75 全てにおいて優秀な人でなく、一部だけでも優秀な人を、適正に尊敬しよう。
【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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12月8日は降魔成道記念日です。主エル・カンターレ
大川隆法総裁先生が、1985年12月8日に名古屋の地(降魔成道館)にて、救世主として法を世に説くことを決意しようとしたとき、これを何としても阻止せんと、悪魔が総攻撃をかけてきました。降魔成道記念日とは、この悪魔を打ち倒して、仏法真理の流布に立ち上がったことを記念する聖なる日です。
主は、ただ一人往くという不退転の決意によって魔を下し、降魔成道をなされ、救世主として立たれたことに心からの感謝を捧げると共に、大川隆法総裁先生のご復活を心より祈念し、全世界の信者一同で、「降魔成道記念日」感謝式典版「復活の祈り」を執り行います。
主のご復活を妨害する悪霊・悪魔・妖怪・妖魔・闇宇宙・唯物論の勢力といった悪しき者たちの呪いを打ち祓い、主がこの地にて「エル・カンターレの法」を再びお説きいただけるための、結界を皆様と共につくってまいります。皆様ぜひご参加ください。
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さて、私たち、幸福の科学の信者の幸福とは「悟りの幸福」です。私たちは、「正しき心の探究」を通して「愛と悟りとユートピア建設」をこの地上に実現するための使命を仏から与えられ、その実現のためにすべてを既に与えられました。
ここで、お釈迦様の教えである仏教的精神を振り返り、私たちの幸福を全世界に述べ伝える原動力となすべく、ひきつづき教典『悟りの挑戦(下巻)』を共に学びます。経典をお持ちでない方はこの機会に是非ご拝受ください。【税込み1800円】
―本書をていねいに精読するならば、『悟りの挑戦』が、仏陀自身の仏教解説であることがわかることだろう―上巻「あとがき」より
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■『悟りの挑戦(下巻)』第6章 仏性と成仏
3 一切衆生悉有仏性と一切衆生悉皆成仏―本覚と始覚
この「悉有仏性説」は、今見たように非常に尊い教えではあるのですが、ただ、その反対に、歴史のなかにおいて、非常に間違った流れを生み出した思想でもあるのです。
それは、「一切衆生悉有仏性」と「一切衆生悉皆成仏」の問題です。
仏性があるということは、仏様になれる可能性がある、要するに如来の素質があるということなのですが、では、それは一切衆生、すべての人が「悉皆成仏」―現実に仏になれるということを意味するのかということです。
「仏性がある以上なれるのだ」という単純な考え方もあれば、「仏性はあるが、なれる人となれない人があるのだ」という考え方も当然出てきます。ここのところが大きな問題として出てきたわけです。
この問題は、言葉を換えると、「本覚(ほんがく)と始覚(しがく)の論争」とも言われます。「本覚」とは本覚思想ともいい、「もともと仏性を持っているということは、本当は人間として生まれたときから完全に悟った存在なのだ」、あるいは、「生まれてくる前から悟った存在なのだ」という考え方なのです。本覚思想は、天台宗の系統では天台本覚思想ともいいます。比叡山はこの思想です。もともと悟った存在なのだという考え方です。
この考えに対して、「始覚(しがく)」というものがあります。「そうではないのだ。人間は教えを聞いて、修行をして、初めて悟りが開けるのだ。修行をして、初めて仏になれるのだ」という考え方が始覚です。
この本覚と始覚とを論争でぶつけてみると、どうしても始覚のほうが弱いのです。みなさんもお分かりでしょう。皮相な民主主義の多数決原理だと、「『みなさんは、もともと生まれつき悟った存在なんですよ。みんな如来になれるです』というほうがよいと思う人は手を挙げてください」と言えば、たくさん手が挙がり、「『修行して成功した人だけが悟れるのですよ』というほうが正しいと思う人は手を挙げてください」と言えば、やはりパラパラッとしか挙がりません。悟れそうにない人は挙げないでしょう。このように、本覚のほうがありがたいので、議論するとどうしても優勢になりりえるのです。迎合しやすいし、みんなよろこびますから、多数決の原理でいくと、流れとしては本覚のほうへいってしまうのです。
