29 生前、人の生き血を吸うような仕事をやっていた者が、吸血コウモリとなって、地獄の洞窟を飛び回っているのを見た。
【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋
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■何を祈るべきか
「この地球の一員としての自分、
宇宙の一員としての自分、
この自分に与えられた使命を、
全うさせてください。
そして、願わくば、自らに縁のある人々に、
一筋の光明をお与えください。
一握りの愛を与えさせてください。
人々が幸福に生きられるように、
この世においても、
そして、この世を去った世界においても、
幸福に生きられますように」―
このように祈ることが大事です。
【大川隆法『祈りと希望』p61 より抜粋】
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はじめに、教典『心眼を開く』より、霊界の裏側の世界についての学びを深めてまいります。
本経典の霊指導は、天御祖神であると言われています。大切な教えですので、教典をお持ちでない方は是非拝受ください。全国の書店・支部・精舎でお求めいただけます。【税抜1500円】
「やや宗教的な面を強く出し、天狗、仙人、妖怪、妖魔の世界にも言及し、日本で「宗教」と思われているもののなかに、世界宗教としての仏教やキリスト教の奥にある考えとの相違があることを示した。いずれにしても、心の清らかさから、物事の真実を見極める、幸福の科学の立場を説明していると思う。」―「まえがき」より―
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■『心眼を開く』第2章「心眼を開く②」
3 「裏側」の霊界の諸相を明かす
〇「安珍・清姫」の仏教説話から学ぶ異性に対する心構え
これは、日本で言えば、例えば、「安珍・清姫」のような話でもあります。
修業中のお坊さんが、熊野詣での道中、休んでいたときに、かわいい女性に恋をされ、「帰りにも必ず寄ってくださいね」と言われます。目的地までは二、三日で行けるのですが、返ってくる道で、「やはり女に惹かれたりするのはよくない」と思い、その女性には会いに行かず、避けて内緒で編み笠を被って川を渡っていくのです。
女性のほうはそれに気づき、追いかけてくるわけです。そのうちに、だんだん巨大な蛇の姿になって川面を追いかけてくるので、最後、道成寺まで逃げてくるのですが、シェルターもなく、隠れる所がないわけです。ただ、大きな釣鐘がったので、それを降ろしてもらい、そのなかに隠れて大蛇から身を護ろうとします。
ところが、清姫に当たる大蛇は、その釣鐘をグルグル巻きにして火を吹き、その高温で釣鐘を焼いたので、そのなかにいた安珍も焼け死んでしまったという話です。
恐ろしい話ですが、仏教説話としては、よくできたというか、象徴的な話です。この見目麗(みめうるわ)しく見える女性が道の妨げになるということは、よくあるのです。
悟りを開く前はよいと思っていても、実際に修行を積んでみると、そういう「欲界」から離れ、「色界」、「無色界」と、上の世界に入っていかなければいけないわけです。※
ところが、修行者にとって、女性というのは欲界に引きずり戻す力があって、「結婚の約束をしたじゃないか」という感じで追いかけてきます。そうすると、まるで蛇が追いかけてきて巻き上げられるような感じに見えてきたでしょう。炎が二つに割れたりしたのは、蛇の赤い舌の象徴かもしれません。そのように、焦がれられて、その熱で焼かれてしまうようなこともあります。
こうしたことは、仏教修行をする者には特有のものなのです。
親鸞以降は結婚する僧侶も増え、標準化してきたので、すべてを否定はできませんが、異性を選ぶときに、自分の道の向上になるような相手をきちんと選ばないと、道を成就することができずに死んでしまうような、空しい死に方をすることになりかねません。そういった特徴があるでしょう。
【※「安珍と清姫」の物語は映画『ドラゴン・ハート』にも登場しました。
平安時代の伝説、安珍・清姫(あんちん・きよひめ)の物語。その物語は奥州の若い僧、安珍が熊野詣の途中で牟婁郡真砂(むろごおりまなご・現在の和歌山県田辺市)の庄司の家に一夜の宿を乞うたことに始まります。僧の見目麗しさに恋心を抱いたその家の女房・清姫はしつこく安珍に迫り、困り果てた安珍は「熊野詣での帰りにまた立ち寄る」と告げその場を切り抜けると、参拝後清姫に会わずに帰ってしまいました。なかなか帰らない安珍の裏切りに気付いた清姫は、血相を変え、着物や草鞋を脱ぎ捨てながら安珍を追いかけます。ついに人から大蛇へと姿を変え安珍にあと一歩まで迫ったところで、安珍は道成寺に逃げ込み釣鐘の中に匿われます。しかし清姫もすぐに追いつき、釣鐘に巻き付くと炎を吐いて安珍を黒焦げにして�
