81 ストレスに弱い経営者は早死にする。
【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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明日12月8日は降魔成道記念日です。主エル・カンターレ
大川隆法総裁先生が、1985年12月8日に名古屋の地(降魔成道館)にて、救世主として法を世に説くことを決意しようとしたとき、これを何としても阻止せんと、悪魔が総攻撃をかけてきました。降魔成道記念日とは、この悪魔を打ち倒して、仏法真理の流布に立ち上がったことを記念する聖なる日です。
・12/7(日)と12/8
(月)は、両日とも13時より、全国・海外の精舎・支部・拠点(HSU・学園含む)に中継開催します。12/7(日)は名古屋正心館より中継開催し(降魔成道館からも一部中継)、12/8(月)は降魔成道館より中継開催します。
主は、ただ一人往くという不退転の決意によって魔を下し、降魔成道をなされ、救世主として立たれたことに心からの感謝を捧げると共に、大川隆法総裁先生のご復活を心より祈念し、全世界の信者一同で、「降魔成道記念日」感謝式典版「復活の祈り」を執り行います。
主のご復活を妨害する悪霊・悪魔・妖怪・妖魔・闇宇宙・唯物論の勢力といった悪しき者たちの呪いを打ち祓い、主がこの地にて「エル・カンターレの法」を再びお説きいただけるための、結界を皆様と共につくってまいります。皆様ぜひご参加ください。
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さて、私たち、幸福の科学の信者の幸福とは「悟りの幸福」です。私たちは、「正しき心の探究」を通して「愛と悟りとユートピア建設」をこの地上に実現するための使命を仏から与えられ、その実現のためにすべてを既に与えられました。
ここで、お釈迦様の教えである仏教的精神を振り返り、私たちの幸福を全世界に述べ伝える原動力となすべく、ひきつづき教典『悟りの挑戦(下巻)』を共に学びます。経典をお持ちでない方はこの機会に是非ご拝受ください。【税込み1800円】
―本書をていねいに精読するならば、『悟りの挑戦』が、仏陀自身の仏教解説であることがわかることだろう―上巻「あとがき」より
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■『悟りの挑戦(下巻)』第6章 仏性と成仏
9 勇気と愛、希望の原理として
このように、中途半端だったらそこまでいかないのに、理論的に突き詰めた結果が、逆になってしまうのです。不思議なことですけれども、世の中や人生、あるいは神仏の理想というのは、そういう兼ね合いの問題なのです。進歩と調和ということなるベクトルがあるように、兼ね合いでできているものなのです。
ですから、この「みんなに仏性がある、如来蔵がある」という思想は、「勇気の原理」になるのです。「もう自分はだめなのだ」と思っていた人に、「いや、そんなことはないのですよ。あなたも悟れるのですよ。みなさん、悟りを得ることはできるのですよ」という、修行の励みとしての勇気の原理になります。
また、自分が悟っている人が、他人を見下して、「あまおたちは仏性はないのだ。俺だけ仏性があるのだ。俺だけ如来になるのだ。菩薩になるのだ」というときには、「そんな考えは間違いですよ。もっと謙虚に人を愛する心を持ちなさい。他の人にも仏性があるのですよ」と、他人を尊敬する、尊重するといういみでの「愛の原理」にもなります。
また、この思想があるからこそ、地上ユートピア化の理想もありえるのです。「みんな仏性があるのだ。みんな神仏の子なのだ」と思うからこそ、地上を仏国土にする可能性があるのです。そのために努力がありえるのです。このような「希望の原理」として使うべきなのです。
要するに、これは「かくあるべし」という宗教的原理、宗教的真理であって、実態論としての真理にしていった場合には、大きな問題が起きることもあるのです。そういう難しいものを含んでいるということを知っておいてください。
これが「仏性と成仏」というテーマです。ものごとはそれほど単純ではないのです。単純化して理論的整合性だけを求めていって、結果がよくなるかといったら、結果はまったく逆になることもあります。「みんなが悪人で、地獄から出てきている」というような暗黒思想も、元気づけにはよいのですが、実態論としていったときには、気をつけないと大きな間違いを生むこともあります。
そのへんをよく知って、過去の歴史の間違いを学んでおく必要があるのではないかということが、本章の結論です。(完)
