68 「嫉妬」は、出世のために超えるための関門である。
【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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昨日11月23日は39年を迎えます初転法輪記念日でした。皆様誠におめでとうございます。初転法輪とは、今から39年前の1986年11月23日に、主エル・カンターレ大川隆法総裁先生が、東京・日暮里の地(現初転法輪記念館)にて、初めての説法をされて、法輪を転じられたことです。この聖なる日に仏弟子相集い、心からの感謝を捧げるとともに、たとえ何があろうとも、主の御名と主の教えを地の果てまでも伝えていく伝道の発願を捧げさせていただきます。30日(日)まで、支部にて、初転法輪記念式典復活の祈りを捧げます。
さて、私たち、幸福の科学の信者の幸福とは「悟りの幸福」です。私たちは、「正しき心の探究」を通して「愛と悟りとユートピア建設」をこの地上に実現するための使命を仏から与えられ、その実現のためにすべてを既に与えられました。
ここで、お釈迦様の教えである仏教的精神を振り返り、私たちの幸福を全世界に述べ伝える原動力となすべく、ひきつづき教典『悟りの挑戦(下巻)』を共に学びます。経典をお持ちでない方はこの機会に是非ご拝受ください。【税込み1800円】
―本書をていねいに精読するならば、『悟りの挑戦』が、仏陀自身の仏教解説であることがわかることだろう―上巻「あとがき」より
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■『悟りの挑戦(下巻)』第5章「無我中道」
1 「無我」の思想と後世の唯物化
本章では、『悟りの挑戦(上巻)』第4章「無我とは何か」に続いて、「無我」について述べてみたいと思います。なぜならば、このテーマが仏教の根幹にかかわる問題を含んでいるからです。
昔、インドで、青年三十人ほどが、それぞれの妻を連れてピクニックに出かけ、林のなかでお酒を飲んだり、歌を歌ったりして戯れていました。その青年のなかの一人はまだ歳も若く、奥さんがいなかったので、彼だけは遊女を連れてピクニックに来ていました。
ところが、みんなが遊びに興じているうちに、その遊女が他の人の財布など、いろいろな高価なものを持って逃げてしまったのです。そこで青年たちは「許せない」といきり立って、何とかしてその遊女をつかまえようと、林のなかを走って追い求めていましたが、あるところで、禅定している一人の沙門(しゃもん)に出会いました。「沙門」とは、生まれつきの僧侶階級であるバラモンではなく、クシャトリヤなどの武士階級から出家した自由修行者のことをいいます。
青年たちは、この沙門に「尊師は一人の女を見ませんでしたか」と尋ねました。その沙門は、禅定を解いて、目を開けてゆっくりと振り返ると、「若者たちよ。君たちは婦女を探してどうしようというのですか」と訊き返しました。彼らは、「遊女が友人の財物を盗って逃げたのです。私たちは、友人として友を助け、その女を探し出すために、この林のなかを徘徊しているのです」と答えました。
そこでその沙門は、「あなた方は、婦女を訪ね求めることと、自己を訪ね求めることと、いったいどちらののほうが優れていることだと思うか」という質問をしたわけです。
すると、彼らはしばらく口をつぐんだ後で、「我々は、自己を訪ね求めることのほうが優れていることだと思います」と答えたのです。「ならば、若者たちよ、お座りなさい。君たちのために法を説きましょう」と、その沙門は諄々と真理の話をしていったわけです。
青年たちは、ピクニック気分もすっかりどこかに吹き飛んでしまい、ついに頭を剃って出家し、この沙門に弟子入りをしてしまいます。このような事件がありました。
この沙門は、ゴーダマ・ブッダ、つまり釈迦だったのです。釈迦は、この青年たちに「婦女を訪ね求めることと、いったいどちらが優れてたいるのか。どちらがあなたがたにとって大切なことなのか」と、はっきりと問いを発しています。つまり、釈迦自身の言葉として、『自己』を求めることの大切さが語られているということです。これは、実際に律蔵(『四分律』巻三二、『五分律』巻一五)という戒律を中心に集めた仏典に残っている釈迦の言葉なのです。
ところが、一般的な無我の思想のなかには、正反対の考えが出てきます。「釈迦は無我を説いたということだから、自己というものは否定しなければいけないものである。消滅させなけばいけないものである」というような考え方が出てきました。
