(11/27-1)【基礎教学通信】331『太陽の法』を読む64「太陽の時代の到来を信じて」信仰を背骨とする世界を―「悟りの挑戦(下巻)」仏教学に対する重大な修正―『永遠の法』神秘の世界

『太陽の法』

71 昔、中級セミナー講義中、背後の看板が落ちた。私は一秒も講義を中断しなかった。(震度3)

【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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12月8日は降魔成道記念日です。主エル・カンターレ 
大川隆法総裁先生が、1985年12月8日に名古屋の地(降魔成道館)にて、救世主として法を世に説くことを決意しようとしたとき、これを何としても阻止せんと、悪魔が総攻撃をかけてきました。降魔成道記念日とは、この悪魔を打ち倒して、仏法真理の流布に立ち上がったことを記念する聖なる日です。

主は、ただ一人往くという不退転の決意によって魔を下し、降魔成道をなされ、救世主として立たれたことに心からの感謝を捧げると共に、大川隆法総裁先生のご復活を心より祈念し、全世界の信者一同で、「降魔成道記念日」感謝式典版「復活の祈り」を執り行います。

主のご復活を妨害する悪霊・悪魔・妖怪・妖魔・闇宇宙・唯物論の勢力といった悪しき者たちの呪いを打ち祓い、主がこの地にて「エル・カンターレの法」を再びお説きいただけるための、結界を皆様と共につくってまいります。皆様ぜひご参加ください。

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さて、私たち、幸福の科学の信者の幸福とは「悟りの幸福」です。私たちは、「正しき心の探究」を通して「愛と悟りとユートピア建設」をこの地上に実現するための使命を仏から与えられ、その実現のためにすべてを既に与えられました。

ここで、お釈迦様の教えである仏教的精神を振り返り、私たちの幸福を全世界に述べ伝える原動力となすべく、ひきつづき教典『悟りの挑戦(下巻)』を共に学びます。経典をお持ちでない方はこの機会に是非ご拝受ください。【税込み1800円】

―本書をていねいに精読するならば、『悟りの挑戦』が、仏陀自身の仏教解説であることがわかることだろう―上巻「あとがき」より
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■『悟りの挑戦(下巻)』第5章「無我中道」
4 仏教学に対する重大な修正

以上の話で、私がなぜ無我を問題にしているかということが、かなりわかったと思います。

要するに、無我の思想を心の調律の問題としないで物理的実体論として入った場合には、このように仏教の自殺に流れていきますから、これはどうしても間違わせるわけにはいかない、ということを言っているのです。

そして、このように述べていること自体が仏教学に対する重大な修正をしているわけなのです。

結局、釈迦は「自己そのものは、磨きかつ伸ばさないければないものだ」という明確な思想を持っていたわけです。「己れというものは探究すべきものであるのだ。探究していってこそ、菩薩となり如来となる道が開けるのである。仏に向かって、その階梯を登っていくのが人間の修行なのである」という思想ですから、あくまでも修行の主体というのはあったわけです。

また、仏教では、因果の理法―「原因があれば結果がある」という自己責任の原則を説いていますが、その主体として、魂というものがなければ、自己責任の原則なるものは、そもそもありえないわけです。存在しないわけです。このようなところが、忘れ去られてはいけない部分だと思うのです。

〇肉体なるものから発する自我意識―「貪・瞋・癡・慢・疑・悪見」
結局、この無我の思想は、次のように捉えるべきなのです。

「人間のこの世の不幸とは何か」ということを突き詰めていくと、その苦しみの根っこにあるものは、肉体に基づく欲望です。これが苦しみの根っこなのです。ですから、肉体なるものから発する自我意識というものを、もう一度見つめ直す必要があるのです。