しかし、釈迦の修行成道の道を考えてみると、この本覚思想にはかなり難しい問題があるということは、どうしても否めないのです。この問題は仏教のなかの大きなテーマとなりうるのです。
【大川隆法『悟りの挑戦(下巻)』第6章「仏性と成仏」より抜粋】
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さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。
今日からは『太陽のメッセージ』を引用しながら、幸福の科学の基本書である『太陽の法』の大切さを共に学びます。本書は1998年の年末に『太陽の法』の講義としていただいたものです。【現在は絶版となっています】
また、後半では、『永遠の法』も少しずつ読んでまいります。『永遠の法』は、エル・カンターレの空間論についての教えです。
経典をお持ちでない方は、ぜひ拝受ください。全国の書店や支部や精舎よりお求めいただけます。【税込み2200円】
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太陽のメッセージPart1
第1章「いま真理の太陽が昇る」
5 色即是空とイデア説
変化するもののなかにあって、逆に今度は変化しない何かがあるというわけです。この地上のものはすべて変転していくという法則のもとにある。変転していく法則のもとにあって、生命あるものは変転しない何かを確かに持っているのです。姿は変わってゆくのにもかかわらず、統一体として存在しているということは、いかなることか。そこには、それを統一させるものがある。この統一するもの、このイデア、理念、これこそが実は魂といわれる存在そのものであるといえるのであります。
「色即是空、空即是色」という仏教の言葉がありまずか、これも、けっきょくのところ、プラトンのイデア説と変わらないということであります。理念があって地上に存在が許さているということなのです。この理念というべきものがなければ、変転する法則、変化の法則のもとにある地上の物体、物質は、すべて姿・形なきものになっていくのみです。ところが、それが消滅と生成をくり返しながらでも、統一体を維持しているということは、そこにそれを統一しているイデア、理念といった、かたちが何かあるということなのです。
ここで、変化の法則から説明を続けてきて、今度は変化しないものに説明が移りゆくわけです。『太陽の法』においては、「
人間の本質は、時間の流れのなかで変転してゆくはかない存在ではなく、永遠に普遍の実在なのです。この普遍の実在こそ、生命であり、魂であり、霊であります。」(p27)に書いております。
霊という言葉を特殊なものとして、摩訶不思議なものとして私は言っているのではなく、この不変の実在、イデアのことを言っているのであります。
6 個性ある意識体
私は、「肉体人間を支配している個性ある知性。肉体人間を存在せしめている個性ある意識体、これらが人間の本質なのですから、霊という言葉に対して、世人がいかなる印象を持とうが持つまいが、真実は一つなのです。すなわち、花には花の生命体があり、人間には人間の生命体があるということです。」と言い切ってよいと思います。事実であるから、否定のしようがないのです。そのとおりだからです。はっきり言ってしまえば、議論の余地はないのであります。
確かに霊というものの存在証明はひじょうに難しいのです。みなさんも、これをなそうとされるならば困難をきわめることとなりましょう。しかし、これは霊というものが実際に存在するということを実体験し、感じてしまえば、これは信じる・信じないの問題ではなく、あるものはあるとしか表現しようがないのです。現実にあるからです。実際に私は毎日いろいろな諸霊と話をしています。現にいるのです。いるものはいるのでどうしようもないのです。それは否定のしようがありません。またそれはデータによっても確かめられることでもないのです。現にいるのです。同じ個性が存在しているのであります。このことは否定しがたいのです。
7 人間の認識力の限界
有限と無限について考えてみたいと思います。ここに一つのたとえ話があります。ある亀の話です。
昔、大きな亀がいて、右足を出すのに一〇分、後ろ足をそれぞれ出すのにまた一〇分、つまり体をひとまず動かすのに四〇分もかかる亀がおりました。あるとき、この亀は砂浜の海岸線に行きつくところがあるかどうか不思議に思って、自分の住んでいる島の探検に出てゆきました。
