引用しながら、幸福の科学の基本書である『太陽の法』の大切さを共に学びます。本書は1998年の年末に『太陽の法』の講義としていただいたものです。【現在は絶版となっています】
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■『太陽のメッセージ』Part2
第3章「新しき世紀へ獅子のごとく」
8 心に執着なく、日々湯上りの気分で生きる

いままでは、どちらかといえば反省的な内容でありましたが、ほんとうとは単なる反省だけでは足りません。さらに、ここでは「熱鉄のごとく赤く燃えなければ生きている意味がない。」ということを述べていきたいと思います。

まず、執着を断つことの意味を探ってみましょう。『太陽の法』においては、「執着を断つことは、人生における一大決意だといえます。つまり、永遠の人生において、幸福を保証する英断であります。しかし、このことは、人生を消極的に生きよ。後ろ向きに生きよという意味では、決してありません。執着を断つからこそ、積極果敢な人生がひらけてくるのです。」と説明しております。

現に、いろいろな執着のある人を見ていますと、なんとこの行動力の弱いことでしょうか。判断力の弱いことと言ったらありません。そしてぐちぐちといつまでも同じ問題にこだわっている人が多いのです。立場のある人ほど、ああでもない、こうでもないと、動かないのです。いな、動けないのです。かわいそうです。

だいじなことは、心に執着がなく、いつでもさっぱりと湯上りのよう気分で日々を生きられることです。ほんとうの反省ができた後には、湯上りの気分といいますけれど、あのような感じなのです。垢が落ちて、ツルっとして気分がいい、あの軽い感じなのです。これがないといけません。

これも反省の方法の一つのテーマになりますが、反省して自分をいじめるタイプというものがあります。よくあるケースではありますが、けっきょくそのような人の場合には、こうした湯上りの気分が出ないのです。湯上りの反対に、冷蔵庫に入ったような感じになったり、あるいは泥水の中に入ったとか、冷水の中に入ったように、全然サッパリしない気分です。それではいけないということです。本当に反省ができると、顔に赤みがさしてくるのです。


これは一つのチェック・ポイントになると思います。いろいろな悩みのある方が、真に反省できたときにどうなるかといいますと、まず顔に赤みがさしてきます。これは一つの事実としてあります。執着の多い人ほど、苦しみもまた深いということなのです。

9 心の原点回帰
私は、みなさん方に常に「人間は、心です。魂です。ですから、死んであの世に持って還れるのものは、あなたがた自身の心以外にはないのです。心がすべてなのです。心しかもって還れないならば、せめて美しい心をもって還るしかないでしょう。」と問いかけているのです。

では、美しい心とはどのようなものでしょうか。神様がほめてくださるような心といってもよいでしょう。それは愛に満ちた心であり、与える心、生かす心、許す心、感謝する心です。このような心をもって還れるように、磨き、高めることがだいじなのです。そのことのために、熱鉄のごとく赤く燃え上がるということが必要なのであるということです。

これもまた一つの原点です。人生の原点の一つです。反省の原点ともいえましょう。考えてみればけっきょく、自分であっても、今日死ぬやら、明日死ぬやら、わからない生命だけれど、もって還れるのは心しかないのだというのは、これは一つの悟りの言葉です。このことはしっかりつかんでおいてください。

実際に考えてみれば、もって還れるのは心しかないのです。そうしたときに、一体になにをどうしなければいけないか、ということを考えることが大切なのです。いろいろな事件はあるでしょう。いろいろな環境のなかでの試練もあるでしょう。けれども、けっきょく、もって還れるのは心しかないのだから、これが傷ついたら終わりです。心が曇れば終わりなのです。どんなことがあっても、心だけは透明感をもって純粋のままにもって還らなければならないのです。たとえどんな事件があったとしても、家庭のなかでどのようなトラブルがあっても、職場でいろいろなことが起きても、あるいは子供が病気になろうが、あるいは肉親が死のうが、結婚しようが離婚しようが、あるいは経済的苦境が来ようが来まいが、仕事上で大失敗を・