〇あとがき
仏教は、インド・中国・日本へと渡ってきた。その二千数百年の間に、数限りない仏弟子たちが、経蔵・律蔵・論蔵の三蔵の成立と流布にに携わってきた。現代に「仏教」として伝わっているものは、釈迦の「直説・金口」の仏説のみならず、この二千数百の営みをも総称している。その中には、正しいものも、間違ったものもある。発展したものも、堕落したものもある。
私自身の手で、その文章で、現代に伝わる仏教の間違いを指摘することは、限りなく悲しい仕事だ。しかし、やらなくてはならない。化石化した仏教を現代に甦らせ、再び生命を与えるためには、避けて通ることはできないのだ。
この『悟りの挑戦』(上・下)でとりあげなかった重要テーマについては、いずれ続巻する予定である。その日まで、読者と共に精進することを約束しよう。
一九九三年 六月
幸福の科学 主宰 大川隆法
【大川隆法『悟りの挑戦(下巻)』より抜粋】
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さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。
今日も経典『太陽のメッセージ』を引用しながら、幸福の科学の基本書である『太陽の法』の大切さを共に学びます。本書は1998年の年末に『太陽の法』の講義としていただいたものです。【現在は絶版となっています】
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■『太陽のメッセージ』Part1
第2章「魂の世界とその真実」
12 心の光明をつくり出す力
二番目は、神の光の集中・発散です。これはまた、『太陽の法』における、如来や菩薩についての説明において、「如来や菩薩といわれる方は、神の光を集中・放射するための巨大な機能をもっていて、ほかの人びとに光りを送り込むことができるのです。つまり、人びとの心に光明をつくり出していくことができるのです。」と定義されています。これは仏光物理学的にとらえられたわけです。如来や菩薩というものを、肩書のようにとらえる方もいらっしゃると思いますが、物理学的に機能としてとらえると、光を送り込む力があるということです。
「自分は如来だ、菩薩だ。」といっている人で、その人と会った時にいつも心が暗くなるよな人であったら、やはりそれは違います。そこには問題があるわけで、逆に光を吸収しているのではないかと思われるのです。ですから、この世的にはなかなかみなさんにはわからないでありましょうが、その人が入ってくるとぱっと明るくなるとか、いつも変わらずみんながうれしそうになるという人は光で出でいる可能性が強いわけです。このようなタイプの人は光が出かかっているか、あるいは出ているのです。
如来、菩薩と言われるためには、多くの人を幸せにするだけの力がなければいけません。実際に人びとが光輝いてこなければいけないわけなのです。そして、そのための修行があるわけです。これも訓練を積んでいき、実力がついてくればついてくるほど大きな光が与えられます。その人自身の力ではなくても修行が進むにつれて、光の通路としての機能が大きくなり、より多くの光を送れるようになっていきます。
パワトロンについては、これはもちろん地上的な機械がついているわけではなくて、霊的に見ますと、象徴としてそのようなものがついているということなのです。したがって、これは悟りを開くことによって持つことができるのです。
たとえば、みなさんが悟って菩薩になり、いろいろなところで人を導いているとしましょう。そこでみなさんが導いているときには、守護霊や指導霊が加勢しているわけです。そして、光をそういうところを通してみんなに流すようになってくるのです。その姿を霊的な目で見ると、パワトロンというものがついているわけです。これは、やがてこのような体験をされる方も多く出てくるでありましょう。
当会の講師にもいろいろな話をさせております。講師の話を聞いていて、みなさんに光りが入ってきはじめたら、そろそろパワトロンがつき始めたかと考えていただいてよいと思います。このパワトロンは、本来的な光の天使でもともと持っている方もいらっしゃいますが、この世で悟り、光の天使の力を持つようになれば、後天的にできてくるのはもちろんのことです。それは、神の光を受けられるようになって、その光を増幅する霊的な装置ですから、そのための機能としてついてくるのです。
13 悪霊の活動エネルギー