その島というのは亀にとってはまさしく全世界そのものであったわけです。そして世界探検にこの亀は乗り出します。体一つ動かすのに四〇分かかる速度で乗り出したのです。見渡すかぎりの海岸線をハッタと見すえ、よし世界探検に出るぞということで勢いこんでスタートし、そして全力で歩きはじめました。そして、自分がどこを踏破したかわからないと困るので、自分の歩いた足跡がしっかりついているかどうかを見ながら歩いていたのです。「足跡さえ見ておけば自分の通ったところがわかるはずだ。こうして、この時間を計っておればおそらく世界がどの程度の広さか分かるだろう。」こう考えてこの亀は歩いて行ったのです。
しかし、いくら歩けどもあるけども、海岸線は終わることなく、ある日、亀は力尽きて死んでしまいました。自分が全世界の半分くらいは踏破したと信じながら生涯を終えました。あくる日に島の漁師がやって来て、その亀を引きずって島の反対側へ行って食べてしまいしまた。島の反対側まで行くのに大変な時間がかかったのかといえば、漁師の足でいけばわずか一〇分ですみました。
哀れな亀は、太平洋の波が非常にも自分の足跡を洗っていたとも知らずに、小さな島の砂浜をグルグルと回っていただけであったのです。自分が確かめようとしていた足跡は波で消されていたのです。それとも知らずにグルグルと小さな島を回っていただけであったのです。
これは、いうなれば、認識力のたとえ話です。有限と無限を考えるときに、どうしてもこの話が出てくるのです。この話は、実在界でよく使われいるたとえ話なのです。私も、如来の説法、菩薩の説法をずいぶん聞いておりますが、彼らはたとえ話がひじょうに上手です。そしていろいろな比喩を出してきます。
仏陀の説法のいちばんの特色もたとえ話でした。キリストも実際たとえ話がひじょうにうまかったのです。やはり、そのようなたとえ話を使わないと当時の人々にはなかなか分からなかったからです。このようなことで、やはり菩薩や如来といわれる方はみな、たとえ話がひじょうに上手です。哲学的な話だけではなくて、やはり、それをどのように説明すれば分かるように話ができるのかということが大切なわけです。そしてそのなかに普遍的な真理があるのです。
このたとえ話のなかの亀と漁師のちがいはどこにあるのでしょうか。歩く速さは、もちろん違うでしょうし、体の大きさももちろん違うでありましょう。いろいろな要素はありますが、しかし、根本的な差異は認識力の差にあったのではないかということです。わかる者とわからない者の差が明らかにあるわけです。
亀の目的や努力、そして熱意は見上げたものだけれども、その結末においてひじょうに悲しいものが漂っています。悲壮感が漂い、ペーソスにあふれています。これはいったい何なのでしょうか。つくづく考えてみますとけっきょく、認識できないということに対する悲しさです。
8 洞察力と知能の差
神が人間をどのように見ておられるのかを、このたとえ話で考えてみていただければよいのです。このように見えるということなのです。現代の知識人といわれるような方々も、神の目から見れば、この認識力のない亀のようなものなのです。かわいそうです。わからないのです。彼らは一生懸命歩いているのです。この亀と同じように、花に汗を浮かべ、脂汗をにじませながらやっているのです。一生懸命、自分の足で歩いて世界を測量しようとしているのです。それで足跡を残していけば、必ずわかると考えているのです。地上の人間の認識力はこのような段階なのです。
このたとえ話において、ちょうどこの漁師くらいにあたるのが、高級諸霊といってもよいでしょう。また、悟った方といってもよいでしょう。そういう悟った人から見れば、悟っていない人がこの亀のように見えるということなのです。ここに認識力の絶対的で、質的な差があることを知らなければならないと思います。
また、このたとえ話を無神論者や唯心論者に言い換えたらどうでしょうか。たいていの無神論者は、「われわれは亀ではない。」と言ってきっと怒るでしょう。しかし、人生が六〇年、七〇年で有限であると思っている人は、まさしくこの亀そのものです。本人が気づくと気づかないにかかわらず、事実はこのとおりなのです。
たいへん気の毒なことでありますが、これは知能指数とは関係がないのです。知能指数の差にかかわる認識の差ではなく、知能指数がいくら高くても、わからない人にはわからないのです。知能指数ではかられるような認識とは違うのです。
