100 この地球上のどこかに、あなたの志を継ぐ者が必ずいる。後継者への言葉を遺せ。
【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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さて、降魔成道記念日を迎えて、あらためて「悪魔」とは何かを、主の御教えから振り返ってまいります。本日は経典『悪魔の嫌うこと』より降魔についての学びを振り返ります。経典をお持ちでない方は、この機会に是非ご拝受ください。【税抜き1600円】
―本書には、エル・カンターレの説く、悪魔の嫌う三箇条が明らかにされている。精読の上、くり返しお読み頂きたい。その価値は無限で、国民全員に、そして、全世界の人々に読んでほしいと痛切に願っている。
大救世主降臨を知らずして、今、知るべきことはない。求めよ、さらば与えられん。真実の智慧を体得するがよい―「まえがき」より
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■『悪魔の嫌うこと』第3章「悪魔の正体の見破り方」
2 悪魔はどのような存在か
〇悪魔は、難所・急所を「ここぞとばかりに狙ってくる」
みなさんは、直接、悪魔と出会ったり、話をしたりしたことはあまりないかと思います。幸福の科学の信者であれば、公開霊言の映像等で、悪魔を呼び出して話をする処をご覧になったことはあるかもしれませんが、実にショッキングな存在です。
私は、三十数年前に大悟したことになっていますが、この大悟ということに関して、仏教においては、学者がみな首をかしげて不思議がることがあります。それは、釈尊の「降魔成道」についてです。
釈尊は出家後、三十五歳のときに菩提樹の大木の下で魔を下し、大悟したはずなのに、仏伝を読むと、その後も人生のいたるところに悪魔が現われてくるシーンがあります。すなわち、「釈尊は降魔をして悟りを開いたはずなのに、なぜ、一生の間、悪魔がつきまとっているのか」という疑問があるわけです。
例えば、釈迦入滅の三か月前にも、マーラ・パーピーヤスという悪魔が出てきます。そのとき、釈尊は「私は三か月後に涅槃に入るが、今はまだ、おまえの言うようなときではない」ということで、その悪魔を追い払うのですが、そのように、一生の間、狙われていたことが明らかに出ているのです。これが、仏教学者にはよく分からないところなのです。
ただ、私には実によく分かります。
教団として伝道の活動をしていると、折々に、やはり、難所・急所にあたるようなところがあります。(悪魔からすれば)「このポイントで、この時期で、この場所で、こういうタイミングで攻撃をかけると、活動を止めることができるかもしれない」、あるいは、「崩せるかもしれない」というようなところがあるのです。
そうしたとき、悪魔は、”ここぞ”とばかりに狙ってくるわけです。
ただ、それは、ある意味で「鯉の滝登り」のようなところがあります。滝にぶつかったときに、そこを登るのは大変なことではありますが、その難所を乗り越えると、もう一段高いところに上がることができ、見晴らしのきく場所へと出られるのです。
伝道等の活動にも、そうした滝のようなところを登らなければいけない局面が、何ヵ所か出てきます。その折々に、悪魔という存在が、姿形を変えて出現してくることがあるわけです。
したがって、悪魔は、「完全な敵対者としてある」というよりも、ある意味においては、「”危険地帯”に入ったことを教えてくれるような存在でもある」と言えるでしょう。あるいは、「このままでは駄目だ」「何らかのイノベーションが必要である」ということを教えてくれている場合もあります。何かを変えなければいけないとき、すなわち、考え方、組織、行動の仕方等を変える必要があるようなときに出てきて、組織に対する揺さぶりをしばしばかけてきます。
これは、一九八六年に教団を立ち上げたときから繰り返し起きていることですが、今では、簡単なことでは、それほどたやすく崩れたりしないところまで教団が強くなってきてはいます。
大きな目で見れば、そのようなことが言えるでしょう。
〇悪魔は、人間の持つ「欲望」を体現している
しかし、ここに見れば、誰か個人を狙って入ってくるので、それ自体は、やはり、悪質といえば悪質で、嫌なものです。そういうときに、人間の持っている嫌なものが一気に出てくるようなところはあります。
では、悪魔は、人間の持っているどんな性質を体現しているのでしょうか。
そこには、まず、「欲望」というものが必ず存在しています。ただ、その欲望は、自分が思っているものとは違うものが必ず存在しています。ただ、その欲望は、自分が思っているものとは違う場合があります。ほかの人の目にはそのように見えていても、本人は違うように解釈していることがよくあるのです。