では、肉体から発する自我意識とはいったい何でしょうか。それは、たとば「貪・瞋・癡」という「心の三毒」がそうです。

〇心の三毒―「貪」「瞋」「癡」
貪欲というものは、欲望そのものです。欲望そのものは、やはり、この世的なものの考え方から出てきているものです。肉体的なものからそうとう出ています。眼の欲、口の欲、鼻の欲、耳の欲、それから手や足の欲、あるいは内臓の欲・・・。いろいろな欲望から苦しみが生まれてくるわけです。身体的な欲望から出てくるものです。

それから「瞋(じん)」―怒りのところもそうです。動物たちもキッと歯をむいて怒ったりしますが、単純に怒りが出て、短気が起きるというのは、やはり動物的存在である証拠です。動物たちは危険から身を守るために、すぐ歯をむいたり、爪を立てたり、毛を逆立てたりしますが、やはりそういう動物的な部分があるように思います。

それから「癡(ち)」のところは、愚かさということです。本当に真理を知らずに、愚かな行動をとっている人がたくさんいて、みずから苦しみをつくっていきます。たとえば、智慧のある人であれば、水溜まり(悪)を通れば靴が傷む(魂が傷つく)ということがわかるのに、智慧のない人は、水溜まりのなかに踏み込んでみなければわからない、ということがいくらでも起きます。あるいは、宗教学者でも、正しい宗教を迫害し、邪教を擁護する、といったバカなことをする人もいます。学歴はあっても、愚かな、智慧の足りない人はいるのです。

そのそれぞれが、この世的なる生存に基づく迷いであり、苦しみであるわけです。

〇六大煩悩―心の三毒と「慢」「疑」「悪見」
また、「慢(まん)」と「疑」もあります。

慢とは、無限の神仏の存在というものを自覚せず、この世だけでの人との比較によって生まれる、この世的な上下感です。「自分のほうが優れている」と思ったり、あるいは、自分よりずっと優れている人に対しても、「自分とはそんなに変わらない」と思ったり、はるかに神仏に近い人に対しても、「自分と同じ人間だ」と思ったりすることなども慢の一つです。

今から二千年前のイスラエルでは、人びとはイエスを見ても救世主とは思わず、大工の息子だと思っていました。最期まで肉体の目というものを通して考えていました。そして、二千年も経ってから、十字架にかけた像を一生懸命拝んでいるわけです。これなども慢でしょう。

それから、「疑」―疑いです。疑の中心にあるのは「三宝」(仏・法・僧)を疑う考えです。これは、すべての価値観がこの世にあり、肉体中心の価値観であるがゆえに、目に見えない世界を信じられないという人の間違いなのです。

それから、「悪見」ということもあります。悪見とは、間違った見方、考え方のことです。もちろん、間違った考え方というのは山のようにありますから、何もかも悪見に入れるわけにはいきませんが、以下、悪見の代表的なものを挙げてみましょう。

〇「悪見」の代表―「身見」「辺見」「邪見」
一つは「身見」です。これは肉体中心のものの見方です。「肉体が自分だ」と思っているような見方です。

それから、「辺見」です。これは極端なものの見方です。「死んだら何もかも終わりだ」というものの考え方や、「死んでもこのままずっと同じなのだ」という考え方をするような、極端なものの見方です。

それから、「邪見」というものがあります。これは、主として宗教的信条が間違っている場合―間違った信仰を持っていたり、間違った宗教を行なっている人のことをいいます。釈迦の時代には、この邪見は、因果の理法を信じない人のことを言っていました。

「因果の理法」とは、要するに「悪いことをしたら悪い結果がくる。いいことをしたらいい結果がくる。功徳を積めば、来世、成仏できるが、悪いことをしたら地獄へ行く」ということです。こうした因果の理法というものは根本的な考え方ですが、これができない人がたくさんいるわけです。「死んだら何もかも終わりだ」という、唯物論的な信仰をしている人もいれば、「因果などというものは無いのだ。人間は自由、好き放題に生きていればいいのだ」というような人がたくさんいました。快楽主義者や運命決定論者などのように、基本的な宗教信条が間違っている人の考えを邪見と言うのです。