�
�し、自身も川へと身を投げて死んでしまいました。今も歌舞伎や能楽、人形浄瑠璃で「道成寺物」として、度々演じられる物語】
【大川隆法『心眼を開く』第2章「心眼を開く②」より抜粋】
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さて、ここからは、「お釈迦様の八正道」を共に学んでまいります。復刻版で経典『真説・八正道』が再販されていますが、これは、主が現代の時代に合わせて再整理されたものです。その意味では八正道の現代応用ともいえる尊い経典なのですが、これを学ぶ前段階として仏教オリジナルの八正道を共に学んでまいりたいと考えています。
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〇正語―正しい見解のもとに語る
八正道の三番目には「正語」があげられます。正語についての教えは、すでに私は何冊かの著書において、かなり具体的なものを出しています。
たとえば、宗教的に述べるならば、邪教を挙げれば簡単です。統一教会的な騙しのテクニック、何でも騙していくということも、もちろん正語に反しています。【※2026年3月4日、東京高裁は世界平和統一家庭連合(旧統一教会)に対し、解散を命じる決定を下しました】
あるいは、創価学会的な脅迫・恐喝・脅し、こうしたものも、当然、正語に反しています。宗教生活をする人であれば、徐々に言葉を整えることが大事です。
もちろん、真実そのとおりのことを、他人に注意するのは大事なことですが、そうではなく嘘八百でやっていくのは間違いになります。
一番大事なことは妄語戒(もうごかい)です。「妄語」とは、間違った言葉です。特に、悟りに関する内容を偽るのが、一番大きな罪になります。
それから、多少、技術的になりますが、「Aさんに行ったこととBさんにいったことが違う」といった二枚舌を使うこと「両舌」や、心にもないお世辞を言って人をくすぐり堕落させたりするようなこと「綺語」も、当然、正語に反します。
一番単純なものでは悪口です。仏教的には「悪口(あっく)」といいます。単なる悪口を言うこともそうですし、本来は正思に分類できる愚痴を口に出して言ったり、偽りのないようで周りの人を惑わせたりすると、これも正語に反します。
これが正語の教えです。ただ、みなさんが心しなければならないのは、言葉を正すということが消極的な方向に現れてしまい、正しいことも言えないようになることです。間違ったこと、悪いことを言う人が、銃弾をいくらでも打つように言葉数が多く、正しい見解のもとに活動している人が、それに対して何も言い返せず黙っていることによって、悪を増長させ、正しい者たちの集団をぐらつかせるようなことが現実にあったならば、これはやはり間違いであると思わなければなりません。
「忍辱(にんにく)」とは、要する忍耐のことですが、宗教的忍耐とは、決して悪を助長することではありません。正しいことを「間違っている」と言われて、「はい、その通りです」と引き下がることでもありません。
「仏陀のしていることは間違っている」と言われて、「はい、その通りです。忍辱いたします」と引き下がることでもありません。
「仏陀の説いていることは間違っている」と言われて、「はい、そのとおりです」と引き下がる仏弟子はいないのです。「それは、あなたの考え違いである。仏陀の教えは、こうしたことにおいて正しいのである。あなたのほうが邪見なのである」と反論するのは、仏教徒として当然のことです。この批判、ないし論理的な切り返しは、感情的に起こることも伴わずにできることです。必要なことは、押しの強さであり、言葉の論理的な組み立てなのです。
ですから、悪を受容し、それを増長させることをもって、正語の教えとするべきでは絶対にありません。それは間違いです。これは、別な面においては、正しいことを語らなかったという意味で、作持戒(なさねばならない戒め)としての「正語戒」(正語のすすめ、ぐらいの意味)に反するかもしれません。
特に当会は非常に人の好い方が多いため、この正語のところで間違って、口の悪い人たちを優勢にさせてしまう傾向があるので、人の間違いに対しては、きちんと正していくことが大事です。その際に、「いたずらに感情的にならずに、やはり事実を根拠として、あるいは理論を根拠として、的確に批判をしていき、相手を悟らしめることが愛なのである」ということを、きっちりと理解してくことです。
間違った見解のもとに、いろいろな活動をしている人は、地獄に落ちていきます。ですから、こうした人たちを救うためには、その見解が間違いであることを教えてあげなければならないのです。それを教えてあげることができないのならば、伝道は成り立たないのです。