例えば、「企業を大きくする」ということであっても、本当に世の中のためになる仕事をして大きくなっていく場合もあれば、社会的な一種の権力として、地位欲、名誉欲等を増大させ、自我我欲を肥大化させるかたちでの拡大もあります。それを本人が主観的にどう思っているかは、個々別々によって違う場合があるのですが、ほかの人から見ると感じるものはあるわけです。
そのように、「今、自分が天国的な道を歩んでいるか、地獄的な道を歩んでいるか」ということについては、必ずしも分からないところがありますが、いずれにしても、欲望は必ず存在しています。
〇悪魔かどうかは「頭の良し悪し」だけでは決められない
それから、勘違いしやすいこととして、現代は高学歴社会であるため、「天使などの神様に近い人ほど頭がよく、下のほうの階層の人は頭が悪く、地獄へ行っている人はもっと頭が悪いのだろう」と思いがちかもしれませんが、そうとも言えない面があります。
天使には頭の良い方が数多くいらっしゃいますが、悪魔もそれなりに頭がよいのです。それは、一種の”狡猾(こうかつ)さ”も含めた頭の良さです。
例えば、暴力団を率いているような人も、交渉術のようなことをさせれば、ある意味で頭はよいのではないでしょうか、そういうものに、普通の善人が、まんまとやられてしまうようなこともあるはずです。詐欺的な商法に引っ掛けたり、いわゆる「振り込め詐欺」を行なったりと、いろいろな嘘偽り等で相手を騙し、金品を巻き上げたり、罠にはめたりできるのは、この世的に見れば、ある意味で頭のよいことであるでしょう。
ヤクザの論理と嚙合わせると、必ずどこかで引っ掛けてきて、言葉尻に引っ掛けてからんでくるようなやり方をします。そういう意味で、ディベート、議論において、ものすごく賢いところがあり、必ずどこかに引っ掛けてくるのです。これは”悪魔の手口”とよく似たところがあります。
そういったかたちでの引っ掛けをしてくるとするならば、例えば、宗教的な活動でも、そのなかのどこかを引っ掛けて邪魔するのは、簡単にできることではあります。
したがって、頭のよし悪しでは、必ずしも決めかねるものがあるわけです。
【大川隆法『悪魔の嫌うこと』第3章「悪魔の正体の見破り方」より抜粋】
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さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。
今日も経典『太陽のメッセージ』を引用しながら、幸福の科学の基本書である『太陽の法』の大切さを共に学びます。本書は1998年の年末に『太陽の法』の講義としていただいたものです。【現在は絶版となっています】
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■『太陽のメッセージ』Part2
第3章「新しき世紀へ獅子のごとく」
7 偽物の自分との対決
①他人から愛を奪い取る自分
それでは、この自分を小さくする偽物の自分というものを、いくつかあげてみましょう。まず「他人から愛を奪い取る自分」というものがあります。これにあたる人はかなり多いのではないでしょうか。よく考えてみてください。このようなことは、教えられなくては意外に分からないのです。
「他人から愛を奪い取る自分」、これを偽物の自分といわれて、びっくりされないでしょうか。これこそが人生の目的だと思っていたのではないでしょうか。これがために生きていたのだと思ってはいませんか。幸福の科学の会員ともなればそれほどでもないでしょうが、一般の人はこのようなことをいわれると、びっくりするのが普通です。「他人から愛を奪い取る自分」、これを偽物と言われればいったい本物はどこにいるのだろうかと心配してしまいます。
より多くの愛を奪い取れる自分、これが欲しくていい学校も行くし、いい会社にも行くし、いい奥さんももらいたいし、いい子供も欲しいし、いろいろありますが、けっきょく、愛を奪いたいから、もっと愛がほしいからこのようになっているのだと思うのです。
しかし、ここで待てよと思ってみると、意外な発見があるのです。それは私たちが生きている真の世界の発見であります。私たちは実際どのような世界に生きているのだろうかというと、第一巻の「スズメと太郎」の話で説明いたしましたが、実は与えられっぱなしの世界のなかで私たちは生きているのです。
考えてみれば私たちは実にいろいろものを与えられています。まことに不思議な感を覚えるかもしれませんが、すべて与えられているのです。よくよく考えてみれば、一番大切なものは、すでにただで与えられているのです。