�ようがしまいが、大栄進しようが、もって還れるのはやはり、心しかないのです。

このことはいつもいつも、原点回帰をしてつかんでおかなければならないことなのです。自分がこの世的に成功していると思ったとき、失敗していると思ったとき、この両方です。このときにこそ、心しかないという原点を忘れてはなりません。これしかもって還れないとわかったときに、はたして、自分は心がよくなっているか、向上しているか、十年前のジ分と比べてどうか、五年前と比べてどうか、考えてみることです。

たとえこの世的に収入が増えたとしても、地位が高くなったとしても、有名になって、いたとしても、一年前の自分と現在の心境を比べて、心境が落ちていれば、そんなものは何の意味もないのです。それを、私は声を大にして申し上げたいのです。まったくナンセンスです。これは会社の経営で言えば、赤字を出しているのといっしょなのです。みなさんも赤字の商売はしたくないでしょう。心の経営においても、赤字、黒字がやはりあるのです。いつもいつもプラスになって、よくなっていく場合は黒字経営です。ところが、一年前と比べて悪くなっている、五年前、十年前と比べて悪くなっている。かつての国鉄と同じで赤字経営では、いつまでもやっていけないのです。

これは簡単なことなのですが、これしか持って還れないのだぞ、と常に原点に戻す必要があります。特に財産家の方などは気をつけてください。土地や建物ばかりを一生懸命ににぎっているようであれば、危ないのです。歳をとってもまだそうであるならば、ほんとに危ないと思ってください。地縛霊になりかねません。

成功者ほど、肩書き、財産、いろいろなものをもっているものですから、鎖が離れないのです。たくさん重しがついているのです。こうしたものを振り払って、さっぱりとしたほうがいいのです。ですから、家なども小さいほうがよいのです。子供に財産なども、やはり残さないほうがよいのです。ろくなことがないのです。

(※)子供時代に親をなくされた方に対して、親が死んでくれて有難いということもある、ということを言っておられるのです。いろいろなものを残されると、かえって自由に動けないこともあるのです。したがって、何もないほうが楽な場合もあるのです。空手で、ゆかた一枚で歩ける自分というのは楽です。それは、何をやってもプラスになっていくしかないのですから、現にあるものをどう減らさないようするかとか、どう持ち続けていくかとかを考えはじめれば、これは苦しいことです。

10 中道からの発展
さて、次に、「この世の執着を去って、心を裸にして、神の子として生きてゆくことを誓ったとき、私たちは、いったい何をなせばよいのでしょうか。」ということを語ってみたいと思います。実際、なすべきことは何なのでしょうか。それは滝に打たれたり、山にこもったり、断食をしたりすることでしょうか。いや、そうではありません。私はここに「中道の生活」ということをあげたいと思います。これは本章以外にもいろいろと出ています。なかなか、この中道も難しいところもあります。この意味がわからなくて、私も昔考えたときには右左の両極端を去るというけれど、なんとなく自分が自分ではなくなるような気がしたものです。あれもだめ、これもだめで極端なものを全部切っていったら羽のない鳥のようです。しかし、・
・っきょく、このようなことではないでしょうか。

「中道からの発展」という言葉を出していますが、自転車を想像されてみればよいと思います。自転車というものは、ハンドルを右に切りあるいは左に切ったままでは進まないのです。時どき、方向転換のためにはハンドルを切ることが必要ですが、前へ進んでいくためには、まっすぐに走らなければならないのです。また、重心もいっしょです。バランスをとってまっすぐに進まなければ、自転車も前へ進まないのです。中道の思想というのは、この自転車のハンドルのようなものであると思えばよいのです。ハンドルをふらふらと曲げてしまえば進むことができないのです。また、体重を傾けて、重心が狂っても前に進まないのです。

「中道からの発展」の意味がわからなければ、自転車がバランスをとって、真っすぐ走ればスピードが出るけれども、ハンドルを曲げていれば思うように進まない、ということを考えてください。やはり、ハンドルはまっすぐに向いている方が、一番スピードが出るものなのです。いまのところは比喩としてしか、上手に説明ができませんが、自転車のようなものと思ってくださってけっこうです。ほんとうに自然体で、ハンドルが曲がっていない状態のときこそ、いちばん早く、かつ安定して進んでいくことができるのだということなのです。それは何かといいますと、心においても、いちばん収穫が多く、心の黒字経営ができるときがいつかといえば、この中道のときなのです。両極端を去ってバランスいいところで、ずっと進んでい・
・たときに、いちばん心が黒字体質にあるのです。

