63 常に神仏への信仰を持っている人は、「公正」であろうとする。
【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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11月23日は初転法輪記念日です。初転法輪とは、今から39年前の1986年11月23日に、主エル・カンターレ大川隆法総裁先生が、東京・日暮里の地(現初転法輪記念館)にて、初めての説法をされて、法輪を転じられたことです。
主のご説法は1986年11月23日の第1回目から2023年2月23日に賜りました『妖怪にならないための言葉』発刊記念対談にて、説法3500回を超えました。これは人類史に残すべき偉業です。
この聖なる日に仏弟子相集い、日暮里酒販会館にて賜った初転法輪よりこの日まで、全人類救済のために、不惜身命の覚悟で教えを説き続けてくださっている主に心からの感謝を捧げるとともに、たとえ何があろうとも、主の御名と主の教えを地の果てまでも伝えていく伝道の発願を捧げさせていただきます。
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さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、主が初転法輪で説かれた御教えを共に振り返ってまいります。本日は1986年11月23日に東京は日暮里の酒販会館にて開催されました、主の初転法輪(最初の説法)にて説かれました御法話「幸福の科学発足にあたって」を引用して、我々弟子も原点回帰して主への感謝と報恩の誓いを新たにいたします。この御法話は経典『われ一つ立つ。大川隆法第一声』に所収されています。全国の支部や精舎・書店にてお求めいただけます。お持ちでない方はこの機会にご拝受ください。【税抜き1800円】
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■『われ一つ立つ。大川隆法第一声』第1章「幸福の科学発足にあたって」
5 時代環境や個性に応じて教えを説いた「高級霊の活躍」を俯瞰する
〇モーセの祈りに応え、神風を吹かせて紅海を真っ二つに裂いた神の奇跡
・準備をしながら時を待ち、二百万の大軍を率いて逃げる
モーセは実際にクーデターを起こしたわけですけれども、クーデターを起こしたのは三十五、六歳のときでした。そのくらいのころに起こしたのです。そのころまでいろいろと準備を進めていて、やったようです。
そのときも、モーセはいろいろな啓示を受けながら、何年か潜んでいました。そして、準備期間というものを置いていたわけです。こういうことがありました。
私も六年ほど潜んでいまして、モーセの気持ちも”かくばかりなむ”という感じで想像だけはするのですけれども、おそらく、時が来るのを待っていたのだろうと思います。
しかし、モーセは反乱軍の首領のようになってしまって、追いかけられることになりました。モーセは、成人男性六十万人、女性と子供を合わせて二百万人ぐらいの大軍を率いたいわれていますけれども、彼らを逃がしました。そして、紅海というところまで逃げて来たら、王様が追いかけてきたわけです。
当時の王様はメレンプターといいます。おそらく、紀元前一二〇〇年ぐらいです。そのころだと思います。紀元前一二〇〇年頃ですけれども、メレンプターの時代です。王様は、いったん、モーセが逃げるのを見逃したけれども、やはりよく考えてみたら面白くないなということで、「俺の奴隷をつかまえて、成人男子を六十万人も持って逃げるなんて、こんなのは泥棒だ」と言うわけです。
奴隷といったら、豚や羊と同じですから、「羊を持って逃げられてたまるものか」ということでしょう。「よく考えてみたけれども、やはり損をする。取り返せ」と言って、軍勢を以てダーッと追いかけたわけです。
〇行く手を防ぐ紅海に強烈な風が吹きつける
紅海のところまで来ると、モーセは困ってしまいました。船があまりなかったのです。船はあったのですけれども、二百万人も乗せる船があるわけがないので、「困ってしまったな。どうしようかな」と悩んでしまったわけです。