さて、その逆のことが、地獄の悪霊の存在についても言うことができます。悪霊については、徹底的にセミナーなどでとりあつかいたいと思っています。あまり気分はよくなのですが、一回くらいは「悪霊に打ち克つ法セミナー」というようなものを行ってみてもよいのではないかと思います。
基本的には、地獄界というところは雲で覆われているようなところで、神の光が差さないでいるのです。そこで彼ら自身はご飯を食べないでいったい何をして生きているかということですが、やはり、エネルギー体である以上、活動のエネルギーが必要です。生命エネルギー以外の活動エネルギーは主として地上界から補給しているのです。もちろん、地獄界のなかでも、相互に摩擦し合って発電しているのかもしれませんが、基本的には地上界の悪想念からエネルギーを補給しているということです。
念力というものがあるように、念(おも)いの力というものはほんとうに存在するのです。みなさんの念いにも、力があるのです。のちほど、一念三千の話についても触れますが、念いそのものが天上界に向いていれば、天上界の諸霊たちもひじょうに喜びが増して、力が増えてまいります。先祖供養においても、本来は地上の人の感謝の念が伝わっていくものであって、天上界にいる人であってもこの感謝の念によってエネルギーは増していくのです。
如来や菩薩の方から霊言をいただいて、それに対し感謝の念を送りますと、彼らもうれしいのです。ぱっと顔がほころんでパワーと元気が出るようです。たとえば私たちが仕事をしていて、「よくできたね。」と言われるとうれしい感じがします。それでまたバリバリとがんばったりするのと同じです。このように高級諸霊たちであっても、地上の人からほめられると、やはりうれしいところがあるのです。
ですから、みなさんがたとえ守護霊と話ができなくとも、実に予想外にうまくいったようなときや、難問題が急転直下解決したり、人間関係がこんなに素晴らしくなったというときには、自分だけの力であると思ってはいけません。そこに守護霊の何らかの働きかけがあったと思わなければいけないのです。
このようなことがあったときに、守護霊に「ありがとうございました。」と言えば、やはり彼らもうれしいのです。このとき守護霊の頭からもまたぱっと光が出るのです。感謝の念を送られた分だけ、いわば電気量が増えるのです。それでよろこんで、またがんばるわけです。やはり守護霊にもどんどん働いてもらうくらいでなければないけません。認められると、まめに働くようになります。そのいみで、感謝ということはひじょうにだいじであると思います。
14 憑依の目的
地獄霊はその逆です。けっきょく、何のために憑依するのかということですが、憑依の意味には、二種類あるのです。一つは、彼らの多くは地上に執着を持っていて、地獄の苦しさから抜け出して地上人に憑いていると、地上に生きていた時と同じ気分を味わうことができるからなのです。
肉体がなくなっていることに気がつかない霊は、気分的にお腹がすいているものもいて、このような霊が憑いたりすると、いろいろな変わったものを食べたくなったりすることがあります。
以前に呼んだ記事ではありますが、東北のほうでは昔、生き仏というかミイラになる風習がありました。お寺のお坊さんが、即身成仏といって瓶のなかに入って埋められ、食事を断って死んでいく修行があったのです。このミイラを掘り出して、デパートの展示会かなにかで置かれていて、その前を通った人が、ミイラ霊に憑依されて急に食事が食べたくなり、五人分、六人分と食べてしまうことがありました。
突然、食べ物の嗜好(しこう)や量が変わったり、酒の飲めない人がやたらに飲みはじめたりするというようなこともあります。ミイラ霊に言わせれば、実際は満たされないのでありますが、そのときだけでも食べて満足している気になっているのです。このように苦しさから逃れて地上人の気分を味わうという意味が一つあります。
もう一つは、地獄には悪想念というものが渦まいており、それがエネルギー源になっているわけですが、それだけではものたりず、ヒルが血を吸うように、電気を盗みにくるかたちで、地上へと積極的にエネルギーを補充にくるものがいるのです。
たとえば、癇癪(かんしゃく)もちの方、自分を失って暴れてハッと我にかえるような人の場合、だいたいエネルギー量、発電量が多いので、このような人から充電式電気カミソリのようにエネルギーの充電ができるのです。そしてまた地獄へ行ってひと暴れすることができます。そのような繰り返しをしているのです。
ですから、自分が押さえきれなくて困るような人というのは、彼らにエネルギーを吸われていると思ってください。
15 サタンの発生原因