これはやはり、魂の奥底から出てくる能力でもありましょう。洞察力にも似たものだと思います。いくら頭がよくても、わからない人はわからないのですから、ほんとうにかわいそうです。
私ももう一〇年近く前になりましょうか、【※説法当時】東大在学中に、法哲学という授業に出席しておりました。その授業の教授は無神論でありました。法哲学ということで、過去の哲学を法律的な側面から説いておられる人です。彼の研究する哲学的思想が記された書物は、本来いろいろな光の天使たちが書いたものでありますが、そのような光の天使たちが書いた文献を研究していても、かわいそうですけれど、わからないのです。それでも、東大の教授にはなれるのです。よく文献を調べて、鋭い論文を書けばなれるのでしょうが、本質がわかっていないのです。まったくわかってないといってよいのです。光の天使の書いたものを勉強して、いろいろとやってはいるのだけれども、まことに残念なことだと思います。
その人が最高レベルの学問であると思っているのは、やはり、私たちが見れば(※六次元)神界レベルを最高の考え方だと思っているのです。そうしたものが最高だと思っていて、そしてご自分の悟りがどのあたりにあるかというと、明らかに四次元幽界から地獄界の間を行ったり来たりしているのです。本人には気の毒ですが、おかしかったです。
そのころ、私はまだ霊道は開けていなかったのですが、多少その前兆があったのでしょうか、人の姿を見ていると、いろいろとそのオーラに近いものがわかるような感じがしていました。そして、その教授を見ておりましたけれど、頭の回りがやはり薄らぼんやりとしているのです。何かをかぶっているような感じでした。後から考えれば、まあ完全にあれだろうなと思うのですが。(※悪霊・悪魔の憑依)
講義のときに学生との質疑応答がありまして、その先生は神とか霊とかを絶対に信じないということを一生懸命にいっているので、そのときに、ある学生が、「先生は来世がたいへんですね。」と逆に質問していたのです。その先生は「後生恐るべしですね。」などと一生懸命に答え、心のなかでヘヘンと思っているのがわかったのですが、ほんとうに大変だろうなあと思って、私も見ていました。そういう方も最高学府で教えているのです。
私は、卒業の前であったと思いますが、その先生に提出する答案があって、法哲学の試験問題ではありましたが、まったくそれに関係なく、(中略)無神論者で霊を信じていない人に対して、徹底的に霊を信じる立場で書いたのです。私は全般的に成績は良かったのですけれども、その結果は、珍しく「良」ということでありました。それでも不合格ではなかったので安心しました。「不可」かなと思ったのですが、「良」ぐらいはいただいていたようでした。
まあ、あまり唯物論的な講義を聴いていますと、そのように書きたくなることもあります。税金を使って教えているわけですから、やはり許せないという感じでした。言っていることが間違っているのですから、やはりいけないと思います。税金から給料をもらって、それで嘘を教えていたらやはり許されないのです。いくらインテリであって大学の先生であっても、間違ていることは、真理の立場から見ればはっきりしているのです。
このような人は知能指数は高いであろうし、ペーパーテストを受ければ、さぞかしできることでありましょうが、根本が間違っているのですからしょうがないのです。まさに後生恐るべしです。もうあと一〇年くらいであろうと思いますが、気の毒です。東大で哲学を教えていた教授などいって、あの世に還っても、自分は絶対偉いと当然ながら思っています。あの世に還って実際にまわりの世界が暗かったらどうするのでしようか。困ると思います。
なかなかこのようなタイプの人は救うことができません。本当に救いがたいのです。なぜ救えないかといいますと、頭でっかちになっていますから、あの世でお坊さんのような人が説得に行っても、このタイプだけは説得できないのです。「私はあれだけ知性的に詰めて勉強してきて、絶対これで真理だと思っている。だから間違いない。」の一点張りで考えを変えることができいのです。
【大川隆法『太陽のメッセージ』第1章「いま真理の太陽が昇る」より抜粋】
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続きまして、幸福の科学の基本三法の一つ、経典『永遠の法』を振り返ります。
