89 信者とは、長年のリピーターのことである。宗教の本道とは、経営の王道につながる。
【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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12/14(日)~21(日)まで、「エル・カンターレ祭」を開催させて頂きます。本年は「主なる神を愛し、日本全国・全世界にエル・カンターレ信仰を打ち立てよう。なお、一歩を進めよう!」のスローガンのもと、創造主であられる主への愛を深め、なお、一歩を進め続けた一年でした。そこで、「エル・カンターレ祭」では、今年一年、主が与えてくださった数多くの愛を振り返り、心からの感謝を捧げさせて頂きます。皆様全国の支部・精舎・拠点に参集ください。主への感謝と報恩の誓いを共にさせていただきましょう。
さて、降魔成道記念日を迎えて、あらためて「悪魔」とは何かを、主の御教えから振り返ってまいります。本日は経典『悪魔の嫌うこと』より降魔についての学びを振り返ります。経典をお持ちでない方は、この機会に是非ご拝受ください。【税抜き1600円】
―本書には、エル・カンターレの説く、悪魔の嫌う三箇条が明らかにされている。精読の上、くり返しお読み頂きたい。その価値は無限で、国民全員に、そして、全世界の人々に読んでほしいと痛切に願っている。
大救世主降臨を知らずして、今、知るべきことはない。求めよ、さらば与えられん。真実の智慧を体得するがよい―「まえがき」より
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■『悪魔の嫌うこと』
2 悪魔の発生原因
本章では、悪魔の存在について積極的に語ることが本旨ではありません。
むしろ、もう少し個別具体的に、人の心のあり方について、「このような心のあり方が悪魔の好むあり方である。このような心のあり方を避けていくように努力するならば、あなた自身が悪魔になることもなく、悪魔の存在領域の拡大に手を貸すこともないであろう」ということを述べたいと思うのです。
私が観察してきたところによると、悪魔の発生原因は、やはり、人間の持つ「自我」と、「自我の行使における自由」にあるようです。
自我は、人が赤ん坊として生まれ、子供から大人に育っていく過程で芽生えてくるものです。
それは、自分というものに目覚め、自分というものを愛し、かわいがり、自分という存在をこの世にあらしめようとする力の一部分ではあるのです。
人が、この世に生まれてくるのは、個性を手に入れるためです。今世の人生で、現在の名前で呼ばれている個性を得るためなのです。
したがって、「自分という存在ができる」ということ自体は、まことによいことであるし、それは人生の目的そのものでもあります。
しかし、「自分」というものを求めていく過程において、仏や神の心に反した自己像を求めたり、あるいは、自己を拡大していく過程において、他の人々の幸福追求の権利を害するような生き方をしたりしてしまう危険性があります。それが悪の発生原因と言えるわけです。
大勢の人々が、自由に個性の形成を目指しながら、同時にまた、他の人々を害さず、他の人々と強調しつつ、お互いに共生できる生き方、大調和の生き方をすることが大事なのです。
【大川隆法『悪魔の嫌うこと』第1章「悪魔の嫌うこと」より抜粋】
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さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。
今日も経典『太陽のメッセージ』を引用しながら、幸福の科学の基本書である『太陽の法』の大切さを共に学びます。本書は1998年の年末に『太陽の法』の講義としていただいたものです。【現在は絶版となっています】
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■『太陽のメッセージ』Part2
第1章「悟りとは何か、その極致とは」
1 悟りの奥行き
