37 不況の時に伸びる会社こそ、真に実力がある会社である。
【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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さて、私たち、幸福の科学の信者の幸福とは「悟りの幸福」です。私たちは、「正しき心の探究」を通して「愛と悟りとユートピア建設」をこの地上に実現するための使
命を仏から与えられ、その実現のためにすべてを既に与えられました。
ここで、お釈迦様の教えである仏教的精神を振り返り、私たちの幸福を全世界に述べ伝える原動力となすべく、ひきつづき教典『悟りの挑戦(下巻)』を共に学びます。経典をお持ちでない方はこの機会に是非ご拝受ください。【税込み1800円】
―本書をていねいに精読するならば、『悟りの挑戦』が、仏陀自身の仏教解説であることがわかることだろう―上巻「あとがき」より
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映画『影を売る女』の109シネマズ明和での上映時間は以下のとおりです。
映画館へのお誘いと動員へのご協力を何卒よろしくお願いいたします。
10/24(土)【復活の祈り①8:30 ②13:00 ③19:00】
①9:40~11:30
②14:55~16:45
映画『影を得る女』は、「平凡であること」「普通であることの幸福」「玉の輿願望や裏道の成功を望むことの空しさ」といった教えが込められた大切な宗教映画です。自分の影を売ることを引き換えに、さまざまな自己実現をする主人公が、さまざまな葛藤を持ちながら、本当の幸福とは何であるのかを知る文学的作品となっています。
日本神道にありがちな御利益信仰による幸福がいかに虚しいものであるか。物質的幸福に目が眩む現代人に目覚めを与える映画となっています。この映画を機縁として、一人でも多くの方を入会・三帰へと導いてまいりましょう。
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■『悟りの挑戦(下巻)』第1章「中道からの発展」
3 ものの見方における中道
④有無の中道―「空」とは何か【※①は「白紙に戻せ」②「断常の中道」③「無我についての誤った理解」でした】
見方における中道の例を、伝道的な考え方からもう一つ挙げてみると、たとえば「有無の中道」というものがあります。「有(う)」は有る、「無」は無いということです。「有無の中道」は、「非有非無の中道」―有に非ず、無に非ずの中道ともいいます。
これはたとえば、物は有るか無いか、人間は有るか無いか、このような「有るのか無いのか」という議論です。これも、当時のインドの時代から現代にいたるまで、ずっと続いている議論です。物なるものは有るのか、人間なるものは有るのか無いのか、すぐどちらかで片づけようとしたがるのが、また極端な説であるわけです。これに対しても、釈迦は一線を画した考え方を持ちました。
「私たちが、目でみているもの、確固としてあるように見えるものは、確かに、有るように見えるという事実は否定できない。現に触ってみたら、手に当たるし音もする。有るということは否定できない。しかし、そこに有るということが、本当に実体である、本当に実体である、本当に実在であるということにはならない」ということを釈迦は考えるわけです。
「では、有るのではないといったものは無いのか。机なるものは無いのか、人間なる存在は無いのかといったら、無いという存在でもない。無いわけでもない」。ここについての教説がこれから始まってくるのです。有るか無いかということの議論が、結局は「空」の思想―「空」とは何かという説明につながっていくのです。
つまり、霊的世界、霊界世界の存在というものを認めると、「空」の説明というのは、実に簡単なものになってしまいます。「要するに、この世的な物なるものは、本質的なるもの、実体のあるもの、形を決して変えないもの、常住なるもの、実在なものではない。霊的世界、あの世の世界にあるものこそが実在であって、この世は仮の存在である」。こうした霊的観点から説明すると、「空」とはこんなに簡単なものになってしまいます。
