(5/18-2)【阿羅漢への挑戦】138―47『仏陀再誕』を読む―謙虚さと感謝―『解脱の言葉「仏説・八正道」』18正念【仏道修行に専念すること】―『真説・八正道』「国の繁栄」と「宗教的真理」とを一致させていくのが神の願い―『釈迦の本心』地獄の実態

『仏陀再誕』

52 ある時、黒縄(こくじょう)地獄を見た。生前、間違った法律を作ったり、間違った裁判をやった人々、間違った医療活動をやった人々が、全裸に、黒い墨縄(すみなわ)を打たれ、鬼たちに、鋸(のこぎり)引きされていた。最先端医療をやっていたと豪語する医者は、外科医に化けた鬼たちに、電動のこぎりで斬られていた。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に「四弘誓願」を立て、『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、「正しき心の探究」と「地上仏国土ユートピアの実現」のために「四正道」と「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
■何を祈るべきか

「この地球の一員としての自分、
宇宙の一員としての自分、
この自分に与えられた使命を、
全うさせてください。
そして、願わくば、自らに縁のある人々に、
一筋の光明をお与えください。
一握りの愛を与えさせてください。
人々が幸福に生きられるように、
この世においても、
そして、この世を去った世界においても、
幸福に生きられますように」―

このように祈ることが大事です。

【大川隆法『祈りと希望』p61 より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
さて、ここからは、私たち仏弟子の生命ともいえる、「仏説・正心法語」について共に考える機会を得たいと考えています。本日は、『仏説・正心法語』第五の経文である『解脱の言葉「仏説・八正道」』についてです。

『解脱の言葉「仏説・八正道」』は、その名の通り、解脱に到るための道です。毎日読誦することで、心の浄化を図ることができます。禅定とは、本来、心静かに座禅して八正道を実習することであると教えていただいています。毎日、短い時間でも構いませんから、心静かに自分の心を見つめる時間をとってまいりましょう。

『解脱の言葉「仏説・八正道」』はこのように続きます。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
さらに、
第七は 『正念』なり
一切の 邪念を 排し
一筋に 仏の 道を 求むべし
仏道 修行に 専念せよ
心を 深く 集中させ念いを 必ず 実現せよ
仏の 悟りを 目指しては
片時も 仏陀の 教え 忘れるな

*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜

The seven step is ‘right will’
Abandon all evil thoughts
And seek the way of Buddha
With all your heart
Devote yourself to this discipline
Concentrate deeply in your mind
To realize your wish
Aiming for the enlightenment of Buddha
Never forget these teachings
Even for a moment

*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
正念というのは、「仏道修行に専念すること」というのが、ポピュラーな考え方です。

そして、念いを集中させるということから派生するものとして、祈りによる自己実現もあるでしょうし、正しい自己実現的な思いもあるでしょう。

それから、正念の解釈として、「正しい記憶」、つまり教えをしっかりと心に刻んで記憶することが正念だ、と説く場合もあります。

さらには、正念には「仏を念(ねん)ずること」でもあります。
「念仏」というのは、現在では、「南無阿弥陀仏」という文句を称(とな)えることのようにも思われています。しかし、念仏という言葉のもともとの意味は、「仏を念う」ということであって、仏陀の姿を心にいつも念い描くことです。それがやがて、「南無阿弥陀仏」を称える「口称念仏」のほうに変わってきていますが、もともとは仏を念い浮かべることなのです。

ですから、間違った道に入りそうになったら、心に仏陀を思い浮かべ、仏陀のことを念ずれば、その悪から遠ざかることができるということです。

たとえば、目の前に、ダイヤモンドの指輪が転がっていたとします。「持ち帰ってしまおうか」と思ったとしても、仏陀の姿を思い浮かべることによって、そうした悪から遠ざかることができるわけです。

このように、時どき、仏の姿を念ずることによって、悪から遠ざかり、心を修行に集中させるということは大事なことです。

【大川隆法『仏陀の証明』幸福の科学出版 より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
つづいて、経典「八正道の心」より抜粋をご紹介いたします。
この経典は、もともと会内経典でしたが、HSU開学を前に、一般書として書店でも頒布されている大変ありがたい経典です。お持ちでない方は是非拝受ください。【税抜き1500円】
主におかれましては、正念についてこのように教えていただいています。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
〇八正道の第七―「正念」
・正念のさまざまな内容
正念については、「正しい気配り」という言い方をする人もいれば、「正しい集中力」という人もいるし、「正しい記憶」と言う人もいます。このように、いろいろな言い方があります。

