(12/16-1)【基礎教学通信】350『太陽の法』を読む83「太陽のメッセージ」悟りとは何か、その極致とは2―『悪魔の嫌うこと』正直で嘘をつかない生き方―『復活の法』六次元から七次元へ

『太陽の法』

さ90 営業とは、しつこさや、小手先の言い訳ことではない。誠実な弾(たま)を、相手の心の中心に撃ち込むことだ。

【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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12/14(日)~21(日)まで、「エル・カンターレ祭」を開催させて頂きます。本年は「主なる神を愛し、日本全国・全世界にエル・カンターレ信仰を打ち立てよう。なお、一歩を進めよう!」のスローガンのもと、創造主であられる主への愛を深め、なお、一歩を進め続けた一年でした。そこで、「エル・カンターレ祭」では、今年一年、主が与えてくださった数多くの愛を振り返り、心からの感謝を捧げさせて頂きます。皆様全国の支部・精舎・拠点に参集ください。主への感謝と報恩の誓いを共にさせていただきましょう。

さて、降魔成道記念日を迎えて、あらためて「悪魔」とは何かを、主の御教えから振り返ってまいります。本日は経典『悪魔の嫌うこと』より降魔についての学びを振り返ります。経典をお持ちでない方は、この機会に是非ご拝受ください。【税抜き1600円】

―本書には、エル・カンターレの説く、悪魔の嫌う三箇条が明らかにされている。精読の上、くり返しお読み頂きたい。その価値は無限で、国民全員に、そして、全世界の人々に読んでほしいと痛切に願っている。

大救世主降臨を知らずして、今、知るべきことはない。求めよ、さらば与えられん。真実の智慧を体得するがよい―「まえがき」より
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■『悪魔の嫌うこと』
3 悪魔の嫌うこと①―正直で嘘をつかない生き方
〇悪魔にとって、正直で嘘をつかない人は煙たい存在

それでは、悪魔は具体的に、どのような心や考え方、生き方、行動を嫌がるのでしょうか。

悪魔の嫌がることを明確にすれば、それは、その反対である菩薩や如来、天使たちの生き方を目指す方針になり、とりもなおさず、「悟り」というものの持つ性質を表すことにもなるでしょう。

そこで、私が今まで、見てきた範囲で、「悪魔は、これを嫌がる」と分かっていることについて述べていくことにします。

悪魔が嫌う人とは、どのような人であるかというと、第一に、「正直な人」、「嘘をつかない人」です。

正直に生きている人、噓をつかずに生きている人は、悪魔から見ると、とても煙たい存在であり、友達としてつきあうことのできない”嫌な人”なのです。

要するに、「居心地が悪い」ということです。正直で嘘をつかない人と一緒に生活すると、悪魔は、苦しくて苦しくてしかたがいないのです。

正直で嘘をつかずに生きている人は、ちょうど、「よく磨いた鏡」のようなものです。悪魔は、そういう人の近くに寄っていくと、その鏡の表面に自分の醜い姿が映るので、とても嫌な感じがするわけです。

悪魔は、その反対の人、すなわち、嘘をついたり、騙したり、ごまかしたりするタイプの人間がとても好きです。そういう人となら友達になれるのです。鏡に映したところで、お互いに、醜い心、醜い姿は同じであり、「人の目につかなければ、悪いことができる」と考える性質を共有できるので、友達でいられるのです。

ところが、正直で嘘をつかない人と一緒にいると、磨き切った澄んだ鏡に自分の醜い姿が映っているようで、嫌で嫌でしかたがないのです。

したがって、悪魔と手を切りたければ、まず、嘘のない正直な生き方を目指すことです。

〇「間違いを犯した」と気づいたら、そのつど反省する。
もし、嘘をついたり、自分を騙したり、人を騙したりするような生き方をしたときには、そのつど丁寧に反省することです。「いけないことをした」と反省することです。

それは、ちょうど、雲のかかった鏡を磨く行為に当たります。鏡は、曇ってしまえば、真実の姿を映すことができません。

「嘘をつくことなく、一生、正直に生き切る」ということを建前にしていても、なかなか、そうはできないのが人間です。「自分は間違いを犯した」と気づいたら、そのつど、魂の苦しみを感じて、きちんと反省することです。そうすれば、結果的には、「正直に、嘘をつかずに生きる」ということと同じになります。