ところが、通常の人には、霊的世界、あの世の世界のことが、どうしてもわかりませんから、この「空」の思想をこの世の思想に引きなおして教えないといけなくなってくるのです。実際は、「この世は仮の存在、あの世が本当の存在である」というような霊的世界の説明をすると簡単になるのですが、あの世というものが理解できないがために、「空」の思想が難しいものになってきます。
〇長良川は本当に有るのか、無いのか―「有無の中道」
結局、この世の人、たとえば宗教を知らない人にもわかる「空」の説明とは、次のようになります。
たとえば、「長良川という川は、本当に有るのか、無いのか」という議論を立ててみます。
まず、「長良川は有る。それは実在する」という人がいます。では、長良川なるものをとって見せてください。どれが長良川ですか。長良川の水を汲んでバケツに入れて、「この水は長良川です」と言っても、それは長良川だといえるでしょうか。そうは言えないでしょう。それは長良川の水ではあろうけれども、長良川そのものではありません。
また、長良川のこの砂利をとって「これが長良川だ」と言えるでしょうか。言えないはずです。
では、地図を見せて、「長良川というのはここから始まって、ここの海で消える、この長さのことだ」と言って、それで長良川というものの実体の本当の説明になっているでしょうか。そうではないはずです。
では、長良川とはいったい何なのでしょうか。
その川の流れを止めてしまったらどうなるでしょうか。その上流で止め、下流で止めて、水を一滴も出さないようにしてしまって、その土と水を丸ごと箱庭のようにドンと出して、「これが長良川です」と言えば、それを説明できたことになるかというと、どうでしょう。川の水を止めることができるでしようか。止めたときに、それは川でしょうか。おそくら川ではないでしょう。そこにできてくるものは、おそらく池であり、湖であって、もはや川ではありません。
「すると、長良川なるものは、名前はあるけれども、実際に有るのか無いのか」という議論になってきます。そうしてみると、長良川なるものをとって説明することはできません。しかし、みんなが「それは長良川だ」という名を呼んで有ると認識しているのです。
このように、この世の存在というものは、名があって、有るように見えますが、その実体を取り出して見せることができないのです。”変化しないもの”というものを取り出して見せることは決してできないのです。
〇すべてのものは変化のなかにある―諸行無常
人間ひとつとってみてもそうです。毎日、新しい細胞ができ、古い細胞が死んでいます。人間の身体に、生まれたときに持っていた細胞は何ひとつ残っていません。十年前のものも残っていないでしょう。骨だって同じものではありません。脳の細胞さえそうです。毎日毎日、消滅しています。
そうしてみると、「あなたという人間はいったい何者なのですか。これがあなただというものを取り出せますか」と問うても、それを出そうとする瞬間に、すでに変わっているものなのです。
そのように、この世においては、「これこそがカッチリとしたあなたである」「あなたの名前で呼ばれている人間はこれである」「長良川とはこれである」と出してみよ、というときに、出せるものは何ひとつないのです。
すべてのものは変化のなかにあります。すべてのものは変わっていっています。これを「すべてのものは無常である」といいます。この「無常」―変わりつつあること、常ならずということ、これを「空」という言葉で説明しているのです。
「これが長良川だ」「これがあなただ」と定義できないのと同じように、「昨日のあなたと今日のあなたと明日のあなたはまったく同じ人である」ということは、説明ができないのです。昨日の肉体と今日の肉体は一緒ではありません。明日の肉体も変わっています。食べ物が違えば細胞も変化しています。
では、「肉体を取り除いた、その心なるものが、あなただ」といえば、昨日のあなたと今日のあなたと明日のあなたは、心の状態は同じでしょうか。昨日の心と今日の心は違うでしょう。今日と明日は違うでしょう。今日においても、今と一瞬後とでは違うでしょう。本書を読む前と、呼んだ後のあなたの心は違うでしょう。そうすると、心なるものもあなたの本質ではないのです。あなたの実在ではないのです。実体ではないのです。「これが私の心です」と取り出して見せることはできません。
