(9/18-2)80『仏陀再誕』を読む―信仰と仏国土建設への道―仏陀への帰依―幸福なる日々

『仏陀再誕』を読む

88 「化ける」「化かす」という言葉がキーワードだが、はたして人間が、狐や狸に化かされることがあるのか。動物としての狐や狸は変身できないとしても、妖力、あるいは妖術として人を化かせるのか。あるいは霊体となってからそのような力を得るのか。

89 私はルーツの一つとして、「稲荷信仰」があり、稲が豊作になることを祝う、秋祭りがあると思う。地上の人間が祠(ほこら)を建て、神社を建てて、豊作を願い、日照りや洪水、虫害除去を祈っていると、その祈りのパワーを霊界で受け取る存在があると考える。

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

17 「畜生道」では、身体は動物と同じとなるが、時々、顔は、人間時代の顔にぶれて見える。

16 「動物性が極めて強い」と判定されると、次は、「畜生道」・「動物界」という地獄に送られる。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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【正念】「待ちの間」の蓄積
〇神と一体となり、時間の限定をせずに努力していく

先ほど述べた三軒の家の話(p271~276を参照※主が広い家を探しているときのエピソード)についても、もし、私が自分の計らい心で、「最初の所が絶対にいい、絶対にここを手に入れる」と一点集中して思っていたら、どうなったでしょうか。相手が、「どうやら、宗教らしいので怖い」と言っているのを、「いや、宗教じゃない。科学だ、科学だ」と言って一生懸命に説得し、「家賃を十万円高くするから貸してくれ」などと交渉までして、ごり押ししていたら、どうだったでしょうか。その段階では、あとに出てくる物件のことは分からないので、そう願ったかもしれません。しかし、私は、「また次が出るだろう」と一瞬で切り替えてしまいしまた。

結果は前述(p271~276を参照)のとおりです。この間のズレが、せいぜい二か月でした。
このように、「時間」のところについては、あまり限定できないところがどうしてもあります。地上の時間の流れとは、多少違うわけです。また、具体的な背景も若干変わることもあります。

しかし、自分が本当に強く願っていて、それが神様と一体となっている場合には、必ず良い結果が現れてきます。ここの絆が大事です。

自己実現の一つの例として述べましたが、やはり、腰を入れて、「必ずよいほうになるだろう」「必ず道は開けるだろう」と思いながら、その間、時間の限定を外し、退却はせず、前進をしていく、その間に自分としての努力をしておくと、必ず道がついていきます。

最初のところでつまずいてギクシャクしてしまってはいけないのです。そこでオタオタするようでは、本当の意味での自己実現など、絶対にできません。腰を入れて落ち着くわけです。そいし、「必ずそうなる!」と思って待っていれば、そうなっていくわけです。

【大川隆法『真説・八正道』第8章「正念」278pより抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、地上仏国土ユートピアの実現のために「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

そして一日を感謝と反省で締めくくるために、常に主の御言葉と「八正道」と共にありましょう。

今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
そののち、この世へ執着と煩悩を断つ方法として『漏尽通力』を共に学びます。経典をお持ちでない方は、ぜひお求めください。【1700円税抜】
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第七章 信仰と仏国土建設への道 
○仏陀への帰依

しかして、私は言い置く。
宇宙を創造したところの、根本の大霊に対する信仰と、
また地上を去った霊天上界における
実在界の偉大な高級霊に対する敬意と、
そして、もう一つ、敬意を払うべきところがあるということを。

それは、地上に生まれたる仏陀の存在である。
仏陀は仏陀として尊いのではない。
仏陀は、その力を、その悟りを、その光を、その愛を、その慈悲を、
偉大なる大霊から授かっているがゆえに、尊いのである。
たとえ、宇宙の根本仏に対する帰依の姿勢があろうとも、
たとえ、霊実在界におけるところの
高級霊に対する帰依の精神があるとしても、
地上に降りたる仏陀に対する帰依の精神なくば、
この信仰は偽物である。
なぜならば、過去の世界における偉大な宗教を伝えた者は、
すべて地上に降りたる覚者、悟りたる者、仏陀であるからだ。
そのような立場の人を通さずしては、
仏の声を、仏の思想を、仏の理想を、
地上に伝えることはできなかったのである。