ただで与えられないものは、それは人間がせかせかとしてつくったものであり、売り買いしているものなのです。ところがいちばん本質的な部分、水とか、空気とか、太陽の熱とか、このようなものは全部ただなのです。これは不思議です。与えられているのです。そうしたものがあればこそ、動・植物も存在し、人間も基本的には生きていけるようになっているのです。そんなに贅沢さえ言わなければ、ほんとうは死にはしないのです。
ところが人間は、そういうなかで自分たちでいろいろな価値観を築き、文化をつくって枠をはめ、そのなかでルールをきめて、こうでなければ生きていけないというものをたくさんこしらえてきているのです。もう一度これを原点に戻してみる必要があるのではないでしょうか。
このような与えきり、すべて与えられている世界にいながら、いったい何を欲しがっているのでしょうか。それでもまだ、もっともっと欲しいと言っているのが人間なのです。お金持ちであっても、まだまだお金が欲しいと言っているのです。感覚が麻痺してくるのでしょうか。そしてますます自分の肩書きや地位がついてくると、だんだんと、もらうことのほうが当然だと思いがちになってきて、次第しだいにそれが、まったく当然のことと思うようになってくるのです。
昔から、地位・名誉をいけないものの代表のように、言いましたが、これは地位・名誉そのものが悪いわけではなくて、高いところに登ってしまうと与えられているということが分からなくなるということが、その理由となっているわけです。実際、大名仕事をやっている人などを見ると、自分がどれだけ与えられているか、感謝が足らないかということが、わからなくなっているケースが多いのです。それで、よく地位や名誉が否定されることになるわけです。
しかし、高い地位についている方が悟っていれば、それだけ大きな影響力があるわけでありますから、ほんとうはそれ自体は悪いことではないのです。ところが、だいたい人は高く登れば登るほど、与えられていればいるほど、不思議なことに、もっともっと奪いたくなり、そこに「足ることを知らない心」が生まれてくるのです。しかも、本人はそれが地獄的な心であることにすら気づかずに自らの人生を終わっていくのです。ここに悲劇が生まれるのです。
②神を信じない自分
偽物の自分としての二番目には、「神を信じない自分」というものがあります。もっとも憐れむべきなのは神を信じず、神がつくられた世界を信じていない人たちです。そして人間とは男女の性的結合の結果、偶然に生まれて、一人一人がばらばらの個人として生きているのだと思っている人たちなのです。ここに最も憐れむべき偽物の自分があるのです。「証明のできない神など信じられない。信じろというならば、証拠を出せ。」という人はもうすでに神を裁いていて、神を裁けるほど自分が偉いと思い上がっているのです。
人間は地球の誕生以前からいらっしゃる神の存在を証明することはできません。できるとするならばそれは、やはり一つの思い上がりにすぎないのです。悠久の昔からある神の存在、この地球の歴史そのものでも四十五億年以上あるのです。私たちの人生はわずか七、八十年です。この一億倍に近い時間のなかを、この地球は生きていて、そのなかでいろいろな生命を育んできているのです。この地球を四十五億年間生かしてきた神の御心が、私たちに、はたしてわかるのか、と考えたときに、これを分かると断定するのは、かなり傲慢な考えであるといえるでしょう。
ですから、人間というものは次第に地位が上がって、そして自分が得意になってくると、至文が認めたくないもの、自分が納得のいかないもの、証明できないもの、このようなものは値打ちがない、意味がないと思いがちなのです。偉い人ほどそうなっていきます。私が見ていると、偽物の自分というものが仮面のようになっていて、それがガチガチにくっついていてもう取れないのです。自分の立場、たとえば大臣だから、博士だから、あるいは会社の社長、重役だからという仮面を通してしか判断できなくなってしまい、自分はこういう考えをする、判断するということを変えることができないようになってくるのです。これは、非常に恐ろしいことなのです。
③精進しない自分
偽物の自分の三番目は、「精進しない自分」です。これはほとんどの方が思いあたるのではないでしょうか。これを、さらに細かく分けるとすれば、第一は怠け心がある自分。第二に真理を学ぼうとしない自分。第三は他人を公平に見ない自分。第四に素直でない自分、このようなものがあげられます。ここまで言われて、あたっていないという人はめずらしいのではないでしょうか。
怠け心、これは誰にでも、みなあります。私にも、まったくないとは言えないので、あるものはあると言わざるをえません。ですから、これは出さざるをえないものなので、そのつど点検をするしかないわけです。怠け心が出て、いけないと思えばそこで頑張ることです。時どき自分に対して意識的に引き締めをしないとだめです。そうしないと、いつの間にかだらだらとした人生になっていきます。