〇空とは何か
「すべてのものは変化のなかにある」―これを「空」と呼びます。
ただ、この「空」の説明は、あくまでも、この世の人に分かるように言った三次元的な説明のなかでの「空」です。したがって、間違った方向にいくと唯物論的に流されていくことがあることも、十分警戒してください。しかし、初心者に対してはこのような説明が可能です。この「空」は、方便として、この世の人間にわかるように説明するという意味での「空」です。
真空なる「空」は、これに止まるものではありません。やはり、この世の世界とあの世の世界という、仮の世界と実在界との関係において説かれる「空」が、本当の「空」なのです。
では、この「空」の説明で行くと、「長良川は有る」と言えるでしょうか。有るようではあるけれども、有るとは断定できません。では、「長良川なるものは取り出して見せることができないから無い」と言えるでしょうか。現実に流れているので、無いとは言いきれません。
そうすると、有るとも言えず無いとも言えない―そこに長良川なるものの本質は実はあるのです。長良川とはそういうものなのです。この「有」とも言えず「無」とも言えないところ、この中道にこそ真実があるのです。
この世の存在、人間および環境、すべてのもの、また地上の現象の存在を、このように「有無の中道」でもって見る見方、これが釈迦の考えであったわけです。これは、以上の説明からもわかるように、確かに正しい考え方なのです。
正しさとは、「これが正しければ、あれはそうではない」「これか、あれか」というものではないのです。
要するに、仏教的なる正しさというものを追究していくと、こういうことになるのです。「相対的なるものは実体ではない。相対的なるものとは何か。『我と汝、私とあなたという関係』『この物とあの物という個物と個物の関係』―こうしたものは、実は実体ではない」。これが「空」の思想につながっていきます。
「それは実体ではない」と否定したときに、そこに現われてくるものはいったい何でしょうか。相対の世界を否定したところに、絶対の世界なるものが出てくるのです。これが、言葉を換えた「霊的な世界観」ということになるでしょう。要するに、「『我と汝』『この物とあの物』―こうした個別バラバラの物が、それぞれが存在るするのだ」というようにものを見る考えが相対観であり、これを去ったところに「空」の世界が開け、「空」の世界のなかにい絶対の存在、絶対の世界というものが見えてくるということです。
結局、「空」とは何かというと、この世的なる存在を実体とする考えを否定する考え方、あるいは、この世的なる執着を断つ考え方です。「この世的なるものに執われる心、執着を去りなさい。その執着を去ったときに、真なるものが現われてくる」、そのような思想として出されたのが「空」です。これが「空」の思想なのです。
【大川隆法『悟りの挑戦(下巻)』第1章『中道からの発展』より抜粋】
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さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。基本三部作の『太陽の法』を引用しながら、幸福の科学の教義を共に学びます。なお、経典『太陽の法』は、光とは何か。仏法真理とは何か。という問いに答える幸福の科学の教えの基本です。経典をお持ちでない方は、是非この機会に拝受ください。【税抜2000円】
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■『太陽の法』第3章「愛の大河」
10 愛の大河
人間としての愛、そして、天使としての愛について、いろいろと考えてきたわけですが、こうしてみると、この三次元はもちろんのこと、四次元以降の多次元世界、高次元世界をも貫いて流れる愛とは、いったい何なんでしょうか。それは、ひとつの生命の奔流(ほんりゅう)であり、滔々と流れ出して尽きない、生命の水であるともいえます。実際に、霊的な目で、霊眼でもって、九次元から三次元までを眺めると、はるかなる高次元に源を発した愛の大河が、巨大なるエネルギーの河となって九次元→八次元→七次元→六次元→五次元→四次元→三次元へと流れくるさまは、まさしく壮大な景観、一大パノラマです。