ところが、人間はこの部分はいけると思って少し曲がった方でいく。すると物事は何でも功罪両方の面があります。プラスもできるけれどもマイナスもできる。このようなところを通っていきます。だいぶ儲けが出たなと思ったけれど赤字もけっこう出ているのです。トータルでプラスマイナスをみればそれほど利益は出ていないのです。しかし、この中道の経営をしますと、いちばん”心の利益”が出ます。どんどん利益を出していけるのです。自転車操業ではなくて、まさしく王道経営ができるわけです。

11 自己チェックと中道
ですから、これは比喩と思ってください。心が傾いてバランスが崩れていると、本当の意味での発展はないのです。もちろん大きくしていくことはできるが、赤字も増えるということです。トータルで見ればロスも大きく、やはり中道の経営に入ったほうが黒字経営ができる、ということが大切なのです。

このように説明いたしますと、だいたい感じとしておわかりいただけると思います。けっきょくどういうことかと申しますと、基本的に自分が素直に生きていない部分、自然体で生きていない部分をチェックすればよいということです。「俺は突っ張り人生だ。これで成功したから、これからも突っ張って生きていくんだ」というやり方で、たしかに知名度が上がることもあります。お金儲けができることもあるでしょう。それは、この世的にはある程度の成功かもしれません。ただ、このような突っ張り人生で行ったときには完全に、バランスが崩れているのです。心の経営で見れば、やはり赤字がだいぶ入っているわけです。

あるいは逆もあります。これは、委縮した人生でもそうです。まったく、自分が駄目な人間であるとして生きているような人です。自分は謙虚であるけれども、あまりやる気はなくて、何もしなければ罪をつくることはない、蚊一匹、殺したこともないので、それでよいなどと言って生きている人、これもけっきょくにおいては、だめなのです。それはそうです。別にご飯を三杯食べずに、二杯食べることを中道とするというような、量的なことで言っているわけではないのです。

先述したことを生かすとすれば、素直な自分で生きるということが、けっきょく、中道であるということなのです。これはすなわち、どこか肩に力が入っていませんか、ということなのです。自分の今の生き方をよしとしているけれども、その生き方にどこか無理がありませんか、ということを問いかけているのです。ですから、神様の前でもう少し素直になってみてごらんなさい。右肩に力が入っていないか、右足や左足に入っていないか、腰に入っていないか、頭に血が昇りすぎていないか、これらのことをよく考えてみなさいということをいっているのです。

素直にとは、人前であるといい格好をするということはわかっているから、人の前だと思わずに、神様の前、あるいは大仏様のまえに自分がいると思って、どこか変なところに力が入っていないか、突っ張ったり、無理をしたり、していないか、よい格好をして虚栄心があるのではないか、あるいは自己卑下的なところがないかどうかを考えてみればよい、このようなことを思いなさいと言っているのです。

ですから神の前で素直な自分にもどること、妙なところに力を入れないこと、力みすぎたり、あるいは、いじけすぎたりしないこと、これが中道です。このスタイルこそが無限に発展できるスタイルであることは、みなさんにもおわかりになるはずです。こうした意味で、中道はひじょうに奥の深い道であると思います。

中道の哲学についてはまたセミナー等で、くわしく話をしてみたいと思っています。しかし、今この段階においては、この中道に入るためには、二本の物差しが必要だということができます。一本は、八正道を中心とした自己反省の物差しであり、もう一本は、愛の発展段階説を基軸とした自己観照の物差しです。この二本の物差しを『太陽の法』によって与えられたわけでありますから、とりあえず、これが、中道に入っているかどうかのチェック基準になるであろうということです。そして、この二本の物差しで、常づね自己チェックをすればよいということなのです。

12 「反省、感謝、与える愛」の循環
さて、ここで大切なことは、正しさの探究ということから出発して、それを通して反省してゆき、やがてはそれが感謝行につながるということです。これがだいじなことなのです。この感謝行、これをまた幸福の科学の一つの教えとして、「反省からの発展」といっておりますが、発展の一部と思っていただけばよいわけです。感謝行ということは、単なる反省だけではだめであると言っているのです。