生活にいろいろな刺激と張り合いがなくなってきて、惰性で生きてゆくようになってしまうので、このようなときには、もう一回締め直しが必要です。その締め直しとは何かといいますと、やはり自分になりに目標をつくってみることです。あまり、先の長いことでなくてもよいのですから、少なくとも、三か月、六か月、一年くらい先の目標を一回立ててみることです。自分の生活が惰性になってきて、怠けてきたなと思ったときに、それなりの目標を立ててみること、これが大切です。
私もこの、人間が怠ける習慣があることを自己観察によって、よく知っているので、なるべくみなさんにはいろいろな目標を設けていただけるようにしているのです。それでいろいろな課題を与えたり、目標を与えたりしているわけです。人間は甘いもので、そうしていないとどうしても怠けていくのです。
二番目は「真理を学ぼうとしない自分」、これも同じような意味がありますが、学ぶというだけであっても、全然違うことを学んでいる人はたくさんいるからなのです。私はそれを見るにつけ、ひじょうに気の毒になることが多いのです。知識の世界においても、第一巻のほうでも少し触れましたが、学者の論文などを見ていますと、方法論だけに終始しているものが多いのです。大変残念です。いろいろな資料から断片を引っ張ってきて、注を付けることに生きがいを感じている人もいるのです。注をつけて、何とかいう本の何ページの難行目にはこう書いてある、ということの正確さを一生懸命に競っているのです。いかに人が見ていないような資料を引っ張ってくるかということに生きがいを感じているのです。そしてそれが知的な・
・
�とだと思っているのです。
このようなことを霊的に見れば、ほんとうは全然価値がないのです。それどころか、もしかすると人間の魂を、もっともっと狭めているのかもわかりません。ものごとをいつも顕微鏡でみているような、そんな頭になってしまって、その枠をはずせないのです。ほんとうのものがわからなくなっているのです。まことに残念であります。
〔真の創造の意味〕
また、将来、機会があれば、想像に関する本、あるいは創造法であるとか、独創法というような本を書いてみたいと思っているのですが、これなども、現在ひじょうに有名な方々が書かれたものを見ていても、創造というものは、やはり異質なものの組み合わせであるとかか、断片の組み合わせをすればよいであるとかいうことが多いのです。
彼らは地上的に、いろいろとあるものを組み合わせて、そのブレンドの仕方で、創造性が出てくるのだということを言っています。三次元的な創造性では、確かにそのようなこともあるかもしれません。しかしながら、それは創造性というよりも、むしろ、仕事のしかた、仕事術ということであって、そこではそういうことはあるかもしれません。ところが、真の創造とは何かを知ってしまったならば、このようなものは、ほんとうはおかしくて読めないのです。
エジソンには申し訳ないのですけれども、真の創造というのは九九パーセントのインスピレーション(霊感)と一パーセントのパースピレーション(汗)であるといったように、まったく逆のところがあるのです。組み合わせではないのです。
ほんとうにすばらしいアイディアというものは、実在界にものすごくあふれているのです。もういくらでもそこから引っ張っていってほしいというように、実在界はアディアの宝庫なのです。そして、現にアイディアを与えたいと思っている人が、いくらでもいるのです。これを受け取ることをしないで、何を一生懸命資料を集めているのでしょうか。そういう感じがします。ほんとうの創造とは、そうした実在界に溢れているアイディアをどのようにして引っ張ってくるかということなのです。
そのための方法はどうしたらよいのかというと、これは霊道を開けとは言いませんが、じつは天上界にアンテナを向けて波長が合えば、実際上、引いてこれるのです。私などは、ぼーっとしていると、インスピレーションがどんどん降りてきて、アイディアもどんどん湧き出してきて、現実的には対応できなくなるほどなのです。それにすべて対応していると仕事がいっぱい増えてくるので、なるべくインスピレーションを受けないように、一生懸命に努力して囲いをつくっているくらいなのです。実際につぎからつぎへと新しいアイディアが降りてくると、かえって仕事ができなくなるので、降りてこないようにバリヤーを張っています。
