(12/15-2)78『仏陀再誕』を読む―信仰と仏国土建設への道―大宇宙の大霊への感謝―知の本質

『仏陀再誕』を読む

85 日本の妖怪で多出するものに「狐」がある。性格には「妖狐(ようこ)」というべきかもしれない。山林の開発や環境整備、「電車」「自動車」「携帯」「スマホ」などの普及とともに、目撃例、体験例ともに急速に減少している。動物としての狐、狸も、その実数を減らしているだろう。

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

19 攻撃性の強かった者は、猛獣の姿となるが、殺生の虚しさを悟るまで、他の動物を襲い続ける。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
7「待ちの間」の蓄積【正念】
〇自己実現に当たり、念いを神のほうにしっかりと向ける

先ほどの家の例(p271~276を参照)は、霊的自己実現ということを非常に明確に示しています。

まず、最初に、理念として「こういうものが与えられる」ということが降りてきます。そして、それが地上に落ちてくる過程で、だんだんに具体化していきます。溶岩のように流動化して流れていたものが、固まってき始めるのです。

その際に、岩のようなものが現れてきます。これは地上の人間の、いわゆる評判の悪い「自由意志」というものです。これによって邪魔が入り、そして、溶岩の流れが変わることもあります。

それでも、結果的には固まっていくわけですが、最初の理念が、そのとおりか、あるいは何らかの違ったかたちになって固まっていくことになるのです。
そして、その人の念いが神のほうにしっかりと向いていれば、もっとよいかたちで出てきます。念いが足りなければ、多少悪いぐらいで出てくるかもしれません。こういうものです。

【大川隆法『真説・八正道』第八章「正念」277pより抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に「四弘誓願」を立て、『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、「正しき心の探究」と「地上仏国土ユートピアの実現」のために「四正道」と「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

昨日からが開催されました。エル・カンターレ祭は、7月の御生誕祭と並んで幸福の科学の二大祭典です。22日(日)までエル・カンターレ祭を10時、13時、19時にて連日開催いたします。皆さまご参集ください。

主に心から今年一年の慈悲と知恵とご指導へと感謝と、さらなる報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

エル・カンターレ祭では、大宇宙を創り、生きとし生ける者を創り出され、永遠の愛を与え続けておられる「創造主の愛への感謝」を深め、主 
大川隆法総裁先生より、この一年間に賜った数々の御慈悲を振り返り、心からの感謝・報恩の念いを捧げさせていただきます。そして、大川隆法総裁先生のご復活を心より祈念し、全世界の信者一同で、エル・カンターレ祭版「復活の祈り」を執り行います。

『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
われらの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
われらを真なる幸福へと導きたまえ。』

今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
そののち、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
第七章 信仰と仏国土建設への道 
○大宇宙の大霊への感謝

それゆえに、あなたがたの信仰の第一の方向は、
大宇宙を統べるこの仏に向けられなければならない。
大宇宙を統べる大霊意識に向けられなければならない。
ただ、こうした大宇宙大霊は、人格を持ったものではないがために、
あなたがたの願いを聴き入れたり、
あなたがたの悩みに答えたりするような存在ではない。
それは、ちょうどあの太陽のように、
あなたがたに、愛と光とエネルギーを与えきりの仏である。
それゆえに、こうした窮極(きゅうきょく)の仏に対しては、
あなたがたは感謝という名の信仰でもって応(こた)えなさい。
日々を感謝で生きることだ。
大宇宙を創り、森羅万象を生かしている、
その養(やしな)いの主(ぬし)たる仏に対し、
大宇宙大霊に対して感謝を捧げること、
これが地上で生きている人間の使命とも言えるものだと、
私は思う。

○高級霊への畏敬(いけい)
さて、しかし、具体的にあなたがたを教え、指導し、そして愛し、
あなたがたの悩みに答えている霊として
高度に発達した高級霊がある。
その内容について、いろいろと学んだことがあるだろう。
この高級霊が多様な姿で現れることは、
当然と言えば当然と言ってよい。
それは、現代の人びとが見聞した限りにおいても、
世界各地に、時代を超え、地域を超えた、
偉大な人格者が住んでいるように、
実在界における高級霊は、数多くその名をとどめている。
もちろん、そうした高級霊であっても、
そのいる場所において違いがある。
窮極(きゅうきょく)に近い、仏に近い存在があれば、
一方、比較的人間に近い存在もある。

そのように、その存在相応に次元というものが違っている。
生活する場所が違っている。
その違いを認めなければならないと思う。
ただ、そうした違いは違いとして厳然としてありはするが、
どうしても否定できないものとして、
これらの神々とも言われる高級霊たちが、
優れたる者であるということだ。
この優れたる者である彼らは、いや彼らの叡智は、
たとえ地上にどのような知恵者がいたとしても、
とうてい到達することができないものである。
そのように思わなければならない。
それゆえに、まず敬意を表せ、まず尊敬の念を持て。
それが、当然の礼儀である。
そのように思うのだ。