正念の内容として、「正しい記憶」と言われると、「どういうことだろう」と思うかもしれませんが、昔は、今と違って、テープレコーダーもなければビデオもなく、ノートもなかったので、弟子たちは仏陀の説法の内容を覚えなければいけなかったのです。

そのため、実を言うと、「正しく記憶する」ということは非常に大事なことだったのです。仏陀がどういう説法をしたかということを覚え、それを暗唱できなければいけなかったわけです。・・・

昔は、雑情報が入らなかったというか、ほかに勉強することがなかったという事情もあるのでしょうが、当時の弟子たちは仏陀の基本的な説法の内容を覚えたのです。・・・

みなさんは、私の説法を聴き、家に帰ってから、それを全部、再現することができるでしょうか。無理でしょう。釈迦弟子たちからは、「みなさん、頭が悪いですね。一時間ぐらいの説法なら、私たちは、それを全部、再現できますよ」と笑われることになります。

釈迦弟子たちは非常に頭がよく、聴いた説法を全部覚えて、そのとおりに再現できました。そして、四百年も五百年もたってから、それが経典になっているわけです。もちろん、経典には、あとで付加された部分もありますが、彼らは説法を丸ごと覚えて復唱することができたのです。

彼は、聴いた説法を忘れないために、禅定をしながら復唱していました。「こういう話であった」ということを、何回も、くり返し復唱して覚えたのです。

したがって、正念というのは、勉強でもあり、非常に大事なことでした。

いまでは、文明の利器が発達しているため、人々は記憶力が悪くなっています。情報が多くなったということもありますが、記憶力も悪くなっているのです。

正念は、もともとは、そういう「正しい記憶」ということでした。

ただ、一般的には、「正しい注意力」ということであり、「いろいろなことに注意し、気をつけて修行しなさい」ということなのです。

「いろいろなことに、きちんと気をつけなさい。身の回りのこと、他の人の修業している姿や言葉、あるいは、立ち振る舞い、作法などに気をつけなければいけない。道を歩くときには、生き物を踏みつぶさないように気をつけ、托鉢するときにも、いろいろ気をつけなければいけない」ということです。

そのように、正念を「正しい注意力」と言ってもよいと思います。そういう解釈もありますし、それも実際に行っていたということでしょう。

さらに、もう少し時代が下ると、正念が、念仏の意味、「正しく仏を念う」という意味に変わってくるようになります。これは、直接に仏陀に合うことができなくなった時代のものであることは明らかです。直接会うことができないので、仏のことを念って、瞑想に入るわけです。これが念仏のもともとのかたちです。

その後、しだいに、その念仏が、「南無阿弥陀仏」と言葉を称えるかたちに変わっていきますが、もとは、「仏のことを念う」ということが念仏であったのです。

このように、正念には、記憶、いろいろな気配りや注意力、念仏といった、さまざまな考え方があります。

〇四念処(しねんじょ)
それ以外に、正念の内容として、「四念処」といわれるものがあります。これは後世に整理されたものだと思います。

四念処とは、「四つの念ずる処」ということであり、「身・受・心・法」の四つを言います。

「身・しん」とは体のことであり、「体は不浄であり、穢れている」ということです。「ゆえに、このようなものに執着してはいけない」というわけです。体じゅうの穴という穴から、いろいろな粘液や汚いものがたくさん出ますし、垢もでます。「体というものは、きれいなものではない。体は不浄である」と見て、執着、欲望を断とうとするのです。

「受・じゅ」とは感受作用のことです。「受は苦である。感受作用によって感じるものは、みな苦痛である」ということです。

「心」とは心のことであり、「心は無常である」ということです。「心というものは、とどまっていることがなく、常に変化変転してやまないものである。心は、常なるものではなく、移り変わっていく、そういう無我の性質を持っているものなのだ」ということです。

「法」とは、「教え」という意味ではなく、「物体」という意味です。インドの言葉では、法のことを「ダルマ」というのですが、ダルマにはたくさんの意味があり、そのなかには物体という意味もあるのです。