「幸福の科学」で出している小冊子『悪霊から身を守る法』・『病気に打ち克つ法』にも書いておりますが、地上の人間の想念が一つの独立体をつくることがあるのです。みなさんの頭からもやもやとしたものがけっこう立ちのぼっているのです。
みなさんは、一日のうちをみてみるといろいろなことがあるでしょう。それを霊的にみていますと、さまざまな色をした想念が上空に上がっていて、この色のついた想念が、さらに新しい生命の集合体のようになってゆくのです。たとえば、猜疑心(さいぎしん)は少し青みががった何ともいえない、いやな色の想念で、これが立ちのぼりはじめますと、やがて重合体ができてきます。
これに強力な地獄霊がかかって力が何倍にもなりますと、今まで平凡でおとなしかった人であっても、急に活躍を始めたりしてサタンの発生原因ともなります。もともとは普通のひとであってもこのような念の補充を受けて、パワーを増すこともあるのです。そして、ときには怒りの想念の補充を受けて巨大な力が出はじめ、自分は何となく英雄になれたような気になり、人に命令をするなどしていろいろなことをやりはじめるようになります。
このように、積極的な悪想念によって、サタンが誕生していきます。魔王ともいいますが、これは通常の悪霊とは違います。普通の悪霊にはまだ同情すべき余地があり、自分の現状がよくわからないのです。たしかに悪い想いを持ってきたのであろうけれども、自分としてはどうしたらいいのかがわからなくなっていて仕方なくやっているというのがけっこう多いのです。積極的には悪いことをしようと思っていないので、まだかわいいほうです。ただ苦しい、逃れたいという気持で人に憑依して、悪さをしたりしています。これは、いうなれば、普通の人間に近い気持ちです。たとえば、経済的にどん底に落ちて苦しいときに、やむなく大根一本抜いて逃げることもあるかもしれないけれども、この場合においては悪いことをしていると・
・う意識は残っています。
ところがこのサタンにたぐいになると、この悪いという気持が起きてこなくなり、積極的にこの悪といわれることを犯したくなるのです。それはちょうど人によっては青春期の盛りに、力が溢れて何でも破壊したくなるという暴力学生のような時期があるように、何もかもめちゃめちゃにしたくなるのです。
このような悪への積極的な面が出てくると、これが小悪魔あたりになってくるのです。さらにその上の大悪魔になってくると、いろいろなことを組織的にやりはじめます。
悪魔の特徴は巨大な黒いものに覆われていて、自分自身で反省ができないということなのです。ところが普通の悪霊の場合はまだ反省ができる余地はあります。諭(さと)してあげると反省はできるのです。私もこのような霊体験はいくらでもありすが、普通の悪霊は、諭してあげれば成仏します。そのためにかかる時間はいろいろですが、けっきょくわかれば成仏するのです。しかし、このサタンは残念ながら諭されても成仏しないのです。慣性の法則からいってそれだけのマイナスのエネルギーを蓄えているといってもよく、そう簡単にはいかないのです。
16 地上のユートピア建設の基礎
したがって、サタンのたぐいをなくしていくためには、地獄界への悪想念の供給を断たなければいけないのです。このようなものがどんどん地上から供給されているうちは、いつまでたっても彼らの力は落ちてゆきません。供給源がすごいので、あちらこちらで宗教戦争を起こしたり、いろいな混乱を地上で起こします。
元を断たないと、普通の、いわばまっとうな悪霊になることができません。真人間ではなくて、真悪霊にならないのです。ほんとうに改心できる段階にまでいかないのです。このエネルギーを押さえて力を弱めてあげて、そして普通のまっとうな悪霊になれば、ようやく反省ができるようになるのです。
ところが、このマイナスの想念にぐるぐるにとりまかれていると光も入らないし、彼ら自身も、もうどうにもならなくなっているのです。ですから、どうしても地上をユートピアにしていって、まずこの供給源を断っていかなくてはなりません。
【大川隆法『太陽のメッセージ』第2章「魂の世界とその真実」より抜粋】
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続きまして、教典『復活の法』の第3章より「天国に還る方法」を学びます。これは、1988年11月20日に上級セミナーとして、『永遠の法』講義として賜ったものです。経典をお持ちでない方はこの機会に是非ご拝受ください。【税抜1800円】
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■「天国へ還る方法」―死後の行き先は生前の心境で決まる―