窮極の大宇宙の大霊に対しては、感謝を持って信仰とせよと語ったが、
こうした高級霊たちに対しても、感謝はもとよりのこと、
礼儀を持って信仰の作法とすべきである。
この礼儀とは何であるか。
それは恐れ敬うという気持だ。
畏(かしこ)み念(おも)うという気持だ。
畏み念うという気持だ。
次元の高き者、徳高き者、
指導力富み、愛富み、慈悲富んだる者に対する畏敬の念、
これだけは、忘れてはならない。
この地上においても、身分が違うものであるならば、
直接会って話をすることは難しいであろう。
同じように、この地上を遥かに去った世界においても、
もっともっと、地上の人間の魂修行を超えた存在があるのだ。
そうした存在に対しては、一様に礼儀を尽くさねばならない。
私はそのように思う。

それは、一つのルールであるからだ。
それは、人格大霊といわれる方がたが、
地上の人間たちの、かつての魂の親でもあるからだ。
魂の親であり、また魂の教師であったからだ。
そうした魂の教師に対して、深く深く感謝をいたさねばならない。
魂の教師たちの仕事は、今世のみに限られることではない。
過去、幾転生を繰り返すなかで、魂の教師たちは、
あなたがたに確実にいろいろなことを教えてきたのだ。
魂の教師たちが、いろいろなことをあなたがたに教えてきたがために、
あなたがたは現在、幸福に生きている。
あなたがたは現在、道を過たずに生きている。
また、あなたがたが現在、信仰深く生きることができるのも、
過去幾転生の過程のなかで、
こうした高級霊たちが、あなたがたを導いてきたからだ。
その導きに対して、心より敬意を表さねばならない。
私は、そのように思う。

【大川隆法『仏陀再誕』第七章「信仰と仏国土建設への道」より抜粋】

*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
続いて、地上への執着と煩悩を断つ修行法として『漏尽通力』を共に学びます。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
第五章 仏法真理と学習
2 知の本質

学習ということに関して、「知」、いわゆる「知力」ということについて話をしてみたいと思います。言葉を換えるならば、「知の本質とはいったい何か」ということです。

現代の日本、および他の先進諸国においては、「知を磨く」ということに関して、そうとうの努力を払っていると思います。そうとうの犠牲を払っていると思います。子供たちの大部分は二十年近い間、知を磨くための学習環境に置かれます。遅い人でも小学校に上がるころから大学を卒業するまで、言ってみれば十六年ぐらいになりましょうか。早い人であれば、保育園、幼稚園というところからスタートします。ほぼ二十年に近い間、学習期間があるわけです。この間に、「知を磨く」という努力を義務づけられているわけです。

こうして教育というものを施されているわけですが、教育の目的そのものは、分かっているようで意外に分かっていないところがあります。「人格を陶冶(とうや)し、社会に貢献できる人物をつくるため」という言葉が、よく教育の目的として掲げられるわけですが、これは、必ずしも教育の本質そのものを見抜いているとは言いがたい面があります。

教育の本質とは、結局のところ、「知を伸ばす」というところにあります。あるいは、「知の本質を探究する」ということでもありましょう。「知」というのは、人間が頭脳労働によって「つくり出したるもの」、あるいは「つくり出しうるもの」です。

古来、ソクラテス以来、「知を愛する」ということが人間の本質であるように言われてきました。「動物たちは『知を愛する』ということがない。しかし、人間は、知を愛することができる。その点において、動物と人間とは違うのである」、このように言われてきたのだろうと思うし、実際にそういうことはあるわけです。

動物たちの知というものを見たとき、確かに、動物園で飼育された動物が、ある程度の芸当をするということはあるかもしれません。ただ、それ自体は教え込まれてそうなったということであって、さらに、その応用可能性というものを見れば、非常に少ないということが言えると思います。

ところが、教育によって与えられた人間の知はそのまま、そのものズバリを使うというのではなく、それが「応用可能性、発展可能性を持っている」ということができるのではないかと思います。この応用可能性、発展可能性というところに、人間としての知の本質があると思うのです。

高校時代や大学時代に、地理や歴史を教わったからといって、また、それを暗記したからといって、どうこうなるものではありませんが、そうしたものを学んだことによって、まず思考の材料が与えられます。そして、その材料を組み立てたあとに、さらなる思考の構築ができるわけです。このあたりが大事なことなのです。