これは、「この世の物事は、すべて無我である。我なるものはない。真なる実体は、実はないのだ。この世のものは無我なのだ。法は無我である」ということです。

すなわち、「建物や、さまざまな財物などに執着しても、そういうものは、本来、自性がない。自性があるものは、ずっと存在し続けるけれども、自性がないものは、やがて滅びていくものであり、執着しても、しかたがないのだ」ということです。

このように、「身・受・心・法」の四つを念ずる「四念処」というもがあります。「身は不浄である。受は苦である。心は無常である。法は無我である」と、否定的な内容が続いています。

これは結局、最初に述べたとおり、「この世が生きやすくてしょうがない。肉体に関することが楽しくてしょうがない」という考え方を否定しようとしているのです。

この四念処を正念に入れる場合もあります。

ただ、これは後世に成立した考えかたであり、念に関する問題を整理し、まとめて、正念に入れたものだと思います。

この四念処を行うと、それなりに執着が取れて、最後の「正定」に入りやすくなるので、そのように正念を捉えてもよいと思います。

【大川隆法 『八正道の心』より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
今日の一日を振り返りつつ、教典『真説・八正道』より反省の本質を学びます。妖怪性からの脱却をはかり、「反省からの発展」さらに「中道からの発展」を目指しましょう。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
■『真説・八正道』第5章「正業」
2キリスト教の流れにある繫栄の法則
〇「国の繁栄」と「宗教的真理」とを一致させていくのが神の願い

天上界の計画を眺めてみると、「明らかにこの部分について修正が入ってきている」と考えざるをえません。

例えば、イエスの時代の職業倫理はどうであったでしょうか。それにそれほどの重きが置かれていなかったとは、『聖書』を読めばよく分かります。当時、イエスが「千数百年後の産業社会の到来」まで考えて教えを説いていたとは思えないのです。おそらく、それなりの教えを説いたであろうと推定されるのですが、当時の社会環境においては、そうしたことを念頭において法を説くという考えはなかったのだと思われます。

それゆえに、宗教改革、特にルター、カルバン以来の宗教改革の流れのなかで、「宗教的真理」と「現実生活」の問題が課題とされ、改革されてきたのではないかと思うのです。このプロテスタンティズムの資本主義精神へのかかわりについては、大いに影響があったと思われます。

清教徒がイギリスからメイフラワー号に乗ってアメリカに渡っていき、その後、アメリカが奇跡の発展を遂げていくわけですが、ここに何か、「国の繁栄」と「宗教的真理」とを一致せんとする神の願いがあると考えられるのです。

○ビジネス社会にも宗教的考え方が必要
また、その後の、十九世紀、二十世紀のキリスト教を見ると、一つの「繁栄の法則」を科学的に説明するという側面を持ったキリスト教が台頭し、発展してきています。いわゆるニューソート系統のキリスト教で、これが非常に力を持ちました。

実は、ノーマン・ビンセント・ピールにしても、ロバート・シュラーにしても、彼らの説いた教えは、当初、従来のキリスト教からは異端に見えていたのです。

ノーマン・ビンセント・ピールの『積極的考え方』という本を読んだ方も多いでしょう。全世界で二千万部を突破した本ですが、これが発表された当時は非難轟轟(ごうごう)でした。

四面楚歌という状況にあって、「キリスト教の教えを、現代的な、仕事の役に立ち、ビジネスに使えるようなものにした」ということ自体が、一つの法をねじ曲げた行為であるということで、多くの牧師たちからの攻撃の声は鳴りやまなかったのです。

しかし、そのなかで、着実にその本が全世界に広がっていきました。この背景はどこにあったかと考えてみると、「ビジネス社会のなかに宗教的な考え方を取り入れていかなければ、人々の需要、ニーズに応えていくことができない。過去の『聖書』を読んだだけでは、それが分からない」ということなのです。やはり、それも、天上界からの一つの計画があって行われてきたことであったわけです。

【大川隆法『真説・八正道』第5章「正業」170pより抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
■『仏陀再誕』
第2章 叡智の言葉 
○謙虚さと感謝

