🌟【基礎教学通信】345『太陽の法』を読む78「太陽のメッセージ」愛の力・神秘の力2―「宗教選択の時代」善なる道に入るための方法【愛と信頼、感謝と報恩】―『復活の法』五次元の心境を維持する方法

『太陽の法』

85 利益の出ない事業は、必ず潰れる。赤字は犯罪で、黒字は天命であると思え。

【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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さて、降魔成道記念日を迎えて、あらためて「悪」とは何かを、主の御教えから振り返ってまいります。本日は経典『宗教選択の時代』より降魔についての学びを振り返ります。経典をお持ちでない方は、この機会に是非ご拝受ください。【税込み1800円】
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■『宗教選択の時代』第3章「悪とは何か」
4 善なる道に入るための方法―愛と信頼、感謝と報恩

それでは、なぜそのように、他の人のために生きる人間と、他の人を害する人間とが、生まれてくるのでしょうか。

二つの要因が考えられます。

第一には、結局、一人ひとりの魂が独立している、というところに問題があるようです。個が個として独立している、というところに問題があるようです。個が個として独立していることによって、他者との違いがそこに生じます。

第二には、一人ひとりは、「みずからの幸福のために成長していきたい」という思いを持っている、ということです。

ですから、他の人との違いというところにおいて、「壁」ができます。また、成長していこうとすると、「天井」にぶつかります。このように、本人の本能のなかに、他者との衝突をなくすために、なすべき方法とはなんでしょうか。一つは、個人と個人との「壁」なるものを取り除く努力をすることです。もう一つは、「天井」を天井でなくしてしまう努力をすることです。この二つがありえます。

では、個人と個人との「壁」を取り除く努力とは何でしょうか。それが愛であり、信ずる心であろうと思います。他の人を愛するということにおいて、お互いに手をつなぎ合おうとする努力です。しっかりと手を握っているからこそ、お互いに信じ合い、許し合うことができ、また、他の人のなかにある善いものを見ていこうとする心を持つことができるわけです。

また、個人が伸びていこうとする時の「天井」にあたるものとは何でしょうか。自分ひとりが成長して葉を繁らせてもよいのですが、それが、結局、他の草花たちに日光を当てないようにしてしまうところに問題があるわけです。ですから、各人が成長していくことによって、他の人々の幸福にますますつながっていくような生き方を、そこに考えなければいけません。

つまり、与えられれば与えられるほどに、成功すれば成功するほどに、多くの人々に還元していく、お返ししていく、という気持を持った人間を、出していかねばなりません。感謝の心、報恩の心を持った人間をつくっていかねばならないわけです。

愛と感謝、感謝と報恩―こうしたものが、個人が個人として、個性が個性として、自由性を発揮しながら、しかも多くの人々と共に、善なる道に入るための方法であろうと思います。

【大川隆法『宗教選択の時代』第3章「悪とは何か」より抜粋】
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さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。

今日も経典『太陽のメッセージ』を引用しながら、幸福の科学の基本書である『太陽の法』の大切さを共に学びます。本書は1998年の年末に『太陽の法』の講義としていただいたものです。【現在は絶版となっています】
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■『太陽のメッセージ』Part1
第3章「愛の力・神秘の力」
8 真・善・美を哲学的にとらえると

哲学的な議論に多少なるかもしれませんが、私たちが物をみて美しいと感じるのは、人間がその美しさをいろいろと研究した結果、美しいと感じるのかどうか、というところに論点がいくわけです。

たとえば目の前に花瓶があるとします。そして美しい色とりどりの花があって、これを私が美しいと提起したとしますと、たいていの方は賛同されると思います。

美しいということでは賛同されるのですが、これをなぜ美しいと感じるのかという問題です。これについて説明してくれと言われたときに、どのような説明ができるでしょうか。ピンクの色が美しいとか、緑とこの赤っぽい色との対比がいいとか、バランスがいいとか、薄紫がいいとか、いろいろあると思いますが、なぜそれがいいのかといわれたときに、この説明はひじょうに苦しいのです。説明ができないのです。説明はつかないけれども、しかし、見ると美しいし、いいと感じるものがあるのです。

すなわち、私たちがある事実に基づいて判断した結果、これが美であるとか、善であるとか、真実であるとかという価値が生じるのか、私たちが研究し分析した結果として認定されるものなのだろうか、あるいは美というものなら、私たちが研究分析しなくても美はもともとあるのか、私たちが議論をする前にあるのかどうか、ここに問題があるのです。こう考えますと、私たちは花が美しいというときに、その美しさについてその理由を、誰にでも納得できるように説明をすることができないのです。