さすれば、大宇宙の根本仏と、
実在界の高級霊と、
地上に降りたる仏陀とは、
三位一体(さんみいったい)にして、ともに尊き存在である。
この三者を同じく尊崇する気持ちがなければ、
そこに信仰というものは生まれない。
自分の都合によって、勝手な偶像を大宇宙の根本仏として描き、
また、実在界にあるところの
特定の霊を心のなかに描いて、信仰したとしても、
もし、地上にある仏陀の教えを誹(そし)り、これに背くものあらば、
それは大宇宙大霊の意に反していると言ってよい。
なぜならば、
大宇宙大霊はその時代にすべての責任を仏陀に命じているからである。
仏陀はすべての権限を持って、地上に降りているからである。
その時代の価値観を決め、
その時代の正しさを決め、
その時代の善とは何かを決め、
その時代の真理とは何かを決める者、
それが仏陀である。
したがって、たとえ心のなかで、宇宙の彼方に住むかもしれぬという仏神を、
いかに尊敬しても、
地に降りたる仏陀を尊敬する気持ちがないならば、
もはや、信仰ある者とは言えない。
もはや、道ある者、道を求める者とは言えない。
求道(ぐどう)の者とは、そうした立場をわきまえなければならない。
こうした、心なき者は、
イエスの時代に生まれても、
イエスそこに在りと信じなかった者は数多い。
イエスここに在りと信じえなかったその者たちが、
その後、数百年、数千年を経て、地上に生まれ変わり、
キリスト教会にて、十字架の姿のイエスに対して信仰しておるのだ。
このような愚かなことを繰り返してはならない。
地上に覚者あるときに、
その覚者に対する信仰を忘れてはならない。
地上に覚者あるときに、
その時代に生まれ合わせた喜びを忘れてはならない。
その権威を畏(おそ)れなければならない。
その権威を信じなければならない。
その権威を否定し、忌み嫌い、
この権威を自分の理解の範囲内で解釈しようとする者は、
ことごとく間違いの淵のなかに投げ入れられる。
それは、宇宙の仏を否定することと同じ。
宇宙の仏を冒瀆(ぼうとく)することと同じであるということだ。
このように、仏の代理人を地上に送るということは、
天上界における人格大霊の一致した考えであり、
そうした代理人が地上に降りてゆく時には、
その者の考えにすべてを合わせてゆくことが正しい行為であるのだ。
これが信仰の根本であるということを、
私は繰り返し繰り返し言っておく。

【大川隆法『仏陀再誕』第七章「信仰と仏国土建設への道」より抜粋】
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続いて、地上への執着と煩悩を断つ修行法として『漏尽通力』を共に学びます。
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第五章 仏法真理と学習
4 幸福なる日々

さて、漏尽通力のなかの「仏法真理と学習」ということについて話を進めているわけですが、ここで「幸福なる日々」ということについて考えてみたいと思います。

人間は、「何をもって幸福の科学とするか」という問いに答えるならば、それが、「その人とはいったい何者であるか。その人の本質がいったい何者であるか」という問いかけに対しては、「その人が何をもって幸福としているかによって定義される」と言われています。

古来、それ以外の定義ももちろんあります。「その友人を見れば、その人が分かる」という考えもありますし、「蔵書を示せ。さすれば、汝の人格を言い当てん」という言葉もありましょう。ただ、やはり、「その人の幸福とするものが一体何であるか」を見ることによって、だいたい、その人の器、人柄、人生、魂の器量といったものが分かるのではないかと思います。

私自身は、何をもって一番自分の幸福と感じるかというと、結局のところ、次のようなことではないかと思います。

個人の側面というものを取ってみれば、「より深い仏法真理、知識を得るということ。それでもって、自分自身の認識力が高まるということ。認識力が高まることによって、世界がよりよく分かるということ。より多くのことが分かるということ。理解できるということ」、これが、何にもまして幸せであるように思います。これが個人の側面です。

また、個人以外の側面として見るならば、「その様な神仏の経綸(けいりん・国家を治めととのえること。その策)、仏法真理というものを知ることによって、より多くの人々の幸福をつくり出すことができる自分、そうしたことに貢献できる自分」というものを、非常にうれしく思うわけです。