少なくとも、人は騙せても自分自身は騙せません。自分の本当の心、両親に、正直に生きることが大事です。

【大川隆法『悪魔の嫌うこと』第1章「悪魔の嫌うこと」より抜粋】
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さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。

今日も経典『太陽のメッセージ』を引用しながら、幸福の科学の基本書である『太陽の法』の大切さを共に学びます。本書は1998年の年末に『太陽の法』の講義としていただいたものです。【現在は絶版となっています】
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■『太陽のメッセージ』Part2
第1章「悟りとは何か、その極致とは」
8 新しい時代の新しい悟りの方法―真説・八正道

悟りの方法とは、神仏の境地と自己の境地が融合されていくための手立てです。神仏の心を心として生きるにはどうしたらいいのかという方法論であるということです。そしてその方法論としては、真説・八正道がひとつにあり、いまひとつには愛の発展段階説があるということを語ってまいりました。

そしてこのどちらを取ってみても、一生かかっても到達しえないぐらいの深遠さがあるということです。たとえば八正道のなかに「正しく見、正しく語る」【※正見・正語】という項目がありますが、この「正しく見る」、「正しく語る」ということを、ある程度の段階までマスターできたと思うまでには、普通の人であればやはり五年や十年はかかるということなのです。

そうとう修行が進んだと思っても、思わぬ人と出会ったり、思わぬような事情に陥ったときに、思わぬ意見が出たり、やはり取り乱すというのが人間の常なのです。そうしてたときにあっても不動の心でいられるまでになるのは、やはりその間の修行にはそうとうの時間がかかります。

9 「正見・正語」の深まりのある人

こうした「正見・正語」の悟りが深まってきた方はどのように見えるかといいますと、一見ひじょうに柔和に見えます。ですから、この人がそのような修行を積んでいるということを知らない人、あるいは、外からみてもわからない人からすれば、そ人の姿を見て、甘く見ることもたまにあります。なかには甘く考えるだけでなく、小馬鹿にするような態度をとるようなこともあるわけです。

ところが意外に根を張っているのです。一見してそうとう柔和なので、人びとは甘く考えているのだけれども、実はそういう修行を五年、十年と積んできた人は、外側は柔和だけれども内は剛といいますか、内面に非常に固くしっかりしたものができています。

ですから、小さなことにおいては全然とらわれていないのです。それで何をいわれても平気な顔をしているわけですが、大きな判断においては、人の意見に自分の判断を左右されません。このように柔和な感じの人が、ここぞというような判断のときには、自分の考えを絶対曲げないのです。私はこう考えるといえば、ほかの人がどう言おうと曲げないのです。普段は何を言われても、適当に合わせているために、甘く見られそうな人がそのような強さを発揮するわけです。柔和なるがゆえに、適当に話のツマや、刺身のツマにされているような人が、意外にここぞという判断のときに、絶対にぐらつきません。このような人が、このレベルをクリアーした方なのです。外柔内剛タイプの人です。

これを見抜けない方がけっこう多いと思いますが、この「正見・正語」を修行してきた人の姿はそのように見えるということです。それとは対照的に外見からしてもすごいタイプで、見るからにワーワーと自己主張をしそうなタイプはまだこれができていないのです。まだはっきりと自分の考えが明確に出てしまうタイプ、はまだこれができていないのです。まだはっきりと自分の考えが明確に出てしまうタイプ、すなわち目は口ほどにものを言い、口は口以上にものを言う人です。この人たちはまだまだここができていないのです。

この修行は、やはり外に出す前に、自分の言葉をいったんフィルターにかけるという訓練によって出来てくるのです。人は「自分はこう見た」と言います。たとえばあなたが、ある人を見てその人をこのような人である思ったとします。けれども、思ったときにそれをすぐバーッと口に出すようであっては、この修行はできていないわけです。この修行においては、こうだなと思うけれども、第一判断は留保するわけです。そうだろうと思うけれども、もうしばらく観察を続けるわけです。