愛というのは、すなわち、このようにひとつの大河なのだといえます。それは、上流から下流へと流れ出して、とどまることを知らないひとつの力であり、あらがいがたい生命の勢いなのです。愛に敵なし。実際に、この霊的な愛の大河のパノラマを見てしまうと、愛に敵するいかなるものもありえないことが、はっきりとわかります。みなさんは、地獄というのは、天国つまり、神(仏)の世界と拮抗(きっこう)するだけの勢力だとお考えでしょうか。また、天国・地獄と大別されるような、一大世界だとお思いでしょうか。そうではないのです。神(仏)から発した愛という名の大河は、はるかなる上流に端を発して、強烈なる勢いですべてを押し流しているのです。地獄がある四次元世界というのは、はるかなる下流、河口のほう�
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�あり、物質万能とか、欲望とか、迷いとか、悪という名の塩の入った海水が、いかに川の水を塩化させようとしても、滔々(とうとう)と流れきたり、押し寄せてくる愛の大河の力には、あらがいがたいのです。
愛は光です。光に勝てる闇がないように、愛に勝てる悪も、愛の大河を最後まで防ぎきれる地獄もないのです。地獄は、天国に拮抗できるような勢力ではありません。それは、神(仏)のつくられた世界の一部に巣くうガン細胞であり、真水の河のなかに忍び込もうとする海水にしかほかならないのです。
むかしから、地獄というのは、天国と同じような大きさで、天使と悪魔が対立しているように思われてきておりますが、実際はそんなものではないのです。天国―天上界というのは、四次元幽界をスタートして、はるかなる高次元にまだおよぶものです。それにひきくらべ、地獄界というのは、四次元のなかのよどみ、光のあたらないかげの部分にしかすぎません。
もちろん、そのよどみも相当大きく、何十億人もの地獄界人口を擁していることは確かです。太陽の光が照射されて、解けない氷がないようにように、いつかは必ずなくなることになっているのです。地獄の影響力が、過大評価されているのは、その基礎となっている霊域が、非常に地上界に近く、相互に容易に波動を受けやすくなっているからです。
では、地獄界をつくっている要素とは、いったい何でしょうか。そこにうずまいている要素、想念エネルギーには、次のようなものがあります。
ねたみ、そねみ、感情や本能にもとづく怒り、愚痴、足ることを知らない心、不平不満、悲観的な心、消極的な心、優柔不断、臆病、怠惰な心、自己嫌悪、うらみ、にくしみ、のろい、情欲、自己顕示欲、利己主義、毒舌、二枚舌、躁うつ、酒乱、暴力、排他主義、うそ、いつわり、唯物主義、無神論、孤独、独裁主義、金銭欲、、地位欲、名誉欲、不調和。
これらは、すべてマイナスのエネルギーです。しかし、こうしたマイナスのエネルギーも、決して、実在のエネルギーではありません。憎悪とか、嫉妬、怒りや不平不満も、結局は、愛の不在なのです。愛のエネルギーがたりないだけなのです。
つまりは、地獄霊といっても、天上界の光に対抗しえるような強力な存在でも何でもなく、やはり彼らも、「愛されたい存在」なのです。悪霊たちも、ほんとうは、もっともっと愛されたいのです。いろんな人から優しくしてもらいたいのです。彼らの本心には、「愛がほしい、もっと愛がほしい」という気持があります。ですから、地獄霊とは、ほんとうは、不幸な、気の毒な、救ってあげなければならない方がたなのです。彼らは、不幸な病人、「愛欠乏症」という病名の病人だといえます。
私は、さきに、愛とは、まず与えることだといいました。しかし、地獄界にいるのは、つねに、与えてほしい、何かしてほしいという人たちばかりです。結局、愛の本質が何かを知らずに、「奪う愛」の人生を生きてきた人たちが、いま、地獄界で苦しんでいるのです。地獄界をなくすのは、いまからでもおそくはありません。どうすればいいか。つまりは、すべての人間が、愛の本質とは与えることだと悟ることです。では、あなたは、まず何から与えてゆきますか。与える愛とは、まず「感謝する」ということからはじまってゆくのです。仏からすべてを与えられていることをまず感謝することです。さすれば、その報恩行として、仏のつくられた世界に何らかのお返しがしたくなります。他の存在へ愛を与える第一歩が、そこに始ま�
