(8/31-2)62『仏陀再誕』を読む―政治と経済―適正なる発展―霊性への目覚め

『仏陀再誕』を読む

69 鬼たちは、亡者たちを悟らせるため、古典的な、虎皮のパンツに、鉄棒ないし、ペンチを持っていることも多い。

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

35 生前、泥棒や強盗をやっていた人たちが、番犬の姿になって、罪をつぐなっているのを見た。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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【正命】正命の現代的意味
〇人は「時間」の下に平等だが、その使い方によって世界が分かれる

「時間」を金貨にたとえた人もいました。

毎朝、起きるたびに、二十四枚の金貨がポケットの中に入っている。ところが、見ていると、ポケットのなかから金貨を取り出して、ドブのなかに捨てて歩いている人が大勢いる。それでも、いっこうにおかしいと思っていない。本当は、「時間」は金貨以上の値打ちを持っているものなのだ。それにもかかわらず、「金貨を捨てたらおかしい」と思っても、「時間を捨てることをおかしい」と思わない人があちらこちらにもいる。まことに嘆かわしい。

このように考えた人もいました。

また、『黄金の法』のなかにも書いておきましたが、「二十四時間という時間の下における平等性」を考えて見ることも大切です。

何の下に各人が平等であるかというと、時間の下の平等ほどはっきりしたものはないのです。どんな人であっても、一日二十四時間しか与えられていません。この二十四時間を使って偉人になる人もいれば、まったく世の中を害しただけで終わってしまう人もいます。

そして、「天国・地獄は来世で分かれる」と言われていますが、それらはすべて、こうした時間の使い方で分かれてきた世界なのです。「自分の時間をどういうものに使ってきたか」ということです。

【大川隆法『真説・八正道』第6章「正命」212pより抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、地上仏国土ユートピアの実現のために「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

そして一日を感謝と反省で締めくくるために、常に主の御言葉と「八正道」と共にありましょう。

今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
そののち、この世へ執着と煩悩を断つ方法として『漏尽通力』を共に学びます。経典をお持ちでない方は、ぜひお求めください。【1700円税抜】
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第四章 政治と経済 
○適正なる発展

ここで、私は、足ることを知るという考え方を、
もう一度、説いてみたいと思う。
政治においても、経済においても、この足ることを知るという考え方が、
十分に生かされていないような気がする。
すべてのものが、数字の拡大にあけくれているように思える。
足ることを知るという考えが、どれほど大事であるかということを、
知らなくてはならない。
それは、ともすれば進化のみを追い求める男性的な社会において、
調和の原理を取り入れることにもなるであろう。
足ることを知るということによって、
人びとは両極端の思いから去ることができる。
また、上と下というこの上下の両極端からも去ることができる。
左右の両極端、上下の両極端を去り、
そして、中道に入るという道のなかに、
足ることを知る生き方があるであろう。
さすれば、政治においても、この足ることを知るということを、
十分に知らなければならない。
権力欲をいつまで満たしたところで、そんなものでは何にもならない。
足ることを知り、そして自分を生かす道を考えてゆくべきだ。
また、経済においても同じことが言えるだろう。
会社が発展すれば、それは嬉しいかもしれないが、
どれほど繁栄し発展しても、
限りというものはないであろう。
決して、数や量の拡大が正しいことではないのだ。
そのなかに住み、そのなかに生きる人たちが喜びを得てこその、
繁栄であり発展であるということを、ゆめゆめ忘れてはならない。
足ることを知るということは、
決してブレーキをかけよということではない。
それは、適正なる発展ということなのだ。
適正なる発展ということを考えないと、
すべてのものは失敗に終わってしまう。
樹木であっても、適正な発展があってよいのだ。
草や花であっても適正な発展というものがあってよい。
もし、ひまわりの花が十メートルの高さになったとしたならば、
ひまわりは苦しかろう。
いかに土中から水を吸い上げるかということが、
彼の急務となり、焦りとなり、苦しみとなるであろう。
ひまわりは、やはり二メートルの高さでよいのだ。
また、違った考えもあるであろう。
柿なら柿という木に、数多くの実がなれば嬉しいであろう。
しかし、この実がなりすぎたらどうなるかということを考えたらよい。
なりすぎることによって枝は曲がり、また、その実の味は落ちる。
味が落ち、そして、
その木にとって無駄な仕事をしたことになってしまう。
数多くの実をつけることによって、人びとに喜ばれるとは限らない。
味が落ちれば、人はそれを喜ばなくなるのだ。
やはり、適正な数で、
素晴らしい味の実をつけることがよいことであって、
ある時は豊作となり、ある時は凶作となって、
左右に揺れ、上下に揺れることをもって正しいとは言わない。
いつも人びとの期待にこたえて、適性の量、適正の味で、
柿の実をならせることが、正しいことであるのだ。
そのような考えを忘れてはならない。
すべて、物事の成功には、適正ということが大事である。
なにごとも、やりすぎてはならない。
やらなすぎてもいけない。
中道という道は、決して一時的なことではなく、
無限の成功を作ってゆくための道であるということなのだ。
今、自らの成功をつくってゆくための道であるということなのだ。
今、自らの仕事というものをふり返って、
どこか適正を欠いているところがないかどうかを、常づねに点検せよ。
適正を欠いていないかどうかを点検するということが、
中道に入るということなのだ。
この中道に入るための方法の一つとして、
足ることを知るという視点もまたあるのだ。
そのことを忘れてはならない。
人は、さもすれば外見を繕(つくろ)い、表面を繕う。
表面上の成功を追い求め、浮利(ふり)を追い求める。
浮ついた利益や、浮ついた栄華、浮ついた虚飾、
このようなものでもって、
魂は真に富むことはないということを忘れてはならない。