「悟り」について語ってまいりたいと思います。これは幸福の科学の教えではメインの部分に近いでしょう。奥行きもそうとうありますから、ほんとうはいくらやっても終わりはありません。やはり一章ぐらいの講義ではとても終わりそうもないといいう感じがいたします。なぜならば、この『太陽の法』の第4章「悟りの極致」あたりに書いてある悟りの内容といっても、まだまだ入り口であるからなのです。ひじょうに初歩の段階であって、このあたりは私としての講義を早めに終わらせ、講師のほうに譲っていきたいと思っているのです。そして足場をつくり、さらに次の段階へと進んでいきたいと思っています。
本のスケールもだんだんと大きくなりますし、『観自在力』という本を読み返しておりまして、もう少し大きな創世記といいますか、地球創造の物理学のような、何かそのようなことをテーマとして本にしたいなというイメージが、インスピレーションとして降りてくるのです。はたしてどのように地球ができたのかということも興味深い本になるだろうと思います。(※1988年末時点)それを本にしようと思えばすぐにできるのでありますが、単に一つのイメージだけが降りてくるのではなく、あっちからもこっちからもいろいろとイメージが出てくるものですから、肉体人間の限界というものを非常に感じています。
やはり、三次元存在でありますと、能力がずっと落ちてくるのはどうしようもないようです。そのような霊肉の葛藤というものは、私自身にもありますし、おそらくみなさん方自身にもあると思うのです。
『観自在力』のなかでは、この霊能力のことを、神の光がまゆのなかに宿っているようなものだという説明をしております。まゆのなかに豆ランプのようなものが入っていて光を出しているのです。光を出してはいるけれども、いかんせんまゆがあるために、なかなか光が外へ漏れてこないのです。それで多少光が漏れてきたあたりの人を霊能者といっているのであって、本来の光そのものはなかなか出てくることができないのです。このような感覚を私自身もひじょうに感じています。
2 観自在力への三次元的な歯止め
観自在力といっても、これはほんとうにきりがない内容で、私自身が今どの程度まで観自在力を使っているかということを考えてみたのでありますが、現段階、どうみても持っている能力の一〇パーセント以上は出していないのです。平常使っているのはだいたい二、三パーセントくらいだと思います。そして、マックス(最高値)にしても一〇パーセントぐらいであると思えるのです。これ以上出せば人間ではなくなってくるのです。ですから、それ以上はこの能力を出すことができないわけなのです。
なぜ人間ではなくなるかといいますと、たとえばある人のほうを向いて、ぱっとその人の意識をみると一秒単位で連続して、百万年ぐらい前からのその人の姿や過去の記憶などが全部見えてきてしまうからなのです。一人だけではなく、まわりにいる人のことも同時に見えてきたりします。このようなことをしはじめますと、当然ながら人間としては生活していられなくなるのです。
したがって、この意味で、これは歯止めをかけなければいけないのです。絞りをかけなければ、この世とひじょうに遊離してくるのです。そして十年後に起きるようなこともあたかも明日起きることのように感じはじめるので、この世的な発言とはひじょうに違ってくるわけです。
そうして絞りをかけていても、やはり多少は出てくるのです。たとえば、職場で社員が働いているのを見ていましても、どうも遅く見えてしかたがないということがあります。何かどうもかたつむりがはっているように見えてくるのです。ですから本来の能力を全部開放すれば、いったいどのようになるのかといえば興味はありますが、やはりそれをするわけにはいきません。人間として生活ができなくなってきますので、どうしても押さえが必要なのです。
この押さえの部分のことを、漏尽通力というのです。これはもうすでに『漏尽通力』などで勉強されている方もいらっしゃると思います。この観自在力を押さえている漏尽通力の絞り、あるいは縛りというものをはずせばどうなるかという観点があります。
悟りということも霊的能力としての観自在力とひじょうに関係がありますので、その話を進めていきたいと思います。
3 悟りの道標
ここでは、悟りとは何かという話からはじめていきたいと思います。悟りということについては、哲学的悟りと道徳的悟り、あるいは教育的悟り、それから宗教的悟りという違いがあると思いますが、まず出発点をあきらかにする必要があるわけです。そこで宗教的な悟りにおいては、神仏との関係において悟りが語られるという点を抜くわけにはまいりません。哲学やその他のものであれば、このあたりをなしに語られることが多いでありましょう。科学などでも、ある意味では、悟りを求めているのです。