諸々の比丘、比丘尼たちよ。
また、私は常づねあなたがたに教えていたはずである。
人は自分の幸福だけを追求してよいものではないと、
自ら一人だけが幸福であればよいものではないと、
常づね、私はあなたがたに教えていたはずだ。
中道の道に入りて、自らが幸福となりし時、
その幸福は、自ら一人のものではないということを知りなさい。
自らが中道の道にて得たその幸福は、
まわりの多くの人びとに返してゆかねばならない。
まわりの人びとを救う力でなくてはならない。
私は、そう思うのだ。
何ゆえに中道の道があるか、あなたがたは本当に考えたことがあるか。
たとえば、中道から外れて、
そして、あなたが苦難の荊(いばら)の道を歩むときに、
あなたがたは、自分をどう救わねばならないかということで、
心が躍起になっているであろう。
また、他の人びとも、あなたがたをどう救おうかと、
そのことばかりで夢中であろう。
多くの人びとに悩みを与え、苦しみを与えるということは、
あなたは今、マイナスの人生を生きているということだ。
ゆえに、あなたはいち早く荊の道を出て、中道に帰らねばならない。

また、得意の時に、謙虚であれ、感謝を忘れるな、と私は説いた。
そのことの意味が、あなたがたにはわかるだろうか。
謙虚さということは、何を意味しているか。
それは、他の多くの人びとの力を受けているということを、
また仏の力を受けているということを、
自らに言いきかすことを意味している。
自らに言いきかせ、
自らの慢心を防ぐということをもって旨としている。

また、感謝とは何であるか。
謙虚さから生まれた行為だ。
謙虚であるからこそ、感謝が生まれる。
感謝が生まれて、
その謙虚さが他の人への行為となって現れてくるのだ。
これが実に大切なことであるのだ。
成功者たちが、成功者として存在が許される理由は、
他の多くの人びとへの愛の実践が、そこにあるからなのだ。
そう、自らの田畑に、数多くの実りをつくったものは、
人びとから妬(ねた)まれたり、
あるいは謗(そし)られたりすることが多いであろうが、
自らの田畑に数多くの収穫を得ても、
他の人びとから喜ばれる道はある。
それは、自らが取り入れた、
自らが刈り入れた数多くの果物、数多くの稲の穂を、数多くの麦を、
まわりの人びとに配って歩くことだ。
さすれば、あなたは存在の愛となる。
さすれば、あなたは存在そのものが善となる。存在の善となる。
その通り、ここにこそ成功の要諦はある。
成功したものを、自らの身のために使おうとする時、
そこに大きな間違いがある。
しかし、成功の成果を、他の多くの人のために生かそうとする時、
それは、世の中を潤し、
そして、多くの人びとの魂を喜ばすこととなるのだ。

○愛の実践
諸々の比丘、比丘尼たちよ。
我はあなたがたに言っておく。
成功者とは、
例えばあの田畑のなかを流れてゆく水路のようなものだ。
水路はまっすぐに流れている。
まっすぐに流れ、豊かな水量をたたえ、清い水をたたえている。
しかし、この水路から、まわりの田に、畑に、水が供給されてゆく。
これが、成功者の道であるということを知りなさい。
水そのものをいくら貯(たくわ)えたところで、それが徳になることない。
水そのものをいくら貯えたところで、それが善になることはない。
水そのものをいくら貯えたところで、それが成功になることはない。
しかし、その自ら水路に放たれ、水路のなかを流れてゆき、
数多くの田畑を潤した時、
それが徳になり、
それが善になり、
それが成功となるのだ。

人びとよ、
中道というものを考えるときに、
この水路の姿を思い浮かべよ。
もし水路というものが、
数限りない田畑の周辺だけを流れているとしたら、
その水路の水は、その田畑の中心を流れればこそ、
他のものに数多くの愛を供給することができるのだ。
水路は常に中央を走り、
水路は常に中心にある。
水路を中心に田畑は発展し、
田畑を発展させるがごとく、水路が走る。
水は、いうなれば血液のようなものだ。
水路は、いうなれば血液を流すがための血管のようなものだ。
そうして、その血管に血液を送り込んでいる心臓が、
あなたがたの愛の心であるのだ。
これを忘れてはならない。
自らの人生の理想を、水路の姿に置け。
そして、水路に水を送り込んでいるところの、
大いなるポンプに、あなたがたはならねばならない。
田畑が水を欲(ほっ)しているときに、
次から次へと地下水をくみ上げて、そして、
水路に水を供給し続けるポンプのような
あなたがたでなくてはならない。
無限に湧いてくる地下水、それは仏の光でもあるであろう。
仏の慈悲でもあるであろう。
仏の愛を一身に受けるための方法を、
あなたがたは知らねばならない。
あなたがたが惜しみなく他の人びとを満たそうとする時に、
この地下水のごとく、
仏の力が、愛が、勇気が、光が、湧き出してくるのだ。
あなたがたは、そのことを疑ってはならない。
私は、繰り返し繰り返し言っておく。
人生の理想は、ここにあるということを。
人生の理想は、まさしくここにあるのだ。