世の中の人は誤解しているのです。知らないことがたくさんあるのです。だからこそ、教えてあげる必要があるのです。間違った見解に対しては、それが間違っていることを指摘しなければなりません。そして、「正しい見解とはこのようなものです」ということを教えてあげなければなりません。
正語においては、消極的に「こうしたことを言ってはいけない」ということもありますが、積極的に「正しい法論を解く」ということも、非常に大事なことです。けっして「弱々しい善人」になるべきではありません。
【大川隆法『仏陀の証明』幸福の科学出版 より抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、教典『真説・八正道』より反省の本質を学びます。妖怪性からの脱却をはかり、「反省からの発展」さらに「中道からの発展」を目指しましょう。
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■『真説・八正道』第3章「正思」
1正思の基準は神の心
〇幸福の科学の「正しき心の探究」は「正思」のあたりに照準がある
「正思」の部分は、そう簡単には卒業できません。何回転生しても、それほど簡単には卒業できない部分です。幸福の科学の「正しき心の探究」というものも、このあたりに照準があることもお分かりになると思いますが、修行としては容易には終わらないところであります。
まず、正思の根本はどこにあるのでしょうか。それは神仏の心です。
人間は、「正しき心」というものについて、いくら考えても、追いかけても、なかなか分かるものではありません。それが現実であろうかと思います。
なぜならば、「正しき心」の根本というものは、人間に求めるべきではないからです。それは神仏に求めるべきことなのです。この尺度こそ、神仏に求めなければ、求めるところがないのです。ここにあるのです。
もし、神のお心は違ったところに基準があるとしたら、人間の考え方、行動のパターンも違ったものになるはずなのです。ただ、北極星に向かうがごとく一定の方向へと向かうことを義務づけられている理由は、この「正しい思い」というものが神の側から規定されているいためです。そう考えてよいでしょう。
【大川隆法『真説・八正道』第3章「正思」90pより抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、1991年7月に説かれました『永遠の仏陀』を振り返ります。
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■『永遠の仏陀』
第4章 跳躍の時
〇奇蹟の時
さて、
おまえたちにとって、とても大切な話をすることとしよう。
おまえたちの魂が飛躍するために、
どうしても必要な事柄を述べたいと思うのだ。
おまえたちは、常に、平凡な毎日のなかに生きることを、
飽き飽きと感じることだろう。
私は、そういうおまえたちに対して、
「いや、人生とは、
そのような飽き飽きするもののみではない」と語りたいのだ。
「その様に平々凡々とした毎日ばかりではない」と告げたいのだ。
そう、おまえたちも、若いころに、
「世の中には、さまざまな体験をする人がいる」という話を聞き、
「いつかは、自分にも、
そのような体験のときが来るのではないか」と思ったことだろう。
そのとおり、
平凡に生きていたと思われる人間が、
ある日を境にして、まったく変わった人間となることは、
充分にありうることなのだ。
「そんなばかな。自分に限って、
そんなことがあるはずはない」と思う人もいるだろう。
けれども、よくよく心を落ち着けて、
私の話を聞いてほしいのだ。
少なくとも、おまえたちは、
この、私の書いた書物を、
いま、手に取って読んでいるはずなのだ。
私が書いた、この書物を、
手に取って読むということ自体が、
大変なことであるのだ。
それは、まさしく、おまえたちにとって、
過去と未来を分ける、
一つの事件であると言ってもよいであろう。
人類の長い歴史のなかでも、
今という時ほど重要な時はない。
私は、それを、くり返しくり返し、
おまえたちに告げているのだが、
おまえたちの多くは、なかなか、そのことに気がつかない。
というのも、自分自身が、
平凡性のなかから抜け出すことができないからであろう。
しかし、私は言っておく、
仏の再誕する時に生まれ合わせ、
その教えにふれるということは、
大きなことであるのだ。
しかも、仏の教えにふれて、
みずからの人生がまったく違ったものになるということは、
それはまさしく、奇跡の時であるということなのだ。
人類の歴史をひもといてみるならば、