現代化学においても、あるいはサイエンスのほうの科学にしても物理学にしても、真理を追究しているのです。この真理を得るということも、ひとつの悟りのかたちであることは事実です。ただ、その奥に神仏とのかかわりというものがはっきり出てこないがゆえに、宗教的な悟りとはならないということになるわけです。
私は『太陽の法』において、「悟りとは、神仏のつくられたこの世界の原理を究明しながらも、自ら自身が神仏に近づいてゆくといことです。そういう意味では、悟りには、限界がありません。つまり、『悟った』ということは、永遠にありえないことなのです。」と定義しております。ただ、一定の段階を考えたときに、その段階に応じた悟りということは考えることができますし、またそのような程度の問題としてありうるということです。
これは何の世界においても言えることでありまして、たとえば英語が上達することには限界がありません。けれども、英語の達人とはいっても、どの程度の達人であるのか、やはりレベルに差があるのです。これは考えてみればわかることでありますが、日本語の達人といっても、その差はもちろんあるわけで、完成した日本語の達人というものはありえないのです。また、どのあたりのところまでいけば最高の日本語といえるのかどうか、ということがわからないのです。
同じように、宗教的悟りにおいても段階があり、究極とまでにはなかなか達することができないのです。ただ実力が上であるという感じは明らかにあって、一定のラインをひくことはできるのです。そして、このラインについては、いろいろな角度でお話をさせていただいているわけなのです。
したがって、本書の前提となっている『太陽の法』自体が、一つの「悟りの書」でもあると考えます。それも、かなりレベルの高い悟りであるといえるのではないでしょうか。この一冊の本に盛られた内容については、これだけの悟りが過去にまとまったかたちでだされたということはなかったと思います。その意味で、この一冊を学ぶということは、過去の時代において、如来格で出た人たちでさえも到達していない内容のものを学ぶということなのです。如来といえども明らかに到達していなかったといえる、そのくらいの内容であります。
ただ、これを読んでどこまで行くことができるかは、学ばれるみなさま方しだいでありまして、ひじょうにばらつきが出てくることでありましょう。残念ながら地獄界でとどまる方もあれば、ずっと上のほうまで登ってゆく方もいらっしゃることと思います。そのような差はあるということです。
4 何のために三次元世界で悟りを求めるのか
古い言葉ですが、「悟りの功徳」ということについて述べてみたいと思います。この「悟りの功徳」、すなわち何のために悟るのか、悟ってどうなるのかということについて、これをまず地上の人間の目標と使命という点から考えてみまょう。
天上界ではすべての人の心がガラス張りで、お互いの心がだれにでもわかるため、不調和な心ではいられないということを、すでに学ばれている方もいらっしゃることと思います。そして四次元以降の世界では、意識の差がありすぎると、同じところに住むことはできないのです。
しかし地上界では、これがおもしろいことに、この点がまったく違った感じになってきているのです。読者のみなさんのなかにもいろいろなレベルの意識の方がいらっしゃることでありましょう。すでに光が出かかっている人もいれば、今はまったく出ていないけれども、もしかすれば、まもなく光るかもしれないという人もおりますし、光る可能性が全然ないと思われる人もいて、いろいろなレベルにあるのです。どの程度の光の素質を持っているのか、また現に放ちつつあるのか、さっぱりわからないのです。だから、おもしろいのです。
ここに、三次元世界の意味のひとつがあるのです。ところが実在界においては、これがありえないこととなってくるのです。その意味で、魂にとっては、ひじょうに大きな経験です。お互いに多少、目隠しされた感じになっておりますが、このようなところでいっしょに切磋琢磨ができるのです。これは、むしろ悟りのレベルや魂の霊格において四次元・五次元レベルの人がひじょうに得ることが多いというだけではなく、如来や菩薩といわれる方であっても、このような玉石混淆(ぎょくせきこんこう)の世界に出されるということは、ひじょうに魂の修行となるのです。これはもちろんそのとおりで、いろいろと学ぶことが多いのです。
5 悟りの武者修行