なぜあの海が美しいのかといわれても何ともいえないのです。「何とも言えない輝きが美しい。」というような言い方になってしまいます。そうです。これなのです。いま私は美という例を引きましたが、善というものをとっても同じです。やはりいろいろな説明がされます。これはこうだから、こうだと言い、これは善いこと、悪いこと、というように言うことはできる突きつめていったときの善とはいったい何なのであろうかといったときに、これはひじょうに難しいものがあります。

あるいは真実の真です。これは真であるということでも、突きつめていくとやはり難しいのです。研究分析の結果、真であると証明されるのかどうかです。この真であるという証明を科学実験のように、何回くり返しても同じになるから真である、という方法論に限定したときに、私たちはそこから外れるものが数多くあることを発見せざるをえないのです。

たとえば、地球が自転しています。これは一つの真理であり、真ということでしょう。確かに回転しています。しかし、何ゆえにですか。これを説明できるでしょうか。なぜ、自転するのでしょうか。なぜ、何億年も回転していなくてはならないのでしょうか。この理由はありましょうか。そして、その地球は何ゆえに太陽のまわりを公転しなくてはならないのでしょうか。何か理由があるのでしょうか。いつも同じ方向にどうして回らなければならないのでしょうか。たまには気まぐれを起こして逆回転をしたり、上に上がったり、下がったりいろいろしてもよいのではないでしょうか。

なにゆえ同じ方向に回転するのでしょうか。このあたりが納得いくでしょうか。どうでしょうか。真ということであっても、なぜにということがわからないのです。そのような領域は数多くあり、そのなかにこそ、ほんとうのものといいますか、一番大事なものがあるのです。よくはわからないけれども、それはそのとおりだなという部分がやはりあるのです。

このようにア・プリオリ(※先天的)という言葉で、哲学的にはいいますが、アというのは前提的に・先天的にという意味なのです。先天的というのは生まれる前からということです。仏教でいえば、父母未生以前(ぶもみしょういぜん)の自己というようなもので、両親が出てくる前の自分は一体なんであったのか。というような自己像です。これと同じことでありますが、存在の前にあったかどうかです。存在に先立って理念があったかどうか。このような問題になるわけです。

9 哲学の二つの流れ

このように考えていきますと、美とか、勇気とか、正義とか、善とか、このようなものは、私たちが研究し分析してそれがよいと認めたからそうあるのではなくて、人間がその議論をつくす前に、知識によって考える以前にやはりあるのではないか、という観点が強くなってきます。これが先験的立場です。

この立場とは逆に経験論的立場というものがあります。これは、人生で経験したものだけが真理であるという考え方です。経験論哲学の流れであります。実際に経験され、そしてそれが真理のレベルまで消化されたものだけが真実であるという考えです。いろいろな経験を通して得られたもの、それが普遍性を持ったときだけ真実であるという考え方です。これが経験論です。この経験論と、経験論でない先験性を考える理論と、これは哲学界でも二つの流れとして現にあるわけです。

しかし、真実はどちらかといえば、明らかに私たちの議論の以前に真実はあるという世界です。これを認めざるをえないのです。私たちの価値判断の以前に、現に美しいものがある、現に善いものがある、現に真実のものがある、という考え方、これが実は宗教的にいえば信仰ということなのです。これが信仰というものの本質です。

ふたたび、哲学的に表現すれば、第一原因論ということにもなってゆくでありましょう。物事はいろいろと結果が現われておりますが、結果の前には必ず原因というものがあります。みなさんがあるには両親がありましたし、今日そこにいるということに到る前には、そこに移動したという事実があります。必ず前の行為があって現在という結果があります。その前に何かがあって、今、みなさんはあるのです。

私が着ているこの服にしても、結果として、このような服になっておりますが、これにも原因行為があるのです。もちろん布を作る前の糸の段階、糸のもっと前である繊維の段階からあります。糸ができて、これを織りあげる段階があり、かたちができて、サイズを計って作る。それを持ってきて売り場に出し、そして買います。そのような過程があってはじめてここにあるのです。

しかし、原因結果の連鎖を深く深く探っていっても、最初の部分というのはわからないのです。あの鶏と卵の議論と同じです。鶏が先か、卵が先か、考えれば考えるほどわからなくなるといいます。さらに、それ以上にいろいろなものを考えていっても、第一原因へと遡(さかのぼ)っていきますと、わからない部分があります。つまり、ここはわからないけれども、第一原因として考えるか、考えないかということです。ここにも哲学的議論で行き止まりがあります。