「ああ、反省しました。私が悪うございました。はい、さようなら。」と、これではだめなのであって、反省したのち、それではいったいどうなのだということが問われているのです。これがひじょうにだいじなのです。悪かったところを見つけ、その点をどうするか、ということができていなければ、ほんとうの反省とはいえないのです。反省のなかには、おのずと修正、あるいは改善を含んでいるのです。そこまで含んでいなければならないのです。単に事実確認だけでは反省とは言わないのです。

失敗をしたと思ったときに、その悪かったところをどのようにすればよいのか、この修正・改善点、ここまで発見しなければ、反省が終わったことにはなりません。この修正・改善点、ここまで発見しなければ、反省が終わったことにはなりません。この修正・改善点を見出して、これがどうなるのかと言えば、行為、行動になってくるわけなのです。その行動には、当然ながら感謝行も含まれるということです。

ここでは、感謝行とは、もっと積極的なものであるということをとりあげてみたいと思います。ここでは、感謝行から、やはり愛の考え方が出てきています。このあたりをよく見てみますと、「反省、感謝、与える愛」という、このような循環もまたひとつ見えてくるわけです。これも大切な考え方の一つであると思います。

真に与えるためには、その前にやはり感謝が必要となるのです。感謝がなぜ必要か、あるいは感謝を前提とするということは、まず自分が与えられているという認識が先行しているからです。与えられているということを認識するからこそ、感謝ができるのです。感謝ができると、お返しがしたくなる。それが与える愛につながっていくわけです。

そして、与えられていることを、どのように発見するのかということかということが大切なこととなっていくのです。これが反省ということなのです。反省によって与えられているものを発見し、それが感謝となり、その感謝がまた与えられる行為、与える愛となっていくわけです。この循環を忘れてはいけないのです。

ですから、私たちの教えを聞いて、「与える愛というけれども、いったい何をすればよいのかさっぱりわからない、私は何もすることはない。」と言われる人は、この前の段階をチェックしていただきたいのです。おそらくまず感謝がないはずです。なぜ感謝がないのかと申しますと、与えられていることに気づいていないからです。なぜ気づかないかといえば、反省したことがないからです。

ですから、このような「反省、感謝、与える愛」という循環がちゃんと現にあるということを知らなければいけないのです。そして、よく自己を知る人こそ、人のために尽くすことができるのです。自分を知らない人は、けっきょくにおいて、人に尽くすこともできないのです。自分をよく知ることにおいてはじめて世界を知り、また人のために生きることができるのです。

このあたりが幸福の科学のひとつの立脚点になっているのです。自己確立から、愛他行、利他行へという道です。これは自己を本当に知らなければ、ほんとうの意味での感謝が生まれてこないのです。

この感謝ということを表面だけで行なっているのであれば、偽物になってしまいます。このようなことわすることはよいことだからするとか、あるいはチャリティー募金をすることはよいことだからするとか、これをすると天国にいけるからするというような気持ちだけで行なっているのであるならばいったいどうなるかと申しますと、ルターの宗教改革の対象のようになってしまうのです。

【大川隆法『太陽のメッセージ』part2 第3章「新しき世紀へ獅子のごとく」より抜粋】
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続きまして、経典『幸福の科学の十大原理(上)』の第一章「幸福の原理」より、学び深めます。
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②「現代の四正道」第二の原理「知」―正しい仏法真理の知識を持つ
第二が、先ほどから言っている「知」であります。「知識」「正しい仏法真理の知識」を持ってほしいのです。これを持っていなければ、本当の意味で人間は自由自在にはなれないのです。私は、今、非常に精神的に開放感があります。それは、いろいろなことを知っているという自負があるからです。

例えば、海外からキリスト教の先生が来ることがあります。そして、「キリスト教に改宗しなければ救われない」と言います。あるいは、「仏壇を捨てなさい。仏壇を持っているようでは、あなたは天国に入れません」と言います。その人は、一生懸命、キリスト教の伝道をしているのです。心もきれいな方でしょう。

ただ、知らないのです。「仏壇を捨てなければ天国に入れない」「仏教は異教だから」と思っているわけです。そして、仏壇を捨てて、クリスチャンに改宗したら、「ああ、よかった、万歳。あなたは天国へ行ける」と言っているのです。