自分と同じような意識レベルの人とばかり話をしていますと、当然とばかりに思っていることがたくさんあるのです。共通認識で当然であると思っているけれども、実はこれが違うところへ行けば全然通じなくなることがあります。あとで、これはいったいどういうことであったのかと、根源からさかのぼって考え直してみなければどうしようにもわからないことがあるのです。
たとえばみなさん方の間では、幸福の科学に一年以上もいらっしゃる方どうしであれば、だいたい基本的な知識があるために話がよく通じます。しかし、それをよそに行って話をしても、全然チンプンカンプンなのです。これは外へ出て見なければやはり修行にならない部分であるのです。いつも同じ仲間とばかり話をしていれば、やはりその世界では当然のごとく、十四次元ではどうだ、十五次元ではこうだとやっているわけなのです。ところが、これが外へ行けばまったく通じないこととなるのです。これと同じように、やはり三次元に出るということを時どきやらなければ、全然違う世界のなかで浮いてしまうことになるのです。
ですから高次元の霊たちであっても、いったん地上に出て修行するということには意味があります。「オギャアと赤ん坊として生まれて、平等に人生をやり直す機会が与えられているのです。すなわち、悟りの功徳とは、人生のやり直しがきくというところにあるのです。」と『太陽の法』のなかに書いてあります。これを考えてみますと、ひじょうおもしろいことだと思います。やり直しがきくのです。
現に高次元に住んでいる人たちにとっては、果たして元のところへ戻てこれるのかどうかがわからないので、多少危険なところもあるのです。しかし、地獄からやっとはい上がってきたような人にとっては、いわば敗者復活戦でありますから、みんなはりきって「見ておれ、この次は」と思って出てきているわけなのです。このような人でもあとでまたストーンと堕ちたり、あるいは、うまく上がれたりするのです。このように同じリングに出してくれるというわけでありますからおもしろいのです。
この意味で、この三次元はチャンスと希望に満ちた世界です。地球上でもニューヨークなどは、いろいろな希望と期待をもってさまざまな人が集まってきており、過去百年くらいは人種のるつぼのようになってまいりましたけれども、そのような面が地上世界自体にもあるわけです。夢と希望を持ってみんなが集まるなかで、うまくいく人は大成功し、失敗する人は退廃して、スラム街などでもすごいところがありますが、あのような感じになったりするわけでありまして、けっきょく、よい面と悪い面の両方がありうるわけなのです。
そこで、私なりの悟りの定義をあげてみたいと思います。
「悟りとは、人生のやりなおしをする過程で、さらに霊性、神性を磨くことですが、その霊性、神性を磨く方法とはなんなのかを考えると、そこには、さまざまな可能性と無限の道が用意されていることに気づきます。」
ここに世界的宗教、あるいは他の宗教への考え方というのが出されているわけです。これは『幸福の科学入門』などでも出されている考えでありますが、わりあい寛容な考え方を持っていますし、そうとう大枠でつかんで考えているところがあります。
6 人類の叡智に対する敬意
私の基本的な立場は、過去の教えのなかにもやはり学ぶべきものがあれば学ぶ、そしてそれぞれ特徴がある以上は長短がありますから、問題があると思うところは距離を取っておくという考え方です。何もかも自分たちで新しくやればよいというだけのものではありません。過去に神がいろいろな指導霊を出されて、そして教えを説いてきたわけでありますから、そのなかから学べるものは学び、そして修正すべきものは修正し、新たに創造すべきものは創造するという立場です。
これがやはり本当に足腰を鍛えながら発展していく道だと思います。自分たちだけでやっているような気持ちになっても、意外にもろいところというものがけっこうあるわけです。やはり過去集積された人類の叡智に対しては敬意を表して、さらにその上のものを目指してていくというのがいちばん賢明なやり方だと思っています。
7 宗教的対立を超えて、今
この意味において、根本的に他宗の避難・排撃はしないという立場をとっています。(※1989年時点)ただ、そのようにやっていく途中においてどうしても矛盾が出るのは、残念ながら避けられないようです。このときに、やはり何を守るべき利益として考えるかという余地があるわけです。あくまでも灰色にしておくのか、それとも真偽をはっきりすることがよいのか、こうした立場にあるかぎり、どうしてもこのような選択を迫られるところが出てきます。