また、たとえば「修行して何になる」というタイプの人がいます。「修行なんかしても無駄だ。努力なんかしても無駄だ。そんなものは、人間には何の役に立たない」、このような見方をする人もいます。あるいは「ユートピア思想などというのは嘘だ。インチキだ。人を騙す思想だ。仏国土の思想など、こんなものは何になるか。そんなものより、今日の飲み食いのことを考えたほうがいい」という人がいます。このような、理想に反するものの見方をすることを、すべて悪見というのです。

この「貪・瞋・癡・慢・疑・悪見」を、別の言葉では、「六大煩悩」といいます。これが人間の煩悩の代表です。煩悩とは「悪しき精神作用」あるいは「人間を不幸にする迷い」の総称です。

この六大煩悩は、突きつめてみると、「肉体我」を自分だと思い、人生はこの世限りだと思う肉体的人生観から、ほとんど出てきているのです。

ですから、これを断たない限り、幸福というものは来ないのです。よって、「煩悩の発生源としての肉体的な自我感覚というものを否定しなさい」というのが無我の思想なのです。

【大川隆法『悟りの挑戦(下巻)』第5章「無我中道」より抜粋】
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さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。

今日からは『幸福の法』の第5章「太陽の時代の到来を信じて―『太陽の法』が導く未来社会へ」を引用しながら、幸福の科学の基本書である『太陽の法』の大切さを共に学びます。お持ちでない方は、ぜひ拝受ください。全国の書店や支部や精舎よりお求めいただけます。【税込み1980円】
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■『幸福の法』第五章「太陽の時代の到来を信じて」
2信仰を背骨とする世界を
〇あの世とこの世は影響し合っている

どのように科学技術が進んだとしても、超えられない一線があります。それは、「宇宙を創っている法則そのものを変えることはできない」ということです。人間が何を発明し、どのように工夫しようとも、法則そのものをねじ曲げることはできません。この法則は根本の念いからできているからです。

それは、三次元空間における物理法則だけを言っているのではありません。人間が生きていく上でも法則はあります。その法則とは、「人間は、肉体を持って生きているだけではなく、この三次元世界を超えた世界を本来の住みかとし、魂修行のために、この地上に生まれてくる」というものです。

それは人間だけではありません。動物や植物もそうです。この世を去った天上界には草花も咲いています。いまはもう地上にない、大昔に咲いていた花もあります。いまは死に絶えた動物たちも、地上を去った世界には、まだ生きています。その世界こそが本来の世界なのです。

これは、動かすことのできない法則です。この世に根拠を持って考えれば、そして、科学技術万能の考え方からすれば、一見、理解不能に思えるかもしれません。学校で教わることは決してないでしょう。しかし、知らないからといって、それが「ない」ということにはなりません。あるものはあります。厳然としてあるのです。

そういう二重構造の世界のなかに生きているのだということを、忘れてはなりません。しかも、霊界とこの世は、まったく別のものではなく、重なり合った世界であり、相互に影響しあっています。

最近では、医学的に、臨死体験というもを通じて、「あの世があるか、ないか」という議論に参加している人もいます。そして、「臨死体験で出てくる世界は、たとえば、草花が咲き乱れている世界や、昔の世界のようなものばかりである。だから、それは、脳のなかの何かの物質が反応して、そういうものが見えているにすぎないのだ。ほんとうに、あの世というものがあるのならば、そんなに大昔の姿であるはずがない。あの世が現代的な世界であったという話を聞いたことはないから、あの世はないであろう」などと言っている人がいます。

しかし、それは間違いです。あの世もまた、この世と同様に変化しています。現代の人が亡くなれば、その人が生きていたときと同じような生活様式が、あの世にも現れています。現代において、あの世の世界を見てきた人は、数百年前、あるいは千数百年前の臨死体験の報告にあるような、古代の世界を見たわけではありません。いまは、極めて現代的なあの世というものができています。天国も地獄も変わってきています。都会も現れています。