【大川隆法『仏陀再誕』第2章「叡智の言葉」より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
続いて、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
■『釈迦の本心』
第5章 縁起の法
7 地獄の実態

地獄を単なる思想としてのみとらえている人も数多いことでしょう。しかし、地獄は単なる思想ではなく現実にあります。現実にあるといっても、仏がそれをつくったという意味でありませんが、現実さながらに感じられるということです。

みなさんが病気のとき、高熱に浮かされて見る夢は、どのようなものでしょうか。それは、真っ暗でさみしく、冷たい世界の夢でしょう。あるいは、命をねらわれて追いかけられたり、穴に落ちたり、事後にあったりという不幸な経験を、夢のなかでしたことがあるかもしれません。

そうしたときは、実は地獄の世界を霊的に垣間見てるいことが多いのです。すなわち、地獄とは悪夢そのものでもあるといえるわけです。

夢のありがたいところは、目覚めれば何でもないという点にあるわけですが、地獄という悪はなかなか覚めず、覚めるまでに何百年もかかってしまいます。

地獄の住人たちは、「これは悪夢に違いない。こんなことが現実に起こるはずがない」と言い続けていますが、不思議なことに、この夢だけはなかなか覚めません。夢がリアリティー(現実感)を持っており、その世界で新たな自己をつくらないかぎり、そこから抜け出すことはできないのです。

天国・地獄か、目に見えない世界のどこかにあるのではありません。遥か上空に天国があるわけでもなければ、地面の下に地獄があるわけでもないのです。天国・地獄はみなさんが生きている世界と共存しています。三次元世界のなかにあの世の世界が共存しており、人々の心のなかが、そうした世界へとつながっているのです。

地上の人間の目には見えませんが、往来を歩いたり、ビルのなかで仕事をしたり、学校で勉強をしたりと、みなさんがさまざまなことをしているのと同じ空間のなかで、実は地獄や天国が展開されているわけです。みなさんから見れば、きれいに舗装された道路を歩いているだけであっても、その同じ空間で地獄の殺戮劇が展開されていることがありうるのです。

まったく不思議な世界ですが、そうした思い、心というものが、リアリティーを持って存在し、夢が夢でなくなるときがあるのです。したがって、あの世の世界は覚醒時と睡眠時とが逆転したようなものだと考えてよいでしょう。

人間は一生のうちに何度か、リアリティーのあるある夢を見るものですが、そうした夢のなかで、以前に見た夢の続きを見ることがあると思います。「これは前の夢の続きだな」と感じることがあるでしょう。そうした場合には、以前、睡眠中に霊界へ行き、そこでさまざまな経験をして地上に還ってきた人が、再び霊界へ行って、その続きを経験していることが多いのです。

したがって、「自分は天国的な人間か、それとも地獄的な人間か」「自分の心の傾向性は、天国と地獄のどちらに向いているか」ということを知りたければ、自分が夢の世界で見るものをよく考えてみればよいのです。

平和な世界のなかで人びとと喜びを分かち合っているような夢を、数多く見るならば、その人は天国的な人でしょう。反対に、いつもの夢のなかで暗く寂しく厳しい環境に置かれ、心が休まるときがないならば、その人は睡眠時に地獄へ行っているのです。そうした悪夢を見ている人は、それが自分の来世の姿かもれしないということを実感していただきたいと思います。

夢が夢でなくなったとき、あなたはどうしますか。そのとき頼りになるのは、仏法真理を知っているということです。仏法真理を学んでいるかどうかが、まさしく分かれ目となります。

生きているときに仏法真理をしっかりと学んでいれば、悪夢のような地獄の世界からどうすれば逃れられるか、その方法が分かるのです。しかし、生前に仏法真理を学んでいなかった人は、地獄には学校があるわけではないので、どうすればそこから逃れられるのかが分かりません。「知は力なり」という言葉は真理なのです。