しかたがないので、困ったときの神頼みということで、モーセはひざまづいて祈りました。
「この前、『在りて在るもの』などとおっしゃった方、出てきてください。もう追いかけられていますよ。後ろにはもう王様の戦車が来ていますよ。このままでは殺されてしまいます。どうしますか」というような感じで祈ったのです。【※モーセに「吾は在りて、在るものなり」といった神はオフェアリス神でした】
すると、「任せておきなさい」という声が聞こえてきたわけです。
「見よ、どこに海があるのか。モーセよ、前を見てみなさい」と言った折から「東風吹かば」ではありませんけれども、東の風が急激にダーッと吹いてきたのです。天上界から東の風が起きてきました。竜巻のような大きな風です。
当時、紅海は二キロぐらいの幅で、水深は大方十メートルぐらいあったようです。そのくらいの所に強烈な風が吹き始めて、水が真っ二つに裂けてしまったのです。(著者注。実際は、浅い葦の湖のようなものという説もある)。
今日、これを伝説だと考えている人もいるでしょう。しかし、実際にあったことです。実際に風が吹いて公開が真っ二つに分かれたのです。
モーセは、これを幸いということで、二百万人を連れてひたすら逃げていったわけです。
〇王の軍隊をも海に沈める神の奇跡
“全知全能”の神様はやはり賢いようで、モーセたちが渡ったかをよく見ていて、「そろそろ後ろの方がもう渡り、王様の軍隊が入ってきたな。もう少し待ってみよう。もうちょっと入ってから潰したほうがいいから、もう少し見てみよう」と言って、十分に入ったところで、「このへんでやろうか」ということで風を止めてしまいました。そして、波がピチャーッと戻ってきて、軍隊は沈んでしまったわけです。
「ずいぶんかわいそうなことをするな」と私は思うのですが、その神様は、こういうことをしても命はいくらでもあると思って、あの世でまた教育すればいいと思って沈めてしまったのでしょう。
そのように、モーセの時代は奇跡の時代で、そういう奇跡を数多く起こしたのです。
〇数多くの奇跡を起こしたイエスであっても、「預言者、故郷に容(い)られず」
イエスもそうです。
イエスについては、『キリストの霊言』という本がでていますけれども(※現在は『大川隆法霊言全集第五巻』『同23巻』に収録)、あれだけではまだ多少弱いようなので、これから冬にかけて、キリスト教系の本をもう少し補強するつもりです。十二月の初旬ぐらいには内村鑑三の霊言も組みます(※現在『大川隆法霊言全集第二十八巻』『同二十九巻』に収録)。これ以外にも、キリスト教系の人の本をもう少し出して、いろいろなかたちで援護したいと思っています。
イエスの時代も数多くの奇跡が起きていますが、結局、イエスも大工の子ではありまして、「預言者、故郷に容られず」とうことで、かれは故郷に帰って一回失敗しています。
例えば、今、ここに集まっている人たちが、イエスの田舎の人だとしましょうか。そして、私は大工の息子さんだとしましょう。そして、ここへ来て話しているわけです。
ところが、あなたがたのなかからザワザワという声がしてきます。
「あれ?イエスなんて言っているけど、あれは、あそこのヨセフの子じゃないの?」「大工の息子じゃないか」「何を偉そうなことを言っているんだ?」「イエス・キリスト?救世主?冗談はやめてください」。
イエスは「インマヌエル」といのうが本当の名前だったので、「あれはインマヌエルじゃないの」あなた、この前まで屋根の上へ上へあがって、トンカントンカン釘を打っていたのに、ちょっと見なかったけど、帰ってきたと思ったら、ヨルダン川か何かで水の中に体を沈めて・・・」というようなことを言われていたのです。
イエスは、バプテスマのヨハネという、狐か何かの皮衣を着て、荒縄を腰に巻き、野の蜜、蜂蜜を舐めて生きているような風変わりな人に洗礼を受けています。
そのとき、「天が裂けて鳩が飛んだ」などと言っているけれども、「こんなの、あなた、奇術じゃないの?どこかに隠していた鳩が出たんじゃないの?」などと言われています。
そのように、奇跡が起きて救世主になったなどと言っても、誰が信じますかという感じだったのです。
