(12/12-1)【基礎教学通信】346『太陽の法』を読む79「太陽のメッセージ」愛の力・神秘の力3―「宗教選択の時代」悪魔から逃れる方法【信仰心の確立】―『復活の法』女性は「正語」に重点を置く

『太陽の法』

86 気の弱い人よ。「利益は事業継続のコストである。」というドラッカーの言葉を思い出せ。

【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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さて、降魔成道記念日を迎えて、あらためて「悪」とは何かを、主の御教えから振り返ってまいります。本日は経典『宗教選択の時代』より降魔についての学びを振り返ります。経典をお持ちでない方は、この機会に是非ご拝受ください。【税込み1800円】
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■『宗教選択の時代』第3章「悪とは何か」
5 悪魔から逃れる方法―信仰心の確立

しかし、ここで、ぜひとも述べておかねばならいことがあります。

それは、先ほども述べたように、悪魔の暗躍というものが現実にある、ということです。このことは、私の著書で、くり返しくり返し説いていることです。決して、フィクションでも昔話でもありません。現在ただいま、悪魔は暗躍しています。

しかも現代の悪魔は巧妙であって、思想的な方向からも入ってきて、思想において人々を狂わせるということをします。無神論や唯物論を説いたり、真実とは正反対のことを発表したり、正しい宗教を迫害し、仏敵として行動したりするところも現れてきます。

さらには、みずからには信仰心がないことをよいことに、他の人間の信仰心を揺さぶる人間が出てきます。そこに悪魔が入り込んで、それを増幅させます。不信感、「疑」の心を増幅して、ユートピア建設のために生きている人たちを、攪乱、妨害するような人も出てきます。

悪魔の手段は、いつも「疑」と「失望」です。こういうところに入ってきます。本人が失望したところに入ってくる。あるいは、疑っているところを拡大していく。そういうことをします。大勢の人間がいればいるほど、いろいろなところで矛盾が出てきますから、その矛盾をついて攪乱したり、あるいは、弱いところにつけこんできて揺さぶりをかけたりします。これが悪魔の常套(じょうとう)手段です。

しかし、善意なる人たちには、この悪魔から逃れる方法があります。それは、信仰心を確立するということです。

悪魔に翻弄されている人の顔を見てください。その人の言動を見てください。他人の悪口しか言わない。猜疑心でしか人を見ない。嫉妬心でしか考えない。やっかみ、愚痴、不平不満、そのようなことばかりをやっています。

そして、信仰を失った結果、奈落の底に落ちます。死んでから地獄に堕ちるのではなく、生きているうちに、すでに地獄を体験します。その人自身の人生観が、その考え方が、すでに悪魔的なものとなってきます。

ですから、大切なことは、悪魔に翻弄されたものによって、善意なる人たちが穢(けが)されないことであろうと思います。

信仰心は、みなさんを守る青銅の扉となるでしょう。みなさんを支える鉄の柱ともなるでしとょう。嵐の日に、みなさんを支えるマストともなるでしょう。

【大川隆法『宗教選択の時代』第3章「悪とは何か」より抜粋】
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さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。

今日も経典『太陽のメッセージ』を引用しながら、幸福の科学の基本書である『太陽の法』の大切さを共に学びます。本書は1998年の年末に『太陽の法』の講義としていただいたものです。【現在は絶版となっています】
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■『太陽のメッセージ』Part1
第3章「愛の力・神秘の力」
14 愛の定義

さて、愛について、いくらかの定義とその解説をしてみたいと思います。

「愛は戦車です。愛は丘を登り、谷をくだり、川をわたり、川をつきぬけ、悪の要塞をものともせず、突き進んでいく戦車です。

この意味は、愛そのものの行動力、実践力をいっているのです。愛は行動に伴うもの、実践に伴うものです。それゆえに実践なき愛は愛にあらずといっているのです。

愛の定義について語ったときに、最初に”愛は戦車です”という言葉が出たことの意味を考えてみてください。この”丘を登り、谷をくだり、川をわたり、沼をつきぬけよ”というのは三次元世界における愛の実践の難しさをいっているわけです。障害の多さをいっているのです。この世にはいろいろな妨げがあります。その愛の実践を妨げようとするさまざまなものが存在します。