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�のです。
【大川隆法『太陽の法』第3章「愛の大河」より抜粋】
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続きまして、幸福の科学の基本三法の一つ、経典『永遠の法』を振り返ります。
人生の真理を網羅した、法の巨大な体系【※太陽の法】、数千年以上の視野をもって、諸如来、諸菩薩たちの活躍を語る時間論【※黄金の法】、そして、この世を去った実在界の次元構造を明確に説明し尽くす空間論【※永遠の法】、その三本柱が、エル・カンターレの法を特徴づけるものです。本書は、『太陽の法』(法体系)、『黄金の法』(時間論)に続いて、空間論を開示し、基本三法を完結する目的で書き下ろしたものです。これでエル・カンターレの法の輪郭が見えてきたことでしょう。―まえがき―
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■『永遠の法』第2章 五次元の世界
8 光ある者よ
魂の糧としての悲しみについて述べました。では、そうしたものに揉まれたときにはどうなるのかという疑問があるでしょう。
「悲しみの底をぶち割ったとき、そこから光が出てくる」という話を、みなさんはご存じでしょうか。「どん底のとき、その底をぶち割ると、一条の光がほとばしってきた。光は上からのみ来ると思っていたのに、底をぶち割ったところ、下から光がほとばしってきた」ということを言う人もいるのです。
シェークスピアという芸術家はさまざまな悲劇を書きましたが、彼が悲劇をつづったのは、、悲劇の底にある光を人々に示さんとしたからです。「悲劇の底をぶち割ったとき、そこには二元性の真実があり、その真実の奥には、内なる光が潜んでいる」ということを、彼は世の人びとに示さんとしたのです。
すなわち、喜劇、楽しい劇ばかりが、人間の進歩を促すものではないということです。世の中において悲劇と言われているような現象であっても、ある意味では、それが光に近づいていくための近道だということもあるのです。
世の中には自分の運命を呪う人が多いものです。「なぜ自分だけが、こんな運命のもとに生まれ、こんな苦労をしなくてはならないのか」ということを考える人は多いでしょう。
幼くして両親を失った。経済的苦労のため学校に行けなかった。結婚ができない。結婚をしたが、配偶者と死に別れた、あるいは生き別れた。子供が生まれない。子供が生まれたが、幼くして死んでしまった。子供が不幸になった―。
一つひとつあげていけばきりがないほど、世にかなしみの種は尽きません。
しかし、こうした悲しみ、あるいは不幸な運命といわれているものは、何の意味もなく、何の役にも立たないのでしょうか。
人間が地上に生まれてくる前に、住んでいた天国という世界は、そうした悲しみや苦しみが少ない世界です。「なかなか自分の願いがかなわない」というようなこともないわけではありませんが、積極的な悪というもは天国には存在しません。しかし、この地上では、運命に翻弄されるがごとく、不幸が襲いかがってくることがあります。
『旧約聖書』にはヨブの話があります。あらゆる災難がヨブに降りかかってきて、とうとうヨブが神を呪うまでになったとき、神はヨブに対してこう答えました。
「ヨブよ、おまえは神の心を裁くことができるほどに賢明であったのか。もっと謙虚になりなさい。おまえは神の心がほんとうに分かっているのか」
神はこのようにヨブに呼びかけています。このときの神の答えの本当の意味は、「進歩という目的のために、神はさまざまな舞台装置を用意されている」と考えればよいと思います。
自分を遺して死に、旅立っていった人も、あの世の世界で、また素晴らしい生活をしているのです。したがって、「この地上のみに視点を置いて物事を考えてはならない」ということが分かるばすです。