しかし、よくよく考えてみれば、宗教が悟りをめざす修行であるならば、自己というものは、あくまでも、どこまでも追及していくべき課題であって、自己そのものがなくなればよいという発想は、何かがおかしいわけです。そこには修業論の成立する余地がありません。
では、何がどう違ったのでしょうか。
結局、釈迦が最世辞の思想が、後世、二、三百年経ったころの小乗仏教の時代(小乗仏教とは、いわゆる部派仏教のこと)に、その教えをいろいろと研究するグループに分かれたわけですが、そのなかの「説一切有部(せついっさいうぶ)」という学派が、釈迦の無我の思想を、「実体的な魂存在としての『我』なるものはなく、人間というものは五蘊(ごうん)の集まりなのである」という考え方に統一したわけです。
【※説一切有部(せついっさいうぶ)・・・小乗仏教のなかで最も有力であった学派、説一切有部では、この世界を構成する要素的存在としての七十ほどの法(ダルマ=ものの本質・特性から転じて、この場合は構成要素の意味)を想定し、これらの法は、〈過去・未来・現在の三世に自己同一性を保っている〉と主張し(三世実有説)、森羅万象の無常を説明した。このように一切は存在すると説く者という意味で「説一切有部」と称されたが、皮肉なことに「法我」は認めたが「人我」(=統一人格)は否定した。大乗仏教で「空」の思想が積極的に主張された理由は、この世的ダルマの存在を認める説一切有部を攻撃するためであった。なお、ダルマとは、たとえば、眼根・耳根・味境・触境・想・信・無明・貪・慢・得などの要素・
・こと】
「五蘊(ごうん)」とは「色・受・想・行・識」のことです。
「色」―肉体
「受」―感受作用(いわゆる神経の作用と言ってもよい)
「想」―イメージをつくる表象作用
「行」―行為する力、すなわち意志
「識」―識別、認識する能力
これが人間の存在であって、こうした心と肉体の五つの作用から人間はできているのであり、その作用を離れて人間は存在しないというように考えたわけです。
しかし、この思想を突き詰めていくと、どうなるでしょうか。それは結局、カエルを解剖して、神経系統に電気ショックを与えて筋肉の収縮を調べるる考えに、極めて近いことがわかると思います。
あくまでも唯物的な思想にベースを置いたうえで、何らかの知覚作用、精神作用のようなものを分解しようとした試みであって、その奥なるものへの分解を放棄する考えがそこにあったと思うのです。
この説一切有部のところで、無我の思想が「霊的存在としての我がない」という意味の無我になって、人間が「五蘊の仮和合」としての存在になってしまったわけです。それ以後、仏教の思想の歴史において、無我の議論が難しく、ややこしくなってくるのです。
【大川隆法『悟りの挑戦(下巻)』第5章「無我中道」より抜粋】
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さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。基本三部作の『太陽の法』を引用しながら、幸福の科学の教義を共に学びます。なお、経典『太陽の法』は、愛とは何か。仏法真理とは何か。悟りとは何か。ユートピア建設とは何かという根源的な問いに答える幸福の科学の教えの基本です。経典をお持ちでない方は、是非この機会に拝受ください。【税抜2000円】
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第6章 エル・カンターレへの道
11 キリストの出現と仏陀の使命
さて、一九八一年の六月、イエス・キリストが降臨し、霊言の形で衝撃の真実を語りはじめました。やや外国人訛はあるものの、誠実で、力強く、愛あふれる言魂でした。その場に立ち会った父も、高次元霊の迫力に、おもわず絶句するほどの衝撃を受けたようでした。高次元霊が臨在すると、まばゆい光とともに、身体全体が熱くなり、その言葉の端々に光る真理に、思わず知らず涙がこみ上げてくるのです。