イエス様は昔、「罪を憎んで人を憎まず」というような感じでとらえておられましたが、私の考え方としては、このいろいろな宗教の考え方にしても、間違いは間違いで、正しいことは正しいという真理のレベルで言えば真偽はあるけれど、それら過ちのなかにいる人たちも本来仏性、神性をもち、また魂の修行レベルにおいて、いろいろな段階差があることも事実なので、それらを一概に否定はできないと思っています。ただ私たちの考え方から言えば、このようなことが言えるのです。そして、もし言わなければならないことがあれば、言うということです。ですから事実の認識レベルで、いつも灰色にしておけばよいということでもありません。言うべきことは言う、ただ同じ土俵に立っていろいろなことをやり合う必要はないとい・
・
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�考えです。
というのは、こうした一連の本を読んでこられたら、この教えのレベルがいったいどのへんにあるのか、、みなさんはお分かりだと思うのです。はっきりいわせていただくならば、他の教えと優劣を競うようなものではないのです。『観自在力』という本がありますが、二千六百年前の仏陀はここまで悟っていませんでした。イエス様も悟っていません。こういう内容のものが会がはじまってから二年ぐらいのうちに出てくるのです。ということはどういうことか、このあとに出てくるのはいったいどういうものなのかと考えていただければわかると思います。そういうことなのです。
ですから、先を見ればどこまで行くか、それを考えてみたときに、現在の枝葉のことであり真理考える必要はないということです。
【大川隆法『太陽のメッセージ』part2 第1章「悟りとは何か、その極致とは」より抜粋】
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続きまして、教典『復活の法』の第3章より「天国に還る方法」を学びます。これは、1988年11月20日に上級セミナーとして、『永遠の法』講義として賜ったものです。経典をお持ちでない方はこの機会に是非ご拝受ください。【税抜1800円】
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■「天国へ還る方法」―死後の行き先は生前の心境で決まる―
4 善悪に対する考え方
〇善なるものにを伸ばし、真理価値に反するものを抑える
ユートピア創造という観点から見たときに、一元論・二元論の価値観は違った展開をしていきます。
ユートピア建設という価値観から見た、一元論・二元論の考え方には、二つの道があります。一つは、「善なるものを、もっと伸ばしいいこう」という観点であり、もう一つは、「真理価値に反するものを、できるだけ抑えていこう」という観点です。両者とも、実際にありうる考え方であり、また、なければならない考え方です。
このことを、教育に例を取って述べてみましょう。
子供のしつけや小学校の教育に関する考え方において、どういうものがあるかというと、一つは、「ほめる教育」を推奨する考え方です。もう一つは、「ほめるだけでは藤生である。子供は、ほめられてばかりいたら、いい気になって失敗することもあるので、子供を叱ることも大事である」という考え方です。
過去においては「叱る教育」のほうが多かったことは事実でしょう。しかし、ほんとうは、この両者とも必要なのです。
さらに、もうひとつ考えるべきことは霊的観点からの教育です。子供に対して、「あなたはよい子だ」「あなたは悪い子だ」と言うだけではなく、「人間は、本来、仏の子であり、霊的存在なのだ。その点において、人間には仏と同じような光があるのだ。人間はダイヤモンドの原石なのだ」という考え方を教える必要があるのです。
人間は、もともと、ほんとうに素晴らしいものなのですが、さまざまな現れ方をするので、それについて、けじめをつけさせるのが、人間としての教育なのです。これを教えなければいけません。
本来の輝きが、もっともっと出てくるように、導いていく必要があります。
そのためには、「輝きがある」ということを認め、その輝きを増す方向に導いていく方法と、輝きを邪魔しているもの自体を取り除いていく方法と、この両方があるのです。