結局、いろいろな試練を与えられる人は、それだけ光に近いところにいるのです。喜びのなかにいれば天国は近いけれども、悲しみの底にも天国は近づいている。そして、その悲しみの底を打ち抜いて光を手にしたとき、そこに天国が現れる―。世の人びとは、このことを知らねばなりません。
【※旧約聖書 ヨブ記 あらすじ
試練の始まり:信仰篤いヨブが、神と天上で集まったサタンとのやり取り(賭け)から、すべての財産と子供たちを失います。
重い苦難:さらに、ヨブは全身に皮膚病を患い、極限の苦しみの中に置かれます。
友人との議論:7日間の沈黙の後、ヨブは自らの苦しみを嘆き、友人の3人が慰めのために訪れます。彼らは「苦しみの原因はヨブの罪にある」と主張しますが、ヨブは自らの無実を主張し、神に直接訴えかけたいと願います。
神の応え:長い議論の末、神が嵐の中からヨブに語りかけます。神は人間の理解を超えた世界の広大さや、ヨブが知らない神の働きを語り、ヨブは自らの小ささと神の知恵への信頼を悟ります。
結末:神はヨブを再び祝福し、財産も家族も取り戻します。ヨブは以前より多くの祝福を受け、140年生きて最期を迎えました。】
【大川隆法『永遠の法』幸福の科学出版 第2章「五次元の世界」より抜粋】
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本日は主より愛の教えを総括いただきました。本日の引用では愛についてこのようにありました。
『愛というのは、すなわち、このようにひとつの大河なのだといえます。それは、上流から下流へと流れ出して、とどまることを知らないひとつの力であり、あらがいがたい生命の勢いなのです。愛に敵なし。実際に、この霊的な愛の大河のパノラマを見てしまうと、愛に敵するいかなるものもありえないことが、はっきりとわかります。・・・地獄がある四次元世界というのは、はるかなる下流、河口のほうであり、物質万能とか、欲望とか、迷いとか、悪という名の塩の入った海水が、いかに川の水を塩化させようとしても、滔々(とうとう)と流れきたり、押し寄せてくる愛の大河の力には、あらがいがたいのです。
愛は光です。光に勝てる闇がないように、愛に勝てる悪も、愛の大河を最後まで防ぎきれる地獄もないのです。地獄は、天国に拮抗できるような勢力ではありません。それは、神(仏)のつくられた世界の一部に巣くうガン細胞であり、真水の河のなかに忍び込もうとする海水にしかほかならないのです。・・・
天国―天上界というのは、四次元幽界をスタートして、はるかなる高次元にまだおよぶものです。それにひきくらべ、地獄界というのは、四次元のなかのよどみ、光のあたらないかげの部分にしかすぎません』
このように、地獄という世界は天上界の天国世界にくらべるとほんの小さな世界であることが分かります。天国世界を創るエネルギーは愛であることがわかります。
地獄の世界をつくるのは、光や愛を妨げる悪しき精神作用です。本日の引用ではこのようにありました。
ねたみ、そねみ、感情や本能にもとづく怒り、愚痴、足ることを知らない心、不平不満、悲観的な心、消極的な心、優柔不断、臆病、怠惰な心、自己嫌悪、うらみ、にくしみ、のろい、情欲、自己顕示欲、利己主義、毒舌、二枚舌、躁うつ、酒乱、暴力、排他主義、うそ、いつわり、唯物主義、無神論、孤独、独裁主義、金銭欲、、地位欲、名誉欲、不調和。
それでは、これらのネガティブな感情の反対であるポジティブな感情を見るとどうなるでしょうか。
愛、祝福、空心の怒り、感謝、足るを知る心、分を知る心、楽観的な心、積極的な心、英断即決、勇気、勤勉、自己信頼、愛情、祈り、無欲、健全な自己肯定、利他主義、柔和な言葉、真実語、誠実な言葉、心の平和、戒律を守る心、ストイック、平和、融和主義、本物、真実、唯心(唯神)主義、信仰、一致団結、信仰ある民主主義、無欲の大欲、無執着、調和。
このように、明るく、積極的で、建設的な感情になります。私たちは日々の生活のなかで、心に蒔く種として、光を選ぶのか闇をつかまえてしまうのか、選択に迫られています。光の属性である精神作用の源は愛です。つねに愛を選択できるように心がけましょう。