「この世のなかで、どれほど幸福な人がいるか」と言ったときに、「多くの人々の悦びをつくり出せるほど幸福だ」と言う人は、数少ないと思うのです。「自分の悦びのためだけの幸福」というのは、はかないものです。ただ、「多くの人々の幸福につながるような生き方をしている人」というのは、自分へ還ってくる幸福の供給源も、また無限であろうかと思います。「幸せになろうとすれば、他人に親切にすることです」という言葉もあります。そのとおりであって、他の人々が喜ぶようなことをしていれば、人間は自然に幸福になるのです。

もちろん、このときに重要なチェックポイントとして、あまり自己犠牲という面を強調しないことが大事だろうと思います。【「自己犠牲」については、2017年11月22日の法話「自己犠牲の精神」において、公的使命に自らの全人生を捧げるような、より高次な偉人的な生き方としての「聖なる自己犠牲」が改めて説かれた。『青銅の法』(幸福の科学出版刊)参照】
「自分を犠牲にして他人を幸福にしよう」という考え方は、やはり、不幸な感覚の一つであろうかと思います。そうではなくて、「他人を幸福にしていくなかに自分も幸福になっていく」という道を選んでいくことが、真に幸福なる日々を築いていくことではないでしょうか。そのように、私は思うわけです。

こういう観点から、人生の幸福というものを、もう一度、捉え直してみたいと思います。そうすると、どのようなことが言えるかというと、結局、「日々、自分の魂が進化しているかどうか。日々、自分の魂が何らかの向上を得たと思って、悦びを得ているかどうか」ということが大事なのではないかと思います。

また、「他の人々が悦びを味わうことによって、魂がいかに喜んでいるか」という魂の向上の悦び、魂の拡張の悦びが本当の幸福ではないかと私は思うのです。「自分自身の魂が、さらに霊的に進化して悦んでいるかどうか」、あるいは、「他の人の悦びをも自分の悦びにすることができ、より大きな自分へと拡張することができたのかどうか」といった面が重要であろうと思います。

「幸福とは、自分が追い求め追い求めすると、指の間からすり抜けていくようなものだ」と言った人がいます。これも、結局、「魂の幸福」の意味を言っているのだろうと思います。【※心の指針「幸福のしっぽ」参照】幸福とは、「人に与えん与えん」として生きていると、やがて自分に与えられるものですが、「自分が得よう得よう」として追い回していると、やがて、蝶々のように飛びまわって逃げていくもののように思います。

このように、結局のところ、「幸福の本質」「いちばん幸福になる方法」は何かというと、「自分のことを考えずに、一生懸命、人のために考えて生きること」だと思います。こういう生き方をしていると、非常に幸福になれます。ここが、結局、漏尽通力の幸福への適用の段階となるわけです。

漏尽通力が大事であるというのは、この「幸福感」と非常に密接な関係にあるからです。というのは、霊的能力を持った人、霊能者というものは、ともすれば、エゴイストになりやすのです。あるいは、別の面からいくと、「自分が、自分が」という気持になりやすいのです。お山の大将になりやすいのです。

どうしても、霊能者というものは、「自分はとにかく偉いのである。周りの人たちは、自分にひざまずけばよいのである」という考えを持ちがちです。しかし、これが誤りであるということを、私は今、みなさんにお伝えしようとしているわけです。そうした「自分のエゴを拡張し、伸ばすためだけの霊能力」というものは、非常にもろく、はかないものです。そうではなくて、そうした霊能力を持ったのであるならば、それを一人でも多くの人々のために生かそう、役立てようとする心が大切なのです。

こうしてみると、そうした霊能力を多くの人たちに役立てようとする心が、また自分の幸福に還ってくることになるわけですが、多くの人々に霊的能力を役立てようとするときに何が必要かというと、結局、知力の問題が大事になるのです。

知力の部分が弱いと、慈悲魔になってしまったり、人のために「よかれ」と思ってやったことが、悪い形で出てきたりするようになります。そうしたものです。

したがって、本当に幸福なる日々を生きんとするならば、「霊的能力の現実世界への適用の仕方が大事だ」ということになりましょう。

【大川隆法 『漏尽通力』第5章「仏法真理と学習」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。

【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】                                                  
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。

災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする  信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。

【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。

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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
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FAX:0596-31-1778
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文責:蒲原宏史 

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