これを、あの世の高級霊から見たら、「ああ、しまった」という感じです。イエスは、もう二千年間、恥ずかしくて恥ずかしくてしかたがないのです。

クリスチャンたちは、この第一点かが分からず、仏法真理というものを知らないために、「キリスト教以外では救われない」と思っています。これはイエスを思うことしきりなのですが、イエスは、他の諸霊に対して恐縮しているわけです。「仏教の中にも真理はある。神道のなかにも真理はある。それを私は説かなかったから、彼らはああいうことを言っている」と。悲しいことです。

ですから、正しい仏法真理の知識を持ってほしいのです。これが「真理は汝を自由にせん」ということです。

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続きまして、経典『幸福の科学の十大原理(上)』の第一章「幸福の原理」より、学び深めます。
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③「現代の四正道」第三の原理「反省」―自分の誤ったところに気づき、それを正す

第三は「反省」であります。これは「正しき心の探究」とも関係がありますが、人間というのは、もともと神仏の子であり、光り輝いているものです。

ところが、この世的に生きているうちに錆びついてくるのです。塵や垢がどうしてもついてくるのです。ダイヤモンドであっても、転がしておけば、ゴミが付いてくるでしょう。これは、やはり磨かざるをえないのです。これを磨くのが自分の修業なのです。

「他力の教え」には、また、他力の教えとして大事なところはあるでしょう。しかし、
「自分で磨けるダイヤモンドは自分で磨きなさい。専門職で来て磨いてくれるところもありますが、それを待たずして、自分で磨けるダイヤモンドは自分で磨きなさい。そうでなければ、いったい何のための修業をやっているのですか。何のために個性があるのですか」ということです。「個性がある」ということは、「自分というものを大切に育んでいきなさい」という意味なのです。

自分で自分の誤ったところに気がついたら、それを正さずして、いったい誰が正してくれるのでしょうか。他人が来て磨いてくれるのでしょうか。自分の顔の表面であれば、他人が来て、磨いてくれたら、きれいになるかもしれません。しかし、心のほうは、そうはいかないのです。自分がやらなければ、きれいになりません。

この「反省」ということは、「自力」の意味ですが、これは大事です。まず、ここから入っていってください。垢を落とさずして、いくらメッキをしても剥げるのです。

「光一元」の思想は真理です。だた、それは、ストレートな「如来の教え」です。この世において、如来の人はいないのです。如来の悟りを得てはいないのです。如来のまえに段階に来て、一跳躍入如来地はよいでしょう。ただ、そこまで行っている人はいないのです。

反省の教えというのは、まず「阿羅漢(あらかん)」に至るための教えなのです。阿羅漢というのは、六次元上段階の境地です。光の天使の予備軍であり、菩薩になる前の登竜門です。菩薩になるためには、その前に、「反省行」という道を通らずしてはなれないのです。阿羅漢の境地に至るためには、自らの心の塵や垢を落として、後光が射してくるようにならなければなりません。そうでなければ「阿羅漢」とは言えないのです。・・・

だから、まず阿羅漢の境地を目指していただきたいのです。この段階は、みなさん、全員可能なのです。過去の転生輪廻でいろいろなカルマはあるでしょうし、修行もあると思いますが、阿羅漢の境地までは、今世において誰でも到達できるのです。ここからあとは難しいですが、阿羅漢までは行けるのです。そうした、頭から後光が出る段階までは、誰でも修行すれば来れるのです。そのために、反省というもがあるのです。

まず、私は、阿羅漢を千人ぐらいつくりたたいのです。「千人の阿羅漢」をつくりたいのです。阿羅漢が千人出たら、日本は変わっていきます。そうした方々が政治家になり、教育課になり、あるいは、職場において改革をしていき、管理職になり、いろいろなことをしていくと、その周りは変わっていくでしょう。一人の阿羅漢がいれば、五十人、百人の人を変えていけます。そうであれば、千人の阿羅漢がいたら、十万人ぐらいのひとが、まただんだん変わっていくはずです。そのようにして、仏法真理はひろがっていくものなのです。

【大川隆法『幸福の科学の十大原理(上)』の第一章「幸福の原理」より抜粋】
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are One, with our Lord.  我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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文責:蒲原宏史 

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