この人には、このような点はあるけれども、あそこはもしかするとちょっとかわる可能性があるかなという部分では評価をひかえるべきかもしれないし、他の人が見たならば評価が違うかもわからないなと思う部分、そのような部分についてはあえて口に出さないでストップしておくのです。そしてどうしてもこれは確実であると思えるところについては、必要があればその人について言うことができる。必要がなければ言わない。このような「正語」の修行ができるかどうかです。

そして「正見」の「正しく見る」の「見る」でありますが、「見る」と言っても自分の目に映ったものを、なんでもかんでも事実ととらえるのではまだ本物ではありません。自分が見たものだけではなく、聞いたものも読んだものも同様でありますが、これらをすべてそのものが事実であるととらえるようであってはいけないのです。やはり自分が得た情報であっても、たとえば第三者を通して得た情報もあるし、直接得たものもあるでしょう。そのようにして得たものであっても、誤解はけっこうあるわけなのです。意外なところに誤解というものが潜んでいるのです。

10 「ピンの発見」と「正見」

一九八八年三月の講演会「知の原理」のときに、「ピンの発見」ということをお話したことがあります。このもまた何かの機会に詳しい話をしたいと思っておりますが、意外にピンの部分があるのです。本人も気づいていない、そして他人も気づいていないこのようなピンの部分があってそれが人をいろいろな方向に走らせている場合がけっこうあるのです。それはじっとこの「正しく見る」の延長で見ていきますと、わかってくることがあります。

いろいろな悩みを持っている人が、みなさんのなかにもいらっしゃるでしょうが、その悩みのほんとうの原因は、本人が思っているものと全然違うところにあることがあるのです。本人も気づいていないというところにあるのです。なぜ気づいていないのかといいますと、それを意識したくないからなのです。ほんとうは意識したくないがために気づこうとしない。そしてそれを覆っているのです。ほかの原因のせいでそうなっているとずっと思っている。ところが意外なところにあることがあるのです。これを自分で発見するとハッと思います。

そして同じ他人についても、あの人は変わった行動をするなと思って見ていることがあると思いますが、やはり、これもじっくりと観察していますと、その人のピンを発見することがあるのです。実はもしかすると、これでこの人はこのように判断して行動するのではないかということがあります。それに気づいてしまうとなぜそうなるのかがわかるのです。逆にそれに気がつかなければ、十年でも二十年でも変わった人だなと見続けるわけなのです。意外なところに原因があるのです。その人自身がそのように動かざるをえない原因というものがあるのです。

これが極端に出るのが、やはり優越感と劣等感の部分であると思います。いちばん誤解をされやすいのが、優越感でギラギラしているタイプで、ひじょうにプライドが強く見える人です。みなさんのなかにもそのような傾向の方もいらっしゃると思いますが、このような人はひじょうに誤解を受けやすいのです。人からは、なぜかんなにうぬぼれているのか、あいつは何様だと思っているのかと、こう思われがちなのです。

そしてたいていの場合、それを探っていくと、このような人はどこかに根深い劣等感を持っていることが多いのです。そして、それをどこかで晴らそうとして、動いておられるわけなのです。けれども、ほかの人にはそのピンの部分が見えないのです。そして本人自身も気づいていないこともあるのです。自分がそのような劣等感の裏返しでやっているということに、実は本人自身も気づいていないのです。ですから、そのに気づいたときに、その虚勢のようなものが一瞬のうちに消えてしまうことがあります。

みなさん自身もそうであると思います。気づいたときに、ああ、実は自分はこんなところに劣等感が根ざしていたんだなというのがやはりあると思います。それで変なところで突っ張っていたんだなというところがおそらくあるのではないでしょうか。

たとえば女性でも、きっと中途半端な年齢の方もいらっしゃると思います。独身主義者など言う方もたくさんいます。そういう方はだいたい自称独身主義でかためています。親に聞かれても、「私は独身主義者なの」といって、全然異性のことなど考えたこともないし、私はもう自分の考え方で生きたいのですと、一生懸命自分にそう思いこませようとしていて、親や友達にもそう言っていることがあるかもれしれません。