この世にあるものはほとんどすべて、似たようなかたちで、想念の世界において現実化してきています。多くの人々が「それがあってほしい」と思うと、そのようなものが出てくるのです。それが、あの世の世界です。

多くの人々が「乗り物が欲しい」と思えば、それがあるかのように現れてきます。あの世に現実に金属があるわけではないのですが、そのように現れてくるのです。「地上の楽園」のようなものを望めば、現代における最高のテーマパークのようなものや美しい公園のようなものが現れてきます。それは古代の様相ではありません。現代の地上にあるものと極めてよく似たものが出てきます。

「臨死体験では、必ず古代返りをして、大昔の世界ばかりが出てくるから、あの世は信じられない」という人がいますが、そんなことはないのです。すでに、現代的なあの世が始まっています。時代はほとんどずれていません。

古代のままで時間が止まっている人々の世界もありますが、現代の人々に対しては、現代の人々にわかるようなかたちで、あの世での指導が行われています。方便として、そういう現代的な生活も展開されているのです。

あの世には学校も病院もあります。この世にあるように存在します。そういう所で仕事をしている人も数多くいます。その内容も日進月歩で、次々と変わっています。昔であれば、霊界の学校に外国人はいなかったでしょうが、いまの霊界の学校には、外国の人たちも数多く学びに来ています。

そのように、あの世は地上と同じように変化しているのです。

みなさんは、そのような大きな世界のなかで、また、長い長い転生輪廻のなかで、生きているわけです。

したがって、「地上での数十年の人生」という有限の物差しで、時間と空間を考えてはなりません。視野を大きく広げなさい。霊界をも含む大宇宙を創った根本的な存在を信じなさい。そして、その代理人となって人々を導いている人たちを信じなさい。そういう信仰というものを、まず基礎に持ちなさい、そう言いたいのです。

このことは、これからも、ほんとうに力を尽くして広げていかなければなりません。もちろん、全世界にです。

しかし、この日本においては特に、唯物論的な勢力が強く、「あの世」や「信仰」という言葉を聞くと、六割、七割の人が笑うような現象があります。こういう無知なる勢力とも戦わねばなりません。

それは、戦いのための戦いではなく、愛のための戦いです。真実のための戦いです。真実をしらないために、誤った人生を生き、その後、その何倍、何十倍の時間を苦しんでいる人々が、数多くいるからです。何事においてもいえることですが、早く知れば、間違いは少なくて済むのです。

【大川隆法『幸福の法』の第5章「太陽の時代の到来を信じて―『太陽の法』が導く未来社会へ より抜粋】
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続きまして、幸福の科学の基本三法の一つ、経典『永遠の法』を振り返ります。

人生の真理を網羅した、法の巨大な体系【※太陽の法】、数千年以上の視野をもって、諸如来、諸菩薩たちの活躍を語る時間論【※黄金の法】、そして、この世を去った実在界の次元構造を明確に説明し尽くす空間論【※永遠の法】、その三本柱が、エル・カンターレの法を特徴づけるものです。本書は、『太陽の法』(法体系)、『黄金の法』(時間論)に続いて、空間論を開示し、基本三法を完結する目的で書き下ろしたものです。これでエル・カンターレの法の輪郭が見えてきたことでしょう。―まえがき―
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■『永遠の法』第6章 九次元の世界
2 神秘の世界

九次元世界は非常に神秘的な世界です。地上の人びとがあの世の世界をどのように考えているか一概にはつかめませんが、ただ、「九次元世界の人たちは、もはや、いわゆる人間としての生命ではなくなりかけている」ということだけは事実です。

四次元幽界の住人たちは、霊体ではあっても、肉体を持っていたときとほとんど変わりのない生活をしています。

また、五次元善人界においても、住人たちには人間的感覚がまだ残っており、地上的な職業に従事している人も数多くいます。

たとえば、大工仕事をしてみたり、学校の先生をしてみたり、店で品物を売ってみたり、機会を作ってみたりしています。農作業をしている人も数多くいます。こうした地上的な職業が五次元にはまだ数多く残っており、それに従事している人もたくさんいるのです。