しかし、それらをすべて、ものともせず、突き進んでいくのが愛であり、それだけの駆動力を持ったものが愛であるのです。そうした戦車のごときものが愛であるのです。

そうであれば、あなたがたも愛を実践していると思うならば、みずからを戦車だと思いなさい。

みずからが戦車であるならば、たとえ目の前に丘が現われても、山が現われても、谷が現われても、川が出てこようと、これを乗り越えてゆかねばならない、ということです。これが最初の言葉です。

「愛は光です。愛は闇夜を照らし、過去を照らし、現在を照らし、未来を照らす光です。天井を照らし、地上を照らし、人の心を照らす光です。この世のいかなる悪をも限りなくやさしくつつみ、この世のいかなる悲しみをも、かぎりなくあたたかくつつみ込む光です。」

これは愛の光の側面を語ってみました。それは愛あるところ、やはり明るさというものが広がっていくからです。地獄界でいちばん欠乏しているもの、それは光でありますが、同時にその光は愛でもあります。

地獄界にいる人たちは、愛欠乏症の人たちばかりです。愛が欲しくて欲しくてしょうがない人たちばかりです。このように愛というビタミンが、あるいは愛という食料が欠けていて、飢えている人たちばかりが地獄にいるのです。彼らは一番この愛を欲しているわけなのです。そして愛があるところに何があるかというと、明るさがあるわけです。愛がないところには暗さがあり、冷たさがあるということです。

「愛は生命です。すべての人は愛を糧として生き、愛を力として生き、愛を生命の炎として生きているのです。すなわち、愛はすべてだからです。愛なくして生なく、愛なくして死なく、愛なくして道なく、愛なくして希望なし、愛はすべてのすべてにして糧にして生命です。」

これは真理を実践して生きていますと、まことによくわかることなのです。

イエス様も比喩によって、この点をよく語っています。自分の愛、肉体、イエスに現われた愛のあり方をパンにたとえたり、ぶどう酒にたとえたり、いろいろされています。引き裂かれたパン、飲み干されるブドウ酒です。そのように自分の肉体を通じて現れる愛の姿をよく語っておりますが、真実、真理に生きている人はほんとうにこの愛が生命だということ、愛が糧であるということがわかってくるようになります。

みなさんには食欲というものがあるでありましょう。一日、一定の時間になるとお腹が空いてくると思います。ちょうど、それと同じように、真実、真理に目覚めてこの道を歩んでいこうと決意した人は、この愛という糧を吸収しないでは生きていけなくなるのです。ほんとうにそうです。手ごたえです。愛なき、この”むなしさ”のなかでは生きていけないのです。

人に愛を与える。そして、その残りの香を、あるいは余香を自らも楽しむ気持ちです。この愛を楽しむ気持ち、これを経験しはじめるとこれを食べないではいられないのです。愛そのものが、あいの行為そのものが、愛の行為に伴うこの魂の歓(よろこ)びが、その歓びの余韻が生命の糧となるのであります。そしてこの糧を得ないで生きていくことができなくなってくるのです。

【※「愛は病です。~」の論点は、改訂版の『太陽の法』では削除されています。追加された論点として、「愛は情熱です。」があります。詳しくは『太陽の法』p137を参照ください。】

「愛は勇気です。愛なくして、人はふるいたつことあたわず、愛なくしては、人は死と立ち向かうことはできないのです。愛は真理の導火線に火をつけるたいまつであり、迷妄に対して解き放たれた一本の矢なのです。」