これを第一原因である人智を超えたものとして、やはり何かあったのだと考える考え方は、これは哲学的アプローチからいった信仰であります。ですから、経験論的立場に立つのか、そうでない先験的立場に立つのかは、このどちらかが大きな分かれ目となってくるわけです。

10 経験論哲学を超えて

経験論哲学の流れのほとんどは、経験論哲学を論じている人たちが数学者であったりする事実と関係があるのです。彼らはそのように理論的に説明できないものは納得がいかないことが多かったわけです。しかし、その数学の以前のもの、すなわち、たとえば0という考え方、あるいは数字の1でもよいのですが、これは何であるかということです。これでいきますと、けっきょく数学の世界であっても、実は信仰の世界に入っていくのです。

1というのはいったい何なのかといったときに、これはひじょうに難しい問題です。コップを1であると考える。グラスを1であると考える。マイクを1であると考える。この1とはいったい何なのか。それぞれを客観的に見たときに全然違うものです。しかし、1という言葉では同じに表されているのです。この1の意味は何であろうか。これを考えていったときにわからないのです。物を分析していけば、いろいろなものの集まりなのですから、マイクが1本とはどのようなことなのか。グラスが1個とはどのようなことなのか。よく考えていただきたいと思います。

数学の世界でも、確かに1+1=2であるとか、2×2=4であるとか、このようなことであれば、そのとおりでありましょうが、その前提の部分、0とか1とかいった概念、これを説明できるかといえば、できないのです。けれどもこれを先験的に認めているのです。1というものをみなさんは認めます。グラス1個といいます。

しかし、この1個のグラスの1とはいったい何なのかと考えたときに、これを顕微鏡でのぞいて見たならばものすごく多数の粒子の集まりです。これを1というのです。あるいはコップ1杯の水があります。水の場合、これを一杯といいますが、これはいったい何なのだと考えてみたときにも、わからないのです。

数とはいったい何なのか。そもそも0とは何であるのか、0の概念も遡っていくと、これは仏教でいえば空と無の理論、このあたりと関係してきます。そして0とは空か無か、どちらのことを意味するのか、と考えたときにかなり難しい理論になってきます。はたして無なのか、無のことを0というのか。

しかし、0が無であるとするならば、0が数学に持ち込まれて使われるということはいったいどのようなことであるのか。1×0=0になる。2×0=0になる。これはどういうことなのだろうか。

たとえばグラスと瓶が2個あります。この2個というものに0を掛ければ0になるということはいったいどのようなことでしょうか。0とはいったいどういうことなのでしょうか。不思議です。まるでブラックホールのようです。現にあるものに0を掛ければなくなるのです。消えてしまう。これはどのようなことでしょうか。これを信じられるというのは、数学者は信仰の世界に生きているということなのです。そう思わざるをえないのです。私は納得がいかないのです。

現にりんごが2個あるといたしましょう。2個に0を掛ければ0になる。これはどういうことなのか。なぜりんごの2個が消えるのか。この説明をしていただきたい。できないのです。この0とはいったい何であるのかわからないのです。あるとするならば、創造と破壊の神がいて、0とは破壊の神のようなものです。一瞬にして消し去る力ですから、神様でなければ、このようなことはできないのです。

もちろんそのほかにも無限大という、難しい考え方があります。このように数学の世界、証明ができていると思っている世界に入っても全然証明ができない部分があるのです。究極は信仰の世界に入っていきます。そのようなものなのです。ですから、自称、論理的に物を考える人でさえも、突きつめていくと、最後のところで行きづまってまいります。

11 信仰の原点

やはり、どうしても前提的に認めなければいけない部分があるのです。これがいったい何なのかということであり、それは人間の知性の産物としてるされる存在か、または人間としての知性的な活動の以前にあるべきものかということになってきます。

これを思ったときに、やはり私たちは謙虚に考えなければいけないのです。ギブアップせざるをえないところがあるのです。白旗を上げ、両手を上げなければいけない瞬間があるのです。これがやはり結論であろうと思います。ここに信仰の原点があるということです。私たちの理解や、あるいは認識で説明がつかないもの、そして無前提にやはり宇宙の根源であると思われ、そして善いもの、すばらしいもの、と思われるものがあるということです。これを認める立場を信仰というのです。