このように、五次元世界はまだ人間的に理解できる世界だと言えます。

六次元光明界になると、意識はやや上がってきて、神を思わせるような、光を放つ神々しい人びとになってきます。しかし、彼らもまだ普段は手足などの五体を持っているような姿を取りながら生活しています。

ただ、ときたま、自分が意識体であることを思い起こしては、意識体としての行動をするのです。どういう意味かというと、六次元光明界の人は思ったところへ飛んでいくことができるということです。

西洋的な人であれば、背中に羽を生やした天使のような姿をとって、空を飛んでいくこともあります。東洋的な姿をとると、孫悟空が乗っていた「きんと雲」ではありませんが、ああした雲にでも乗って、あの世の世界を飛び回ることも可能です。その意味では、人間が五感で認識する感覚とは少し違ってきていると言えるかもしれません。

七次元世界、菩薩の世界においてはどうでしょうか。もちろん、人間的な姿をとっての修業もまだまだあります。

しかし、菩薩の世界では、他人を教育すること、すなわち、まだ発達途上にある霊たちを導くことが大きな仕事ですから、彼らの大部分は、七次元菩薩界に安住しているのではなく、六次元や五次元、四次元へ行って、さまざまな仕事をしたり、あるいは、地上世界をよくするために、いろいろな指導霊として活躍したりしているのです。

七次元世界の住人たちは、そうした集有無尽な活躍をしており、その意味においては、すでに人間のような生活形態ではなくなってきています。すなわち、もっと高度な自己意識、自己認識を持っているということができます。

ただ、七次元の世界であっても、自分を客観的に観ようとするときには、頭や手足がある生前の姿をなるべく思い出しながら、自分を認識しているのです。

しかし、八次元如来界に入ると、少し事情が変わってきます。八次元の人たちも、ときたま、指導霊として地上に現われ、宗教家たちを指導することがありますが、そのときには、いわゆる神姿(しんし)、神の姿というものを人々に見せることがあります。たとえば天御中主命は、生長の家の大神として現れたときには、白髪の老人の姿をとっていました。

ただ、如来界の人たちが、あの世の世界においても、そうした姿で生活をしているかというと、そうではありません。彼らはすでに、そうしたものではなくなりつつあります。

如来界の人たちは、如来同士で話すときには、人間的な姿をとって、お互いに認識しやすいかたちで意志の交流をすることがあります。しかし、通常の状態においては、人間的な姿をとっていないことが多いのです。すなわち、自分の体を自由自座にい分化し、変化(へんげ)させて現わしていくことができるわけです。

如来は自分の意識体の一部を使って、さまざまなことができます。孫悟空の物語では、孫悟空が髪の毛を一本抜いてふっと吹くと、それが象になったり、自分の分身になったりします。
八次元はまさしくそうした世界であり、自分の意識体の一部を使って、さまざまな活動をすることができるのです。

このように、八次元の住人はいく通りにも分光していくことができます。役割としては同一なのですが、何人にも分かれていくことができるわけです。

これが八次元までの世界ですが、九次元に行くともっと神秘的になり、この世的にはなかなか理解しがたいものになってきます。九次元には十人の人がいると述べました。人間が十人いるというより、巨大な光が十本あって、この十本の光にそれぞれ個性があると考えるのが最もふさわしいのです。

したがって、地上にいる私と話をするときには、彼らが地上にいたときの姿と個性で話しかけてきますが、通常の場合には、そうした姿は取っていないのです。

このことを説明するのは非常に難しいのですが、電気を例えにとって説明してみましょう。九次元には特色のある電池が十個あるのと同じなのです。

一個の電池のプラス極とマイナス極をつないだ電線の回路があり、この回路の途中にさまざまな豆電球がついているとします。

そして、電球が流れると、それらの豆電球が点灯するのですが、たとえば、ある豆電球のことをラ・ムーと称し、次の豆電球のことをリエント・アール・クラウド、その次の豆電球のことをヘルメス、さらにつぎの電球をゴーダマ・シッダールダと称したりするのです。