愛を勇気として捉えてみました。これもそのとおりです。けっきょく、世に多くの事業をなしてきた人を見てまいりましても、愛というものがその背後にあったのではないかと思われることがあります。愛ゆえに偉業をなした方、それは夫婦愛においてもありましょう。師弟愛でもありましょう。親子愛でもありましょう。あるいは、それを超えた愛であることもありましょう。神への愛、神からの愛、こうしたもののために生きている人もいるでしょう。しかし、真実、愛というものは人間世界、人類の歴史をつくるときにこの勇気の原理になっているということを私は感じます。

先日、「マザー・テレサ」という人の映画を観てまいりました。まさしくマザー・テレサの生き方を見ていますと”愛は勇気です”ということの意味が分かります。あれほど小さな体の人です。年も、もう八十代に達しているのに、(※1989年説法当時)あの人はなぜあれほど強いのか、あれほど情熱的に生きられるのかと思うときに、この”愛は勇気です”という言葉が胸に浮かんできます。やはり神への愛、神からの愛をもちろん実感しておられるし、その愛ゆえに、あれほど強くなれるのです。勇気が出てくるのです。戦時下のレバノンにも乗り込んでいくくらいの人ですから、爆弾には勝てないと思うのですけれども、当たらないそうなので行くのです。そういう方ですから大したものです。

「愛は誓いです。人びとは愛の名のもとに、ともに暮らし、ともに語らい、ともに歩んでゆきます。もし愛という名の絆がなければ、人々は途方にくれ、夕暮れを待つばかりです。」

これも感じます。特にご夫婦の場合、あるいは恋人同士の場合、親子、あるいは子弟の場合にも、この”愛は誓いです”というのが、やはりあるような気がいたします。ご夫婦の場合はもちろん誓いそのものでありましょうし、恋人の場合であっても、やはり近いでしょう。愛は誓いであります。

また、師弟愛の場合で、はやり先生にこれだけ愛されたから、自分の愛は何かというと、やはり先生の愛に応えるために、恩返しとして、りっぱな人間として生きていって、多くの人たちのためにならなければないけないと思うことです。このように考えますと、やはり愛は誓いを含んでいます。このように愛のなかには誓いの部分もあるのです。その誓いゆえに人は怠惰に流されることもなく、堕落することもなく、真一文字に向上していくことができるわけです。

これもだいじな部分であると思います。

「愛は言葉です。言葉なくして愛なく、愛なくして言葉ありません。愛はよき言葉であり、よき想いであり、よき波動であり、よき調べです。神は言葉にて世界を創ります。そして、愛は言葉にて人をつくるのです。」

これも大事な部分であると思います。

この”愛は言葉です”という意味がわかるということもだいじなことです。(※)言葉の創化力ということで説いています。言葉によって人を幸福にすることができる。また、世の中をユートピアにすることができるということを明確に(※)打ち出しています。それは一つな大きな悟りであると思います。

“愛は言葉である”と思ったときに、「そうか、与える愛というけれども、何を与えればいいのか分からなかった。」これが、言葉であると考えたときに、これなら自分でもいけると、みなさんは思われるはずです。手近な第一歩です。与えるといっても、いったい何を与えてよいのかさっぱりわからない、財布の中身は少ないし、すばらしいアイデアも出てこない、何を与えようかと思う方もいらっしゃいますが、与えるものがわからなれば、よき言葉を与える、ここからでもできるわけです。

「愛は調和です。愛ありてこそ、人はむつみあい、許しあい、生かしあい、すばらしい世界をつくるのです。愛の輪のなかには、怒りもなければ、ねたみも、そねみもありません。愛の輪のなかには、ただこれ、大調和があって、すべての人が、生かし合っているのです。」

昔観た映画のなかにドラキュラ映画というものがあります。ドラキュラというのは、昼間は姿を現さずに、夜になると現われてくるのです。人びとが夕暮れに集まって、大きな焚火を焚いて、そのまわりで手をつないで、歌ったり、いろいろしていて、その集まっているところへ、ドラキュラが入ろうとするのですが、ガラスのような壁ができていて、入ることができないのです。