しかし、これなどもよくピンを探っていきますと、意外なところにあることがあります。その人に独身主義者という哲学を説かせるのだけれども、ピンが意外なところにあって、昔〇〇さんにこのようなことを指摘されて、それ以来それを思い出すだけでも嫌いになってどうしようもないなどというところにあることがあるのです。ほんとうに人から見ればささいなつまらないところに、このピンがあることがあります。

11 自分のピン・他人のピン

ピンとは、実は潜在意識下にグーッと沈んでいて、自分ではもうふたをして覆っていたいことなのです。表現はあまりよくありませんが、そのようにズーッと臭いものにふたをして、五年、十年と長いあいだ、発酵させてしまいますと匂い漂ってくるわけです。それが独自の哲学をつくり、プライド強くいろいろな主張をさせたりすることがあります。これは女性の例を出して申しわけありませんでしたが、男性でもそうしたことはいくらでもあるのです。

このように「正しく見る」ということのなかにも、このピンの発見が含まれています。自分自身が人から見て、中道に入った動きをしていないと思われるときや、あるいは人の批判を買ったり、非難を買ったり、怒られたりするようなことがあるときには、やはり人の目からみて自分の発言や行動が異常な動き方をしているのです。

そのときによく見てみますと、そのような行動に自分をかりたてている何らかの原因があることが多いのです。その原因を発見することも、自分を「正しく見る」ということなのです。

また、自分が他人を見ていて、これはおかしいと思うことがありますが、全人格的におかしいとレッテルをパッと貼ってしまう前に、なぜ彼はそうなるのだろうかということをよく見てみるときに、自分がいろいろなことで悩んだことがあれば、わかることがあります。「ははあ、彼はこれでだな。」というのがわかるのです。本人も気づいていませんが、それが分かってくるようになりますと、その人を理解できる鍵が手に入るのです。この人はこれでこのような突拍子もない行動をとるのだなというのがわかるのです。

このようなところをつめていかなれば、「正しく見る」ということはほんとうにできないのです。ですから、今日は美人を美人と評価して、不美人を不美人と評価したから、これで自分は正しく見て評価したなどといって、それで満足していたのでは「正しく見る」ということにならないのです。こうしたことではなく、もっと深く入っていかなければないけないということです。

12 阿羅漢の心

正しく仕事をし、生活をするということもだいじです。そして正しく思い、道に精進するということができるようになれば、だいたい阿羅漢に近いということが言えると思います。阿羅漢とは六次元の神界から菩薩界に入るための登竜門の部分であるということは、よくご存じの方もいらっしゃると思いますが、ある程度自分づくりができた状態を言います。したがって、人のささいな言葉で心が動揺したり、ちょっとしたことでカーッしたり、地位欲や名誉欲に心が揺れているようでは、阿羅漢とはいいがたいということなのです。

ですから、これは宗教的な悟りを試すのにひじょうに便利です。いろいろな団体で先生をやっている方もたくさんいらっしゃると思いますし、読者のなかにもほかのところで学んでこられた方、あるいは現に学んでおられる方もいらっしゃると思いますが、ここを見るとわかるのです。そこの指導者と言われる先生が、すぐカーッとなる性格であったり、脅したりすかしたりするようなことがあれば、少なくとも阿羅漢ではないのです。けれども本人は如来、菩薩であると思っているのかもしれません。それでは足が遠ざかって当然です。そのようなことです。

ですから自分が偉いと思いはじめると、その偉い自分の考えを聞かない、言うことをきかない人というのはもう我慢がならなくなってくるのです。そして攻撃的に非難するようになってきます。そして自分が教えるということが習性になってくると、それが当然になってきて、それ以外の素晴らしい考えがあると思えなくなってくるのです。これがいちばん危ない部分です。そのような人たちのなかにも、いったんは、この阿羅漢に達したこともある人が多いのでしょうが、このような状態であれば、危ない状態にあると考えてけっこうかと思います。