一元論と二元論について、私は相対二元論に近い考え方を取っています。
それは、「比較的下のほうの次元においては、明らかに善悪の二元的である。しかし、高次元に上がっていくにつれて、しだいに善の一元になっていく。その途中においては、善悪二元的なものは時間の流れのなかで処理され、現時点で把握と思われることも、長い時間のなかでは、善に変わっていくこともありうる」という考え方です。
たとえば、「かつて大天使であったルシフェルが地獄に堕ちてサタンになっている」という現状を、現時点の座標軸で切ってみれば、これを善と見ることはできないでしょう。やはり、悪として現れているとしか見えません。
ただ、一億年という単位ではなく、もっと大きな時間の流れで見たときに、どのように見えるかというと、一概には言えないものがあります。九次元霊であっても、そう簡単には結論の出せない問題だろうと思います。
悪として表れているもののなかには、一つの大きな教訓があるように思えます。そして、「その教訓が存在するがゆえに、現在、そのような悪があるのではないか」と推定される面もあります。
これは根本仏の巧妙な教育法であり、「大天使が地獄に堕ちてサタンとなり、現在も地獄にいる」という事実自体が、実は八次元や九次元を強力に教育しているのかもしれないのです。
そういう観点から見たときに、何とも評価しがたい面があることは確かです。現象として見たときには、善悪が現れてくることはありますが、「究極のユートピアという観点から見たときに、さまざまな考え方が出てくる」ということだけは押さえておいてほしいのです。
【大川隆法『復活の法』幸福の科学出版 第3章「天国へ還る方法」より抜粋】
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本日の『永遠の法』講義「天国へ還る方法」も、極めて重要な教えでした。なんせ造物主の被造物に対する教育方法と教育方針が示されているからです。このようなことが、このように分かりやすい表現で私たちに示されていること自体奇跡であると思います。
主の教育方法には、低次元世界における二元論的考え方【四次元から六次元世界】と高次元世界における一元論的考え方【七次元から九次元】の両方を使う『相対二元論』という概念を教えていただきました。
『一元論と二元論について、私は相対二元論に近い考え方を取っています。
それは、「比較的下のほうの次元においては、明らかに善悪の二元的である。しかし、高次元に上がっていくにつれて、しだいに善の一元になっていく。その途中においては、善悪二元的なものは時間の流れのなかで処理され、現時点で把握と思われることも、長い時間のなかでは、善に変わっていくこともありうる」という考え方です』
これは、根本仏の魂の教育方針を示したきわめて重要な教えです。「天国と地獄」「天使と悪魔」という世界が二元論的に分かれているのも、さらにその先にある統一された実相世界が「生々流転の法則」とともに実現するためであることが分かります。
「なぜ地獄があるのか」「なぜ悪魔が存在するのか」という人類が抱き続けた問いに対する仏の答えがここにあるので、極めて重要です。これは魂をより仏へと近づけるための方便であることが分かります。ここは極めて重要です。
『ユートピア創造という観点から見たときに、一元論・二元論の価値観は違った展開をしていきます。ユートピア建設という価値観から見た、一元論・二元論の考え方には、二つの道があります。一つは、「善なるものを、もっと伸ばしいいこう」という観点であり、もう一つは、「真理価値に反するものを、できるだけ抑えていこう」という観点です。両者とも、実際にありうる考え方であり、また、なければならない考え方です。
魂の教育には三次元的な方法論として「ほめる教育」と「叱る教育」の両方が必要であること、そして、それにもまして、高次元世界へつながる教育として「人間はみな仏の子である」という霊的事実による教育が必要であることを教えていただきました。
『さらに、もうひとつ考えるべきことは霊的観点からの教育です。子供に対して、「あなたはよい子だ」「あなたは悪い子だ」と言うだけではなく、「人間は、本来、仏の子であり、霊的存在なのだ。その点において、人間には仏と同じような光があるのだ。人間はダイヤモンドの原石なのだ」という考え方を教える必要があるのです』
『人間に許される最高の自己実現とは、神の御手足になることである』