1死後は心境に応じた世界へ還る
〇天国の各段階に還るための基準
天国に還るための第一段階の基準として、「心の清らかさ」というものがあります。これがあれば、五次元善人界に還れます。
そして、心に曇りがなく、ある程度、仏法真理を理解でき、体得できたならば、おそらく六次元光明界に還ることができるはずです。もし行けなかった場合は、生き方がどこか違っていたのです。「自分は、かなりよい生き方をした」と思っていても、実は、間違った生き方をしていた場合があります。そこが、なかなか分からないのです。
「心の清らかさ」という基準をクリアし、さらに仏法真理を持っていれば、六次元には行けると考えてよいでしょう。
「どれだけ役に立ったか」「どれだけ真理知識を学んだか」という実績のほうは、ある程度、分かりますが、その前提の部分をクリアできているかてどうか、すなわち、「心がきれいかどうか」という最初の基準の判定は非常に難しいのです。「心の清らかさ」を判定するには二つの判定基準があります。
一つ、「自分自身に、本当の意味での幸福感があるか」ということです。ほんとうの意味での幸福感とは何かというと、心の安らぎと、「自分は他の人の役に立っている」という実感があることです。
これが最低限の幸福感です。「心が安らいでいる」という感覚と、「自分が生きていることが、他の人にとって、良い意味を持ち、他の人に喜びを与えている」という実感、この主観的な幸福感が基準の一つです。
もう一つの判定基準は、「自分の置かれている状況や環境、自分の生き方を客観的に見て、幸福と感じられるか」ということです。
世の中には、顔だけでは笑顔をつくっている人がたくさんいます。ものすごく悲惨な人生を送っているのに、顔だけは喜びに溢れていて、笑顔を絶やさない人がいるのです。しかし、
そういう人が、あの世に還ってみると、意外に駄目で、天国に行けないことがあります。幸福感には、ある程度の客観性が必要なのです。
一番目として、主観的な物差しを述べましたが、二番目として、客観的な物差しも大事です。その客観的な物差しとは、「自分が死ぬときの立場に立って、自らの過去を振り返ったとき、自分なりの尺度、自分の良心に基づいて判定して、満足だと思えるか」ということです。これが、客観的に自分の過去を振り返ることなのです。
「いま、自分は人生を終え、死んだ」と考えて、「まずまずの人生であった」といえるならば、天国に入る可能性は高いでしょう。
ところが、「悔しい、残念だ。やりなおしたい」と、あまりにも強く思う人は、この世にそうとう執着が残っているといわざるえません。
二番目の判定基準にも、多少、主観的な部分はありますが、主観と客観の両方の基準から考えてみる必要があります。
主観的には、「心が安らいでいるかどうか、そして、『自分が生きていることが他の人の幸福に役立っている』という実感があり、うれしく感じるかどうか」ということです。
客観的には、「三十年、四十年、五十年と、自分が過去に生きてきた道筋を振り返り、、実際に起きた事件と、そのときの自分の心のあり方を、心の履歴書に書いていき、『これが最後の一行である』となったときに、どう思うか」ということです。「あなたの人生は、こういうものだった」いわれて、「まずまず、よくやった」と思えるような人生であったか、それとも、「しまった」と思うような人生であったかということです。
この両方を振り返っていただきたいと思います。
そういうことが、ある程度クリアできた上で、真理知識を学び、しっかりと精進をしていれば、六次元光明界までは行けるのです。
そして、七次元菩薩界に入るかたには、さらに実践力が必要になります。「学んだ真理を、どれだけ多くの人に説いたか。あるいは、自分の事業なり、それ以外のもののなかで、どれだけ実践したか」ということです。七次元では実践の比重が大きいのです。
菩薩の修業に入るためには、この実践の部分は、どうしても外せません。これをせずに菩薩になることはないのです。
孤独な哲人の場合、普通は六次元光明界で悟りが止まってしまい、それ以上には行けません。
孤独な哲人で六次元以上の世界に行くことができるのは、カントのように偉大な思想を残して世の中に影響を与えた場合だけです。そういう場合には、菩薩以上の如来の仕事になっていることもありえます。
しかし、通常は、孤独な哲人として書斎のなかで生きていれば、六次元の悟りで止まるのです。
だた、こういう指標も、「この次元には、この基準しかない」というものではありません。たとえば、七次元菩薩界では、愛の修業、利他行をしていますが、それは七次元だけのものかといえば、そうではありません。『永遠の法』にも書いてありますが、五次元善人界においても愛の修業はあるのです。