真理に目覚めて、努力して、心が澄んできますと、インスピレーションはどんどん降りてきます。それは嘘のように降りてきます。ですから、これは仕事の世界でも同じことなのです。みなさん方も仕事の世界で、いろいろと悩むことはたくさんあると思いますが、そのようなときには、自分の心を正して、瞑想をしても、瞑想しなくても同じことでありますが、この守護霊や指導霊のインスピレーションを受けられるようになってきますと、素晴らしいヒントや、まったく思いがけない新しい仕事上のアイディアが、いくらでも出てくるようになります。
それは、現在の時代の考え方としてはせいぜいこのようなものだとみな思っているけれども、過去の文明の時代においては、違った社会制度があり、違った社会のような組織があり、いろいろなやり方を工夫していたわけです。このときの知恵を引っ張ってくることができるようになれば、アイディアが限りなくなってきます。この世的な工夫だけではすまなくて、いろいろなところに出てきます。
ですから、おそらく、こういうことが可能になってくれば、人の頭脳の力というものはすごく増えていくことになります。生きている人間のIQは、計っても、せいぜい高くて二〇〇ぐらいでありますが、これがたとえば、実在界の天才の頭脳を五人分引っ張ってくるだけで、IQ一〇〇〇くらの値打ちになってきます。あるいはそれ以上になります。
このように、実在界にあふれているアイディアを引っ張ってくるということ、これがだいじです。そうしますと、商売をしていても、事業をおなっていても、つぎつぎと信じられないほど、いろいろなアイディアが出てきます。私はこのようなことをみなさんに、ぜひ知ってほしいと思います。
三番目に「他人を公平に見ない自分」。公平に見るということは、ひじょうに難しいことです。どうしても、自分というものが入ります。
また、四番目に「素直でない自分」です。これも、うなずかれる方は多いと思います。人間はどうしても素直ではないのです。なぜ素直でないかといいますと、何十年も生きてきて、自分はこういうやり方でなければ生きてゆけないという、自分なりの癖ができているのです。このような人は、それなりの生き方をしますし、その生き方を人に押しつけるか、あるいは、その生き方を通して人を見ます。
素直になるという気持ち、これは常に自分を引き戻してみる努力をしていないと、なかなかなれないのです。社会に出てから、素直に生きる、などということを教えられたことがあるでしょうか、もう忘れ去って久しいのではないでしょうか。子供のときには、素直になりなさいと言われたことがあったとしても、大人になってからは、もう、一度も言われたことがない人は多いのではないかと思います。これを忘れているのです。そして、その素直さを忘れた心が、物事を正しく見えなくしているのです。
ですから、また反省法でもとりあげてみたいと思いますが、正見の一つの要素も、この素直さなのです。心が素直でない人は、正しく見るといことはできないからです。素直でないということは必ず歪んだレンズで、歪んだ像を見ているのと同じです。それでも、自分は物事を正しく見ているという方もいるかもしれませんが、「貴方は素直な方ですか」と聞いてみたとき、「いや、やはりいろいろとひねくれた考えをするようです。」という答えであるなら、残念ながら、おそらくその人の目に映っている像もどこか歪んでいるはずです。素直でないと、百パーセントありのままの映像は映りません。
④執着だらけの自分
四番目は、「執着だらけの自分」というものをあげることができます。これも難しいことです。執着というのは、霊的に見れば、まるでトリモチのように見えます。執着のある人を見ていますと、その人の頭の上であるとか、肩の上や、手のなかであるとか、何かトリモチがついた棒切れを、いつもくっつけているような感じがするのです。
その人が動いていく、いろいろなところでくっつけているのです。それは、たとえばハエ取り紙と同じといってもよいのですが、そのようなものをぶらさげていれば、いろいろなところでゴミをくっつけていくのは当然のことなのです。しかし、実際上、心というものは、そのようなものなのです。ハエ取り紙のように、いろいろなところで、いろいろな事件にあうたびに、ベタベタといっぱいくっつけてゆくのです。そして、それが落ちていないのです。それを霊的な目から観れば、いろいろな人の言葉とか、事件とか、悩みとか、そのような想念が、毛玉のようにたくさんくっついているのがはっきりとわかります。
水晶玉のようなものがありますが、だいたいは毛糸のようにいっぱい毛が出ているのです。そしていろいろなものがこれについているというのが実際であろうかと思います。ですから、トリモチのようにいろいろなものがつきやすいのが自分の心であるから、いま自分には何がついているのかという観点をぜひとも持ってほしいのです。