【大川隆法『仏陀再誕』第四章「政治と経済」より抜粋】
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続いて、地上への執着と煩悩を断つ修行法として『漏尽通力』を共に学びます。
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第一章 霊的人生観
2 霊性への目覚め

さて、そうした「人生の転機」に際して、「霊性」ということが問題になってきます。

たいていの人は、人生の転機に際して、占い、易であるとか、前世の縁であるとか、運命であるとか、こうしたものに惹かれていくのですが、それを深いところまで考えないで、そのとき、そのときの成り行きの判断に委ねることがよくあります。そして、「喉元過ぎれは熱さを忘れる」という「ことわざ」どおり、忘れていくことがあるのです。

ただ、あの世の世界から見てみると、守護霊たちは、そうしたときに、いろいろと苦心し、努力をしているのです。その努力に対して、本人たちが、「感謝をする」ということなく、また安易な日々を流れていくことについて、守護霊たちが非常に残念そうに思うことも限りなくあります。

人生というものは、決して自分だけが選び取っているものではなくて、その背後には数多くの「目に見えぬ力」が働いているのです。

たいていの人には守護霊というものがついていて、その人を善導するために、日夜、努力しています。

そして、守護霊の手に余るような、大きな問題に関しては、指導霊というものがついていて、この指導霊が、日夜、常に何らかのアドバイスを与えんとしています。この世的に優れた職業を持っているような方には必ず指導霊がついていて、アドバイスをしています。

ただ、たいていの人間は、感謝を忘れ、防音そのものの生き方をしています。そうしたことを考えずに、「自分は運がよかった」とか「運が悪かった」とか言ってみたり、「すべて自分の力のせいだ。自分に能力があったからだ」と考えたりします。

そのように、人生の転機に際して、一つのきっかけはあっても、霊性への目覚めが遅い方は数多くいます。

こういう方々の特徴は、結局、「自我が強い」ということであろうかと思います。自分自身を「偉し」と思ったり、自分自身がかわいくてかわいくて、「自分が、自分が」という思いが強かったりするのです。こういう自我の思いが強いわけです。