七月には、潜在意識の宝庫が開かれ、私自身の隠された意識である、ゴータマ・シッダールタ、釈尊が、古代インド語を伴いながら、仏法流布の使命を厳しく、かつ熱っぽく語りました。そして、私自身が、釈尊の魂グループの中核で、エル・カンターレという霊存在であることを告げました。そしてその使命は、仏法の流布による一切の衆生の救済にあることを語りました。そしてその使命は、仏法の流布による一切の衆生の救済であることを語りました。そしてその役割としては、愛と慈悲、信仰を象徴する阿弥陀如来的側面(救世主的部分)と、悟りと修行、霊界の秘義を象徴する大日如来的側面(仏陀の本質的部分)をあわせもった釈迦大如来であり、前者が先鋭化すれば、大救世主であり、後者が象徴化されると、華厳経や大日・
・という毘盧遮那(Vairocana・ヴァイローチャナ)仏をさらに本源的な存在とした、大毘盧遮那(Mahavairocana・マハー・ヴァイローチャナ)仏であることを明示しました。
大変なことになりました。幼少時より信仰心篤い家庭に育ち、霊界を素直に受け入れていた私も、あまりの霊現象と、告げられた使命の大きさに驚きを禁じえませんでした。
はっきりしていることは、私自身が再誕の仏陀であること。そして、仏陀を中心として、天上界の高級諸霊と地上の諸宗教を整理・統合して、新しい世界宗教を創り、全世界の人々を教え導き、新文明への道を開くこと。新時代の幕を開ける使命が私に委ねられたのです。
しかし、霊界解明にいま少しの時間が欲しかったのと、三十歳までの人間修業が必要なのではないか、との観点から、私はまだ会社勤務をやめませんでした。
しかし、私自身の内面の葛藤とは裏腹に、この世の歯車は逆方向に廻り始めていました。一九八二年から八三年にかけて、会社の研修生として、ニューヨーク本社に派遣されたのです。キリストが霊示を降ろし、仏陀としての使命を告げられた人間が、ウォール街の人々との国際金融の仕事で毎日を送っていたのです。
ベルリッツの会話学校でマン・ツーマンの英会話授業を百時間受けてから、ニューヨーク市立大学の教授面接を「パーフェクト・イングリッシュ」という評価でパスし、ネイティブ(米国人)と同一条件の国際金融のゼミに参加しました。パンク・オブ・アメリカやシティ・バンク、メリル・リンチなどの三十歳前後の若手ビジネス・エリートに混じって外国為替の理論などを学びながらも、私の心は晴れませんでした。私自身が体験している人間社会的現実と、宗教的現実の間には、埋められない溝が広がりつつあったてのです。とうじ、勤務先のあったマンハッタンのワールド・トレード・センターの、天を摩す超高層ビルを見上げながら、このビルのほうが本物なのか、それとも、私の心のなかの声が本物なのか、まさしく、私自身・
・自己認識と信仰心が試されていました。
そして一年間の研修期間を終え、先例のない実績が評価されて、上司からは、「研修生からニューヨーク駐在員に切り替えたいのだが」と打診されました。商社マンとしては願ってもない、超エリートコースへの招きでした。しかし、私は、当時書き進めていた霊言集の原稿のことが、やはり気になりました。それゆえ駐在員への昇格を辞退し、後輩を後任の研修生として招き、自分は帰国することにしました。商社マンとしては、異例の無私無欲の行動でしたが、宗教家としては、着実に一歩駒を進めまていました。
帰国後、二年、準備を進め、一九八五年七月には、『日蓮聖人の霊言』、さらに『空海の霊言』、『キリストの霊言』、『天照大神の霊言』、『ソクラテスの霊言』と続々霊言集を刊行しました。当時まだ、会社勤務が続いていた関係で、父のペンネームを表に出し、私の名は共著でとどめる形にしておりました。
しかし、ついに来るべき時がきました。一九八六年六月、イエス・キリスト、天御中主神など、つぎつぎに降下した霊たちは、私に、いまこそ立つべきときだ、と告げました。そして同年、七月七日に誕生日を迎えたばかりの私は、七月十五日に退社し、自由の大地への第一歩を踏み出しました。
そして同年、八月末、この『太陽の法』(旧版)の執筆にとりかかり、九月初めには脱稿しました。さらに、十月には『黄金の法』(旧版)にとりかかり、十一月には脱稿しました。両社とも、翌年には出版の運びとなり、「幸福の科学」出発の原動力となりました。私の初めての理論書が公刊されることで、続々、真剣に道を求める会員が集まってくるようになったのです。
【大川隆法『太陽の法』第6章「エル・カンターレへの道」より抜粋】
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続きまして、幸福の科学の基本三法の一つ、経典『永遠の法』を振り返ります。