「信仰とはナンセンスだよ。君。」という人にぶつかったときは、このような話してもしてみてください。

「それでは、数字の1というものを説明してください。どういうことでしょうか。0とはいったい何でしょうか。」これを言っていただきたい。

このようなことを考えていけば、神を考えなければしょうがないのです。すべてを消し去るような0というものは考えられないのです。「このように0というものを君たちは平然とコンピューターにインプットして計算してはいるけども、いったいどういうことなのか。」といわれたときに彼らはわからないのです。これが数学における信仰の世界です。私はそう思います。このように哲学的にでもよいのですが、さまざまなアプローチで、全世界をつくっているもの、あるいは人間の心のあり方を探求するときに、そこにやはり人間心を超えたものがある、ということを認める立場を信仰といいます。特定の神様を拝むことが信仰ではありません。このように理解していただければけっこうです。

12 愛のシャボン玉
「愛の力」について語ってみたいと思います。「愛とは私の知るかぎり、この地上では、最大の力をもっております。そしてこの世を去った実在界、四次元以降の多次元世界においても、愛は最大の力です。と『太陽の法』で述べてあります。

なぜ最大の力かということでありますが、愛の力とは実は、結びつける力であるからです。排斥し合う力が弱まれば、結び合う力は一人の力を二倍にも三倍にも強めていくのです。これはまことに不思議なことです。私たちは人間という立場から、人間と人間の間にある愛というものを考えますが、この立場、物事の観点といったものをかえて見るとどうなるでしょうか。

すなわち、愛というものがあって、そこの立場から人間を考えてみたときにどうなるかということです。ある人と私との間に愛が生まれるとします。すると二人の間に風船のようなシャボン玉のような愛ができ上がるわけです。直径二メートルくらいの愛があるとしましょう。このようなことが愛と人間との関係学でもありましょう。そして、逆に、この人と人との間にあるシャボン玉のほうから二人を見るのです。

この愛の観点から人間を見ればどうかと考えていくわけでありますが、そうしますと、まことに不思議な世界が、ここに展開してまいります。自分は愛というシャボン玉であるわけです。シャボン玉としての愛がこのように世界を見ていくのです。そうすると不思議なのです。自分という愛のシャボン玉が間に入っていくと、まわりの人間が変わってくるのです。目は生き生きとしはじめ、行動的になり、そして気力を増し、そして活動的になり、いろいなことを積極的にやりはじめます。そして世界がバラ色に見えてきます。どんどん仕事はするし、家庭のほうはうまくいく、そして人間関係は潤滑油があるかのように流れていきます。いろいろな人と会えば必ず笑顔を振りまきます。その人にあった人もなにかうれしくなって喜んでい・
・す。

このように、愛のシャボン玉の方の立場から見ておりますと、自分がここにいるだけで、何だか知らないけれども、人間と人間との間の力が増えていくわけです。別の言い方をしますと、人と人との間に一個の愛のシャボン玉があり、そのシャボン玉によって結ばれている人がいろいろなところを動いてゆき、またその人と接した他の人との間にも愛のシャボン玉が生まれていくのです。たくさん生まれていくのが見えるわけです。まことに不思議でありますが、まさしく、ゾンビの反対でありまして、地獄霊に取り憑かれておかしくなる場合と逆に、愛の霊に取り憑かれた場合といってもいいかもしれません。その愛の霊に取り憑かれた場合、伝染していくわけです。無間に増幅していくのです。ウイルスのごとく。この力はすごいもの・
・す。

13 広がる愛の輪

一人の人間が持っている力には限りがあります。また、いろいろと他の力を考えてみても限りがあります。それは人間のもっている力には有限性がどうしてもあるのです。自己増殖していくような力というのは考えてみても、あまりないのです。しかし、愛の力だけは、自己増殖していくのです。パンに入れたイースト菌のように、自己増殖してどんどん大きくなっていきます。

たとえて言えば、ゴルゴタで死んだイエスという人の愛があります。この人の愛というのも、考えてみれば、ものすごい増殖率です。イースト菌で発酵させたどころの話ではないのです。聖書のなかにも出ておりますが、要するにパンを何切れか取り出して、裂いて分けたら三千人、五千人の方が満腹になったと書いてあります。

物質化現象でそのようなこともありえるのでありますが、この部分をもっと深く考えれば、愛というものを分け与えたら、その愛が無限に広がった、という意味にも取れます。これは五千人どころではありません。イエスがこの二千年間に分け与えた愛というのは、いったいどれだれの量でしょうか。おそらく、億という単位でも数えきれないくらいの量であると思われます。一人の人間の愛がそれだけ増殖したのです。

人間の一日に歩ける距離、これは限られたものです。持ち上げることができる重さにしても、限度があります。いろいなものがありますが、その力は限られています。頭がよいと言っても、それは知れています。それほど人の何百倍も何千倍も頭のよい人などはいません。せいぜい人の二倍か三倍で、仕事の能力から言っても、せいぜい十倍ぐらいのものではないでしょうか。それ以上できるかといえばできいないのです。人間には限界があります。