自分の心にいま何がついているか、今日一日で絶対何かをつけているのは間違いないです。何が今日ついたのか、一日の間に起きた出来事や岡持ったことが原因で何かついているものがあるはずなのです。これをふり返ってみることです。何がついたかを考えて、それが適切なものかどうかを考えてみるのです。そして、それがそうでないものであると気づいたときには、やはりこれを取っていく作業が必要になってくるわけです。
ではなぜ執着を捨てなければいけないかと申しますと、別の言い方をすれば、人生は無常なものであり一日一生の思いで生きなければ、執着だらけのままいつ何時市に見舞われるかもしれない。ですからけっきょく、いつ死んでも、未練を残さないであの世に旅立てるような自分にしておきなさい、ということなのです。まだまだ先があると思ってあとでまとめて清算しようと思っても、そのときは意外に早く来ることがありますよ、ということなのです。
天国ではこのような執着を持っていては生きられないのです。ですからこのような事実を知って、いつも毎日毎日決算を終わっておきなさいということです。決算を終わっておきなさいということは、帳簿尻をちゃんと合わせておきなさい、今日一日の商売をみてどうなったかをガッチリと合わせておきなさいということなのです。あとで、まとめてやろうとしはしないことです。
【大川隆法『太陽のメッセージ』part2 第3章「新しき世紀へ獅子のごとく」より抜粋】
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続きまして、経典『メシアの法』より、救世主の思いを学び深めます。
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〇人類よ、信仰心を持て、神の言葉を聞け
・世界には、宗教によって考え方が違うものもあるし、法律制度によって違うものもあるし、いろいろと、まとめるのは難しいのです。ただ、そのダイバーシティというか、多様性自体をある程度受け入れていくのが「地球の歴史」だったので、受け入れてはいきたいと思いますけれども、どうか、「私から発信している価値判断が、考えるもとになるのだ」ということを世界の人たちに伝えていっていただきたいと思うのです。(p56)
・最初の人類創成のときに男女を分けました。これは「地球の方針」なのです。これについて、人間の世界で「生物学的、医学的に変えられる」という技術で、考え方を変えている人もいるけれども、「魂の側から見て、それは正しい選択なのかどうか」という判断はもう一つ要ると思っています。
ですから、人権もだいじだけれども、これがリベラルに行き過ぎると、また悪魔の手に堕ちてしまうこともあるというふうに思っています。
まず、信仰心を持ってください。
神の言葉を聞いてください。
長い「人類の叡智」を無視しないでください。
そのなかで科学や物質的な繁栄もあってもよいと思いますが、
この世は人間の最終的な住処ではありません。
あくまでも魂のトレーニングの場所です。
それを忘れずに、どうか、多様な価値観のなかで正しいものを選びとっていく―そういう智慧を磨く修行の場として、この地上を長く浸かっていけるように維持することも、私の仕事だと思います。(p59)
どうかみなさん、ああしたコロナ等の病気の問題も、
ある種の唯物論であることは事実であるので、
それに負け切らないで、
「やはり、精神的に強くならなければいけないことがある」ということを、
伝えてください。
本当にお願いします。
地球人類が、今、八十億人近い人口になろうとしているなかで、
半分以上の人たち、過半数が、間違った思想を持ち、
要するに、信仰を持たない世界を創ろうとしているなら、
これに対する反作用が始まりますので、
「その前に人類の考え方を変えていきたい」と思っています。
私は、それが「救世主の仕事」だと考えています。
今回は仕事が重い。
世界の国の数がかなり多く、広いのです。
また、こんなウィルスがたくさんはやっている時代は、
自由に動けない時代です。
しかし、どんなことがあっても、
思想は、そのなかを貫いて広がっていくべきだと思っています。
どうか、信仰心を中心に、
「人生」と、それから「自分たちの仕事」を組み立てていってください。
そして人間としての正しい生き方を一人でも多くの人に伝えてください。(p62)
【大川隆法『メシアの法』第一章「エローヒムの本心」より抜粋】
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続きまして、経典『幸福の科学の十大原理(上)』の第一章「幸福の原理」より、学び深めます。
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〇幸福の原理とは
・「この世とあの世を貫く幸福」の出発点となる「正しき心の探求」