みんなが、「イエスは駄目だよ。あんなの、偽物だ」などとザワザワと言っているあたりで、彼はほうほうの体(てい)で帰ってきています。
〇信仰する人がいないと奇跡は起きない。
当時、イエスは、病人を治そうと、いろいろなところで奇跡を起こしていました。躄(いざり・足が立たない人)が来たら、躄が来たら、「ああ、躄(いざり)よ、寄ってきなさい」と、少し触ったら治って、立ってしまったということもありました。
また、盲人が来たら、「盲人よ、寄ってきなさい」と、唾でつくった泥を目の周りにクルクルと塗ると治ってしまったこともありました。こういうことがたくさんあったのです。
ところが、自分の故郷へ帰ったらどうだったかというと、全然治らなかったです。盲人は目が開かず、躄(いざり)は立たずで、イエスは困りました。要するに、信仰する人がいないわけです。
私も、みなさんがこの場で、例えば、「大川隆法なんて、とんでもないペテン師だ」などと思ったら、何もできないのです。おそらく、話せないでしょう。
それで、イエスは、故郷に帰ったとき、わずか十人ぐらいのお腹などに手を当て、ちょっと気分がよくなったという程度で仕事は思ってしまったわけです。そのように、病気への奇跡は起きなかったのです。
そして、傷心のまま帰ってきて、「二度と田舎へ帰ってはやらないぞ」ということだったようです。そういうことがありました。
〇光の天使の教えでも、「時代」や「環境」によって説き方には違いがある
いろいろと話をしましたけれども、モーセにしてもイエスにしても、それぞれがその時代その時代に、「環境」と「場所」を選んで地上に出た光の天使です。ただ、「その教えの説き方が違っていただけ」だということです。
〇キリスト教では弟子の理解の不足から異端裁判が始まった
イエスの時代にも、異教徒に対して、いいろな言い方をする人はいました。イエス自身は、異教徒に対してはそれほど悪い感情を持っていたわけではないのです。けれども、イエスの弟子は、「正しいものは一つであるはずだ。先生はたぶん間違いなく救世主だから、ほかのは間違いに決まっている」ということで、そういう教えがだんだん出てきたわけです。
そして、原始キリスト教の時代からだんだん時代を下るにしたがって、異端裁判というものが始まりました。「あれは異端だから」として、火あぶりにかけたり、十字架にかけたりしたのです。そのように、イエスがされたことと同じようなことをしてしまったわけです。
これは、はっきり言って、イエスに十分な時間がなかったので、説けなかったということでしょう。
〇イエスはモーセを認めていたが、正しい解釈を説く時間がなかった
イエスも、モーセが光の天使であることを認めていたし、モーセの律法のかなにも正しい教えがあることは、もちろん知っていたのです。しかし、モーセの律法を信じている人たちは、「あのイエスを早く殺そう」などと画策しているものですから、あまりほめるわけにはいかなかったということです。
私だってそうです。みなさんが鋸(のこぎり)を持ってきて私の首を引こうなどと思っていたら、絶対に私はよいことを言わず、一喝するでしょうから、それは同じことです。
本当は、イエスも時間があれば、キリスト教にしっかりとした地盤ができてから、そういうモーセの律法についての正しい解釈をして、「現代では、ここは正しいけれども、この部分は考えは違っている」ということをはっきりすることができたのです。それだけの時間があれば、彼はあそこまで追い込まれなかったと思うのです。
しかし、いかんせん、時間がなかったので、「自分を殺そうと思っても、敵だからしかたがない。敵ということは、要するに、悪魔の手先だろう」などと”適当に言ってしまった”わけです。
【大川隆法『われ一つ立つ。大川隆法第一声』第1章「幸福の科学発足にあたって」より抜粋】
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さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。基本三部作の『太陽の法』を引用しながら、幸福の科学の教義を共に学びます。なお、経典『太陽の法』は、愛とは何か。仏法真理とは何か。悟りとは何か。ユートピア建設とは何かという根源的な問いに答える幸福の科学の教えの基本です。経典をお持ちでない方は、是非この機会に拝受ください。【税抜2000円】