【大川隆法『釈迦の本心』第5章「縁起の法」より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
■伊勢支部精舎の理念■
100 パーセントエル・カンターレ信仰
―天御祖神と共に―
伊勢から世界に伝える強い信仰
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
・「信仰心と国を愛する心」という問題について言えば、やはり国民の信仰心がなくなったら、その国は衰退に入っていくし、いずれ滅びると私は思います。
・みなさんには、どうか強い信仰の思いを全国に発信していただきたいと思います。
 ―「信仰心と国を愛する心について」 ―2013 年4月21 日 伊勢支部精舎御巡錫―
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
■伊勢支部の行動指針■
【菩薩の本懐である六波羅蜜多を推進して妖怪性を払拭する】
私たち、伊勢支部信者は、エル・カンターレ信仰をキチッと確立して、天御祖神の武士道精神のもと、仏教的精神を打ち立て、伝道に邁進し、隣人を救い、私たちの愛する街に、必ず仏国土ユートピアを建設します。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
大宇宙の根本仏 唯一なる 主エル・カンターレよ
伊勢支部精舎は、今年落慶17周年、そして御巡錫13周年を迎えました。
2009年1月24日、日本の中心とも言われる伊勢の地におおいなる光の灯台を賜りましたことを仏弟子一同・伊勢支部信者一同心より感謝申し上げます。

そして、2013年4月21日に、伊勢支部精舎に御巡錫を賜り、御法話『信仰心と国を愛する心について』をお説きくださいました。主の御慈悲に心より感謝申し上げます。

私たち伊勢支部信者一同、主への純粋なる信仰の下、「主の復活の祈り」を通して
エル・カンターレ信仰を確立し、「愛」と「知」と「反省」と「発展」の四正道を日々実践し、主の御名と御教えを伝えます。

そして、われらが愛する、この伊勢の地を、三重の地に主の悲願である仏国土ユートピアを必ずや建設いたします。

私たち、伊勢支部信者は、菩薩の本懐である六波羅蜜多を推進して、自らの心に巣くう妖怪性を払拭します。そのために、三宝を熱く敬い、「愛」「知」「反省」「発展」の四正道に帰依して、エル・カンターレ信仰をキチッと確立し、「天御祖神」の武士道精神のもと、仏教的精神を復活させて、伝道に邁進し、隣人を救い、私たちの愛する街に、必ず仏国土ユートピアを建設するために、以下のことを改めてお誓いいたします。

①私たちは、主から頂いた仏性を輝かせ、自らの善きものを隣人に分け与え、一切のみかえりを求めません。主から頂いた教えを必ず伝え伝道します。【布施波羅蜜多】

②私たちは、自らの戒を持ち、戒を守り、仏法真理の教学に力をつくします。
そして法友の育成・養成に力を尽くします。【持戒波羅蜜多】

③私たちは、主の御心を実現するために、目標を明確に持ち、実現するまで計画を実行しつづけます。【せん提波羅蜜多】

④私たちは、主の御手足となる本物の菩薩になるために、救世活動を日々の精進として積み重ねます。【精進波羅蜜多】

⑤私たちは、常に主を信じ、主を愛し、主と一体となるために反省と瞑想を重ね、祈りの生活を送ります。【禅定波羅蜜多】

⑥私たちは、主から既にすべてを与えられていること、主から愛されている自分を発見し、エル・カンターレ信仰さえあれば、あとは何もいらないという絶対幸福をえて、隣人と分かち合います。【般若波羅蜜多】

私たちは、主への報恩として 日本に 全世界に 「天御祖神」と共に、エル・カンターレ信仰を弘め地球ユートピアを実現してまいります。

主よ、私たちの信仰心が主の復活の力となり、主から預かりました伊勢支部精舎が、光の灯台として、一人でも多くの方に主の光を届けることができますよう、お導きください。主よ、まことにありがとうございました。
■□■□■□■□
54 両足があって、立って、歩けるという奇跡に、感謝しよう。
【大川隆法『病のときに読む言葉』より】
■□■□■□■
。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
■□■□■□
E-mail:ise@sibu.irh.jp
□■□■□
https://hsise.com/
□■□■
TEL:0596-31-1777
■□■
FAX:0596-31-1778
□■
エル・カンターレ・大好き

タイトルとURLをコピーしました