結局、教育によって発見される知、掘り出される知というのは、そうした思考の材料としての知であるということが言えると思います。

このように、人間は「どのように知的に物事を考えられるか」、別な言葉で言えば、「抽象空間、あるいは、哲学空間を持っているかどうか」によって、人間の人間らしさが測られると言えるわけです。「思弁的に考える」という言葉で言ってもよいかと思います。

人間には理解できる範囲に限界がありますが、単に自然語といいますか、「鳩」とか、「豆」とか、「赤ちゃん」とか、「汽車」とか、「飛行機」といった目に見える物体でもって指す言葉、指示語を理解するのと、そうした目に見えるものではない抽象的な言葉を理解できるのとでは、やはり、段階に差があるわけです。

その抽象的な言葉の代表として挙げられるのが、「神」や「仏」というような言葉ではないでしょうか。あいるは、「霊」というような言葉ではないでしょうか。こうした言葉は見ることができないものなので、抽象的に理解するしかありません。ただ、「抽象的な理解をどの程度できるかによって、その人の霊性が測られる」という面があると思うのです。

こういう意味において、例えば、芸術作品、文学作品というようなものでも味わいに開きがあると思います。単にストーリーだけを追っているようなものもあれば、そのなかに、詩としての余韻があるものもあるでしょう。あるいは「世界の名作」といわれるようなものは、たいてい思想性があります。そのなかに、作者の思想というものが入っています。

これに反して、非常に技術的、事務的な書物というものもあります。計算の方法だけを教える本や、税務面での指導方法だけを教える本、あるいは、科学的な方面であっても単に実験の記号式ばかりを追っているような書物もあると思います。こうしたもの自体は、「魂に対して何らの影響も与えない」と言えば語弊がありますが、「大きな増進作用はない」と言えましょう。

しかし、人間の生き方そのものに与える影響を持つ書物というのは、何らかそこに「核」「向上心」「人間を向上させるもの」があるとも言えると思います。

このように、知の本質のなかには、非常に抽象的なる面、思弁的なる面があって、「それが可能であればあるほど、その人の霊的な部分が高まっている」ということができるかもしれません。ただ、学者たちのように抽象的な言葉ばかりをあげつらって、実質論がない人たちは、また、あるところで”Uターンを描いて、曲線が元に戻ってくる”と思います。そうした現象もありまずか、たいていの場合は、どれだけ高尚・高邁(こうまい)な理論、議論ができるかでもって、その人の魂の向上度が測られることになるわけです。

【大川隆法 『漏尽通力』第5章「仏法真理と学習」より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
◆「天御祖神 感謝報恩植福」について

・この度、日本文明の祖にして、武士道の源流にあたる天御祖神が日本に降臨され、いまもなお、霊的にご指導を賜っていることへの感謝を捧げるために、箱根強羅の地に天御祖神を讃える「天御祖神記念館」を建立させていただくこととなりました。

・本植福を通じて、天御祖神への感謝を深めていくとともに、武士道精神を復活させ、神国・日本としての誇りを取り戻していくことで、この日本の地を主エル・カンターレの教えを発信するにふさわしい地としていくことを誓ってまいります。

日本神道の屋台骨である高天原が、日本人の不信仰と愛国心の欠落により、崩れてしまっている今、私達伊勢支部信者が先頭となって、日本神道の屋台骨を支え、日本国の誇りを取り戻すべく先頭に立たなければならないのではないでしょうか。伊勢支部としては、「天御祖神記念館」建立事業を全力で応援致します。私たちの信仰心をここに結集して参りましょう。

・「天御祖神感謝報恩植福」(2022/1/1~)は、天御祖神の日本への御降臨と、いまもなおご指導を賜っていることへの感謝を捧げ、報恩への誓いを固める植福です。

*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
・私は二〇一五年ぐらいから公開しておりますけれども、実は日本文明というのは、今から三万年ほど前に、天御祖神という方が、今の富士山があるところの近くに、宇宙より降臨したところから、始まっているということを、何冊かの本で説いております。(略)

(天御祖神の)教えの中心は、今も片鱗としては伝わっています。一つ、言わなければならないことは、「神の子、仏の子としての人間」として生きるということは、「正しく生きる」ということであるということですね。これが大事な柱でした。(「地球を包む愛」)

・「天御祖神の教え」とは何でしょうか。(略)おそらくは、「鍛錬ということの大切さ」や、「自分を鍛えて力強くあることの重要さ」というものも教えていたのではないかと思います。 
(『現代の武士道』)

・葬られているのは、今で言うと、強羅温泉の近くです。
 (「超古代リーディング―天御祖神と日本文明のはじまり―」)

■□■□■□■
。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
■□■□■□
E-mail:ise@sibu.irh.jp
□■□■□
https://hsise.com/
□■□■
TEL:0596-31-1777
■□■
FAX:0596-31-1778
□■
文責:蒲原宏史 

タイトルとURLをコピーしました