心があまり揺れないということが、この部分の前提となっているわけです。自分がそれに達したかどうかを判定したいのならば、心が揺れないということを基準としてください。もちろんいろいろなことが毎日起こりますから、全然揺れないというわけにはいきませんが、心という池のなかにポトンと石を投げ込まれたとても、大波を起こして渦巻くようではだめだということです。少しは波紋が起こるけれど、スーッと静まっていく。そして一日二日すれば、そんなことはもう忘れ去ってまた平常に戻れるということであれば合格点を差し上げられます。

この心の管理ができていない人は、五年でも十年でも同じようなことで動揺するということがあります。このようなことは損得で考えてみてもつまらないことです。ですから、自分にとってはそれほど大して有益でないことは、心を動揺させないでサーッと流していくのがいちばんよいのです。悩むことがほんとうに自分を愛していることかどうか、悩んで得になったかどうかということを冷静に考えて、得にならないようなことは、サラリと流してしていくのも心の修行です。ですから思いつめることもほどほどにすることです。「まあいいや、時間がたてば忘れるだろう。」という気持を持つことも大切です。

『太陽の法』のなかでも、「基本的な悟りの方法としては、この世的なことで心が揺れず、心がつねに清明で、自らの守護霊と通じあい、他人の気持ちが手に取るようにわかる段階、すなわち阿羅漢の境地を目指すべきであります。ここを経ずしては、それ以降の修行も悟りも、ありません。」といっているはずです。これが出発点ですというわけです。ずっと登りつめていたつもりでいても、実はここからUターンしている人がけっこう多いのです。せっかくこのあたりまで達したにもかかわらず、Uターンして返っていくのです。このことはよくよく考えていただきたいと思います。

13 阿羅漢・不退転そして如心

さて、次に如心という段階について話をいたします。このあたりから少し難しくなります。阿羅漢のことについてよく聞いておられる方は、だいたい感じとしてつかめているかと思いますが、如心あたりから、少しわかりにくい感じになってくると思います。

一九八七年の五月の研修において、阿羅漢の少し上にある段階、具体的にいいますと、不退転という段階があるというお話をしたことがあります。阿羅漢の段階では前述のように、まだ心が揺れて逆戻りすることがあるのですが、不退転の段階に入ると、もう逆戻りしなくなります。多少の波風が立っても、もう戻らないという強い部分があります。これが菩薩への第一歩です。

そして、この如心というのは不退転の奥にある境地で、さらに進化した世界です。この如心にも、実はいろいろな段階があり、バラエティーがあるのです。『観自在力』のほうには、如心を如来の悟りとして主に私は話をしてみたのでありますが、実にさまざまな段階があるのです。これは、みなさん全体が阿羅漢のレベルぐらいにならなければ、この如心のバラエティーや段階などを言っても通じないと思います。ですから、みなさんが阿羅漢に到達して、もう菩薩も近いなということになれば、如心の第一段階、第二段階、第三段階というように説明していくとひじょうに勉強になるのでありますが、今の段階では、説明してもあまり意味がないと思います。

ですから大まかに言って、菩薩界の第一段階の如心の感じと如来界での如心という話をしてゆきたいと思っています。ここではまず、阿羅漢と如心との違いを語ってまいりましょう。

①阿羅漢とは
阿羅漢は、まだ守護霊と交流可能な境地にすぎないということが言われています。したがって阿羅漢へはだれでもいけるとということで、ここまでは多くの人びとの共通の目標になっています。自分の守護霊と同通するというのは、本来、自分の到達しうる可能性があるところです。

ここまではもともと可能性があるのですから、ようするに上へあがっていく過程であると考えなくてもよいのです。自分の庭に埋もれているものを掘り出すと考えてもよいのです。そこに宝の箱、あるいは金塊が埋まっていて、浅さ深さはいろいろあるのでしょうが、もともと自分で埋め込んできたところなので、掘ればカチンと当たって出てくるという段階だということです。ですからこれはみなさんにも十分可能性があるということです。しかし、この上は少し難しくなってまいります。

②不退転への心のそなえ
たとえば、真の宗教指導者のもとで、それまで阿羅漢の境地に達した弟子がたくさん育ったとします。けれども、その指導者が死去したときに、そのようなお弟子さんたちであっても勝手なことを言い出して教団がバラバラになったりすることがあるわけです。どこかの団体のことを言っているのではないかと思う人もいらっしゃいますので、あまり深読みされると困るのでありますが、いわゆる特定のところを言うつもりで書いているわけではありません。