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■『太陽の法』第6章「エル・カンターレへの道」
6 ダイヤモンドの時間
人生を力強く生きるためには、有限な時間を正しく使うことが必要となります。人間の魂が地上に生まれ変わってくるのは、何百年に一回、あるいは、何千年に一回です。つまり、それほど貴重な体験なのです。それにもかかわらず、大多数の人々は、人生の意味を深く追求することもなく、無為の時間を過ごしてゆく。もったいないことです。
晩年になってから、仏の存在に気づき、信仰心に目覚めて、やりなおしをしたい思っても、過ぎ去った人生の時間は、矢のごとく、ゆく川の流れのごとくであり、もはや取り返しがききません。
ですから、人生の早い時期に、仏法真理に目覚めた人はしあわせです。そして一生を仏法真理にしたがって生きることができれば、最高だといえます。もちろん、おそく仏法真理に出会ったからといって、それで、何もかもがだめになるわけではありません。おそく目覚めた人は、それなりの覚悟をもって濃度濃く生きれば、それはそれで、すばらしい人生となっていくでしょう。
人生には、ひとつの秘訣があります。それは、自分が死ぬときのことを瞑想してみるということです。自分が死ぬとき、何を考え、何を感じるだろうかということを、つねづね瞑想してみることです。自分が死ぬとき、何を考え、何を感じるだろうかということを、つねづね瞑想してみることです。そのときに、「ああ、生きていてよかった」「人生って本当にすばらしいな」と思える人は、幸福な人生を生きた人だといえます。
その反対に、自分が死ぬときのことを考えると、後悔ばかりが、つぎからつぎへとわいてくる人たちもおります。気の毒な人です。こういう人たちは、死んであの世に還れば、高級霊の面前で、自分の一生を反省させられるのです。テレビでもみているようにそれはあざやかに、自分の人生がそこに映し出されて、大勢の人々の前で、それを見せられます。
死んであの世に還ったばかりの人は、仏の目から見たら、自分が、一体どういう人間であるのかということを、はっきりと知らされるのです。このときは、何ひとつ、うそも、いいわけもききません。そして、たくさんの人々の視線を感じて、自分の行くべきところを悟るのです。地獄へ行く人は、自らが選んで地獄へ堕ちてゆきます。というのは、自分がどういう人間かがわかってしまったら、恥ずかしくて、天国には住めないからです。物理学的にいうならば、霊的な波長が粗雑で、ほかの人々の精妙な波長にあわないということです。あるいはまた、意識体が、三次元的な、物質的なものになってしまい、その比重が重くて、下へ沈んでしまうということでもあります。
しかし、死去したあと、実在界で、自分の人生模様を見せられて、ほかの人たちから拍手を送られる方もいます。すなわち、その人が、人生の間違いに気づき、仏の両手をあわせて許しを乞い、その両目から涙が流れている映像が映るとき、あの世の人々は、拍手喝采し、新米の霊人の肩をたたき、握手を求めるのです。また、その人が、仏法真理の伝道のために一命をなげ出し、立ち上がった姿が映ると、光の菩薩たちは、涙を流してよろこびます。
これは、何年、あるいは、何十年先かはわかりませんが、あなたがたを待ち受けている光景なのです。そのときが、確実にやってくるのです。だからこそ、あなたがたは、つねづね自分たちが死ぬときのことを、いや、むしろ、たとえ明日生命が亡くなってもいいような人生を生きているかどうかを自問しながら生きるということが大切なのです。
死ぬときに、今のような生き方であなたは、恥ずかしくはありませんか。悔いは残りませんか。自分の良心に照らしてみて、どうでしょうか。
人生の時間をダイヤモンドのように輝かすためには、こういった意識と発想の転換が必要だといえます。すなわち、自分の死の瞬間を想定して、現在までの自分の生き方を反省してみることです。これは、善意なる第三者の立場に立って反省するということと、同じだといえます、そして、これが、ダイヤモンドの時間を生きる秘訣なのです。密度の高い、煌めきのある人生を生きる秘訣ないのです。