もちろん映画ですから特殊撮影であったのでしょうが、まったく透明で何もないはずなのにどうしても近づけない。そのような心を印象深く見ていたことがあります。これはまさしくこの”愛は調和です”という部分を説明していると思うのです。この調和が一つの大円をつくったとき、人びとの間に輪がつくられたときに、魔が入れないのです。人びとが愛しあう輪のなかには、怒りも、妬みも、嫉みもないといいますが、魔も入れないのです。悪霊も入れないのです。これなどは、私もいろいろと経験があります。

一人ひとりの人間は弱いものです。ですから悪霊とか、サタンとか、このようなものに狙われたらひとたまりもありません。人一人の力は弱いものです。しかし、大勢の人の力はやはり強いのです。一人の人間であれば負けてしまうようなものであっても、みんなが手をつないで、囲みをつくって、愛の輪をつくり、調和の輪をつくったときにこのドラキュラが入れないのです。

家庭も同じです。家庭のなかで、調和ができているとき、愛があるときには、その家庭のなかには悪魔が入ってこれないのです。魔が入ってこれないわけです。ちょうどこれといっしょです。透明なガラスのようなもので、入ろうと思っても入れないのです。一人の人間の力では弱いが、複数になったときにこの愛の力は増幅されます。そしいて巨大なものになってくるのです。

また、アフリカにいるシマウマという動物がライオンなどの肉食獣から身を守る方法でも、やはりこれと同じように複数で輪をつくるのです。頭を中心に向けて輪をつくって、みんなでどこからかかられても後ろ足で蹴るのです。集団で対抗するわけです。ところが一匹だけであれば負けてしまうこととなります。

このような輪になるとライオンでもかかれないのです。それで、何とか小さい子供のシマウマであるとか、妊娠している牝であるとか、一匹ではぐれそうなものを探すのです。そしてはぐれたときに飛びかかってくるのです。集団防衛をされると、なかなかかかることができないので、ひじょうによく似ていると思います。ですから、魔のほうはどこか弱いところから、はぐれをつくっていこうと狙っているのです。このようなときに、みんなで、がっちりと手をにぎって守っていけば引きずり込まれないですむのです。

「愛はよろこびです。愛なくして真のよろこびはなく、愛なくして真のしあわせはありません。愛は神のよろこびの表現であり、地上の悲しみを一掃する魔法です。愛はよろこびであり、その喜びがまた愛を生み、その愛がまた、よろこびを生むのです。かくして、愛は円還であり、かくして、愛は循環なのです。」

愛をよろこびという観点からとらえたときに、また深みが増すように思われます。苦しみとしてのみとらえたときに、愛はネガティブなものとして写っていきますが、よろこびという観点からとらえていったときに、愛のあるべき姿が分かってくるのです。愛は与えるものか、与えられるものか、奪うものか、捧げるべきものかといろいろ議論をし、考える方もおられるであろうけれども、この”愛はよろこび”であるという定義から考えたときに、どのようなものが愛であるべきなのか、また違った視点が得られると思います。

「愛は進歩です。ひとつの愛は、ひとつの進歩を生み、ひとつの愛はひとつの光を生む。愛ある日々は、進歩ある日々です。なぜならば、愛の行く手には、神がいるからです。愛の行く手には、数かぎりない聖霊たちがいるからです。愛のあるところに、退歩はありません。愛のあるところに、おそれはありません。愛には、ただ進歩あるのみです。あいには、ただ向上あるのみです。愛とは、ただ、神のもとへと飛んで行くことなのです。」

愛という名のもとに、退廃は許しません。堕落は許されないということです。愛とは人をよくしていくこと、人に優しくあること、育んでいくこと。ゆえに愛とは、神への旅立ちを意味するということなのです。それゆえに堕落は許されないのです。

「愛は永遠です。愛は過去にあり、現在にあり、未来にあります。ときのなかに愛なき時はなく、時代のなかに愛なき人はいないのです。愛はすべてのときをつらぬく、輝ける黄金の翼です。はるかなる天空をかけてゆくペガサスです。愛は永遠のときを生きる証であり、愛は永遠の今をつかまえる狩人です。」