過去、偉大な如来が数多く地上に肉体を持ち、
そして、尊い仕事を成し遂げてゆく過程において、
数多くの人々の魂が、
今までにない輝きに包まれたということは、
おまえたちの想像に難くないことであろう。
人間は、何度も何度も、くり返し地上に生まれ変わり、
新たな魂修行をしているのであるが、
こうした偉大な如来が地上に降りる時に、
その教えを学ぶということは、
おまえたちにとって、魂が跳躍するときでもあるのだ。
そう、ちょうど、
わずか一回のその転生が、十回分にも相当する、
そのような魂修行に値すると言っても、過言ではない。
いや、それ以上の価値ある時を魂に刻む者も、
なかにはいるのだ。
それは、そのとおりだ。
あの太陽のような光が、
おまえたちの胸を、
その、閉じられた胸の扉を開けて、
差し込んでくるというのだから、
いままで暗闇に閉ざされていた、その心の内が、
くまなく、明るく照らされるのだ。
その時に、
はるか昔に忘れ去った、あの懐かしい感動が、
呼び起こされるに違いない。
おまえたちは、
目の見えぬ者を見て、気の毒に思い、
においをかぐことができぬ者を見て、気の毒に思い、
足の動かぬ者を見て、気の毒に思い、
手を使うことができぬ者を見て、気の毒に思う。
しかし、魂の目が開かず、
魂の耳が閉じており、
魂の鼻がにおいをかげず、
魂の口が物を食べることができず、
魂の手が縛られ、
魂の足が、歩くことを許されないときにも、
おまえたちはその不自由を感じないでいる。
それは、永い永い年月のあいだ、
忘却のなかにいたからなのだ。
しかし、真実を知った時に、
おまえたちは変わってゆかざるをえないのだ。
【大川隆法『永遠の仏陀』第四章「跳躍の時」より抜粋】
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続いて、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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■『釈迦の本心』
第3章 六波羅蜜多の思想
4 布施波羅蜜多
六波羅蜜多の最初には「布施波羅蜜多」があります。これは、別名「施しの完成」とも呼ばれています。
釈迦の思想では、「施し」が非常に重要視されています。「施し」という言葉は、いかにも仏教的な響きを有していますが、その根本は愛の思想であると言ってよいでしょう。キリスト教における愛の思想が、仏教では、布施の考え方、「施す」という考え方のなかに流れているのです。
六波羅蜜多の筆頭に布施波羅蜜多があるということは、釈迦が慈悲的な意味合いでの愛をいかに重要視していたかを示す証左と言えるでしょう。
ここで、「波羅蜜多」という言葉について、説明を加えておきましょう。
漢訳の「波羅蜜多」というのは、インドの言葉パーラミター(paramita)の音写で、到彼岸、つまり「理想状態に達すること」という意味ですが、「波羅蜜多」は意訳もよくできています。「波羅」を「内在する」、あるいは「心の奥底の」という意味にとり、「蜜」は「非常に価値のあるもの、値打ちのあるもの」、「多」は「こんこんと湧いてくるさま」に意訳すると、筋が通ります。
すなわち、「心の井戸を深く掘ると、こんこんと叡智が湧いてくる」という意味で、「波羅蜜多」という漢語訳を使っているのです。
したがって、「布施波羅蜜多」というのは、布施という行を通じて、こんこんと湧いてくる叡智を味わい、それを見につけるための修行方法なのです。
布施にもさまざまなものがあります。
最も一般的なものとして、出家修行者、仏教教団、貧窮者などに、衣食、田宅、財物などの物質的な財を施す「財施」があります。他の人に物をあたえることも愛の行為です。(たとえ、貧しくて物を与えることができない場合でも、笑顔を与える「顔施」があります。笑顔を与えることも立派な布施です。顔施によって、世の中が素晴らしくなっていきます)。
また、「法施」というものがあります。これは精神的でさらに高度な施しだと言えます。心が飢えていて道を求めている者、砂地が水を求めるがごとくに法を求めている者に対して、
法を施してあげること、教えを説いてあげること、その悩みに答えてあげることは、最大の布施なのです。
釈迦の時代には、人々が修行僧に対して物品を布施していたのですが、そうした物施よりもさらに多くのものを、修行僧たちは人びとに与えていたのです。すなわち、法施という愛行によって、感謝、報恩を成していたのです。もちろん、在家信者が、まだ信仰の開けていない人に対して教えを説明することも、法施でした。これも布施です。
さらに、「無畏施・むいせ」があります。悩み、苦しみ、恐怖している人に対して、恐れを取り除いてあげることです。心を安らかにし、人を厄難から救うことです。