【大川隆法『太陽の法』第6章「エル・カンターレへの道」より抜粋】
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続きまして、幸福の科学の基本三法の一つ、経典『永遠の法』を振り返ります。
人生の真理を網羅した、法の巨大な体系【※太陽の法】、数千年以上の視野をもって、諸如来、諸菩薩たちの活躍を語る時間論【※黄金の法】、そして、この世を去った実在界の次元構造を明確に説明し尽くす空間論【※永遠の法】、その三本柱が、エル・カンターレの法を特徴づけるものです。本書は、『太陽の法』(法体系)、『黄金の法』(時間論)に続いて、空間論を開示し、基本三法を完結する目的で書き下ろしたものです。これでエル・カンターレの法の輪郭が見えてきたことでしょう。―まえがき―
経典をお持ちでない方はこの機会に是非お求めください。【税抜き2000円】
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■『永遠の法』第5章 八次元の世界
4 永遠の時間
次に、空間とよく対比される「時間」について、話をしていきましょう。
「どちらかといえば、空間は横の広がりであるのに対して、時間は縦の広がりである」とよく言われますが、「時間がないときに空間があるのか」「時間と空間の関係はどうなっているのか」ということについても、検討しなければならないと思います。
先ほど、「空間とは、光が活動すべき場のことである」と定義しました。光が光として活動するということは、結局、動きがあるということであり、それは、そこに時間的な流れがあることを意味しています。
そうすると、時間が止まってしまった場合には、空間とは何なのでしょうか。時間が止まったとき、光は運動できるのでしょうか。それとも、できないのでしょうか。実は、「時間を止めてしまうと、光もまた写真のなかの一点にしかすぎなくなる」と言えるのです。
空間が光の活動領野という本来の役割を果たすためには、その空間の中に時間が内在していなければなりません。すなわち、「時間があってこその空間である」「空間と時間とは切り離せるものではなく、空間を空間たらしめているものが時間の存在である」「同じ場が継続して存在できるということが、光の活動の場である」と言えるのです。
光というものを単なる光線ととらえてはいけません。光を微細に分割していくと、「光子」という最小の単位となります。この光子がさまざまに集まって粒子をつくっており、その粒子から人間のに肉体をはじめ、天地万物すべてができています。すべての物体は光からできているのです。
つまり、光が固定化し、形状化したものが物質だということになります。一方、固形化していない光が、四次元以降の空間においては、霊として、あるいは霊的エネルギーとして存在しているのだと言えます。
要するに、三次元をはじめ、四次元以降の世界のすべてをつくっているものは光であり、すべてのものは、本来、光なのです。
このように、光がすべてをつくっているのですから、「光の活動の場が空間である」ということは、「光の活動すべき場がなければ空間は存在しない」ということを意味します。したがって、三次元以降の多次元空間をつくっているのは、「光」と「光の活動」ということになります。
それゆえ、「光の活動を実現させるべき時間がなければ、空間もないし、物質も霊も何もない」ということになってしまいます。そこにあるのは、ただ単に浮かんでいるだけの、蜃気楼のごとき空間であり、ほんとうの意味での空間、光の活動すべき空間ではないわけです。
空間が空間である理由は、光が活動しているということなのですから、「時間は空間を存在させている重大な因子である」ということを理解しなくてはなりません。
こうしてみると、仏が創った世界、すなわち、三次元以降、四次元、五次元、六次元、七次元、八次元の世界というものは、どうやら、時間を内包した空間と、そのなかを動く光―こうしたものだと言えます。
したがって、仏が世界を創っている要素は三つに集約されます。「光」「空間」「時間」―この三要素でもって、仏は世界を創っているのです。