このように、悪の存在や悪想念は常に私たち仏弟子にとって反面教師であることが分かります。自らの心をチェックして常に悪を去り善をとることを習慣にしましょう。
そして、愛は感謝から始まるという重要な教えを学びました。主は私たちにすべてを与えて下さっています。それにまず気がつくことが大切です。そしてそれに気がついたならば、心の底から感謝が湧いてきます。この思いが愛の始まりです。本日の引用ではこのようにありました。繰り返し読み返したい光の言葉です。
『私は、さきに、愛とは、まず与えることだといいました。しかし、地獄界にいるのは、つねに、与えてほしい、何かしてほしいという人たちばかりです。結局、愛の本質が何かを知らずに、「奪う愛」の人生を生きてきた人たちが、いま、地獄界で苦しんでいるのです。地獄界をなくすのは、いまからでもおそくはありません。どうすればいいか。つまりは、すべての人間が、愛の本質とは与えることだと悟ることです。では、あなたは、まず何から与えてゆきますか。与える愛とは、まず「感謝する」ということからはじまってゆくのです。仏からすべてを与えられていることをまず感謝することです。さすれば、その報恩行として、仏のつくられた世界に何らかのお返しがしたくなります。他の存在へ愛を与える第一歩が、そこに始�
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�るのです』
後半の『永遠の法』では、人生の途中に各人に必ず現れる「試練のとき」―悲しみや苦難の霊的な意味について学びました。
それについての神の答えは、「進歩という目的のために、神はさまざまな舞台装置を用意されている」ということでした。
旧約聖書のヨブの例は大変深い学びがありました。神仏は私たちを正しい道へと導くために方便(善巧方便)を使われますが、本日の引用ではこのようにありました。
〈『旧約聖書』にはヨブの話があります。あらゆる災難がヨブに降りかかってきて、とうとうヨブが神を呪うまでになったとき、神はヨブに対してこう答えました。
「ヨブよ、おまえは神の心を裁くことができるほどに賢明であったのか。もっと謙虚になりなさい。おまえは神の心がほんとうに分かっているのか」
神はこのようにヨブに呼びかけています。このときの神の答えの本当の意味は、「進歩という目的のために、神はさまざまな舞台装置を用意されている」と考えればよいと思います。
自分を遺して死に、旅立っていった人も、あの世の世界で、また素晴らしい生活をしているのです。したがって、「この地上のみに視点を置いて物事を考えてはならない」ということが分かるばすです。〉
「この地上のみに視点を置いて物事を考えてはならない」―つまり、そのときどきの現実だけにとらわれるのではなく、もっと大きな視点、霊的な意味、あの世の世界を含めたうえでの、現在の苦難困難に意味を見いだすことについてそのヒントを頂きしまた。
そして、最後の主のお言葉も大変印象的でした。
『結局、いろいろな試練を与えられる人は、それだけ光に近いところにいるのです。喜びのなかにいれば天国は近いけれども、悲しみの底にも天国は近づいている。そして、その悲しみの底を打ち抜いて光を手にしたとき、そこに天国が現れる―。世の人びとは、このことを知らねばなりません』
このお言葉を信じて、私も自らの人生の問題集を解いていきたいと思いました。
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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〇「地の果てまでも伝道せよ。」
エル・カンターレとは、地球の光です。
エル・カンターレとは、天上界の光です。
エル・カンターレは、始まりであり、
エル・カンターレは、終りです。
エル・カンターレは、最後の審判です。
エル・カンターレは、最後の審判であり、
世界の人々にとっての新たな希望なのです。
どうか、エル・カンターレを信じてください。
どうか、この新しい信仰を持ってください。
どうか、この新しい信仰を地の果てまでも伝えてください。
それが、あなたがたの使命です。
それが、あなたがたの使命です。
忘れないでください。
それが、あなたがたの使命なのです。