以上の、財施、法施、無畏施のことを、「三施」と言います。
【大川隆法『釈迦の本心』第三章「六波羅蜜多の思想」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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■伊勢支部精舎の理念■
100 パーセントエル・カンターレ信仰
―天御祖神と共に―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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・「信仰心と国を愛する心」という問題について言えば、やはり国民の信仰心がなくなったら、その国は衰退に入っていくし、いずれ滅びると私は思います。
・みなさんには、どうか強い信仰の思いを全国に発信していただきたいと思います。
―「信仰心と国を愛する心について」 ―2013 年4月21 日 伊勢支部精舎御巡錫―
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■伊勢支部の行動指針■
【菩薩の本懐である六波羅蜜多を推進して妖怪性を払拭する】
私たち、伊勢支部信者は、エル・カンターレ信仰をキチッと確立して、天御祖神の武士道精神のもと、仏教的精神を打ち立て、伝道に邁進し、隣人を救い、私たちの愛する街に、必ず仏国土ユートピアを建設します。
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大宇宙の根本仏 唯一なる 主エル・カンターレよ
伊勢支部精舎は、今年落慶17周年、そして御巡錫13周年を迎えました。
2009年1月24日、日本の中心とも言われる伊勢の地におおいなる光の灯台を賜りましたことを仏弟子一同・伊勢支部信者一同心より感謝申し上げます。
そして、2013年4月21日に、伊勢支部精舎に御巡錫を賜り、御法話『信仰心と国を愛する心について』をお説きくださいました。主の御慈悲に心より感謝申し上げます。
私たち伊勢支部信者一同、主への純粋なる信仰の下、「主の復活の祈り」を通して
エル・カンターレ信仰を確立し、「愛」と「知」と「反省」と「発展」の四正道を日々実践し、主の御名と御教えを伝えます。
そして、われらが愛する、この伊勢の地を、三重の地に主の悲願である仏国土ユートピアを必ずや建設いたします。
私たち、伊勢支部信者は、菩薩の本懐である六波羅蜜多を推進して、自らの心に巣くう妖怪性を払拭します。そのために、三宝を熱く敬い、「愛」「知」「反省」「発展」の四正道に帰依して、エル・カンターレ信仰をキチッと確立し、「天御祖神」の武士道精神のもと、仏教的精神を復活させて、伝道に邁進し、隣人を救い、私たちの愛する街に、必ず仏国土ユートピアを建設するために、以下のことを改めてお誓いいたします。
①私たちは、主から頂いた仏性を輝かせ、自らの善きものを隣人に分け与え、一切のみかえりを求めません。主から頂いた教えを必ず伝え伝道します。【布施波羅蜜多】
②私たちは、自らの戒を持ち、戒を守り、仏法真理の教学に力をつくします。
そして法友の育成・養成に力を尽くします。【持戒波羅蜜多】
③私たちは、主の御心を実現するために、目標を明確に持ち、実現するまで計画を実行しつづけます。【せん提波羅蜜多】
④私たちは、主の御手足となる本物の菩薩になるために、救世活動を日々の精進として積み重ねます。【精進波羅蜜多】
⑤私たちは、常に主を信じ、主を愛し、主と一体となるために反省と瞑想を重ね、祈りの生活を送ります。【禅定波羅蜜多】
⑥私たちは、主から既にすべてを与えられていること、主から愛されている自分を発見し、エル・カンターレ信仰さえあれば、あとは何もいらないという絶対幸福をえて、隣人と分かち合います。【般若波羅蜜多】
私たちは、主への報恩として 日本に 全世界に 「天御祖神」と共に、エル・カンターレ信仰を弘め地球ユートピアを実現してまいります。
主よ、私たちの信仰心が主の復活の力となり、主から預かりました伊勢支部精舎が、光の灯台として、一人でも多くの方に主の光を届けることができますよう、お導きください。主よ、まことにありがとうございました。
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100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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エル・カンターレ・大好き