「光」が変化して、いろいろな次元相応の物体、霊体をつくっている。光が光として活動できるためには、活動の場としての「空間」が必要である。また、光の活動をあらしめるためには、「時間」の流れが必要である。光が光として流れていくためには、光が届いていくためには、時間の経過が必要である。そこで、「光」「空間」「時間」という三つの要素でもって、仏は天地創造をなしている。
こうした認識をすることができるのです。
【大川隆法『永遠の法』幸福の科学出版 第5章「八次元の世界」より抜粋】
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本日の学びも、経典『地獄の法』の内容を補完するようなみ教えでした。幸福の科学の瞑想に「帰天瞑想」というものがありますが、これは、今自分が仮に死んでしまったとして、天上界に還るときのことを瞑想する内容です。『太陽の法』では、人生の秘訣として、自分がこの世での使命を終えて帰天するときのことを瞑想してみることを教えていただきました。
『地獄の法』においても、死後の私たちの行き先は、生きているあいだに、生前の思いと行いと心の声を振り返り、反省することによって、ある程度分かると教えていただいています。
また、帰天後は、あの世で自分の人生がどのようなものであったかを「照魔の鏡」によって見せられることなども説かれていますが、これも既に『太陽の法』にて説かれていたことも改めて驚きでした。
本日のポイントであるダイヤモンドの時間を生きる秘訣をもう一度振り返ります。
〇人生には、ひとつの秘訣があります。それは、自分が死ぬときのことを瞑想してみるということです。自分が死ぬとき、何を考え、何を感じるだろうかということを、つねづね瞑想してみることです。
〇自分が死ぬとき、何を考え、何を感じるだろうかということを、つねづね瞑想してみることです。そのときに、「ああ、生きていてよかった」「人生って本当にすばらしいな」と思える人は、幸福な人生を生きた人だといえます。
〇その反対に、自分が死ぬときのことを考えると、後悔ばかりが、つぎからつぎへとわいてくる人たちもおります。気の毒な人です。こういう人たちは、死んであの世に還れば、高級霊の面前で、自分の一生を反省させられるのです。テレビでもみているようにそれはあざやかに、自分の人生がそこに映し出されて、大勢の人々の前で、それを見せられます。
〇死んであの世に還ったばかりの人は、仏の目から見たら、自分が、一体どういう人間であるのかということを、はっきりと知らされるのです。このときは、何ひとつ、うそも、いいわけもききません。そして、たくさんの人々の視線を感じて、自分の行くべきところを悟るのです。地獄へ行く人は、自らが選んで地獄へ堕ちてゆきます。というのは、自分がどういう人間かがわかってしまったら、恥ずかしくて、天国には住めないからです。物理学的にいうならば、霊的な波長が粗雑で、ほかの人々の精妙な波長にあわないということです。あるいはまた、意識体が、三次元的な、物質的なものになってしまい、その比重が重くて、下へ沈んでしまうということでもあります。
〇死去したあと、実在界で、自分の人生模様を見せられて、ほかの人たちから拍手を送られる方もいます。すなわち、その人が、人生の間違いに気づき、仏の両手をあわせて許しを乞い、その両目から涙が流れている映像が映るとき、あの世の人々は、拍手喝采し、新米の霊人の肩をたたき、握手を求めるのです。また、その人が、仏法真理の伝道のために一命をなげ出し、立ち上がった姿が映ると、光の菩薩たちは、涙を流してよろこびます。
〇これは、何年、あるいは、何十年先かはわかりませんが、あなたがたを待ち受けている光景なのです。そのときが、確実にやってくるのです。
〇だからこそ、あなたがたは、つねづね自分たちが死ぬときのことを、いや、むしろ、たとえ明日生命が亡くなってもいいような人生を生きているかどうかを自問しながら生きるということが大切なのです。死ぬときに、今のような生き方であなたは、恥ずかしくはありませんか。悔いは残りませんか。自分の良心に照らしてみて、どうでしょうか。