昔、詩人になろうと思ったこともあったものですから少し詩的な表現になっています。この”愛は永遠です”という考え方によって、愛のなかに時間の概念も取り込んだわけです。これがやはり、神の愛や、高級霊の愛を知るために大事な考え方です。過去・現在・未来をつらぬく愛という観点もあるのです。

愛というものを、私たちは、ともすれば刹那的に考えてしまいます。現在ただいまの愛ということで考えがちでありますが、その現在ただいまの愛ということが一つの苦しみになったり、身動きできないような状況に自分を追い込んだりすることもあります。しかし、翻って考えれば、愛は永遠です。過去にあり、今にあり、未来にある。こういった観点から考えたときに、この愛の縛りが解けることがあるわけです。

現時点ではこれがほんとうの愛かどうかわからないけれども、長い目で見たときにはいったいどうなるのかということです。これは私などもよくやっておりますが、けっきょく、人を生かす道といっても、このように時間の観点から見ていかないと、真に人を生かすことができないのです。現在ただいま確かにそのようにしてやったほうが砂糖菓子を与えるように、その人の立場としてはいいのだけれども、果たして長い目で見てどうかということです。

この”愛は永遠です”という観点から、神は時に人間に試練を与えることもあります。高級霊たちにしてもそうです。私たちを試練にあわせることがあります。その試練を通りぬけることによって、いっそう私たちは強くなり、焼きが入って、鋼のごとく強靭になってゆくことがあります。こういう部分に愛の永遠性があるのです。時間の流れのなかで、不朽のものとしての愛がある。現在ただいまが幸福であればよいというのではない。

この永遠の愛のなかには、たとえば子供に先立たれる、親に先立たれる、あるいは妻に先立たれる、そのような不幸もあるでしょう。あるいは事業の失敗ということもあるでしょう。健康を害するということもあるでしょう。あるいは事業の失敗ということもあるでしょう。健康を害するということもあるでしょう。いろいろ試練がある。そしてヨブのごとく神を恨んでみたい気持ちになることもあります。

しかし、神は常に微笑んでいる。なぜ微笑んているかというと、永遠の観点からその人を見ているからです。この人の魂の修行というものを見ている。そして、試練が過ぎ去ったのちに、私と一緒に神が歩んでくださったのだ。」ということを思い浮かべることができるのです。

旧約聖書の詩編であったと思いますが、このようなくだりがあります。ある人がつかれて海岸をとぼとぼと歩いていたのです。そして、後をふり返って見てみると、不思議にも、海岸線には二人分の四つの足跡がずっと続いていたのですが、途中で足跡が二つになっているのです。そして、その後はまた四つになっているのですが、その人が不思議に思って「何であろうか。なぜ足跡が半分になったのであろうか。」と考えるわけです。それで、思い当たったように「ああ神よ、あのときは自分が試練のときだったのですね。あの足跡が減って、二つになったときには試練のときだった。あなたはあのとき、私を見捨てられたのか。私を見捨てられて、試練のなかに置かれたのか。」と、その人はそのように思ったのです。そのとき神はこ・

�ように答えられるわけです。「いや、その試練のときに、私はあなたを背負って歩いていたのだよ。」と。

足跡が二つしかなかった理由は、実はそのときに神がその人を背負って歩いていたのだということです。このような部分が旧約聖書のなかにあったと記憶しております。このようなこともあるわけです。

「愛は祈りです。愛なくして祈りなく、祈りなくして愛はありません。愛は祈りによりて、より積極的な力となります。愛は祈りによりて、すべてのものごとを成就するのです。祈りは愛を高める力であり、祈りは愛を深める秘法です。すなわち、神への祈りによりて、愛は成就し、神への祈りによりて、愛は実現するのです。神は愛なり、愛は神なり。愛をして神ならしむ力は、祈りなり。祈りによりて、人びとは生き、祈りによりて神を知る。かくして、祈りによりて、人は相の力を最大に発揮することができるのです。」