幸福の科学はでは、「幸福の原理」というものを考えているわけですが、この幸福の原理には幾つもの道筋があります。それは数限りなくありますけれども、私たちが考えている幸福というのは、「この世とあの世を貫く幸福」であるわけです。私たちは、「この世のみで幸福で、あの世に行ったら不幸のどん底」というような幸福ではなく、「過去・現在・未来を貫いて通用するような幸福の原理」を探求しているのです。
この幸福の原理の出発点は、先ほども述べたように、「自らの正しき心を探求する」という姿勢であります。これが出発点です。
では、この「正しき心」とは何でしょうか。私が言っている「正しい心」というのは、みなさんの心のなかにある「如来」の部分を探求しようではないかといっているのです。
みなさんは、段階知で物事を考えるかもしれません。「如来は菩薩より偉い。菩薩は光明界の霊人より偉い」と思っているかもしれませんが、差別知だけでものを考えてはならないのです。
ダイヤモンドが違うのではなく、人間はみな、おなじダイヤモンドなのです。みなさん、同じダイヤモンドであるのです。ただ、転生輪廻の過程において、そのダイヤモンドの光り方が違うのです。磨き方が違うのです。
光の指導霊というのは、結局、そのダイヤモンドの原石を、自らの努力でもって磨いた人のことを言うのです。磨いていないから光を放っていないだけで、光ればみな同じなのです。
ただし、その光る過程においては、一跳躍入如来地(いちちょうやくにゅうにょらいじ)とはいかないということを言っているのです。いきなり、ピカピカのダイヤモンドにはならないのです。やはり、その間には、努力・精進というものが必要なのです。
それが自らの「正しき心の探求」であり、生命の実相に辿り着くまでの自らの修業であるわけです。この過程を経て、そうした日々を送って、次なる段階が来るわけです。これが、幸福を求める段階です。
①第一の原理「愛」―与える愛から始める
「幸福の原理」の第一は、「愛」であります。しかし、この愛というのは、「あなたに愛してほしい」というような愛ではないのです。私が書いているように、幸福の科学で言っている愛とは、「与える愛」なのです。与える愛とは何でしょうか。お金をあげることですか。そうではありません。
与える愛の本質というのはいったい何かというと、まず、そこに「自他一体の悟り」があるのです。「人間は、同じ神から分かれてきた神仏の子である」という悟りがあるのです。「彼とわれとは別の個性を持っているように見えても、その本質は一体である」という悟りが、愛の基なのです。
「他人と自分とは違う」と思っているからこそ、いろいろな摩擦があり、軋轢があるのです。「自他は一体であり、共に神仏の子である」ということ、「唯一の神から分かれている」ということを知ったときに、人間は愛さざるをえないのです。
その愛とは何でしょうか。他人をよく思うことです。「他人を育みたい」と思うことです。「無私の愛」です。「無償の愛」です。「見返りを求めない愛」であります。それは、結局、自分と他人が同一のものだからです。自分を愛するがごとく他人も愛さなければならないのです。
「自分を愛する」ということは、教えられなくとも、みな、ある程度はできるのです。ただ、「他人を愛する」ということは、肉体を持てば、悲しいことに忘れてしまうのです。ですから、これを説く必要があるのです。
この与える愛というのは何でしょうか。これは、「慈悲」のことを言っているのです。「愛を説いているから、幸福の科学はキリスト教か」というと、そうではないのです。与える愛の本質は慈悲であり、これは、釈尊の教えの根本なのです。現代的に言うならば、釈迦は「与える愛から始めない」と教えたのです。これが慈悲であり、幸福の原理の第一です。
【大川隆法『幸福の科学の十大原理(上)』の第一章「幸福の原理」より抜粋】
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are One, with our Lord. 我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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TEL:0596-31-1777
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文責:蒲原宏史
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(12/26-1)【基礎教学通信】360『太陽の法』を読む93「太陽のメッセージ2」新しき世紀へ獅子のごとく2―『悪魔の嫌うこと』悪魔はどのような存在か―「幸福の原理」幸福の原理とは
『太陽の法』