さらに『太陽の法』にも書かれておりますように、「ある一つの修行方法を通して、ある程度悟った者が迷いはじめるのは、それ以前に教え、他の修行方法に対する心のそなえができていないからなのです。」ということがあるのです。ですから阿羅漢に達するまでの導き方においては、わりに一つの事を教えて連れてくるということも可能なのです。ひじょうに知識的には狭い範囲で修行を与えても、それなりに修行を積んできますと阿羅漢まで来ることは可能なのです。

ですから、禅の修行などでもそうです。真理知識的には大したことを教わっているとは、とうてい思えないのですありますが、とにかく禅寺に何年か行って、心を調和して澄んだ心になる心までうまく行けば、阿羅漢にまではこれるのです。それ以上はないのですが、これぐらいまでは可能性があるのです。禅以外の世界でもこれは十分ありえます。

そうしてみますと、その一つの方法論にはとらわれているわけでありますが、先生が亡くなった場合に、それ先生の教えの領域外のものがもし出てきたときに、いったいどうすればいいのかさっぱりわからなくなります。価値判断ができないのです。マザー・テレサの話もいたしましたけれども、マザー・テレサに、通訳を通してもいいのでありますが、もし彼女に私たちの話を聞かせたとしても、それが理解できるかと言えば、たぶんわからないと思います。彼女自身はもちろん阿羅漢の悟りではなく、さらに高い菩薩の悟りを十分に得ていますが、それでもわかるかと言えばわからない部分そうとうあると思います。

それは幅の狭さの部分です。ですから彼女の弟子ならばさらに何をいわんやで、わからないのです。キリスト教系の人は特にそのようなことがあるようです。ほかの考え方や教えについての寛容さがないのと、理解する材料がそもそも与えられていないということがあります。

それは教えの量が少ないということも原因の一つとしてあるのです。イエス様が三年間解いたけれども、その教えの量が聖書の中のあの程度になっています。聖書のなかには、いろいろな種類の福音書がありますが、イエスを囲む背景的な描写が多く、一冊に盛られているイエスの説かれた純粋な真理の内容はどのくらいかというと、当然ながら本書の一冊分もないかもしれません。

ですから、そこに書かれている以外のことを読み取るということは非常に難しいのです。先生が生きていれば、いろいろなことをきけば明確な答えが返ってくるのでわかりますし、判断ができるのですが、先生がいなくなればわからなくなるのです。そのようなことがあります。いろいろな教えをはかる心の物差しがじゅうぶんにできていないということです。

③「幸福の科学」の教えの体系化の意義
この点、幸福の科学はひじょうによく考えています。はじめたばかりの団体ではありますが、【※1989年説法当時】私が死んだあとのことまでもう考えてやっているわけで、死んだあとでそのようにならないようすでにじゅうぶん考えています。そのためには、教えというものを明確に体系化して、それぞれについての見解をはっきりしておく必要があるということです。

それと、学習方法というのを確立しておかなければならないのです。勉強のしかたと指導の方法、これを確立しておけば、あとが混乱しないのです。ここの確立を怠ると、あとで組織がガタガタになってしまいます。それはどこでもいっしょです。一人のスーパーマンだけの意見についていって、いざ、そのスーパーマンがいなくなったときは、あたかも船頭がいなくなった舟のように転覆してしまうのです。

私にはもう最初からそれがはっきり分かっているので、教えのレベルの差、段階として、初級・中級・上級というように分けたり、あるいはもう少し細分化してこれをはっきりどの次元の法、教えであるかということや、そしてそのなかにはどのようなバラエティーがあるのか、ということを明確にしようとしています。またねその学習の方法と教え方をどうするのか、このあたりをかっちりと固めてくつもりでおります。あと何千年は持たないかもしれませんが、二千年ぐらいはもたせるつもりで考えています。【※1989年時点の見解】