しかし、この愛の力というのは、自己増殖力があるがために無限大に広がっていく可能性があるのです。この意味において最大であると言っているのです。地上においても最大でありますが、霊界においては、もっと強い力をもっているのです。この伝染力、すなわち、影響力というのが実在界においては、地上よりもっとストレートに出てくるのです。それゆえにこの力は巨大になっていきます。一人の人間に端を発した力がものすごく大きくなっていくのです。

以前にNHKで「大黄河」という特集をやっていました。私も少し見たことがあるのですが、黄河の淵源というのはチョロチョロ流れていて、水があるかがないかがわからないくらいなのです。それが下流にいきますと、あのように凄いうねりになっているのです。たとえていえばあのようなものでありましょうか。チョロチョロと静か苦を流したようなものがいつのまにか巨大な水流になってゆき、信じがたいほどの力を発揮します。あのようなものです。人間の持っている力においては、あのような形で大きくなっていくものは、ちょっとほかには見当たらないのです。このようなことを言っておきたいと思います。

【大川隆法『太陽のメッセージ』第3章「愛の力・神秘の力」より抜粋】
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続きまして、教典『復活の法』の第3章より「天国に還る方法」を学びます。これは、1988年11月20日に上級セミナーとして、『永遠の法』講義として賜ったものです。経典をお持ちでない方はこの機会に是非ご拝受ください。【税抜1800円】
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■「天国へ還る方法」―死後の行き先は生前の心境で決まる―
3五次元の心境を維持する方法
〇八正道によるチェック

それでは、「他の人からしてほしいと自分が思うことを、自分以外の人がしてもらったとき、あるいは、自分が他の人にしてあげたときに、自分がしてもらった場合と同じようにうれしく思える」という、五次元の心境を維持するためには、どうすればよいのでしょうか。

それは、「心が迷うような事件が、いろいろと起きたときに、いったい、どうすればよいのか」という問題でもあります。

そういうときの判断基準の一つとして八正道があります。八正道とは、「正見」「正思」「正語」「正業」「正命」「正精進」「正念」「正定」という八つの徳目であり、私は『太陽の法』や『釈迦の本心』(共に幸福の科学出版刊)などの著書で八正道について説いています。

「どうしたらよいか分からない。どう判断してよいか分からない」というときには、八正道を基準にチェックしてみるとよいでしょう。

まず、「正見」「正しく見る」ということから入っていきます。これは、「他人を正しく見ているか。自分自身を正しく見ているか。物事を正しく見ているか」ということです。正しい信仰に基づく正しい見解と考えてもよいでしょう。

「正しく見る」ということは、とても難しいことです。人間は、自分自身の才能や能力、経験、環境などによって、どうしても視野が狭くなっています。また、”色眼鏡”で見てしまい、対象に何か色がついてみることもあります。

したがって、正見の修業は、かなり難しいのです。正見は八正道の入り口ではありますが、正見に終点はあません。本当に意味で「正しく見る」、正しく観察するということは、なかなかできないのです。

また、「正語」「正しく語る」ということも、そうとう難しいことです。

みなさんは、正しく語ることが、本当にできているでしょうか。おそらくは、できていないはずです。足りないことや不満なことに対する言葉が、どうしても口をついて出てくるでしょう。そして、感謝の言葉や喜びの言葉は、なかなか出てこないでしょう。

主婦のなかには、ご主人の顔を見ると、条件反射的に不満の言葉が出る人も、相当いるのではないでしょうか。例えば、条件反射的に、「あなたのせいで」という言葉が出て、「あなたに甲斐性がないから」「あなたの稼ぎが悪いから」「あなたの頭が悪いから、子供も頭が悪い」などと言ったりしているのではないでしょうか。

【大川隆法『復活の法』幸福の科学出版 第3章「天国へ還る方法」より抜粋】
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本日の『永遠の法』講義「天国へ還る方法」では、五次元世界の心境―愛の基礎となるゴールデンルールの徹底―「自分が他人からされて喜ぶことを他人にすること」―この心境を常に一日じゅう維持するためのチェック項目として八正道を利用することを教えていだきました。八正道は八つの項目があり複雑なのですが、まずは第一の「正見―正しく見る(観察する)」ことに重点を置くことの大切さを教えていただきました。

そして、つぎのステップとして「正語―正しく語ること」が重要であることを学びました。

毎日の心の心境のチェックに「正見」と「正語」をよくよくチェックしてみましょう。これは五次元善人界に入るための重要な要素です。

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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are One, with our Lord.  我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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文責:蒲原宏史 

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