【大川隆法『復活の法』幸福の科学出版 第3章「天国へ還る方法」より抜粋】
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「一千億年の孤独」については「太陽のメッセージ」が説かれた一九八八年末の後、一九八九年の九月一六日に当時の青年部向けの説法でこのように説かれています。
〇一千億年の孤独
今から一千億年ほど前のことになります。
そのころ、この三次元の銀河系宇宙をつくるという計画ができました。
そのときには、私はまだ個性化はしていませんでしたが、
そのときの記憶はあります。
その一千億年の昔、この三次元の宇宙を創ろうとしたときに、
前に広がっているものは孤独でした。
時間も空間も、まだなかった。
時間と空間ができないときは、
同じ思いを持ち、行動する人もなかった。
そうした孤独のときに、一つの念いが芽生え、
「空間を創ろう、時間を創ろう」
そう念って、永い永い孤独の間、この宇宙を創ってくるために、
私のその一助をなしてきました。
今から百億年ぐらい前になりますと、
私の記憶はもっとはっきりしてまいります。
この太陽系を創った、具体的な行動の一つひとつがよみがえってきます。
そして、やがて金星に高等生物を創ったとき、そのときも孤独でした。
それから、この地球に今から六億年ほど前に、
人類を創ろうと計画したときも孤独でした。
いつの時代も、新たな世界ができるとき、新たな時間ができるとき、
夜明け前には、その底が測れない孤独というものがあります。
この孤独は、神のなかに潜む青年の部分であると私は思います。
みなさんもおそらく、この若さのなかで、
一種の孤独のなかで生きておられることと思います。
その孤独を晴らさんがために、
大きな情熱というものが迸(ほとばし)り出てくるのだと思います。
私は、青春の本質のなかには、孤独な時間と空間があると思います。
しかし、この孤独に負けてはならない、そう思います。
創造の瞬間こそ、最も孤独な瞬間であり、
その孤独の瞬間に立ち会っているということが、
みなさんが、まだ青い青い息吹を胸のうちに持っている
ということだと思います。
『平凡からの出発』のなかにも書きましたが、
大人の人たちは、青くさいということを一笑に付すことがよくあります。
しかし、過去の歴史を見れば分かるように、
『黄金の法』を見れば分かるように、
人類を変え、世界を変え、
そして人々を幸福にしてきた人たちの思想は、思いは、行動は、
すべて、青くさいものででき上がっていた。
この青くささを決して忘れてはならない。捨ててはならない。
そのなかにこそ、大きな愛が芽生えていく土壌が
あるということを忘れてはならない。
孤独を抱きしめ、そして、
どこまでも、その悲しさを透明にしていきながら、
愛を風の如く、清らかで、さわやかで、
人々に感じるか感じないかのような姿でもって、
そして、吹き渡っていっていただきたいものだと思います。
【「一千億年の孤独」『青銅の法』p258を参照】
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『永遠の法』講義「天国へ還る方法」では、『永遠の法』は、あの世のガイドブックとい視点で学ぶことの大切さを教えていただきました。本日の学びは、まさに天国への還る最低限の方法でした。悟りの発展段階を知るうえで、基本中の基本が説かれています。繰り返し読み込みましょう。
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are One, with our Lord. 我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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TEL:0596-31-1777
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FAX:0596-31-1778
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文責:蒲原宏史
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✨(12/7-1)【基礎教学通信】341【12月7日】『太陽の法を読む』74「太陽のメッセージ」魂の世界とその真実3―『復活の法』天国の各段階に還るための基準
『太陽の法』