「幸福の科学」においては、反省を中心にして、祈りことはまだあまり強調しておりませんが、ほんとうは強力なパワーを秘めています。私などは、もちろんよく祈りをしています。地上に生きている人間の力は、やはり限られています。ほんとうに大きな力をもって人々のために生きようと思ったときには、やはり、この地上にない力、見えざる天上の力を受けざるをえないのです。

こうした大きな力というものは、これは人間の力をはるかに越えています。したがって、ほんとうに真なるものが思いのなかにあり、どうしても成就せねばならないときに、祈りというものは強力な力を発揮してくれます。

祈りの力によって危機を乗り切りることも可能です。この祈りにおいていちばん大事なことは、もちろん自分自身の危機を乗り切ることもありますが、その自分だけの危機を乗り切る場合よりも、世のため、人のためになるような大きな観点から見て、是とされる祈りであったほうがより強力であるということです。

この祈りのパワーについては、そのうち、段階が進んでいったときに教えたいと思っておりますが、そうとう強力なものです。それは明らかに地上の人間の力ではない力が現れてきます。それが本格的に出てきはじめれば、みなさんもおそらくそのことを実感されることがあると思います。

そして、”愛とは祈りである”ということは、祈りにってほんとうに神と一体になるという経験があるということです。これを経験されることがあるでしょう。私も毎日祈りのなかで、神様というよりは、イエス様や、他にいろいろな高級諸霊がいらっしゃいますが、こうした方々に祈ることが多いのです。もっと力をくださいと祈っています。”もっと私に体力をください。もっと多くの行動力を、もっと多くのエネルギーを。もっと多くの人びとを導けるだけの力を”というように祈っています。

徒労した場合には、”一日も早く回復して、ふたたび仕事ができますように。もっと多くの仕事ができますように。こんなことで倒れてしまわないように。もっともっとお役に立ちたい。今より一〇倍、二〇倍、一〇〇倍働きたいので、そのための力をください”と祈っています。祈れば、ちょうど公衆電話に降下を入れてダイヤルを回したのと同じように返答が返ってくることもあります。

【大川隆法『太陽のメッセージ』第3章「愛の力・神秘の力」より抜粋】
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続きまして、教典『復活の法』の第3章より「天国に還る方法」を学びます。これは、1988年11月20日に上級セミナーとして、『永遠の法』講義として賜ったものです。経典をお持ちでない方はこの機会に是非ご拝受ください。【税抜1800円】
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■「天国へ還る方法」―死後の行き先は生前の心境で決まる―
3五次元の心境を維持する方法
〇女性は「正語」に重点を置く

女性にとって特に大切なのは言葉の部分です。女性は正語を重点的に点検してみてください。正しく見ることも難しいのですが、女性の場合は、言葉の部分が、より難しいだろうと思います。

男性には、どちらかというと、理性的、知性的な傾向があるので、「正しく語る」ということは、訓練していくと、ある程度、できるようになります。

女性の場合、悪しき言葉によって地獄をつくっていることが多く、「正しく語る」ということが特に大切なので、これをチェックしてください。

「自分の家庭が天国であるか、地獄であるか」ということを判定しようと思うならば、口に出している言葉をチェックすればよいのです。そうすれば、たちどころに分かります。

一日を振り返り、自分が出した言葉を思い出してリストアップし、その言葉を天国的な言葉と地獄的な言葉とに分類してみると、意外な事に、その比率は、五対五や六対四にはならず、たいてい、八対二や九対一と、どちらか一方に極端に偏っていることが多いのです。なかには、十対〇ということもあるかもしれません。

地獄的な言葉が出るような心境のときには、そのような言葉がずうっと出やすく、日によっては、一日中、出ることもあります。逆に、天国的な言葉を出す人は、わりに安定感があり、「いつも、よい言葉しか出さない」という”十割打者”も、けっこういます。

天国的な言葉と地獄的な言葉との比率を、できれば九対一ぐらいまでもっていきたいものです。地獄的な言葉は、ゼロにはできないかもしれませんが、努力して一割ぐらいまでに抑え、九割ぐらいは天国的な言葉にしたいところです。