このように豆電球がいろいろあるわけですが、ほんとうは、一つの電球から出た電気が電線の回路を流れているだけなのです。ただ、必要とあれば、さまざまな色のついた豆電球のような姿をとって、個性を放つのです。

【大川隆法『永遠の法』幸福の科学出版 第6章「九次元の世界」より抜粋】
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本日の『太陽の時代の到来を信じて』では、
霊界の秘密に関する教えでした。あの世とこの世は影響しあって、連動していることを教えていただきました。

また、この世とあの世とを生まれ変わりながら魂の向上をめざして修行する仕組みである転生輪廻の仕組みについても、このように説かれていました。

『どのように科学技術が進んだとしても、超えられない一線があります。それは、「宇宙を創っている法則そのものを変えることはできない」ということです。人間が何を発明し、どのように工夫しようとも、法則そのものをねじ曲げることはできません。この法則は根本の念いからできているからです。

それは、三次元空間における物理法則だけを言っているのではありません。人間が生きていく上でも法則はあります。その法則とは、「人間は、肉体を持って生きているだけではなく、この三次元世界を超えた世界を本来の住みかとし、魂修行のために、この地上に生まれてくる」というものです。

それは人間だけではありません。動物や植物もそうです。この世を去った天上界には草花も咲いています。いまはもう地上にない、大昔に咲いていた花もあります。いまは死に絶えた動物たちも、地上を去った世界には、まだ生きています。その世界こそが本来の世界なのです。これは、動かすことのできない法則です。』

転生輪廻のしくみを主エル・カンターレが創ったのは、魂の進化と調和をそれぞれに魂に促し、やがてはリーダーとして他の人を導くことができるように養成・育成するためです。これは地球という魂のゆりかごを主が造物主として、創造したときに込められた情熱です。だからこの法則を被造物で人間は変えることはできないということを学びました。根本仏は、宇宙を貫く法則であと教えていただいています。このあたりの論点は、経典『メシアの法』や『地獄の法』に詳しく説かれていますので、くり返し学んでまいりましょう。

また、後半の『永遠の法』では、九次元世界の説明がエネルギーとしての電気に例えられて説明されました。九次元大霊は巨大な意識として存在しているので、形あるものにたとえることが不可能な世界になってきています。

この節では、四次元世界から九次元世界の魂の在り方がまとめられている点において極めて重要な教えであると考えます。特に九次元の世界ではこのように教えていだきました。

『九次元に行くともっと神秘的になり、この世的にはなかなか理解しがたいものになってきます。九次元には十人の人がいると述べました。人間が十人いるというより、巨大な光が十本あって、この十本の光にそれぞれ個性があると考えるのが最もふさわしいのです。

したがって、地上にいる私と話をするときには、彼らが地上にいたときの姿と個性で話しかけてきますが、通常の場合には、そうした姿は取っていないのです。

このことを説明するのは非常に難しいのですが、電気を例えにとって説明してみましょう。九次元には特色のある電池が十個あるのと同じなのです。

一個の電池のプラス極とマイナス極をつないだ電線の回路があり、この回路の途中にさまざまな豆電球がついているとします。

そして、電球が流れると、それらの豆電球が点灯するのですが、たとえば、ある豆電球のことをラ・ムーと称し、次の豆電球のことをリエント・アール・クラウド、その次の豆電球のことをヘルメス、さらにつぎの電球をゴーダマ・シッダールダと称したりするのです。

このように豆電球がいろいろあるわけですが、ほんとうは、一つの電球から出た電気が電線の回路を流れているだけなのです。ただ、必要とあれば、さまざまな色のついた豆電球のような姿をとって、個性を放つのです。』

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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are One, with our Lord.  我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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―天御祖神とともに―
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文責:蒲原宏史 

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