〇人生の時間をダイヤモンドのように輝かすためには、こういった意識と発想の転換が必要だといえます。すなわち、自分の死の瞬間を想定して、現在までの自分の生き方を反省してみることです。これは、善意なる第三者の立場に立って反省するということと、同じだといえます、そして、これが、ダイヤモンドの時間を生きる秘訣なのです。密度の高い、煌めきのある人生を生きる秘訣ないのです。
本日も、主とともに、仏法真理とともに、法友とともに、ダイヤモンドのように自らの時間を光り輝かせたいと思いました。
また、後半の『永遠の法』も、これもまた、奇跡の教えです。宇宙を創造したご存在でなければ、『光』『空間』『時間』をこれほどまで明確に定義できることはできないからです。本日の引用部分もまさに根本仏の教えです。
まず、『要するに、三次元をはじめ、四次元以降の世界のすべてをつくっているものは光であり、すべてのものは、本来、光なのです』という驚くべき霊的真実が出されています。
あと、すべてが重要な説明となりますが、最後のところがとりわけ重要です。
『つまり、光が固定化し、形状化したものが物質だということになります。一方、固形化していない光が、四次元以降の空間においては、霊として、あるいは霊的エネルギーとして存在しているのだと言えます。
要するに、三次元をはじめ、四次元以降の世界のすべてをつくっているものは光であり、すべてのものは、本来、光なのです』
このように、光がすべてをつくっているのですから、「光の活動の場が空間である」ということは、「光の活動すべき場がなければ空間は存在しない」ということを意味します。したがって、三次元以降の多次元空間をつくっているのは、「光」と「光の活動」ということになります。
それゆえ、「光の活動を実現させるべき時間がなければ、空間もないし、物質も霊も何もない」ということになってしまいます。そこにあるのは、ただ単に浮かんでいるだけの、蜃気楼のごとき空間であり、ほんとうの意味での空間、光の活動すべき空間ではないわけです。
空間が空間である理由は、光が活動しているということなのですから、「時間は空間を存在させている重大な因子である」ということを理解しなくてはなりません。
こうしてみると、仏が創った世界、すなわち、三次元以降、四次元、五次元、六次元、七次元、八次元の世界というものは、どうやら、時間を内包した空間と、そのなかを動く光―こうしたものだと言えます。
したがって、仏が世界を創っている要素は三つに集約されます。「光」「空間」「時間」―この三要素でもって、仏は世界を創っているのです。
「光」が変化して、いろいろな次元相応の物体、霊体をつくっている。光が光として活動できるためには、活動の場としての「空間」が必要である。また、光の活動をあらしめるためには、「時間」の流れが必要である。光が光として流れていくためには、光が届いていくためには、時間の経過が必要である。そこで、「光」「空間」「時間」という三つの要素でもって、仏は天地創造をなしている』
これに関する解説は私の実力ではもはや無理です。
参考経典としては、経典『若き日のエル・カンターレ』第五章「時間と存在」p171~
と、経典『観自在力』第七章「観自在力講義」第四節「十次元の世界と時間の大河」p278~を参考にしていただければと思います。私も「時間と存在」に関する教えの解説ができるくらい精進を皆様と共に重ねてまいります。
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are One, with our Lord. 我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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文責:蒲原宏史
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(11/19-1)323『太陽の法』を読む566「エル・カンターレへの道」ダイアモンドの時間―「幸福の科学発足にあたって」モーセの祈りに応え、神風を吹かせて紅海を真っ二つに裂いた神の奇跡―『永遠の法』永遠の時間
『太陽の法』