この本当の自己実現を果たすために、根本仏は地球という「場」としての「ゆりかご」に、転生輪廻という「時間」をくわえて、魂の教育の場を私たちに与えてくださいました。私たちはその意味において、根本仏に日々育てられているということが言えます。この事実に気づき感謝を捧げ、報恩行として隣人を救い助ける活動が私たちは求められています。
『悪として表れているもののなかには、一つの大きな教訓があるように思えます。そして、「その教訓が存在するがゆえに、現在、そのような悪があるのではないか」と推定される面もあります。
これは根本仏の巧妙な教育法であり、「大天使が地獄に堕ちてサタンとなり、現在も地獄にいる」という事実自体が、実は八次元や九次元を強力に教育しているのかもしれないのです。
そういう観点から見たときに、何とも評価しがたい面があることは確かです。現象として見たときには、善悪が現れてくることはありますが、「究極のユートピアという観点から見たときに、さまざまな考え方が出てくる」ということだけは押さえておいてほしいのです』
この最後のお言葉に限りない主の慈悲を感じます。
前回の論点ですが、妖怪性の払拭に関する重要な論点なので再度繰り返します。
『簡単なことですが、意外に、行為と実相の区別はついていないのです。
善一元論と善悪二元論の違いを考えるときも、ここが、いちばん大切なポイントです。一元論の危険なところは、実は、ここにあるのです。
実相と仮相の区別が大事です。仮相とは言葉や行動など表面に出てくるもののことですが、「実相が善だから、仮相もすべて善である」と考えたなら、もっと大きな善を逸(いっ)することにもなりかねません。
小さな善人であることは結構ですが、小さな善を得ようとして、もっと大きな善を失うことがあるのです。小さな善を得るために大きな善を失っていくならば、それは、ユートピア建設にとってマイナスに働く力となります。
たとえば、子供が火遊びをしていて、このままでは家に火がつきそうな状況のときに、「子供は仏の子、神の子だから、間違いはないのである」と考えて、知らん顔をしていると、家が燃えてしまいます。そのときには、「何をするか」と言って、厳しく叱らなければいけません。
その場合、仮相の場合、すなわち、表面に表れた行動の部分について、善悪の基準を立てて判断し、叱っているのであって、決して実相を憎んでいるわけではありません。子供を悪人だと言っているのではなく、行為自体がユートピア価値に反するからいけないと言っているのです。この区別が分からないと、一元論・二元論の議論は、まったく空虚なものとなっていきます』
この論点は、日本神道系の神々や日本人の妖怪性の払拭に関して重要な示唆であると考えます。すなわち、「実相が正しければ仮相も正しい」とする一元論が変じて、「仮相が正しければ実相も正しい」となった場合、たちまちこの一元論が妖怪変化して、表面だけ正しく装えば、それは正しいかのように見える」という実質が伴わない実体論になります。これが妖怪性における生産性の無さを生み出しているとも考えられます。幸福の科学は、相対的二元論に近い考え方を基本的に取っています。安易な一元論、安易な光明思想は反省の法門をくぐることができず、結果的に悟りに至ることができません。この点をしっかり学んで、妖怪性の払拭に関する精進を共にさせていただきます。
私たちの目指す共通した自己実現の姿は、主の救済の助力者としての菩薩になることであり、主の御手足としてこの世において、あの世において働きをなすことです。その意味において、本日の学びは、すべてが重要です。繰り返し繰り返し味読してまいりしましょう。
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are One, with our Lord. 我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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文責:蒲原宏史
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(12/15-1)✨【基礎教学通信】349『太陽の法』を読む82「太陽のメッセージ2」悟りとは何か、その極致とは1―『悪魔の嫌うこと』悪魔の発生原因―『復活の法』善なるものにを伸ばし、真理価値に反するものを抑える
『太陽の法』