エル・カンターレを信じてください。
エル・カンターレ信仰が、いま求められているのです。
どうか、エル・カンターレ信仰を中心に据えてください。
それが、あなたがたの使命です。
そして、エル・カンターレ信仰を、世界の人々に伝えてください。
地の果てまでも伝えてください。
人々に伝えてください。
それが、あなたがたの使命です。
それが、私の願いです。
それが、すべてです。
【大川隆法 英語説法『Focusing on El Cantare-Belief』の和訳を抜粋】
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■伊勢支部 十五戒■
主のため、世のため、隣人を救うために、ユートピア建設のために、なお、一歩を進めよう。心の焦点を主エル・カンターレに合わせよう。
■信仰の五戒【毎年の戒】―エル・カンターレ信仰がわれらの全て
一、主エル・カンターレを信じきる―【戒・定・慧・教学を徹底する】
二、主を愛し、隣人を愛する―【「進歩」と「調和」を顕現するために「四無量心」と「四摂時」を徹底する】
三、三宝帰依を徹底する―【反省(八正道)を実践する】
四、四正道を徹底する―【瞑想を実践しエル・カンターレ信仰を確立する】
五、六波羅蜜多を推進する―【仏国土ユートピア実現のために祈り、伝道を習慣にする】
■伝道の五戒【毎年の戒】―主が一番喜ばれることは伝道・主の御名と御教えが世界中に広がること
一、一人を三帰信者に導く
二、二人の三帰信者を育成する(フォロー)
三、三人を入会伝道に導く
四、四人の入会者を三帰に導くために育成する(フォロー)
五、新たに出会う五人の一般の方に主の御名と主の御教えを伝える
■植福の五戒【毎年の戒】―植福は執着を断つ大切な修行・三千年先の未来の希望のために福を植える
一、「一切は空」―悟りのために、この世への執着を断つために植福する
二、主への感謝を込めて「御生誕祭」と「エル・カンターレ祭」に植福する
三、三宝への感謝を込めて「宗教記念日」に植福する
四、四正道へ感謝を込めて「支部」「精舎」「聖地」に植福する
五、主のため、世のため、隣人を救うため、3000年先の幸福の科学の発展のために、仏国土建設のために植福を習慣にする
信仰の凡事徹底に関して、戒を持つことが仏道修行の第一歩です。主の悲願である、一切の衆生を救済と仏国土ユートピア建設を成就するために、戒を持ち、阿羅漢を目指して、天使菩薩になるために毎日、仏道修行を共にしましょう。
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〇「沈黙の仏陀」の教え
戒めを守り、禅定を行い、そして智慧を得る。
智慧を得ることによって
この世的な束縛、執着というものを断ち切る力を得ていく。
そして、解脱を味わう。
解脱を味わったところで、
また、この世が神仏の偉大なる慈悲の場であることを悟る。
そしてまた、現界において努力する。
そこに、多くの人びとを此岸から彼岸へと渡していくために、
渡し守(もり)としての菩薩の仕事が現われてくる。
一人でも多くの人びとを悟りの彼岸へ導いていこうとする、
渡していこうとする、
そのような肉身の菩薩の仕事がそこから始まってくる。
すべては、己れというものの執らわれを去り、
真実の自己というものを知り、
真実の自己というものを中心として、
この世のあり方を、もう一度まったく違った目で見、
そこに感謝とよろこびを感じて、
他の人びとをも、悟りの彼岸へと渡そうとする。
一切の衆生の苦しみを救おうとする。
そのような大いなる大悲の心が沸き起こってくる。
これが私がみなさんに勧めていきたい人生修行の道です。
【大川隆法『沈黙の仏陀』より抜粋】
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Focus on Lord El Cantare―時代は今、主エル・カンターレ―
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文責:蒲原宏史
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