人生の真理を網羅した、法の巨大な体系【※太陽の法】、数千年以上の視野をもって、諸如来、諸菩薩たちの活躍を語る時間論【※黄金の法】、そして、この世を去った実在界の次元構造を明確に説明し尽くす空間論【※永遠の法】、その三本柱が、エル・カンターレの法を特徴づけるものです。本書は、『太陽の法』(法体系)、『黄金の法』(時間論)に続いて、空間論を開示し、基本三法を完結する目的で書き下ろしたものです。これでエル・カンターレの法の輪郭が見えてきたことでしょう。―まえがき―
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■『永遠の法』第5章 八次元の世界
9 仏は語る
如来の役割とは、つきつめていうと、仏とは何かを語ることです。仏とは何かを語ることが許されている代理人、答弁者としての存在が如来だと言えるわけです。
仏とは何かについて権威を持って語ることは、普通の人たちにはもちろんできません。しかし、如来は普通の人以上に仏に近い存在であるがゆえに、仏とは何かについて人びとに語ることが許されています。八次元という如来界にいる方がたは、大いなる光の指導霊として、仏とは何かを語ることが許されているのです。
ただ、八次元如来であっても、仏のすべてを語ることはまだ許されていません。というのは、仏の性質や存在があまりにも広大無辺であるために、一人の人間の魂をもってしては、それを語りきることができないからです。
それゆえに、八次元如来界においては、仏の光がさまざまに分光された霊光線の長としての諸如来が活躍をしているのです。
ゴーダマ・シッダールタを頂点とする黄色い光、黄金光のなかにある諸如来は、悟りと何か、法とは何か、慈悲とは何かということを中心として、仏とは何かということを語っています。
イエスが司る愛の光、白色光線のなかにある諸如来たちは、愛ということを通して仏を語っています。
あるいは、モーセが司る赤色光線のなかにある諸如来は、結局、仏が起こしうる奇蹟というものを通して、人びとに仏とは何かということを知らそうとしているのです。
他の光についても、もちろん、同じようなことが言えます。
老荘思想に代表される緑色の光線は、自然の調和の姿について教えています。つまり、緑色の光線を受けている如来たちは、大自然の姿、その大調和を見て、「あるがままのなかに仏は存在するなり。その調和の姿のなかに仏はおられるなり」ということを教えるためにいるのです。
また、ゼウスという人がいて芸術関係を司っていますが、芸術の光線を通じて、芸術家の諸如来も仏というものを語っているのです。
孔子が司る紫色の光線の流れにおいては、礼節や秩序、忠節を教えています。それを通じて、仏への道には、さまざまな畏敬の念、あるいは崇拝の念といったものが必要とされることを教え、仏とは何かということを感じさせているのです。
結局、諸如来は自分が所属している霊光線によって、仏というものを語っているのです。これが正しい理解です。
ところが、「性質の違うさまざまな色の光があり、その流れのなかで諸如来が法を説いているのだ」ということを知らなかった人類は、長年、宗教戦争をしてきました。お互いの役割や、それぞれが語る仏神の姿が違うことをもって異教徒とし、邪宗とし、間違いであるといて戦ってきたのです。
しかし、人類はいま、さまざまな霊光線を受けた如来の働きを見て、仏というものを知っていかねばならないのです。
【大川隆法『永遠の法』幸福の科学出版 第5章「八次元の世界」より抜粋】
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主におかれましては、1985年の夏に会社員として働きながら、霊言集を刊行されていたことや、翌年1986年7月7日に辞表を提出、商社を退社独立したことが記されています。まさに空手にして立つ思いで、約束された出世への道や安定した商社マンとしての地位をすべて捨てて「幸福の科学」を1986年10月6日に立ち上げてくださっています。【立宗】
商社を退社されて、すぐに執筆されたのが、連日ご紹介しています『太陽の法』です。主におかれましては、『太陽の法』と続く『黄金の法』は、主の手書きによる執筆となっています。『永遠の法』は主の説法の口述を文字起こしたものとなっています。手書きによる経典は数少なく、『太陽の法』『永遠の法』以外では、『地獄和尚』や『鏡川竜二シリーズ』等一連の小説シリーズ等となっています。とても貴重ですので読み込んでまいりましょう。