人生の真理を網羅した、法の巨大な体系【※太陽の法】、数千年以上の視野をもって、諸如来、諸菩薩たちの活躍を語る時間論【※黄金の法】、そして、この世を去った実在界の次元構造を明確に説明し尽くす空間論【※永遠の法】、その三本柱が、エル・カンターレの法を特徴づけるものです。本書は、『太陽の法』(法体系)、『黄金の法』(時間論)に続いて、空間論を開示し、基本三法を完結する目的で書き下ろしたものです。これでエル・カンターレの法の輪郭が見えてきたことでしょう。―まえがき―
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■『永遠の法』第6章 九次元の世界
6 釈迦の働き
九次元霊たちのなかで最も中心的な存在なのは、ゴーダマ・シッダールタ、釈迦牟尼仏としてインドに出たことのある生命体です。ただ、釈迦(釈尊)として出たときは、本来の大いなる仏陀意識(エル・カンターレ意識)のわずか五分の一ぐらいの力しか持っていませんでした。このように、釈迦の意識は巨大な生命体として九次元世界にあるのです。
この生命体の起源は古く、地球におけるもっとも古い霊です。釈迦が人類に対して非常に大きな影響を与えた理由の一つは、この生命体が非常に長い歴史を持っていて、地球の草創期から関係していたということがあります。
最も古い霊であるにもかかわらず、この霊は積極的な働きをしていて、何度も何度も自分の一部を地上に出して、人類を指導してきました。そうした事実があります。
また、地球系霊団に関して最高の責任を持っている霊であることも事実です。したがって、「この霊の性格が、文明の性格をつくってきた」と言っても、決して過言ではないでしょう。
釈迦の生命体が、過去、ラ・ムーとしてムー帝国に出たり、トスという名前でアトランティス帝国に出たり、リエント・アール・クラウドという名前でインカの国に出たり、ヘルメスという名前でギリシャの地に出たりしたことは、すでに『太陽の法』で述べたとおりです。
釈迦の働きの中心は法をつくるということですから、地上に現れたさまざまな宗教や哲学、思想などの根源をたどっていくと、結局、この釈迦のところに行き着くのです。つまり、のこの霊が天上界において考えていることが、地上にさまざまなかたちで、現れているということです。
釈迦の意識の本体を、九次元では「エル・カンターレ意識」といいます。法というものをたぐっていくと、結局、エル・カンターレ意識につながっていきます。大いなる法意識、人類を統べる法の意識として、釈迦の意識があるのです。
【大川隆法『永遠の法』幸福の科学出版 第6章「九次元の世界」より抜粋】
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本日の『永遠の法』では、地球系霊団に関して最高の責任を持っている霊が釈尊であることが明らかにされました。「この霊の性格が、文明の性格をつくってきた」と断言されています。
また、とりわけ重要なのは最後のところで、
『釈迦の意識の本体を、九次元では「エル・カンターレ意識」といいます。法というものをたぐっていくと、結局、エル・カンターレ意識につながっていきます。大いなる法意識、人類を統べる法の意識として、釈迦の意識があるのです』
現在、エル・カンターレと呼ばれる霊存在が大宇宙の根本仏であるという秘密が明らかにされているなかで、釈迦の意識が宇宙の理法と直結していることがわかる重要な教えでした。
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are One, with our Lord. 我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
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FAX:0596-31-1778
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文責:蒲原宏史
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(12/1-1)【基礎教学通信】335【12月1日】『太陽の法』を読む68「太陽のメッセージ」いま真理の太陽が昇る2―「悟りの挑戦(下巻)」一切衆生悉有仏性と一切衆生悉皆成仏【本覚と始覚】―『永遠の法』釈迦の働き
『太陽の法』