本当は、目に見えぬ霊的な世界から、目に見えぬ糸が張り巡らされ、さまざまに引っ張ってもらっているにもかかわらず、それを感じず、自分がすべてをやったように思ってしまう。あるいは、失敗をした場合には、自分以外のもの、他人のせいで、そういう失敗に陥ったと考える。このように考えがちであるわけです。

こうしたことは、結局、「自分本位の生き方である」と言えるのではないでしょうか。

「本当に神仏の前に謙虚になる。高級霊の前に謙虚になる」という気持があったならば、やはり、「大いなる霊性への目覚め」というものを体験せざるをえなくなってきます。

霊性の目覚めにも二通りあります。

第一の場合は何かと言えば、挫折を契機として、神仏を求めるきっかけを得る場合です。「何とか立ち直りたい。立ち直るきっかけが欲しい」ということで、神、仏にすがる。あるいは宗教に入る。こういう考え方が一つあります。

これも大事な考え方の一つです。世のマスコミ等は、「宗教は、以下に害悪を流しているか。いかに間違ったものであるか」ということを言っていますけれども、宗教は、やはり、そうした人間の避難場所であることも事実です。

社会生活のなかで、会社のなかで傷ついた人々、彼らはいったいどこへ行けばよいのでしょうか。結婚に挫折した人々、彼らはいったいどこへ行けばよいのでしょうか。子供の問題で失敗した母親は、どこへ行けばよいのでしょうか。失業した人たちは、どこへ行けばよいのでしょうか。病気で苦しんでいる人たちは、どこへ行けばよいのでしょうか。人生苦に悩んでいる人たちは、どこへ行けばよいのでしょうか。

彼らには行く場がないのです。そうした人たちにとって、やはり宗教の門が一つの大きな導きとなることがあります。

そうした意味において、世の一般的なる常識、あるいは評価というもの度外視して、こうした病院の役割、大きな意味での受け入れ先の役割をしているのが宗教であることも事実です。宗教はそういう役割を果たしているのです。

また、これとは逆の場合があります。

成功に成功を重ねていく人、ツキまくっている、あるいは運がついている人で、どんどん、思った通りにピシピシと当たっていき、道が開けていく人がいます。こういう人の場合にもまた、神のご加護を受けていることが非常に多くあります。

彼らは彼らで、信仰心を持って生きていることは非常によくあります。

有名な経営者が、夜になると精神統一をし、正座をしてインスピレーションを受け、重要な経営判断を行ことは、よくあるわけです。

また、優れた人であればあるほど、「霊的な直観」というものを重視していることも事実です。いわゆる「勘」であるとか、「ひらめき」であるとか、こういうものです。成功体験の数多くのある人たちは、どこかで、そうした助けを経験しています。何らかの勘や、直感、ひらめきによって、大いなる事業の成功を得たことが数多くあるのです。

「ひらめきによって新発見をし、それが軌道に乗った」という方もいれば、直観によって危機を回避しえた方もいます。

昨年(一九八七年)の秋であったでしょうか。株が大暴落したときがありましたが、その前に、いち早くそれを霊的に直感して、株を売り払った方もいます。そうした、方は、やはり、「何らかの導き」というものを感じ取っていたのではないかと思います。

ですから、挫折のときにも、成功のときにも、「霊性の目覚め」というきっかけがあるのではないでしょうか。それが、やはり、今生の意味ではないでしょうか。

今生において、一つの霊的な修行をさせられているのは、「この目には、この耳には、この手には、しかとは感じられない世界において、霊的なるものをつかむ」ということを非常な意義を感ずるからであり、「教えられない世界を自分自身で感じ取る」ということに大いなる敬意が払われるからではないでしょうか。

ですから、「この地上での生活のなかにおいて、霊性への目覚めを体験することが、一つの大いなる進歩ではないのか。また、今生における、自分の人生の意味の発見ではないのか」と私は思うのです。

【大川隆法 『漏尽通力』第一章「霊的人生観」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。

【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】                                                  
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。

災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする  信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。

【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。

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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
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FAX:0596-31-1778
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文責:蒲原宏史 

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