また、手書きの著作としては、大悟される前や教団創設前の雌伏の時期に主が何を考えて、心の修行に励んていたかは、青春詩集「愛のあとさき」や詩集「Left
over」などにおさめられています。主の悟りの軌跡をかいま見ることができます。ぜひお手にとってご覧ください。
また、後半の『永遠の法』では、冒頭の
『如来の役割とは、つきつめていうと、仏とは何かを語ることです。仏とは何かを語ることが許されている代理人、答弁者としての存在が如来だと言えるわけです。
仏とは何かについて権威を持って語ることは、普通の人たちにはもちろんできません。しかし、如来は普通の人以上に仏に近い存在であるがゆえに、仏とは何かについて人びとに語ることが許されています。八次元という如来界にいる方がたは、大いなる光の指導霊として、仏とは何かを語ることが許されているのです。
ただ、八次元如来であっても、仏のすべてを語ることはまだ許されていません。というのは、仏の性質や存在があまりにも広大無辺であるために、一人の人間の魂をもってしては、それを語りきることができないからです。
それゆえに、八次元如来化においては、仏の光がさまざまに分光された霊光線の長としての諸如来が活躍をしているのです。』
そして、最後ではこのように結ばれています。
『ところが、「性質の違うさまざまな色の光があり、その流れのなかで諸如来が法を説いているのだ」ということを知らなかった人類は、長年、宗教戦争をしてきました。お互いの役割や、それぞれが語る仏神の姿が違うことをもって異教徒とし、邪宗とし、間違いであるといて戦ってきたのです。
しかし、人類はいま、さまざまな霊光線を受けた如来の働きを見て、仏というものを知っていかねばならないのです。』
このように、八次元世界の理解を深めることが、現在混沌としている宗教戦争を平和裏に集結する鍵であることが分かりました。
やはり、『永遠の法』をこの地上世界に広げることが現代において大切であるといことを改めて確信しました。
そして、私が今日の学びで感動したのは、最後のみ言葉です。
『結局、諸如来は自分が所属している霊光線によって、仏というものを語っているのです。これが正しい理解です。
ところが、「性質の違うさまざまな色の光があり、その流れのなかで諸如来が法を説いているのだ」ということを知らなかった人類は、長年、宗教戦争をしてきました。お互いの役割や、それぞれが語る仏神の姿が違うことをもって異教徒とし、邪宗とし、間違いであるといて戦ってきたのです。
しかし、人類はいま、さまざまな霊光線を受けた如来の働きを見て、仏というものを知っていかねばならないのです』
如来は仏の名代としてそれぞれの専門分野における仏の側面を私たちに垣間見せてくれるありがたい存在です。だから色の違いは、教えの違いであり、違いがあることをもって、争うことは間違いであることが分かります。違いを悪だと思わず、それだけ仏の御心が広く深淵であることに感謝しなければなりません。エル・カンターレの光がすべての宗教や、人種、肌の色の違い、性別を超えて国境を越えて包み込む愛のかたまりであることを改めて知ることができました。
沢山の教えや学びがありますが、
とにもかくにも、私たちが目指すべきは、まず「阿羅漢」の境地です。
今世私たち伊勢支部の信者全員が「阿羅漢」になることをめざし、主の御手足として救世運動に参加してまいりましょう。
悟りの力がこの世とあの世の『地獄』を解消する大きな切り札です。『地獄の法』を深く学ぶためにも、悟りへの理解を共に深めてまいりましょう。
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are One, with our Lord. 我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
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FAX:0596-31-1778
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文責:蒲原宏史
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(11/24-1)【基礎教学通信】328『太陽の法』を読む61「エル・カンターレへの道」キリストの出現と仏陀の使命―『悟りの挑戦(下巻)』「無我」の思想と後世の唯物化―『永遠の法』仏を語る
『太陽の法』