阿羅漢についての考え方は各種小冊子にもよく出ているので参考にしていただけば幸いです。【※阿羅漢については、『幸福の科学とは何か』―初歩からの仏法真理(幸福の科学出版刊)の第7章「阿羅漢をめざして」を是非参照ください。(税抜1600円)】

【大川隆法『太陽のメッセージ』part2 第1章「悟りとは何か、その極致とは」より抜粋】
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続きまして、教典『復活の法』の第3章より「天国に還る方法」を学びます。これは、1988年11月20日に上級セミナーとして、『永遠の法』講義として賜ったものです。経典をお持ちでない方はこの機会に是非ご拝受ください。【税抜1800円】
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■「天国へ還る方法」―死後の行き先は生前の心境で決まる―
5 六次元から七次元へ
〇まず阿羅漢の境地に達する

ここまでは、主として、地獄へ行かずに天国に入るための方法を述べました。

幸福の科学において、信者を指導する際のターゲットがどの辺にあるかといえば、第一段階としては六次元光明界上段階の阿羅漢の境地です。私は、「ある程度、菩提心があって、悟りを求めている人が、阿羅漢の境地にまで達するように導きたい」と考えています。

その次の段階としては、「実際に伝道活動を重視したい」という考えを持っています。なぜかというと、「数多くの菩薩をつくりたい」という願いがあるからです。法話を聴いたり、研修を受けたりして、仏法真理を勉強しているうちは、六次元的な修行ですが、他の人に伝道したり、教えを説いたりしはじめると、それは七次元的な活動になるのです。

「今世を縁として、できるだけ多くの菩薩をつくっていきたい」ということが、私の願いであり、考え方でもあります。多くの人が自分づくりをし、多くの人を導けるようになっていただきたいと思います。

仏法真理の勉強は、実は、地上界だけではなく、天上界でも行われています。

それは主に六次元で行われています。それぞれ、優れた技能を持って、六次元に入ってきた人たちであっても、その上の世界に入っていくためには、仏法真理について学ぶ必要があるのです。

仏法真理は、地上で学ばなくても、いずれ、あの世で必ず学ぶことになるので、地上で勉強しておいたほうがよいのです。

六次元で学ぶ内容は霊系団によって違うこともありますが、それは、地上の各大学に、いろいろな授業があることと同じです。

地上の各大学は、それぞれ先生が違うため、教えている内容は、さまざまですが、そこには、「これだけのものを履修すると卒業できる」という単位制度があります。それと同様に、六次元光明界では、所属する団体や教えの違いによって履修単位は違うものの、一定以上の単位をクリアした場合には、「六次元の修業は終わった」ということが認定されるのです。

【大川隆法『復活の法』幸福の科学出版 第3章「天国へ還る方法」より抜粋】
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本日の『永遠の法』講義「天国へ還る方法」では、六次元光明界から七次元菩薩界へと悟りを上げるためにまずは六次元上段階である「阿羅漢」の境地までに達する精進の道を示していただきました。『永遠の法』で、私たちはあの世の世界が悟りの程度によって住み分けされている霊的事実を教えていただいています。天使・菩薩は人助けのプロであり、仏の御手足てしての奉仕を使命として聖なる仕事をしています。七次元世界の登竜門である「阿羅漢」の境地を日々の宗教修行のなかで、目指すことがとても大切です。

主におかれましては、光を生み出し、物質化によって人類を創造し、空間として、地球という魂の修行場をつくり、時間としての転生輪廻の仕組みをつくったのは、魂を教化して、人間に宇宙の二大法則である進歩と調和を、三次元世界で実現するためです。

だから主はこの愛の星地球で、数多くの光の天使・菩薩を生み育てたいと願われています。

主の願いは、「自も他も生かす生き方」による空間縁起による「中道からの発展」とこの世においても、あの世においても幸福であるという時間縁起による「中道からの発展」です。私たちには、菩薩になり、根本仏の御手足として主の仕事を手伝うという聖なる使命があります。光の使命を共に果たしてまいりましょう。

共に、主のため、世のため、隣人を救い助けるために精進の道を歩んでまいりましょう。

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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are One, with our Lord.  我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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―天御祖神とともに―
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文責:蒲原宏史 

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