最初の関門である五次元的判断をするためには、「正見」と「正語」の部分を、しっかりと実践してください。それ以上の難しい教えもありますが、まず、この二つを実行していただきたいのです。

男性であっても、思ったことをすぐに口に出したり、すぐにカーッと怒ったりするタイプの人は、正語の反省をすることが大切です。ただ、一般的に、男性は女性に比べて、すぐには口に出さないことが多いのです。それは社会での経験量が豊富だからです。

女性の場合、よい環境で育てられ、恵まれた娘時代を送り、そのまま結婚して家庭に入ると、世間の人たちとの会話や仕事の経験がほとんどなく、言葉の統御ということを教わっていないため、言葉によって感情がストレートに出てしまうことが多いのです。したがって、女性は正語に重点を置くべきです。

男性は、侍、武士として、「内と外は違う」という考え方ができるので、ある程度は控えが効きます。「みっともないまねはしたくない」と考え、「武士は食わねど高楊枝」というかたちで、いちおう上辺を飾るのです。腹のなかは煮えくり返っていても、外には出しません。

会社勤めをしている男性であれば、上司に怒られたときに、「自分には非がない」と思っても、「どうもすみませんでした」ということぐらいは、訓練の結果、できるようになっています。逆に上司に言い返したりすると、たいていは次の人事異動で左遷か降格になってしまいます。

女性は、キャリア職の人は別ですが、こういうことが十分には分かりません。会社で、いわゆる事務職にプールされていて、幹部教育、営業教育と関係のないところに置かれ、あまり言葉の統御を考える必要のない無風地帯にいる人も多いのです。そのため、会社で仕事をしていても、先輩の女性に嫌がらせを受ける程度で済んでいる場合もあります。

しかし、男性の場合は、自分や家庭の将来に直接響いてくるため、ある程度、言葉を統御できる人は多いのです、

【大川隆法『復活の法』幸福の科学出版 第3章「天国へ還る方法」より抜粋】
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本日の『永遠の法』講義「天国へ還る方法」では、五次元善人界の天国世界と常に同通できるような心境を維持することができるために、女性の場合は「正語」の反省に重点を置くことをお勧めされました。

話は少しずれるかもしれませんが、恋愛の傾向として「男性は目で恋をして、女性は耳で恋をする」という言葉を聞いたことがあります。その点では、女性は言葉に敏感であり、思ったことをすぐに言葉にしてしまう感性的なところがあるように思います。しかし、一日話した言葉を思い出して書き出してみると、八正道を知らず「正語」ができていない人は、地獄的な言葉と天国的な言葉の割合が八対二、九対一、など極端に偏っており、なかには、十対〇の場合もあるとあったのは衝撃的でした。

私たちは、信仰者として、一日使う言葉を限りなく天国的な言葉100%を目指して精進を共に重ねたいと思います。私もこれは工夫していますが、たとえ地獄的な言葉が口から出てしまった場合、それにまずすぐ気がつくことが大切なのですが、すぐに逆の天国的な言葉を出すことで、地獄的な言葉を打ち消す努力をしています。

日本には言魂ということがあるとおり、大和言葉には呪力があります。だから言葉の創価力というものをしっかり把握して、よい言葉を使うことでより良き人生をつくっていきたいものです。

よき言葉は善き人生をつくり、愛き言葉は悪しき人生をつくります。
あの世において天国世界に還るために、そして地上仏国土ユートピア創りのためにも、日々の言葉の調律がとても大切です。そのためには、正しいものの見方である正見、そしてその前提となる正しい信仰―正信がとても重要です。

天国世界の礎は、正見と正語です。日々八正道を実践して、正しい眼と正しい口を共に鍛えてまいりましょう。

人生は言葉でつくられます。「正しい言葉」がつかえるように凡事徹底しましょう。

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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are One, with our Lord.  我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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―天御祖神とともに―
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文責:蒲原宏史 

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